[3/4] J-.M.Muller et.al, “Handbook of Floating-point Arithmetic”, Birkhauser

[ Amazon ] ISBN 978-0-8176-4704-9, \13666(2010年4月現在)
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 ・・・就寝前の寝ぼけ眼でアップした前書き部分を今読み返していたら,気になる箇所がぼろぼろ出てきた。な~んか非常にみっともないなぁと思いつつ,上げちゃったからしゃーないか,という境地に約1分を要してたどり着いた。つーことで,過ぎ去った過去のことはきれいさっぱり忘れることにして,以下では本書の内容について,ざっと目を通してみた感想を書き付けることにする。
 前書きにも書いてあるように,本書は現在の浮動小数点演算(Floating-point arithmetic, 以下FP演算と略記)の有り様を本文528ページというコンパクトなハンドブックの形でまとめたものである。その内容は次の6部に分割されている。
第一部 浮動小数点事始め,基礎定義,技術標準
第二部 浮動小数点演算の賢い使い方
第三部 浮動小数点計算の実装
第四部 初等関数
第五部 浮動小数点演算の拡張
第六部 結論と今後の展望
 9人の共著とは言え,FP演算や初等関数近似の数学的理論からソフトウェア環境のことまで,よくもまぁこれだけ射程の広い内容を一冊の本にまとめてしまったものだと感心する他ない。当分の間,ワシはFP演算の細かいことを質問されたら本書を紐解いて「Muller本の~ページにこう書いてあるぜ」とエラそーに能書きをたれることにしようと思っている程である。とはいえ,ざっと眺めてみると,ざくざくと山道を造ってくれた偉人達に,「あ,その道ちょっと曲がってますよ」とか「まだこのあたりに草が残ってますよ」的なチマチマした文句を言いたくなってしまった。以下,惰弱な追随者が,この6部の内容について紹介ついでにちみっとブーたれることにする。もちろん屈強な山男達に「細かいこと言ってんじゃねーよ」とタコ殴りされることは覚悟の上だ(ドキドキドキ)。
 第一部は浮動小数点演算の歴史(第1章)から入り(つーても細かいことはKnuth本を参照せよとなっている),第2章で丸め・誤差・FMA演算・区間演算を定義し,第3章でIEEE754-1985とIEEE854をくっつけて新たに制定されたIEEE754-2008規格の解説・FPA演算環境チェックツール(MACHARとかparanoiaなど)の説明を行っている。他の部は必要があるところだけ参照する程度でも,ここは一通り目を通しておいた方が良い。特に精度保証(この用語も誤解を招きやすいので何とかして下さい>九大・早大グループの方々)を志そうという物好きな人には丸め誤差について,やたら細かいけど必須の事柄を解説しているので必読である。ULP(unit in the last place)に2種類の定義あるって初めて知ったワイ。
 第二部ではFP演算を活用した計算アルゴリズムの紹介をしている。解説だけでなく,打ち込めばそのまま実行できるソースコード付きなので,FP数(Floating-point Number)を繋げて4倍,8倍・・・精度演算をしようという人,精度保証付き(って言い方好きじゃないんだけど)線型計算をしたい人にとっては必読。オタク的なFP演算求道者じゃないソフトウェア屋さんでも,今のFortran, C, C++, JavaでどのようにFP演算が扱われているかを知るために第7章をざっと眺めておくのは良いことなんじゃないかな~。
 第三部では基本的なFP演算の実装方法を解説している。まず第8章で四則演算,平方根,FMA演算の,IEEE754-2008規格に基づいた実装方法を解説している。第9章ではハードウェアを用いたデジタル回路での実装について,第10章ではソフトウェアとして実装するための解説とソースコード例が示されている。現在これだけIEEE754-1985規格を搭載したFP演算Unit搭載CPUが普及してしまうと,既存のCPUメーカー,Intel, AMD, SUN, IBMが高速かつ精度拡張したFP演算を実装して高速化してくれる,なんてことはこの先あまり期待できない。明確な応用目的を持った個々の研究グループ・企業が独自に開発を担わねばならないとなれば,この第三部の解説は彼らに対して重要な知的基盤を提供してくれるだろう。
