今日マチ子「cocoon」秋田書店

[ Amazon ] ISBN 978-4-253-10490-6, \950
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 読了後のワシの感想は,「な~るほど・・・そうきたか」,である。詳細は述べないが,本書は「面白いマンガ」である。ある種の「道徳」「イデオロギー」を説くにはまるで役に立たない,エンターテインメント作品である。
 以前,おざわゆき「凍りの掌」を紹介した文章でも引用したが,第2次世界大戦における日本の敗戦時の出来事を題材に取った「作品」を評価する軸として,いしかわじゅんの提示した「基準」がある。ここでもう一度繰り返して引用しておく。

 いしかわじゅんは「いわゆる反戦漫画とか戦争漫画を」「あまり読まない」と言う。その理由はこうだ(「秘密の本棚」小学館,P.369)。

その多くが,苦しいと描いてしまうからだ。痛いと,辛いと,悲しいと描いてしまうからだ。現実の大きさに甘えて寄りかかり,表現することから逃げてしまっているものが多いからだ。
 大きな事件があって,それを克明に描いていけば物語の形にはなる。傷を負って痛いと描けば,痛みはわかる。愛する人を失って悲しいと描けば,もちろんそれは伝わる。しかし,それは表現ではない。

 これを耳が痛いと感じる人もいよう,ヒドイ言いぐさだ,戦争の悲惨さから目を背ける口実に過ぎないという人もいよう。
 しかし戦後64年も経っているのだ。直接その被害を受けた当事者が言うならともかく,間接的にその話を聞き取り,それを「表現」しようというのであれば,少なくともそれをどのように読者に伝えるべきかは表現する者が真剣に考えるべきだ,と,いしかわじゅんは主張しているのだ。ワシはこの意見を支持する。

 さて,本作「cocoon」だが,舞台となった場所や,主人公が女子学生たちであることから,明らかに沖縄戦におけるエピソードに基づいて創作されたものだと判断される。しかし,作中では一切,状況説明がなされないのだ。恐ろしい状況下で煩悶し,倒れていく人間たちを描きながら,主人公・サンのモノローグだけが白い画面に響くのだ。
 これは,少女マンガだ,とワシは気がついた。成長する若い血潮を極限状況で迸らせる青春「恋愛」マンガなのだ。戦争は舞台に過ぎない。今日マチ子はサンとマユと中心とした女子学生のグループを巡る物語を語るに相応しい舞台として,沖縄戦を選んだのだ。
 してみれば,本作は戦争マンガの範疇に入れて良いものかどうか,ちょっと悩んでしまう。それぐらい,よくある「メッセージ」は全く語られないのだ。206ページもの物語をすれっからしのマンガ読み中年に一気に読ませてしまう力業を持った本作は,間違いなく,いしかわじゅん言うところの「表現」に昇華していると言える。
 本作を読みながら,ワシはアニメにもなった絵本(つーより漫画作品だが)「風が吹くとき(When the wind blows)」を思い出した。あの作品も,ト書きによる状況説明は一切なく,ただ,核戦争が始まったという「ニュアンス」だけを描写しつつ,人の良い老夫婦が放射能に冒されていく様を描いたものだった。あの作品が全世界で話題になってから既に20年以上経っていることを考えると,戦争という悲惨さを描く技術はどんどん進化し,ワシらの日常感覚にジャストフィットするリアルさを獲得しているのだなぁと,つくづく思い知らされる。
 「風が吹くとき」と「cocoon」は,老夫婦と女子学生という対比はありながら,戦争という極限状況を「利用」しつつ,「生」すなわち,生きる,ということを鮮やかに浮かび上がらせているという共通点がある。表現手段として戦争をあまり多用しすぎるのもどうかと思うが,表現が真摯であり,結果として面白い作品になっていれば,少々「あざとい・・・」とは感じつつも,同時に,「やられた!」とも思うわけで,読者にそう感じさせる出来であれば,ワシは大いに支持していきたい。
 本作にはしかし,「風が吹くとき」にはない「仕掛け」があって,ワシはそこにも大いに感心した。ま,ミステリー好きの奴なら即座に見抜いてしまうものなのかもしれないが,今日マチ子が描きたかった,女子高生を包む繭(cocoon)をなす重要なパーツとしての機能もあるので,読了後は「なるほどね・・・」と思い知らされることになる。あまり描くとネタバレになるのでこのぐらいにしておくが,仮にこの仕掛けに対して「悲惨な沖縄戦を商売の種にしている!」と憤る純粋まっすぐ君がいたとしたら,「商売になるぐらい広く読まれることにこそ価値がある!」と擁護しておきたい。

