藤子不二雄A「PARマンの情熱的な日々 ~漫画家人生途中下車編~」集英社

[ Amazon ] ISBN 978-4-08-780579-6, \1600
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 今は亡き,潮出版社の漫画雑誌「月刊コミックトム」(1997年11月号にて休刊)で,長らく「パーマンの指定席」というコラムが連載されていた。もちろん作者は藤子不二雄A先生。映画の話題が多かったと記憶しているが,あいにく現物が手元にないのでうろ覚えだ。しかし,あのブラックかつユーモラスな藤子A作品ではおなじみの黒々としたコピー画像をちりばめたコラムは,人生を楽しむ「正しいオジサン」の素直な感想が綴られていて,熱心に愛読していたという記憶もないのだが,コミックトムを買えば必ず目を通す,印象に残る小連載であった。
 本書はその形式を継承しつつも,内容はより自由度を増したエッセイ漫画・・・いや,漫画っぽいエッセイというべきものになっている。「パーマン」が「PARマン」になっているのは,今も熱心に続けているゴルフと掛けているのか,商標の問題があるのかは判然としないが,しかしそんなことはどうでもいい。古希を超えてなお現役漫画家として「愛・・・しりそめし頃に・・・」の連載を続ける藤子A先生の元気な様を読むにつけ,「指定席」の頃から一貫して変わらない自由で,変に捻じ曲がっていない語り口にワシは魅了されてしまったのだ。そこにはやはり,幼少期に,それこそタイトルにもなっている「パーマン」をはじめとする,「怪物くん」や「魔太郎が来る!」や「プロゴルファー猿」や「まんが道」といった藤子不二雄A作品(もちろんF先生の作品も!)を読んで育った世代だということも影響しているのだろう。のど越し良く,すっとワシの頭に入ってくるのは,この幼いころの,ぐにゃっとした描線に親しんだ経験に基づく「刷り込み」によるものに違いない。
 藤子不二雄A先生,こと,PARマンの「情熱的な日々」は,文字通り,情熱的な「生」にあふれている。月曜日から金曜日まで,新宿の藤子スタジオ(故F先生の方は「藤子プロ」である)に出勤するも,ゴルフの打ちっぱなしをしたりスポーツクラブで水泳をしたりと寄り道もしばしば。スタジオに入っても,さいとうたかをからの呼び出しを受けて飲みに出てしまう・・・というのが第一話だが,70歳を超えてこんなに活動的でいられるかどうか,まずそこで感心してしまう。ウィークデーの毎日の出勤もさることながら,ベテラン漫画家らと集ってのゴルフ,大橋巨泉をはじめとする芸能人とのパーティー,ファンとの交流,東北へ講演会に出かけたり,郷里・氷見で市民栄誉賞を受けたりまんが展を行ったり・・・まぁ,これでもかこれでもかというぐらい「情熱的」な活動には驚かされる。加えて時折挿入されるカットの描線は相変わらずへにょっとしてやわらかく肉感的で昔と変わらない。あの~,A先生は「枯れる」っていういことがないんでしょうかと言いたいぐらい,活動も表現もエネルギーに溢れているのだ。正直,うらやましいを通り越して,あきれてしまうほどだ。
 丈夫で健康自慢のPARマンだからこその八面六臂の活躍っぷり,年寄りがよくやる病気自慢(?)は第11話のみ。酔っぱらって自宅玄関ですっころんだとか,ヘルニアで4日間の入院をしたという程度。生死にかかわる大病がこの年にして無縁ということだから,まだまだ相当長生きしそうである。是非ともお国から旭日小綬賞を超える勲章を奉じられるまで,現役漫画家としてご活躍してほしいと願っている。
 本書には,PARマンと親交のある漫画家,タレントからの多数の寄せ書きや,ゴルフ仲間との談話,連載誌であるジャンプSQ.の編集長との対談が挿入されている。本書の魅力の源泉は,PARマンの漫画エッセイの力もさることながら,「情熱的な日々」を過ごすことによって,エッセイのネタを次々に生み出すことができる旺盛なコミュニケーション力にあると,愛ある寄せ書きを眺めながらワシは確信してしているのである。