 第四部では初等関数の近似手法についての解説だが,唯一,この部分はあまり感心しなかった。ことに第12章で数表作成者のジレンマ(Table-Maker’s Dilemma, 以下TMDと略記)の議論に一章費やしているのはともかく,Mullerの前作をコンパクトにした内容を期待してたら,そこが全部すっ飛んじゃったという感じである。初等関数近似手法としてRemez法の説明が第11章でなされている以外,あまり有用な情報はない。オタク的な興味のある人以外は,関数近似手法を知りたいならMullerの前作を入手することをお勧めしておく。・・・ホント,このフランスグループってのはTMDが好きだよねぇ~。ま,Lefevreさんの趣味なんだろうけどさぁ~。
 第五部は完全にこの方面の研究者向けという内容・・・かな? 第13章では精度保証(ホントにこの用語何とかした方がいい)を拡張して形式的証明問題に応用しようというお話くさい。カレントテーマってことは知ってるけど,ワシは興味ナッシングなので詳しい人に解説は任せた。でもGappaってのはちょっと興味が沸いたかな? 第14章は多倍長計算のお話。第二部第4章のアルゴリズムの解説を受けて,既存の倍精度FP数を並べて4倍,6倍(倍精度の3倍の精度の意味ね)計算のアルゴリズムを説明している・・・けど,GMPのように整数演算ベースの多倍長計算のお話はあまりない。多倍長整数演算の高速化アルゴリズムの解説を知りたければGMPとかMPIRのマニュアル(PDF)を参照して欲しい。ちなみに,P.511でARPRECも”Large Precision Relying on Processor Integers”で語られているけど,少なくともmp_realはdouble型の拡張だったはず・・・ちょっと誤解を招きそうだ。
 第六部はざっとしたまとめと今後の展望と付録。しかし・・・IEEE754-2008規格が今後実装されていくという方向は認めるとして,その歩みが速いかどうかは疑問である。後述するFMA演算実装状況を考えると,著者らの認識はちと楽観的すぎるような気がする。 
 ・・・とまぁ,かなり大雑把に本書の内容の「印象」をまとめてみた。ワシの持っている本書は,第13章に第12章の最後がくっついた第五部が重複して掲載されているという乱暴な代物だし(「落丁」じゃないから文句を言う筋合いではないけど),一部「言い過ぎ」「言い足らな過ぎ」って箇所もあるので,どーも,本書をFP演算の「聖典」と言い切るには至らない。しかし,それもこれもこのMullerを中心とするフランスグループの力強さの現れと思えば,本書は彼らの力業による「力作」であることは間違いない。13000円の価格は確かに高いけど,この分野に興味があってそこでおまんまを食っている人間がその経済力の一部を振り向けて彼らに喜捨するのだと思えば,お安いものではないだろうか?
 では乱暴さの一部をここでご紹介して,中締めとしよう。
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 最後に,FMA演算の現状についての小文を掲載しておく。→[4/4]へつづく

[2/4] J-.M.Muller et.al, “Handbook of Floating-point Arithmetic”, Birkhauser

[ Amazon ] ISBN 978-0-8176-4704-9, \13666(2010年4月現在)
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 上記,”Handbook of Floating-point Arithmetic”の前書き部分を翻訳したので以下に提示する。
——- ここから ——–
初めに
 浮動小数点演算(Floating-point arithmetic)は,現代のコンピュータ上で数値計算を行うために,実数演算を近似する手法として,最も広範囲で利用されているものである。浮動小数点演算をざっくり述べるには短い言葉で十分だ。即ち,ある数xは,基数(radix)βの浮動小数点演算において,符号部(sign)s,有効小数部(significand)m,指数部(exponent)eを用いて,x = s×m×β^eと表現される。とはいえ,この演算を実装し,高速で可搬性のあるものにしようとすると,大変面倒な仕事をする羽目になる。少し拡大解釈すれば,浮動小数点演算という概念は(60進法ではあるが)古代バビロニアで発明されたとも,計算尺を使った計算にもその萌芽があるとも言われているが,最初の現代流の実装はコンラッド・ツーゼ(Konrad Zuse)が開発した5.33Hz駆動のZ3コンピュータ上でなされたものである。
