山岸凉子「押し入れ」講談社,同「白眼子」潮漫画文庫

押し入れ [ Amazon ] ISBN 978-4-06-375680-7, \648
白眼子 [ Amazon ] ISBN 4-267-01740-9, \571
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 夏なので怪談ものをご紹介・・・と思ったのだが,ワシはドーモここんとこ,怪談とは相性が悪い。何年か前は,「ほぼ日の怪談」に集まった投稿を読んで結構怖い思いをしていたのだが,先日読んでみたら,怖いという以前に,怪談の構成があまりにも良くできていることの気がついてしまい,どっと白けてしまった。それもこれも稲川淳二が悪い。というより,口コミで伝承され素朴に怖がっていた民間伝承である「トイレの花子さん」的怪談を商売のネタとして取り上げ,ワシらに消費させ続けてきたマスコミが悪いのである。ああいうものは,そもそもワシら日本人の土俗的な道徳観念に根ざしたものであり,因果が巡って人に祟ったり,恨みを持って亡くなった人が化けて出たりする話を聞くと,そこがじわっと刺激されて怖くなるというものなのだ。日常生活においては,ごくたまに,しかも整理されていないしゃべりを通じて聞くからいいのであって,マスコミから工業製品のごとく整理され演出されて出てきたものは,あくまでエンターテインメントの要素のみを取り出したものでしかなく,土俗的精神構造をチクチクする怪談とは別物なのである。
 山岸凉子の「押し入れ」は,その点,きちんと「因果応報」を踏まえた短編が納められていて,どれもこれも普通に怖い。単に怖いだけではなく,「ああ,こういうことをしちゃいけないな」という気も起こさせてくれるほど,本書に収められている4つの短編は古いタイプの民間伝承に基づいたストーリーになっている。「夜の馬」では薬害を引き起こした大御所の医者が地獄に引きずり込まれるし,「メディア」では子供に執着しすぎた母親が現実に子供に「祟る」し,表題作「押し入れ」は美内すずえのアシスタントが経験した,よくあると言えば良くある「事件」をネタにしているし,最後の「雨女」では,次から次へと女性を食い物にしていく男が「因果」を引き摺っていく様が描かれている。怖い思いをして読了した後には,「悪いことはしないほうがいいな・・・」と身に染みて感じさせる土俗的作用があるのだ。もちろん,山岸独特の儚げな描線と吸い込まれそうな白いバックの作用によるところも大きいのだろうが,それよりも山岸自身の,とても素朴だが太古から積み上げられてきた,誰しも共通して持っている伝統的道徳観念への敬意というものが大きいように思われる。
 山岸の,道徳観念への敬意は「白眼子」を読むとよく分る。ワシはこの作品が今はなき「コミックトムプラス」に連載されていたのをリアルタイムで読んでいたのだが,戦後の札幌が舞台ということもさることながら,戦争孤児だった主人公を狂言回しにして語られる,不思議な能力を持つ盲目の「白眼子」という人物の持つ土俗的思想に感動したことを今でも覚えている。いわゆる「霊能者」という部類に入るのだろうが,依頼人のごく素朴な願望,死んだ息子の今際の様子を知りたいとか,死んだ母親の成仏状況を知りたいという要望にはきちんとした回答を与える一方,白眼子の姉の「旦那」の運命についてははかばかしい予言はせず,二人の旦那は破産したり実子に殺されたりするのである。
 白眼子は言う。「幸と不幸は皆等しく同じ量」なので,「必要以上の幸運を望めば」「すみに追いやられた小さな災難は大きな形で戻ってくる」。自分の能力についても「せいぜい小さな災難を小さな幸福に変えるぐらい」と言い,「災難は来る時には来る」ので「その災難をどう受け止めるのが大事」と主張する。多分,こういう台詞は誰しもどこかで聞いたことがあるものだろうが,それだけ素朴だが重要な人生訓=伝統的道徳観念であると言える。こういう哲学を持ち,周囲に対してセンシティブな神経を持った人物が古代におればキリストや仏陀のような宗教的主柱となったかもしれない(なだいなだ「神,この人間的なもの」(岩波新書)参照)。そして現代でも,こういう人物は,安らかな人生を送れるに決まっているのである。