「Comicリュウ 11月号 創刊4周年」徳間書店

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 4周年記念号である。・・・じ~ん。よくもまぁ続いてきたものである。2周年3周年での記事は既に書いたので,今回は常々感じていることを箇条書きにしてみる。
1.思ったより新人の活躍の場がない
 毎年2回,安彦良和&吾妻ひでおを審査員として招いての「龍神賞」を募集している他,Comitiaとかでも有望な人材を見つけてデビューさせたりと,結構新人発掘には熱心である・・・が,思いのほかヒットが少ない・・・ように思える。これが例えば一昔前の10代~20代前半の青少年をターゲットとした漫画誌であれば,5年経ったら相当な数の新人が人気連載を引っ張り,その分,ベテラン勢が別冊系列や他誌に活躍の場を移していくってのが普通だった。今は景気が悪い上に出版不況に加えて雑誌がダメになりつつあるので,なおさらなんだろうが,ベテラン勢がここまで固定化しているのは,嬉しい反面,ちょっと残念な感じもする。
 ワシが思うに,原因は二つ。一つは,龍神賞に集まる漫画家に,スッピンの新人があまりおらず(最終審査に残ってないだけかもしれないが),再デビュー組が結構な率で混じっていることが挙げられる。結果として作品の完成度の高い後者の作品が選ばれる率も上がり,新鮮さに疑問符が付くことがあるのだ。もちろん再デビュー組としては必死で生き残りを図ってのことだろうが,雑誌の新陳代謝としての機能に問題はないのか,と考えてしまう。二つ目は,2年目以降は雑誌の厚さがさほど増えておらず,そもそも多様な人材を登用する余裕がないように思えることである。普通,ここまで続いた雑誌であれば,ぼちぼち別冊を作るとかしても良さそうなモンである。台所事情は結構厳しいのかもしれない。
2. ターゲット層がSF・アニメ世代のオッサン中年に偏っている
 いや,いいことかもしんないけどw。意図していたかどうかはともかく,雑誌のカラーが当初から変わっていないどころか,さらに純化しているように思えるのは気のせいか? おかげでますます購読をやめられなくなっているワシなので,まんまと編集部の術中に嵌っている訳だが,もうちっと若いオタク連中を引っ張り込む作品布陣を考えてもいいように思う。年寄りのオアシスは,「別冊リュウ」に移行して,もっとガンガン新人を登用する場として本誌を活用できればベストかなぁ・・・と夢想しているのだが,いかがか?
 しかし,今のご時世,安定して収入があって,こーゆー700円近い雑誌に金を払って無邪気に喜んでいられるのは,のうのうと正社員天国を満喫しているバブル組以上の世代に限られるのかなぁ・・・と思うと,なかなか理想と現実のマッチングは難しおすなぁ。
3. 雑誌も単行本も営業力が増えていない・・・ように見える
 以前にも書いたが,単行本も雑誌も,営業力ねぇなぁ・・・・と思いつつ4年,今もそれほど事態は好転していないよう見える。ひとえに,あまり数が出てない故,なんだろうが,2に述べたような理由で購買層がオッサンに限られ,雑誌購読者が単行本を熱心に買うわけないってことを考えると,むべなるかな,である。やっぱ1で指摘したように,もちっと若者に媚びうる路線を強化してもいいんじゃね? まぁ,しばらくは電子書籍と紙媒体がせめぎ合う時代が続きそうだから,若い世代に紙媒体を買ってもらえるようにする工夫は必要だが。具体的なアイディアはあんましないけど,まずは徳間書店のWebサイトをもうちっと更新頻繁にするとかWebコミック版のリュウを作るとかしてもいいかなぁ。ともかく,書店で目立ってないことは事実なので,頑張りは認めるけど,徳間唯一の青年(中年?)向け漫画雑誌なのだから,かつての「少年キャプテン」程度の部数(知らんけど)と目立ち度は確保してほしい。
4. 大塚英志の連載が全然浮いている
 今月号の「大塚教授の漫画教室」,いつもにも増して熱い! 怒りというか情熱というか,グデグデした文章で本音をぶちまけつつ,最後は「やってやるぜ!」という決意表明,さすがである。でも一度神戸芸術工科大学の学生+教員による合作が掲載されて以来,とんと大塚が育てた新人さんの音沙汰をリュウでは聞かない。大塚によると,縁もゆかりもない少年サンデーとかでは担当さんがついたりしているようだが・・・やっぱ,1に戻るけど,あんまし手間のかかるスッピンの新人さんを積極的に育てる方針ではないのかね?せっかく大学内部で全然評価されてない連載を持ってくれているのだから,龍神賞を大塚に任せてみるとか,漫画講座から誰かデビューさせるとかしてもいいんじゃないか?
 ま~,毎月編集後記を読んでいると,なかなかリュウも大変そうな状況であることは理解するけど,このご時世,どこだって楽な日常を送っているところは少ないはず。4周年ということで張り込んだせいか,ビニール加工してテカテカになった本誌を見る限り,やる気はみなぎっていると判断する。5周年に向けて,ますますの繁盛,もとい,最低でも現状維持を期待して,このぷちめれを締めることにする。