松山ソウコ「さきがけ・松下村塾」リュウコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-19-950195-1, \590
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 徳間書店唯一の男性向け漫画月刊誌「Comic リュウ」。SF崩れの中年オタクどもが何とか買い支えて創刊4年目を迎えようとしていることは,愛読者としては喜ばしい。・・・しかし,肝心のコミックスは未だドカンと一発当たったものが登場しておらず,書店の棚ではどこぞの馬の骨的な扱いを受けて,既刊本を取り揃えている所なぞ見たことがない。それでも新刊が平積みされていればまだ良い方で,いきなり棚に一冊だけ突っ込んである,なんてことも珍しくない。「シブすぎ技術に男泣き!」でブレイクし,今や技術系マンガ家として「工場虫」(今時珍しい純粋ギャグ長編,お勧め!),「なわばりちゃん お攻めなさい!」(SM本にあらず,バーチャル城攻め実用(?)書!)と立て続けにカラーA5サイズ本を刊行している見ル野栄司の単行本「敏腕編集インコさん」だってリュウコミックスから出ているのに,本誌の広告でも「「シブすぎ技術」は売れてるのに~」とぼやいているような有様らしい。・・・それって完全に自分(の出版社の営業力の無さ)のせいじゃん,と広告を見たワシは白けたものである。
 つい先日も,こんなニュースが飛び込んできた。京極夏彦原作のコミカライズ作品「ルー=ガルー」は,創刊号依頼の目玉連載で,生き生きとした娘さん達の活躍を楽しく読ませて貰った力作であったが,このたび映画化ということもあってか,講談社にまるごと移籍してしまうらしい。メディアミックス販売の絶好の機会を分捕られるあたり,何というか,出版界における徳間書店の「無力さ」を思い知らされる出来事であった。
 そう,つまりは,徳間書店には,リュウコミックスには,「営業力」が全く欠けているのである。コミックナタリーの記事をずらりと並べてみれば,その無力さがよく分かる。話題になるのはすでに著名な作家の作品の単行本が出たり作品が掲載されたりした時のみ。一番笑ったのは,ようやく発掘した新人・つばなが,またぞろ講談社の雑誌で作品を掲載することを報じるものであった・・・何だよ,結局,リュウが話題になるのは既存作家のネームバリューと大手他社の営業力の「おまけ」としてかよぉ~・・・と,一ファンとしては歯がみしたくなるのである。
 そんな無力なリュウコミックスであるが,めずらしくド新人の単行本なのにも関わらず,コミックナタリーの記事になったのだ。それがこの「さきがけ・松下村塾」である。記事に取り上げられた理由はさっぱり分からないが,この作品の連載が突然何の脈略もなく始まったのを見た時,大野編集長には申し訳ないが,ワシの頭には「苦し紛れ」という単語が浮かんできた。それぐらい,「歴女」は「SF中年オタク」雑誌とは縁がない。いろいろ大変なことはあると思うが,それにしてももう少し購読者層を考えて作品を載せろよな・・・と言いたくなったのは当然のことなのである。
 しかし,この作品,のっけから歴女妄想力全開で,美しく整ったキラキラ少女漫画絵柄(リュウでは浮いてるよな・・・)で,一応史実に基づいた前振りを作者が行った後には,山県有朋が墓下で号泣しかねないような松下村塾のドタバタ4コマがハイテンションで繰り広げられるのだ。
 松下村塾を切り盛りする吉田松陰は美しき令嬢(女装癖による)として描かれ,高杉晋作は未だ童貞のボンボン,久坂玄瑞は反対に女っタラシのムッツリスケベ・・・。松山が楽しんで描いていることだけは誰しも認める本作に,ワシは連載初回で引き込まれ,リュウが出るたびに「とりから往復書簡」に次いで本作を読むようになったのである。
 とはいえ,全部が全部妄想というわけではなく,新撰組の3人組(近藤・土方・沖田)や坂本龍馬の描き方は,割と史実に忠実(本編の4コマエピソードはともかく)だったりして,歴史読み物としてもそれなりに「使える」ものにもなっている。ちなみに,松山が批判するかっこいい新撰組のイメージを根本から覆したければ,水木しげるの「劇画 近藤勇」(ちくま文庫)を読むのが良い。
 単行本としては121ページと薄いのは,連載がずいぶん早いうちに終了してしまったせいである。理由はワシには分からないが,ゲスの勘ぐりをあえてすると,パワーのある妄想フィクションと,この史実忠実解説とのバランスの取り方が,読者には中途半端と受けとられたのかなぁと想像するのだが,どうなんだろう? せっかく華麗な絵柄があるのだから,妄想4コマだけで突っ走るか,本書のあとがき(書き下ろし)のように歴史的知識の解説に徹するか,どちらかにしておけば,単行本にしたときの「まとまり」も良かったように思える。ワシとしては妄想4コマの方が好きだったので,この真面目なあとがきは少し残念だった。歴史解説なら「風雲児たち」という史実忠実路線の大河漫画作品が既にあるので(完結しそうにないけどな)そちらに譲り,次作は是非ともドガチャカになった長州藩上層部とか,童貞喪失の反動で勢いづいた高杉晋作率いるハチャメチャ騎兵隊,女ったらし・伊藤博文首相が率いる明治政府・・・等を,きらびやかに,そして軽やかに描いて欲しいものである。