 科学技術がどれほど進展しても,いや進展したからこそ,ワシらには分らないことが増えるばかりであり,予測不可能な未来が待ち構えていることは昔よりも明白となっている。となれば,日々の生活においては,太古から積み上げられてきた伝統的美習,「足を知る」とか「礼儀を重んじる」とといった生活習慣を重んじて生きていく他ない。たまに無軌道な振る舞いに及ぶことも「祭り」「ハレの日」という伝統に組み込まれた行事の頻度程度にしておくのがイイに決まっている。山岸の著したこの2作には,書物というものがワシらの日常生活において果たしてきた,こういった伝統的美習を伝えてきたという役割を再確認させてくれているように思えるのだ。

西炯子「ひとりで生きるモン!」3巻,徳間書店

[ Amazon ] ISBN 978-4-19-960412-6, \657
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 数年単位でチマチマとまとめられてきた本書,出る度にごくごく短い感想とも言えないつぶやきを書いてきたが,今年もまた,同じように自虐ネタを書くことになった。それは最後に取っておくとして,まずは,本書のタイトル「ひとりで生きるモン!」という,ひとりもの(=負け犬)が強がって叫んでいるような文句は,果たして平成の奇書(by 林真理子)・酒井順子の「負け犬の遠吠え」より先に出来たのかどうかを検証した結果をご報告したい。
 結論を簡潔に言うと,圧倒的に「ひとりで生きるモン!」の方が,「負け犬の遠吠え」より時期が早い。小学館パレット文庫しおりに「魂の叫び」の如き4コママンガが印刷されるようになったのは1997年11月から,単行本1巻が徳間書店から出版されたのは2003年1月(販売は2002年12月かも)。酒井順子がひとりものとしての生き方を肯定的かつ自虐的にIN☆POCKET誌上で描き始めたのは2002年1月号から,単行本にまとまって出版されたのが2003年10月,ちなみに文庫化されたのは2006年になってからである。
 つーことで,「負け犬」というひとりものの新たな概念提示より5年も前に,西炯子は「ひとりで生きるモン!」と強がりつつ,肩で風を切っていたのである。ひとりものの強がりをエンターテイメントにした先駆者として,大いに称揚しようではないか,負け犬諸君!
 ・・・ということで,本書に納められてるエキセントリックな4コマの紹介を兼ねて,ちみっとアレンジした4コママンガのシナリオをお届けする。適宜,西炯子の華麗なる描線を脳内に思い描きながら読んで頂きたい。
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「BLアプローチ大作戦」
 (1コマ目) ベッドにて,男子高校生がぼんやり考え事をしている。
 モノローグ:「彼女にアプローチするためには」「共通の趣味を見つけること・・・」
 (2コマ目) 授業中の教室にて。隣には彼女の座席がある。
 男子高校生:「・・・」
 (3コマ目) 同。
 男子高校生:「年上は受に決まっているよね」(ボソッと)
 (4コマ目) 同。
 両人,力強く握手。
 モノローグ:「やった!」「・・・のか?」
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「私の彼はムダマン」
 (1コマ目) ムダマン!(「ドギャーン!」という派手な擬音と共に決めポーズ)
 (2コマ目) 高校生のT.Kouyaが授業中に考え事をしている。
 モノローグ:「・・・・人生の目標・・・・」
 (3コマ目) 同。
 モノローグ:「・・・・安らかに過ごせる有料老人ホームに入ること・・・・」(←事実)
 (4コマ目) ムダマン!(「ズドーン!」)
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「life is beautiful」
 (1コマ目) 仕事中のT.Kouya。
 モノローグ:「酒もタバコもやらないし」「自炊の飯が一番うまい」
 (2コマ目) Web画面を見ながら和むT.Kouya。
 モノローグ:「本音のところ,彼女も必要ないし」「仕事してれば特に不満もない」「本当の癒しは女子ビーチバレー試合中の選手の写真」(「はぁ,いやされるぅ~」という台詞付き)
 (3コマ目) 天真爛漫な表情の学生のアップ。
 学生:「先生は,何が楽しくてそんな人生を過ごしているんですかぁ?」
 (4コマ目) コンパ中の一コマ,俯瞰で。
 モノローグ:「そんなことを無邪気に言いつつ」「全然単位が揃わないお前の×××を××することだよ」「と,言いたいが言わないよ」「大人になるってこういうことかも,T.Kouya,教師生活16年目」