水月昭道「ホームレス博士 派遣村・ブラック企業化する大学院」光文社新書

[ Amazon ] ISBN 978-4-334-03582-2, \740
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 前著「高学歴ワーキングプア」に比較して,著者のライターとしての腕は抜群に上がっており,対談含めて214ページを一気に読ませる文章力はすごい。著者はパチプロ時代のエッセイ集の発行を望んでいるらしいが,ワシからも白夜書房に(光文社でもいいけど)出版をお願いしたい。読みたい。
 しかしながら,本書を「オーバードクターの就職問題」を知ろうとして読む人にはお勧めしない。客観的な話は巻末の荻上チキ(司会とは思えない見事な仕切りっぷり!)×鈴木謙介(チャーリー)×水月昭道で,チャーリーや荻上の長い発言から伺えるだけで,本文中にはチラチラと触れられる程度。状況はさほど変わっていないことを考えると,前著のほうが入門書としてはずっと有効である。
 結論から言うと,本書は著者の精神的マスターベーションを,読ませる文章でつづったエッセイ集というべきものである。文章力とは別に,突っ込むところが多すぎて,ワシにとってはそこも含めて面白かったが,真面目にこの問題を知ろうという向きには,まぁ,一資料としてはともかく,著者に共感しすぎてもまずかろうし,さりとて第一部の,自分を棚に上げての大学・政府への呪いっぷりには辟易させられるのではないか? 繰り返すが,やっぱり前著の方が,ワシは批判したけど,勉強のためにはお勧めである。おっと,第二部はほとんどヒーリングの世界だから,精神修養にはなっても勉強にはならないからそのつもりで。
 しかし前著のぷちめれでも述べたが,なんでワシは著者のいうことに全然共感できないのかなぁ,と本書を読みながらつらつら考えてみた。もちろん,弱小とはいえ,一応専任教員という恵まれた立場であることが一番であろうけど,加えて,(1) ワシの学歴が,中堅大のDr.卒(日本大学)ってこと,(2)社会人博士であること,(3)水月の言う社会科学系ではなく,割と潰しのきく数理情報系(数学でもプログラミングでも食っていける)であること,が影響しているんじゃないかと思う。
 (1)について言えば,周りにあまりDr.取得→大学教員というルートを辿った人がいない,ってことが大きいだろう。たまにいたけど,まぁハッキリ言って目立つタイプの人は少なかったので,「ああいう教員になりたい!」という憧れの持ちようがなかったってことが一番大きい。たぶん,旧帝大の大学院だと,キラ星のごとく優秀な先輩教員がいるんだろうし,実際,「この人はすげぇなぁ」という方々は確かに多い。伊藤理佐の言う通り,学歴(学校歴)は能力と「統計的に見れば」比例しているのである。そんな人々と日常的に接している環境だと,自分もきっと「ああいう活躍をしてみたい!」と思ってしまうんじゃないかな。そのあたりの感覚が,ワシのようなボンクラ私大出の世間ズレした奴には理解できないようなのである。本書ではちらっと触れられていたが,もちっとその辺の「エリート大学院」の雰囲気を別の著作で思う存分語ってほしいという気がする。
 (2)ワシの場合,修士を出て就職し,能登半島に飛ばされて働きながらDr.を取ったという事情があるので(もちろん職場に許可は取ってある),そもそも「職がない」という心配は皆無である(修士の時の就職口は心配したけど)。本書には大学院重点化のおかげで東大博士号が取れたと威張り散らすオヤジが出てくるが,まぁ水月に言わせればワシも同類ということになるのだろう。・・・あっ,なんかむかっ腹が立ってきた。しかし,旧帝大出の博士なら,ワシが世話しなくてもどっか就職口はあるでしょ?・・・って,案外世間の人々は冷たいのかもしれないなぁ。実際,泣き言を言ってきた見ず知らずの大学院生のメールに身も蓋もない返事をしたこともあるし。