 多種多様な浮動小数点演算の実装が大量に登場したのは1960年代から1980年代初期の頃である。その当時は基数も(2, 4, 16, 10が想定されていた),小数部の桁数も,指数部の長さも標準化されていなかった。丸め方式やアンダーフロー,オーバーフロー,やってはいけない計算(5/0や\sqrt{-3}など)の扱いも,コンピュータ間の互換性は殆どないに等しい状態。標準的な実装が存在しないことが,数値計算ソフトウェアの信頼性や可搬性を向上させることを困難にしていたのだ。
 プログラマには有用であり,浮動小数点演算の実装者にとっては現実的な解決をもたらす,核となるコンセプトをもたらしたパイオニアは,ブレント(Brent),コーディ(Cody),カーハン(Kahan),九鬼(Kuki)といった科学者たちである。彼らの努力によって,2進ベースの浮動小数点演算であるIEEE754-1985規格ができあがったのだ。その後,IEEE854-1987という「基数に依存しない浮動小数点演算規格」もできた。この規格化を指揮したのはカーハン(William Kahan)で,プログラマが利用できる計算環境の質が向上したのは,このIEEE754-1985規格のおかげなのである。近年ではさらにこの規格が改良され,新しいバージョンであるIEEE 754-2008規格が2008年8月にリリースされている。
 このIEEE754-1985規格が浮動小数点演算の挙動を思慮深く規定しているおかげで,研究者が非常にスマートで可搬性のあるアルゴリズムをデザインすることができるようになっているのだ。例えば,非常に精度の高い和の計算や積和計算が実行できるし,プログラムの重要な部分を形式的に証明できたりするのである。ただ不幸なことに,あまり知識のないユーザにはこの規格の精緻なところが殆ど理解されていない。更に憂慮すべきは,こういう部分がコンパイラの制作者にもしばしば見落とされていることだ。結果として,浮動小数点演算が曲解されることもしょっちゅうで,その性能を十分発揮し得ていないことも起きてしまう。
 このIEEE754規格,そしてその改良版の存在が,浮動小数点演算に関する膨大な知識の中から一部を抜粋して本を編むという決断を我々にさせたのだ。本書は数値アプリケーションのプログラマ,コンパイラ制作者,浮動小数点アルゴリズムのプログラマ,演算回路の設計者,そして浮動小数点演算を操るツールをもっと正確に理解したいと願っている学生や研究者にも役立つように構成されている。本書の執筆中,我々は,コーディングや設計のためにより直接役立つ使い方を示せるよう,記述したテクニックを実際のプログラムを使って説明するよう,できうる限り心がけたつもりだ。
 本書の第一部では,浮動小数点演算の歴史と基礎概念(フォーマット,例外処理,正確な丸め等),そしてIEEE754, 854規格とその改良版の規格について様々な事柄を述べている。第二部ではこの浮動小数点演算規格の持つ性質がどのようにして,スマートだが分かりづらいアルゴリズムを開発するのに役立っているのかを解説する。加算,除算,FMA(fused mutiply-add)演算を用いた平方根のアルゴリズムも説明する。そして第三部では,浮動小数点演算が,(整数計算プロセッサ上の)ソフトウェアと(VLSIもしくはリコンフ回路といった)ハードウェアを使ってどのように実装されているのかを説明する。第四部では初等関数の実装方法を述べ,第五部では浮動小数点演算の精度保証や多倍長精度化といった,浮動小数点演算の拡張方法をご覧頂く。最後の第六部は全体のまとめ・今後の展望(perspective)と付録に充てた。
謝辞
 本書の準備段階の原稿の作成に当たっては,世界中に散る同僚と,上級エコール・ノルマル・リヨン校(Ecole Normale Superieure de Lyon)とリヨン大学(Universite de Lyon)の学生たちに読んでもらい助力を請うた。ニコラス・ボニファス(Nicolas Bonifas),ピエール-イヴス(Pierre-Yves)・デイビッド(David),ジーン-イヴス・レクセレント(Jean-Yves l’Exellent),ワレン・フェルガソン(Warren Ferguson),ジョン・ハリソン(Jon Harrison),ニコラス・ハイアム(Nicholas Higham),ニコラス・ルーヴェット(Nicolas Louvet),ピーター・マークステイン(Peter Markstein),エイドリアン・パンハルー(Adrien Panhaluex),ギラーム・レヴィ(Guillaume Revy),そしてジークフリード・ルンプ(Siegfried Rump)。彼らの助言と好奇心に感謝する。