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 「何が面白いのか全然分らない」という方は,本書を買って実物と触れることで理解をして頂きたい。
 「とても笑った。」という方は,本書を買ってもっと客観的な視点を作品から得て,更に爆笑して頂きたい。
 「T.Kouyaの人間性に疑問を持った」という方は,本書を買う以前に人間を観察する目を養って頂きたい。その上で本書を買って研鑽を深めて頂きたいものである。

なかせよしみ「でもくらちゃん」リュウコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-19-950136-4, \571
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 先日,友人から「お前はしぶとい」と言われた。
 最初は意味が分らなかったが,言われてみれば,確かにワシは結構しぶといかもしれない,と今更ながら思い当たった。24歳で就職し能登半島に飛ばされつつ仕事と平行してDr.取って6年,それから間もなく静岡の方に転職して10年,合計16年もの間,何だかんだ言ってもコンスタントにダメダメなものとはいえ,アカデミックキャリアを積み重ねてきたのだから,自分の能力に比して,まぁよくやってきた方だよなぁと,自分の書き散らしてきたものを眺めながらシミジミしてしまうのである。大体このblogにしたって,自分用のメモ代わりの日記であって,まさか人様から多数閲覧してもらうようになり,批判までして頂けるようになるとはついぞ思ったこともなかった。ましてや,顔見知りの方から「blog読んだよ!」と面と向かって言われて肩身の狭い思いをするなんて,想像の外である。・・・そっか,ワシは案外「しぶとい」人間なんだと,四十路を迎えてようやく会得したのである。
 しかし,世の中上には上がいる。ワシより5歳も年長,四十路後半にしてComicリュウの新人発掘コンテスト「第4回龍神賞」に応募し,見事審査員の一人である安彦良和の推薦を得て銅龍賞を獲得した,なかせよしみである。
 名前と自画像(の長く伸びた後ろ髪)から女性だとばっかり思っていたら,受賞コメントに「家内が喜びました」とあって,ありゃ男性だったか,と知ったのである。どーりでコミティア50thプレミアムブックに堂々と生年月日が書いてある訳だ。応募当時で44歳,現在は45歳になる「新人」は,しかし正確に言うと既に1999年にデビューして現在も連載も持っており,その意味から言えば立派なプロである。リュウ・大野編集長はコミティアでなかせの同人誌も継続してウオッチしていたようで,期待が高いせいか,応募作については「評価は余り高くない」「線・構図などが,この段階で固まってしまっていいのか,という気持ちがある」と述べている。もう一人の審査員,吾妻ひでおの評価も「SFとしてはありがち」と,「水準以上ではあるけど,もっとオリジナリティというか,この作家特有のクセみたいなものを見せてほしい」とあまり高くない。
 再(再々か?)デビュー作「うっちー3LDK」はComicリュウ2009年4月号に掲載されているが,ワシが読んだ限りは,安彦良和の意見も,大野編集長・吾妻ひでおの意見もそれぞれ正しいところを言い当てているように思える。多分,多数決を取ったら大野・吾妻の評価を支持する方が多いだろう。しかし,少数派かもしれないが,安彦のように,なかせ作品がツボにはまる読者が必ずいると思われるのだ。このあたりの機微を大野がすくい取ったのか,それとも本人に発破をかけるつもりなのかは知らねど,昔から同人誌・商業誌で書き継いできたシリーズをまとめた単行本を先駆け的に出版したのである。それが本作,「でもくらちゃん」である。
 昭和20年の終戦直後に出茂倉(でもくら)家には双子が生まれ,昭和42年にその双子がそれぞれまた双子を生み,この4人から平成に入って3人ずつの娘が生まれた。つまり,1×2×2×3 = 12ということで,ちょうど1ダースの,個別認識が本人達にもヘアバンドの力を借りなければ出来ない娘の集団ができたというのが本作の基本シチュエーションである。で,画面に12人の子供がわらわらとゴキブリのように這い回る・・・というと気持ち悪そうだが,かわいさもプラスされているから,雰囲気は異様なれど,まぁ,普通のシチュエーションコメディとして読むことは出来る。この1ダースの娘集団の謎は,単行本の最後当たりで明かされるのだが,このきちんとした「オチ」のつけかたは,とり・みきの単行本とよく似ている。長期間にわたってあっちこっちの媒体に掲載されたバラバラの短編を編んでみて,足りなそうな所を書き下ろしで埋めたら,うまい具合にまとまりがでた,そんな感じのウェルメイド単行本なのである。これは結構マニアックなツボを刺激しているように思えるので,アリの集団に萌えるタチの方にはお奨めしておきたい。