 (3)修士課程に進む時には,研究室OBに口きいてもらって「大学院落ちたら御社に入れて下さい」という約束を取り付けておいた抜け目のないワシ。まぁ,しかし今でもWebプログラマーやデータベース屋はどこでも欲しがっているし,プログラミングをかじって使えそうな奴は学歴にかかわらずどこでも引っ張りダコである。おっと,プログラムができるかどうかは会話して作ったものを見せてもらえれば10分でわかるからね,半年経っても指導教員に手取り足取りやってもらわないと何にもできない君のことではない。・・・かように,水月のような文系・社会科学系の方々に,どれほど「腕」があるのか,ワシは問いたい。潰しがきく分野かどうかは,入る前から分かりそうなもんだが・・・社会科学って,そーゆー「リサーチ力」ってのも大事なんじゃないの?
 つーことで,たぶん,本書を読んで涙する方々は旧帝大出身のエリート,ワシみたいに突っ込みどころ満載になっちゃうってのは,学歴に未練のない有象無象なんだろう。しかし日本社会を構成する有象無象はパーセンテージでは多いから・・・どーなんだろーなーと水月の今後が心配である。今は難病患者への寄り添いをテーマとするようになっているようなので,そっち方面のNPOとか立ち上げた方が,結果的に専任教員への道が開けそうな気がするんだが,どうか? 本書を含めた著作の印税もあるんだろうし,前著が売れたおかげでずいぶんコネクションができたようだし,あんまし水月が路頭に迷う姿は想像できないのだが。
 最後に,あまりにも本書にはエリートな方々への具体的な方策が示されなさすぎるので,有象無象から世間に溶け込むためのアドバイス(役に立たなさそうw)をしてこう。
 せっかく難しい学問や高い偏差値を収めてきたのだから,まずその辺を目に見える形で売り込んでほしい。水月のように分かりやすい入門書を書くのもよし,中小企業に入り込んで具体的なビジネスの提案をするのもよし,blogやTwitterで耳目を集める発言をするのもよし,ともかくバカにも分かる形で皆さんの能力を「広報の一環として」示してほしいのである。高い給料を望むのは,それからにしてもらえないか? ワシは城繁幸の唱える同一労働同一賃金の原則に賛成するし,日本社会は少なくとも今後はその方向に,ゆっくりではあるが賃金ベースを下げつつ流れていくものと思う。だから,たぶん,初任給の差もさほどなくなっていくものと期待する(甘いか?)。どうせ下がるんだから,待遇への不満は仕事の中身でお返ししてもらえまいか?
 実際,ワシの職場でも,近年採用した若い方々の優秀さはかなり評価されている。それが実はあまたのフリーター大学院生の中,激戦を勝ち抜いて来たからという事実も,大分知られるようになっているのだ。・・・まぁ水月に言わせれば「採用する側は気楽でいいよな」というところだろうが,事実は事実。ちゃんと能力をワシらにわかる形で,そう,チャーリーが言うように「プレゼン能力」を磨いてくれれば,伝わるところには伝わるのである。
 頑張っていればいつか報われる,なんて甘っちょろいことは言わないし,ワシらの給料ベースが下がることも認めるからさ(そうしないと持たないし),そっちももうちっと,頭がいいならその能力をプレゼンに回してくれないかと,フリーター大学院生の方々に対して,切に願う次第である。