 出版元であるバーカウザー(Birkhauser)・ボストンとの共同作業は非常に楽しかった。特に,トム・グラッソ(Tom Grasso),レジーナ・ゴレンシュテイン(Regina Gorenshteyn),そしてトリー・アダムス(Torrey Adams)の協力に感謝したい。
 ジーン-ミッチェル・ミュラー(Jean-Michel Muller),ニコラス・ブリスベア(Nicolas Brisebarre),フローレン・ド・ディネティン(Florent de Dinechin),クロード-ピエール・ジーネロッド(Claude-Pierre Jeannerod),ヴィンセント・ルヴェブレ(Vincent Lefevre),ギラーム・メルクウィオン(Guillaume Melquiond),ナタリー・レヴォル(Nathalie Revol),ダミアン・ステーレ(Damien Stehle),サージ・トレス(Serge Torres)
フランス,リヨンにて
2009年7月
——- ここまで ——–
 ・・・いかがでしょう? つーことで,ざっと本書を眺めてみた感想を次に述べてみたい。→[3/4]につづく

[1/4] J-.M. Muller et.al, “Handbook of Floating-point Arithmetic”, Birkhauser

[ Amazon ] ISBN 978-0-8176-4704-9, \13666(2010年4月現在)
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 う~ん,パラパラとめくってみただけの段階であるが,これを紹介しておかないと寝覚めが悪いのでさっさと記事を書いて公開しておく次第である。
 本書はO先生からのメールで,”Elementary Functions: Algorithms and Implementation“を書いたMullerがまた本を書いたらしい,と知らせて頂いたことでその存在を知ったのである。で,慌ててAmazonから注文したのだが,全然在庫がなかったらしく,到着まで一月待たされてしまった。しかし時代はThe Internet,到着以前に,著者のページとか出版元のページを眺めて前書きをざっと訳してみたりと,予備知識の習得ができたのである。
 ・・・とゆーことで,本書の中身に言及する前に,前書きの翻訳を先にご紹介しておこう。まずそれを読んで,どんな本であるかを知っていただきたい。 →[2/4]につづく

上野健爾「数学の視点」東京図書,E.Artin(アルティン)/寺田文行・訳「ガロア理論入門」ちくま学芸文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-480-09283-0, \1200, E.Artin「ガロア理論入門」
[ Amazon ] ISBN 978-4-489-02057-9, \1800, 上野健爾「数学の視点」
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 現代の代数学は抽象度の高い難解な学問(への入り口)として,理工系,特にガシャガシャ解析的計算にかまけていたい向きには忌避されがちなものに成り下がってしまっている。逆に,離散的構造には慣れっこになっている情報系の人間にとっては,剰余類が代数系になっているとか,多項式が体(field)の上に成立する代数系になっているという程度の現代代数学の知識は当然知っていないとヤバいものである。だもんで,一口に理系と言っても,「代数学」って奴を知らずに済ませられる分野と,必須知識になっちゃっている分野でかっきり分かれてしまっているように思われる。・・・いや,知らずに済ませたい人と,知らずにはいられない人に分かれる,と言った方が良いのかな。何せ,思想的史には重要な「構造主義」の原点になったのが,現代の抽象度の上がった代数学における「構造」のとらえ方なのである。寄せ集めの大量の要素からなる「集合」を漠然と眺めるだけでは飽きたらず,そこに寄せ集めの「構造」を知りたい,知ったことで要素の扱い方も見えてくるだろうと知った好奇心旺盛なインテリ人たちがこぞって構造主義→現代代数学に向き合うことになったのは当然の流れであった。