 個人的には本作より,今シリーズ連作になっている「うっちー3LDK」が単行本としてまとまる方が楽しみなのだが,果たして大野編集長は,せめて原稿が一冊分溜まるまでなかせよしみをComicリュウ誌上で泳がせてくれるのであろうか? ワシ同様,細いながらもしぶとく商業漫画界に踏みとどまってきたなかせに,ワシは共感を覚えずにはいられないのである。

水島新司「野球傑作選1 くそ暑い夏」ヤングジャンプコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-08-877651-4, \562
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 水島新司のマンガを購入して読むのは久しぶりだ。実家には叔母から譲り受けた「ドカベン」(チャンピオンコミックス)が揃っているが,読み返すことは余りない。大体頭に入っているし,読み出したら止まらなくなることが分っているからである。特に不気味な高知代表(土佐なんとか高校だったか)との死闘は一番心に残っているもので,あの憎たらしい笑い方をするチビが最後の最後でボールを取るところなぞは,思わず頑張れと心中で叫んでしまう・・・ああ,かように読むどころか語り出しても止まらなくなってしまうのである。
 加えて,近頃ようやく引退が決まった「あぶさん」(ビッグコミックス)なら,たいていどこのラーメン屋でも床屋でも病院の待合室でも揃っていたりするから,わざわざ購入して読む必要もない。どこから読み始めても,「ああ,あぶさんも歳だなぁ」とか,「ハゲチャビン親父がマンガに出てくれたら面白いのになぁ」(もう出ているかな?)などと思いながら楽しい時間を過ごすことが出来るのである。
 そう,水島新司のマンガは,日本人の親父ならなら誰しも一度は目にしたことのある普遍的な共有物であり,いつ読んでも期待を裏切られることのない希有なものなのである。
 久しぶりに読んでみようかとワシが手に取った本作は,ビジネスジャンプに連載されている短編シリーズである。共通するのは夏の甲子園球場で活躍する高校球児が主人公というのみ。一作ごとに異なるキャラクター達が,さわやかな活躍を見せてくれる。それでいて,老練なストーリー展開と描写力によって,一作一作が短編とは思えない程の読み応えがあるのだ。「短編小説とは人生の断面を切り取って提示するものである」ってのはどっかの作家が言ったことらしいが,水島のこの短編シリーズはまさしくそのお手本と言うべき,若い高校生達のみならず,周囲の大人達の人生の切り口も提示して豊かな世界を築き上げているのである。
 本作には,鈍くさいけどチームの要になる奴,心に負い目を持ったかつての剛速球投手,力量ではピカイチだが運や人間的魅力に欠ける奴,ちょっと間が抜けているけど巧みに試合を運んでいく奴等々が登場する。彼らが紡ぐ物語はとても魅力的で,そして唸るほど巧みに編まれている。今は日本各地にマンガを教える大学や専門学校があちこちにあるようだが,本作は実作の教科書として,すぐには到達し得ないけど目標とすべきものを次世代の作家達に提示してくれるものとワシは確信しているのである。

今野浩「すべて僕に任せてください 東工大モーレツ天才助教授の悲劇」新潮社

[ Amazon ] ISBN 978-4-10-314761-9, \1500
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 本書が世に出ちまって,東工大がひっくり返ってないかどうか,ワシはマジに心配しているのである。いや,本書が単なる「暴露本」なら,無視すればいい話なのだが,本書はそういうよくあるタイプのゴシップ集ではない。白川浩という,夭折したサブタイトル通りの「モーレツ天才助教授」(ただし,晩年は教授に昇進している)へのはなむけとしてのノンフィクション読み物なのである。しかも執筆者は「カーマーカー特許とソフトウェア」でワシを虜にした,数理計画法&金融工学(本人は「理財」工学と呼んでいるが,ここは通りのいい名前を使わせて頂く)の権威・今野浩。その今野がストレートな大学・学会・文科省とのやりとりといった内部事情を何のてらいもなく書きまくっているのだ。このドライブ感溢れる文章からは,「全てを正直に語らねばならぬ」という白川の執念が乗り移ったかのような情熱がほとばしっており,ワシは秋葉原から新幹線で掛川へ移動するまでの間,本書から一時も目を離すことができなかった。