F.W.J.Olver et al. (ed.), “NIST Handbook of Mathematical Functions”, Cambridge University Press

[ Amazon ] ISBN 978-0-521-140638, \4213(2010年9月現在)
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 SIAM News 2010 SeptemberにP.J.Davisによる本書の書評が載っていた。つらつら読んでみたら,これがなんと,Abramowitz and Stegun編集の”Handbook of Mathematical Functions“(以下,A&Sと略記)の改訂版にあたるというではないか。早速Amazonから購入ボタンをぽちっとなして,手元に届いたという次第である。
 まーしかし買ってよかった。こちらはカラー刷り,CD-ROM付(原稿のPDFファイルが丸ごと入っている),さすがにデジタル版のリンクは再現不可能だが,A&Sには入っていなかった特殊関数とか,最新の文献リストまで掲載されている。時代が違うので数表はほぼ皆無になっているけど,いまだに新規参入の特殊関数が考案されるんだから,計算屋としては,やっぱ新しいものを常備しておきたい。
 関数という概念が固まる以前からコンピュータが一般化するまで,数表というものは人間社会には必要不可欠のものであった。一松信によると,Napierの対数表にその起源が求められるらしい。また,科学技術が進むにつれて,近似計算でしか表現できない現象も現れてきたようで,D.A.Grierによれば,ハレーすい星の軌道計算はクレローの近似計算(離散フーリエ変換を使ったものらしい)によって実現できたが,この計算はクレローの二人の友人を巻き込んで5カ月間かかったとのこと。以来,産業革命で計算のニーズは高まり,大量の計算ニーズが生まれ,フランスの土木技術者・プロニーによって19巻の三角関数・対数関数表が作られる。もちろん,すべての計算は人力で行われていた時代であるから,大量の計算労働者を動員しての成果である。
 で,ENIACから商用電子計算機=コンピュータが一般化するギリギリの時代,最後の人力計算(たぶん,機械式の手回し計算機は使っていたと思うが)による成果が,1964年に発行されれたA&S,すなわち
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であった。土台はルーズベルト大統領のニューディール政策の一環として行われた関数表作成プロジェクトにある。土木工事同様,人的資源の大量導入が必須だから,景気テコ入れのための公共事業としてはうってつけだったという訳。
 A&S発行後,関数計算はコンピュータで自動的に行うものとなり,以後発行される関数ハンドブックは,数表よりも,解析的性質,計算方法や近似式の記述がメインとなる。ほぼ50年ぶりの改訂版である本書はさらにその先を行き,具体的な計算方法は文献とソフトウェア(大方はNETLIBのTOMSにある)へのリンクに譲っていて,メインの記述はもっぱら解析的性質とかグラフ(3Dカラー!)である。
 A&Sのガンマ関数の章を書いたDavis先生によると,そもそもA&Sの出版自体,「私たち著者は恥ずべき海賊版と考えている」(“we authors considered shamefully pirated”)だっつーんだから,穏やかでない。政府発行のものだから不満足なバージョンだったってことなのかどうか,詳細は不明である。もっともこの記述に続いて「とはいえ,法律的には文句の言いようがない」(“but that, legally speaking, were not”)とあるところや,A&SがNIST(National Institute of Standards and Technology)の前身であるNBS(National Bureau of Standards)から出ていること,そしてA&S発行後,25年間も科学書の売り上げトップになっていたことを考えると,著者らの完璧主義に付き合う余裕がないほど早期発行の要求が強かったんで,政府権限で「さっさと出さんかゴラァ」と強引に出版させたってことなんだろうなと想像する。・・・でまぁ,半世紀近く経過してようやく改訂された本書とフリーアクセスなデジタル版が出せた訳で,Davis先生の感激たるや,ワシみたいな若造には想像に余りある。
 それににしても,ぱらぱら本書をめくってみると,もうすっかり時代は変わったなぁと,若造でも嘆息してしまう。数表が皆無になった代わりに,FortranやC/C++といった言語で関数計算が記述され,それをそのまま自分のプログラムに組み込んでしまえばいいってんだから。軍隊式に計算労働者を組織して検算付の超低速な並列分散処理をさせていた時代に比べると,石器時代から現代社会への移行並の大変化が,50年程度の期間に圧縮されてしまっていることになる。ワシだって標準ライブラリにない関数はごそごそTaylor展開式を引っ張り出してプログラミングしてた時代があったんだが,それもかれこれ20年近く前になってしまうのだなぁ・・・いや,年は取りたくないものである。
 が,否応なくワシは,精神構造は若造のまま,肉体的には年寄りになった。本書は当初,A&Sのように完全フリーで出すことも議論したようだが,結局,CD-ROM付の印刷版も含めて著作権縛りは残し,その代わりにフリーアクセスのWebバージョンを広く公開することにした。しかし,老眼が入ってきつつあるワシの目にはちとWeb画面の数式は読みづらい。結局,印刷版を買ってみて「こっちのほうが断然きれい!」と嬉しくはなったものの,もうすっかり若くないことを思い知らされて,ちょっと気分が落ち込み気味なのである・・・ま,関数ハンドブックなんてものを面白がっていること自体が年寄りの証拠ではあるのだが。