吉村昭「桜田門外ノ変 上・下」新潮文庫

上巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-10-111733-1, \552
下巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-10-111734-8, \590
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 今回,職場内の印刷物に本の紹介をする短いコラム(400字程度)を書けと言われたので,本書を取り上げることにした。職員全員に配られるものなので,立場・専門・興味は各人バラバラ。あんまし「ガロアの群論」みたいな理系色全開な本でもマズいし,かといってワシの趣味全開なマンガ「ネム×ダン」でもちょっとなぁ,というところがあるので,少し固めの時代小説が無難なのではないか・・・ということで吉村昭の出番となったのである。映画化が決まって,水戸市の湖畔にオープンセットが組まれていたことは,2010年3月の水戸コミケの際に見聞してきたので,その予習にと原作である本書をほぼ一気読みしたのである。
 日本の歴史を習う際には,明治維新の直接の切っ掛けとなった「桜田門外の変」,即ち大老・井伊直弼襲撃暗殺事件,を必ず扱うが,短くまとめすぎると,事件の全貌がよく分からない。事件の基本構造が忠臣蔵と類似している点もあるので,「吉良上野介が悪い」→「井伊直弼が安政の大獄を引き起こしたから悪い」と単純化されすぎて伝わっているきらいがある。ワシも中学校でこの事件を教えられた際には,「暗殺されるほど強烈な弾圧をしたのだな」としか感じなかった。
 しかし,政治的な事件というものは概ね,事件が起こるまでの背景と経緯というものがあり,原因を追求していくと様々な人物・事象が積み重なっていることが分かり,「鶏が先か卵が先か」という堂々巡りに陥ってしまうことがよくあるのだ。今のアフガニスタンやイラクに米軍が駐留している理由をきちんと説明しようとしたら,ソ連のアフガン侵攻から説き起こすことになってややこしいことこの上なく,更に言えば,なぜソ連が侵攻したかといえば米ソ冷戦の話をせねばならず,最終的にはイスラム教とキリスト教の起源まで遡ってしまうのである・・・ってのは行き過ぎだが,歴史的経緯というものはかくも複雑でメンド臭いシロモノなのである。
 「桜田門外の変」もその例外ではない。確かに井伊直弼という人物の個性がなければ,「大獄」と呼ばれるほどの苛烈な水戸藩や攘夷派志士への弾圧は行われなかったかもしれない。しかし,第14代将軍世継問題が慶福派と一橋派に分裂してあれほど紛糾しなければ,そもそも,井伊直弼が大老に就くこともなく,ことは穏やかに済んだかもしれない。しかし,ペリーが来航して鎖国の扉をこじ開け,ハリスが強硬に通商条約締結を主張して成し遂げるという対外圧力がなければ,開国(やむなし)派と鎖国(維持すべし)派の対立が起こることもなく,そもそも世継ぎ問題も勃発することなく済んだかもしれない。しかしそもそも水戸光圀が御三家の一つのくせに尊王精神を主張していなければ・・・とまぁ,キリがないのである。
 吉村昭の長編小説は緻密な取材に基づいた事実の積み重ねを土台とし,透明な文体で淡々と「描写」するところに特徴がある。本書「桜田門外ノ変」も,事件全体としてはせいぜい数時間,襲撃そのものは井伊直弼の首が有村次左衛門によって高々と掲げられるまで,ごく短時間で終了している。しかし,水戸藩士を中心としたグループが事件を起こすまでに至る経緯を,上巻全部を費やして「描写」しているのだ。水戸藩における改革派と門閥派の対立,そもそも水戸で攘夷思想が培われた地理的要因,襲撃計画をすすめるグループの諸国漫遊(「坂本龍馬」の名前もちらと登場)・・・を,襲撃グループの中心人物・関鉄之介を中軸に据えて書き連ねている。これは,重い。井伊直弼らの開国&慶福派が,尊皇攘夷を現在の過激右翼以上に強硬に主張する水戸老公・斉昭を毛嫌いするに至る経緯もきっちり「描写」しているから,読者は単純な肩入れができなくなる。幕末の動乱期に頻発する暗殺の連鎖がここから始まったということを考えると,下巻で描かれる襲撃後の関鉄之介の逃避行を助けた人々と世間という「土壌」こそが,一面非難されるべき所業でもそれが成立するためには必要な条件であったことを確認させてくれるのである。小林よしのり命名の「純粋まっすぐクン」的思考だけでは,歴史の重大事件という「点」の近傍に寄り添うことしかできず,点に至る「線」と,線を載せた「平面」に思いを馳せることはできないのである。
 吉村昭は,薩長同盟締結における坂本龍馬の役割についても,完全否定していて,次のように発言している。