 しかし・・・この「構造」を主軸に据えた代数学を勉強するのは結構大変だ。何せ,高校までの「計算=数学」としか思っていない大多数の馬鹿ども(かつてのワシも含む)にとっては思考のコペルニクス的転換を図らねば,理解の土台にすらたどり着けない代物なのである。ワシの経験では,大学学部時代にはさっぱり理解できず(まぁ,定期試験をクリアするぐらいの丸暗記的「知識」はついたけど),自分で教えるようになってから改めて勉強し直して「あ,な~るほど」と膝を打っているという有様である。計算とか具体例とかから個別の概念の積み上げによって下から高みに登っていくのが解析学系統の数学だとすれば,抽象的=一般的な概念を提示して「上から」具体例を捕捉していくように知識の整理をしていくのが「現代の」代数学系統の数学ということになる。高校・大学学部教養レベルではそもそも整理するほどの数学知識がないので,まずは増やすことに専念する必要があるから前者のようなやり方が相応しいが,学んだ知識を整理して体系化し,新たに登場する未知の事象に向き合っていこうとすると,どこかの時点で後者のやり方も学んでおく必要がある。汎用性の高い「考え方」を血肉にするには,一度ぐらいはちんぷんかんぷんの森を彷徨わねばならないのである。
 「現代」の代数学がこのように抽象的な「構造」を扱うようになったのは,もともと「代数」ってのが計算操作そのものを指していた時代にぶつかった難問の解決にそれが不可欠だったからである。その難問とは「5次以上の代数方程式の解の公式を見つけること」であった。
 結論から先に言うと,有理数べき乗と四則演算を有限回適用するだけでは5次以上の代数方程式の解の公式は得られない。4次代数方程式までは存在する「解の公式」が5次になってしまうと途端に見えなくなってしまう。16世紀に4次まで解けたものが,100年以上も試行錯誤して5次方程式が解けないまま停滞していたのだ。結局,19世紀初めにアーベルとガロアが登場してようやく5次以上になると「解の公式が存在しない」という結論を得る。
 ・・・が,問題はこの先である。
 結論は得られたものの,それをすっきりわかりやすく提示するための体系,すなわち「ガロア理論」がきれいに整うのは20世紀に入ってからである。そして整った体系は,方程式を解く計算手法を解説したかつての代数学を根底から変えてしまい,代数系(algebraic system)だの群(group)だの環(ring)だの体(field)だのという,方程式とその解が依って立つ抽象的な「構造」を説く「現代の代数学」になってしまったのである。それをコンパクトにまとめたのがE.Artin(アルティン)の「ガロア理論入門」である。・・・あ~,いつも以上に前置きが長くてすまん。
 「入門」という名前になっているが,原題には入門の文字はない。一応,学生向けの講義をまとめたものに基づいて1959年に原書が出版されているから,わかりやすい「筋立て」ではあるものの,れっきとしたガロア理論の解説書であり,「やさしい」と言えるかどうかは疑問だ。ましてやワシも含めて数学知識はかつてのエリート学生に比べて格段に落ちるから,そもそもアルティンが前提としている複素関数の基礎知識も怪しい。従って,これを理解しながら読み通すには,別の参考書が必要になりそうである。
 つーことで,アルティンの本を読み通すために,座右に置いておくのが相応しい参考書が上野健爾の「数学の視点」である。・・・しかしさぁ,これ,本のタイトル,ちゃんと考えて出したのか?と文句をぶーぶー言いたくなる。帯に「ガロワ(ガロア)理論」って書いてあるから内容が類推できたけど,「数学の視点」じゃぁ・・・アルティン本の知識を補ってくれる具体例満載の参考書だってことがさっぱりわからん。まぁ,線形代数やら複素解析やら代数系やら・・・解析学的な具体的知識の積み上げの末に,ガロア理論ができあがってきたというバックグラウンドを解説するのが目的だから,そこに見えてくるたくさんの「数学の視点」を提示したのだ,ってことなのかもしれないが,せめて副題にはガロアの文字が欲しいよね~・・・というのがワシの意見。
 矢野健太郎の「角の三等分」の議論は,この2冊の本で語られている理論体系に包含されるものなので,ヤノケン本では物足りない,食い足りないと思った人は,是非,アルティン本を追いかけつつ,上野本の助力を受けて是非とも「5次以上の解の公式が存在しない」ことを結論づけてしまった現代代数学の体系,ガロア理論を学んでいただきたい・・・ってエラそーに言っているワシも,これから学ぼうとする素人の一人に過ぎないのであるが。

大塚英志「大学論 いかに教え,いかに学ぶか」講談社新書

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-288043-5, \740