糸井重里「あたまのなかにある公園」東京糸井重里事務所

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 2007年から毎年春に一冊ずつ刊行される,糸井重里の短い言葉をまとめた単行本シリーズも4冊目となった。ワシは欠かさず購入していて,ここでも第一弾「小さいことばを歌う場所」,第二弾「思い出したら,思い出になった」を取り上げている。書いてないけど,第三弾「ともだちがやってきた」も当然購入して熟読している・・・つーか,一つ一つの言葉はやさしい単語で構成されていて短いので,普通に読めば「熟読」になってしまうのであるな。
 第四弾にあたる「あたまのなかにある公園」だが,前の三冊と取り立てて変わったところはない。編集担当・永田による文章の抜粋や構成はほぼ同じで,時折,糸井が撮影して「きまぐれカメラ」に掲載した写真が挿入されたり,本の最後の方には「別れ」や,それに伴う「せつなさ」を表現した文章がまとめられているところなども同じだ。そして,毎回,「ふ~ん,これは鋭いなぁ~」と感心するのも相変わらずである。
 つーことで,いくつかワシが付箋をつけた文章を引用してご紹介したい。
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 「プレゼンテーションの時代が,終わるんだよ」
 と,ある打ち合わせ中に,ぼくは言いました。
 (略)
 「ダメ」は,簡単にわかります。
 うまく「プレゼンテーション」できればダメにならない,
 なんてことは,あっちゃいけないんです。(P.54~55)

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 そうそう。そう思うよ,昔のじぶんに賛成です。(P.157)

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 小学校から大学にいたるまで,
 学校の勉強が,
 ともすれば退屈に思われやすいのは,
 問題と答えの両方を知っているものが,
 先生という名で,すでにいるからだ。
 政治家の言葉が,
 どうしてもいやらしくなるのは,
 疑いの指先が,
 絶対に,相手のほうにしか向いてないからだ。
 ぼくが信じられるのは,
 自分に疑いの目を向けられる人だ。(P.176~177)

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 「ねばれ!」しかないんですよね。たいていのことは。
 天からの啓示も,ありがたい偶然も,
 ねばっている人のところにやってくるわけで,
 おそらくそれは「考えつづけている」というのと,
 同じことなんじゃないかなぁ。
 (略)
 おれも,ねばるよ。おまえも,ねばれ。(P.238~239)

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 それぞれの胸に刻まれたことが,
 あとで「よかったな」と思えるようになるといいですね。(P.299)

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 毎年継続して4冊も購入し,読み続けているワシは,いつも読了する度に「よかったな」と思っている。経験に裏付けされた,素朴な言葉は,毎年ワシをさわやかな気分にさせてくれるのだ。