 「薩長同盟というと,坂本龍馬が斡旋したことになっているのですが,坂本龍馬は土佐藩の藩士ではなく,郷士です。坂本龍馬が両方を仲介して薩長同盟を結ばせたといわれていますけれども,そのようなことは史実にないのです。
 一人の人間が薩摩と長州,今のアメリカとソ連のようなものですが,それを中に入って話をつけるなどありえない。一番最大のものは武器なのです。武器で合致してしまった。
 それでこの薩摩・長州が新鋭銃,新鋭の大砲,これを(注:イギリスから)輸入して,そして幕府と対抗する。鳥羽伏見の戦いで,幕府軍は1万5千人,薩長の方は4,5千なのですね。それで圧勝してしまったのです。なぜかというと武器なのです。武器の勝利なのです。」(「ひとり旅」文春文庫,P.200)

 ・・・とまぁ,あくまでもプラグマティックな考えを貫いているのである。司馬史観に色濃いロマン主義・個人主義的なものとは対極にある透徹した現実主義,これを描く文体は,乱反射することのない無色透明なものである必要があったのだ。
 さて,こういう原作からどんな映画ができるのか? 以前,NHKでドラマ化された「ポーツマスの旗」は随分リアルで地味なものであったが,逆にそれが小村寿太郎再評価の後押しに繋がったように思える。映画を見た観客が徳川斉昭,井伊直弼の評価をどのように下すのか,アンケートを取って,原作ファンとの比較対照をしてみたいないなぁと思うのである。
 ・・・で,これをどうやって400字に押し込んだものやら,ワシは更にめんどくさい作業を背負い込むことになったのであった。

Preface in Japanese : R.P.Brent & P.Zimmermann, “Modern Computer Arithmetic” Ver.0.5.1