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 今の大学に奉職して11年目を迎える区切りの日,2009年度の最後に本書を読了したことはワシ個人にとって大きな意味を持つ出来事だった。大塚英志がComic新現実で「シュートに教える」と宣言してからはや5年,神戸の私大で最初の卒業生を送り出すまでの経緯を大塚自身の学問における師弟論を交えて熱く語ったこの新書は,人間社会における「教育」の原点を問い詰めてくれるだけでなく,そこそこ教育経験を積んで「惰性」に流されつつある一教師を鷲掴みにして揺さぶったのだ。教育のミッションを完遂するため,学生と正面から向き合ったのか?・・・しばらく自問自答の日々が続きそうだ。
 早くから予測されていたことではあるが,少子化という現象が起こって以来,ことに私立の高等教育機関は入学生の減少→経営難という現実的な問題を手っ取り早く解決する手段として,様々な組織改編に乗り出している。大学では資格取得に直結する医療看護系に乗り出すところあり,そして京都精華大学や大塚のいる神戸芸術工科大学のように,マンガ・アニメのコンテンツ制作教育に乗り出すところあり,意味不明だがイメージだけは未来的という学部・学科名を冠するところあり・・・まぁほんとにみんな苦労しているなぁと感じる。もちろんワシだって当事者の一人だから,他人事のような感想を言って済ますわけにもいかないのだが,コンピュータと数学の教師が年度明けには文学の先生になるということは知識的にも文科省的にも不可能なので,自分の知識の及ぶ範囲でゼミとか講義の内容を改変する程度の「お付き合い」をするだけである。既存の学問に乗っかって既に教員になっている一個人の変化は普通,その程度だ。
 しかし,マンガ,しかもプロの漫画家になるための教育を,漠然とした将来への希望しか持たない若年者に対して行うという前代未聞の試みにチャレンジするとなると,教える方は相当苦労することになる,というのは誰の目にも明らかだ。いくら教える側にプロ作家や編集者を入れるとしても,アシスタントを養成するようなOJT的なやり方ではうまく行くはずがない。編集部に持ち込みに行く,プロ作家のアシスタントに応募する,という時点で既にその人間には動機もテクニックもある程度備わっていることになる。大学で教えるのはそれ以前の,漫画を描く動機づけも方法論も持たないド素人なのだ。大塚に言わせるとそのような人間は「それが不確かなものでしかないから彼らはここに来た」(P.16)のである。しかも大塚のやり方ときたら,既存の芸術学部だってデッサン力のチェックぐらいはするというのに,AO入試では表現者=「こちら側の人間」かどうかという,質問してその回答を聞くだけで判断する極めて主観的なチェックしかしないというのだ。
 大塚の「シュートな」教え方は,マンガを構成する方法論を体に叩き込ませた後で,自分が表現したいものをその方法論を使うことで引き出させる,というものである。絵を描く細かいテクニックは一切教えない。そんなものは安彦良和・多田由美・菅野博之ら教員(すんげぇ豪華な教員陣!)と学生の合作「8105スタジオ」の作品を葛藤しながら描いたり,プロの編集者とのやりとりの過程でしか身につかない,というのが大塚の持論である。プロの漫画家になるという決意をさせれば「こちら側」の人間であり,こちら側の人間であれば細かい作画テクニックは誰でも身につく・・・これは大塚だけでなく,他の編集者も「絵は誰でもある程度は上手くなる」と言っているから,漫画編集者の共通認識なのだろう。
 大塚英志が実際にどんな喋り方で学生を指導しているのか,ワシは知らない。しかし本書の記述を読む限り,適度に距離とり,大塚の基準である「卒業」をするまではこまめに学生の相談に応じたり,アドバイスを与えたり,時には突きはなしたりしているようだ。今の大学ではアタリマエのことだと言われそうだが,はたして大塚並のケアをしている教員がどれほどいるか,「下流大学」でもちょっと怪しい気がする。よくもまぁあれだけの漫画原作を連載し,東京と神戸を往復しながらそこまでやるもんだと感心させられる。
 流石に同居人(白倉由美)からも,「大学の先生になったはずなのにまるで毎日,高校の先生みたいなことをやってない?」(P.62)と言われてしまう。大塚の答えはこうだ。

「まあ,何にせよぼくがなったのは学校の先生だからね」

 自分がホントに「学校の先生」であったか,ワシを揺さぶり,この疑問が頭から離れなくなったのは,この大塚の言葉を通じて本書全体に通じる「熱」が伝播したからである。
 「教育」の原点を再確認したい人は,是非ご購読頂きたい一冊である。