 現物は著者のページから見て欲しい。以下の前書きは0.5.1版からの訳出である。
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まえがき
 本書は数値演算のアルゴリズムと,現代のコンピュータ上でそれを実装する方法について解説したものである。我々はどちらかというとハードウェアよりソフトウェアの方に興味があるので,コンピュータのアーキテクチャとかハードウェアのデザインについては本書では触れていない。その手のトピックを扱った良書がすでにいくつか存在しているからでもある。その代わりと言っては何だが,加減乗除といった演算を高速に実行したり,それと関連したモジュラー演算,最大公約数計算,高速フーリエ変換(FFT),特殊関数の計算のようなトピックに焦点を当てて解説を行っている。
 本書で示したアルゴリズムは,任意精度演算向けのものがメインである。つまり,32ビット,64ビットというコンピュータのワードサイズに固定された桁の計算ではなく,メモリと計算時間の制限内でできる限りの桁数の計算に対応している。整数演算だけでなく,実数(浮動小数点数)演算についても述べてある。
 本書の構成は4章+短い1章(実質的には付録扱い)から成る。第一章は整数演算についてであるが,これについてはもちろん,いろんな本や論文で扱われているものである。しかし,公開鍵暗号研究における貢献によって,近年著しく進展している分野であるため,多くの既存の本の記述は一部,時代遅れになっていたり,不完全になっていたりする。我々は,この進化した部分について,なるべく簡潔に記述しようと試みた。同時に,必ずしもこの分野に精通していない読者にも,自学自習ができるような自己完結した入門編となるよう心がけた。
 第二章は,モジュラー演算とFFT,コンピュータ演算への応用に関することを扱っている。さまざまな数の表現方法,高速乗算・除算・べき乗算法,中国剰余定理(CRT)の使用方法について議論している。
 第三章は浮動小数点演算を扱う。ハードウェアで提供されている精度(IEEE754 53ビット倍精度など)では不十分な場合に,より高い精度の浮動小数点数演算をソフトウェアで実装することを考える。この章で扱うのは,IEEE754規格を任意精度浮動小数点演算に拡張した,”正確な丸め”(Correctly Rounded)を可能にするアルゴリズムである。
 第四章では,べき級数や連分数で定義される,任意精度の初等関数(sqrt, exp, ln, sin, cosなど)の計算法を扱う。特殊関数は膨大なボリュームのあるテーマなので,部分的に取り上げるだけにしてある。任意精度計算に相応しい,高性能な計算方法のみに集中して解説した。
 最終章は,実装されたソフトウェア,有用なWebサイトやメーリングリストなどを紹介している。最終ページでは,有用な”aide-memoir”となるべく,「計算量のまとめ」を行っている。
 以上の章は,それぞれ章ごとに自己完結しているので,どういう順番で読んでもらって構わない。例えば,第四章を第一章~第三章より先に読むこともできるし,いつも第五章だけを参照する,という使い方もできる。Newton法のように,いくつかのトピックは,複数の章で異なる取り上げ方をしていたりすることもある。また,相互参照は必要な場所で適宜行っている。
 あえて飛ばした詳細については,参考文献と同様,各章の”Notes and References”でその情報へのポインタを示してある。できる限り本文がすっきり読めるよう,注釈や参考文献を使用しているので,ほとんどの参考文献は”Notes and References”の節に押し込めてある。
 本書は,高性能なコンピュータ演算の設計に興味のある人だけでなく,もっと一般の数値計算アルゴリズムを高性能にしたい人も対象として書かれている。読者個人が好きなコンピュータ言語を使って実装できるよう,できるだけ抽象度を上げて記述し,具体的に,特定マシンに依存するような記述は避けた。アルゴリズムのアルファベット順のリストは索引に載せてある。
 本書は特別,教科書を意図して書かれたものではないので,数学専攻,コンピュータ科学専攻の大学院生レベルでないと難しいように思われる。扱っているトピックも長々と解説したりせず,演習問題として各章の最後にまとめてあるが,この難易度は恐ろしいほど幅があり,簡単なものから,ちょっとした研究プロジェクトレベルのものまであるが,それを順位付けしたりはしていない。演習問題の解答を知りたければ,著者である我々に連絡をして頂きたい。
 コメントやバグの報告はいつでも歓迎したい。著者のどちらかに送って頂ければ幸いである。
Rechard Brent
Paul Zimmermann
キャンベラとナンシーにて
2010年2月
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 多倍長計算向けのアルゴリズム本って,少ないんだよね。1.0を楽しみに待ちたい。

いしかわじゅん「ファイアーキング・カフェ」光文社

[ Amazon ] ISBN 978-4-334-92710-3, \1600
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 出張先の福岡,ブックスタジオ博多駅店にて一冊だけ棚に刺さっていたものを購入,仕事が終わって帰宅するために乗り込んだ新幹線のぞみ62号車中で読了した。
 本書は沖縄・那覇に集った,いわくありげな本土人(やまとんちゅ)の人生のごく一部を切り取って描写した6編の短編をまとめた連作集である。南国の高温多湿な空気の中にいるとだんだん脳細胞がぼや~っと弛緩してくるものだが,読了後のワシもその例に漏れず,「あ~,そ~,ゆ~,ことも,あるよねぇ~」と寝惚けた感想しか言えなくなってしまった。イカンイカンと空気を払い,あらためて6編の,6人の主人公たちの人生の断面を振り返ってみると,世間的にはありふれた出来事でありながら,個人が社会に向き合うためには不可避である「切り傷」を積み重ねていくというイタイものであることに気がつく。その切られた痛みを読者に声高に訴えるのではなく,淡々と南国の大気に乗せて告げていくという著者・いしかわじゅんの静かな筆致は,ギャグの至高を目指して一度破綻し,「まぶやー」を落とし,叙情的な画風に落ち着いていった体験がもたらしたものなのだと,ワシは勝手に結論づけている。
 沖縄という地域についてのワシの知識はかなり限定的で,数え上げてみると三つしかない。
 一つは,わしの前の職場で得た豆知識。前職は現・厚生労働省管轄の独立行政法人に在籍していた時のものだ。短期大学校という位置づけの職場だったので,毎年度,全国の校長を集めて卒業生の就職率を報告・講評するという会議があったらしい。組織柄,職安とタッグを組んでの就職活動を展開するものだから,大体90%を超える数字が報告されるわけだが,沖縄だけは,確か40%以上も低い数値になっていて,苦言を呈される役回りになっていた。しかし,沖縄担当の校長曰く,沖縄県内ではこれでも相当高い数値であり,お褒めの言葉まで貰っているのに,全国の集まりでは必ず怒られてしまう,とおカンムリであったそうな。それを聞いてワシは,沖縄って独特なんだなぁ~と感心したものである。
 二つ目は,小林よしりんの「ゴーマニズム宣言・沖縄論」を読んで得たもの。大ベストセラーかと思いきや,数あるゴー宣シリーズの中でも全国的な売上はさほどでもなく,沖縄県内でのセールスが凄いと,よしりん自身が言っていた。全くもったいない,普天間問題がヒートアップした今こそもっと読まれてもいい作品だとワシは思う。ことに,この中で描かれていた沖縄の左翼的空気,そしてもっと驚くのはその同調圧力の物凄さ。この二つはもっと知られるべき情報だ。ひめゆりの塔とか米軍基地問題などの一般的な知識は広く知られるようになっているが,沖縄という独特の「地域性」がこれ程とは,ワシも本書を読むまで全く知らなかった。
 三つ目は,宮台真司の言説。ほとんどビデオニュースのマル激を通じてのものだが,今回の普天間基地移設問題では最初から辺野古沖への移設しか解はない,と明言していたのが宮台だった。日本の防衛システムと駐留米軍の位置づけの重要性,自民党政権での交渉過程における試行錯誤,そして沖縄独自の地縁と経済との複雑な関係性,この3点を考えると辺野古沖という唯一解しか存在しないと言い,実際,鳩山政権では,たぶん良心的な熟慮と試行錯誤の挙句,その通りの結論に至ってしまった。それを補強する情報は守谷・元防衛事務次官が出演したマル激から得ることができる。
 以上,この3つしか,ワシの沖縄についての知識はない。だから,ここには生身の沖縄情報が欠落しているのだ。「沖縄論」でも宮台の言説にも,実はもっとディープな,根本敬的カルチャー情報が背後にあるはずなのだが,直接的に語られることはあまりない。「因果鉄道の旅」じゃあるまいし,特定個人名をモロに書かれても平然と日本社会を生きていける人物は一握りだ。プライバシーに関わる個人情報,その生き様を語れば語るほど,それは生の沖縄を知る重要な手がかりにはなっても,その個人が沖縄という地域で生活してくのは困難になるだろう。結局,知りたければそこに住むしかない。長く住んで徘徊して人々と交流して,太陽がジリジリと照りつける空気の中で生の知識を収集しないと,たぶん,真の沖縄を知ることはできないのだろう。
 本書はフィクションであり,地名と登場人物以外の固有名詞は架空のものだ。そこで起こった数々の出来事もたぶん殆どモデルなしの創作だろう。
 しかし,リアルなのだ。ワシは南国の大気を感じながら,感心していたのだ。感心しながら,数少ない沖縄に関する3つの知識の断片がズルズルと繋がっていく快感を覚えていたのだ。それぐらい,川島トオルのミニ出版社での「苦闘」も,カフェマーケットでバイトする涼子ちゃんの「ふるまい」も,ダリアちゃんの「家庭」も,ハニー&ミルクちゃんの「職場」も,ワシの知識を補間するには十分な程,リアルだったのだ。大いなる誤解かもしれないが,ワシは本書で「那覇支店」を構えたいしかわじゅんからリアルディープな沖縄を教わったと思っている。そしてこのリアルさが「南国の大気」の正体だったのだ。
 リアルな沖縄の空気にまぶした,人生における「切り傷」を描いた本書は,漫画家・いしかわじゅんが実在する固有名詞に託した細かな描写に支えられて,独特な叙情的作品としてここに結実した。売れ行きはさほどでもないだろうが,南国文学の傑作,池澤夏樹「マシアス・ギリの失脚」と共に,バーチャルに熱帯の空気を感じられる作品としてワシは大いにお勧めしたいと強く思っているのである。