 結論を言おう。
 本書は大傑作である。
 まるでエンターテイメントと見まごうばかりの「読ませる」文章の見事さ,そして,大学や学界に接したことがある人間なら誰しも知っている,建前に覆われた真の人間関係とシステムをぐうの音も出ないほど正確に描いた恐ろしいほどの誠実さは,本書が歴史に残る快著であることをイヤというほど知らしめてくれる。応用数理(応用「数学」でないことがポイント)学会やオペレーションズリサーチ学会の関係者なら,本書を苦笑や苦痛,そして白川という人物への同情なしに読むことは出来ない筈である。
 他の分野はよく知らないが,ワシが依拠する応用数理&情報処理の分野の,ことに一流どころの研究者という人たちは例外なくよく働いている。働きすぎて過労死じゃないのと思われるような夭折な方々も結構な頻度で見聞する程である。
 ワシがよく知る方は,ホントに死ぬんじゃないかというほど論文を書きまくり講演をしまくり研究会の座長だのなんだのと引き受けまくっていた。たまたま研究会で同じエレベーターに乗ったときに「そんなに仕事して倒れないんですか?」と聞いたら,「あ~,そろそろダメになるかもね~」といつもの調子で淡々と述べられたので呆れたことがある。幸いその方はまもなく定常状態で落ち着いたようで,日本の数値解析研究の先行きに暗雲が立ちこめることなく済んだのだが,ワシが見る限り,ホントに死ぬほど働いている方々は例外なく,頭もさることながら性格がイイ。図抜けて良い,というべきか。この世界のことだから,まぁ,頭の良い人間はザラにいる。しかし,本書でも今野が再三強調しているように,性格が良い人間はそうはいないのである。ワシのように,教授が研究室に訪ねてこようモンならあからさまにイヤな顔をして,「何の用ですか?」と地獄の底からにじみ出るような声で応答する人間が普通なのだ(いいすぎ?)。まぁ,そういう奴にはそんなに「雑用」は回ってこない。
 しかし前述した方や,白川浩のような「イヤと言えないいい人」のところには大量の仕事が回ってくる。研究会の幹事だの科研費プロジェクトのとりまとめだのという仕事の場合,その人しか勤められないというケースが多い。自身の研究もそこに載っかって進められていくことになれば,高い評価を受けるようになればなるほど仕事が仕事を呼ぶことになってしまう。結果として,評価の高い人間的にも優れた研究者には「体力」が必須のアイテムとなるのである。
 白川は東工大の助手時代,確率論を駆使した難解な金融工学の理論をドカドカと吸収し,世界の一流どころから認められる論文を書くまでに成長する。そして最期は東工大の金融工学研究の中心となるセンターの中核となって馬車馬のように働き,40代早々に経営システム工学科の教授になるのだが,既にそのときには病魔が本人の体をむしばんでいた。将来有望な白川だったが,業績の「量」という点ではイマイチだったのは,彼のキャリアにおいて多数の人間が白川の面倒見の良さにつけ込んであれこれ仕事を押しつけたことと,本人が生真面目すぎて仕事を一人で抱え込んでしまうということが原因だったようだ。研究テーマを与えて学生が仕上げた卒論や修論をベースに論文を書くことすら「搾取だ!」と拒否し続けていたというぐらい潔癖だった白川は,その純真さが徒となって,元々丈夫でなかった肉体を毀損することになってしまったのだ。今野はこのような白川の歩いてきたキャリアを,その才能に幾分かのジェラ心を抱きつつも,愛情を持って語っている。
 資金提供者にも上司に当たる教授にもアケスケな物言いをする白川に対しては軋轢も多かったが,一度懐に入ってしまえば悪意がないということが理解できるようで,友人や指導を受けた学生からは好かれていたようだ。その悪意のないストレートな意見を吐いてきた白川の人生を語る際に,教員採用基準はあくまで公募による公明正大なものだとか,論文査読はどのような研究者に対しても平等に開かれているとか,政府予算の配分は平等に行われるだのといった,誰しもそんなものは建前に過ぎないと分っている物言いを使うことは決して許されることではないし,建前で塗り固めてしまえば,そもそもなぜ前途有望な若手研究者が志し半ばで物故せねばならなかったかの説明が不可能になる。今野の文章に鬼気迫るストレートさが貫かれているのは,それこそが白川という人物を語る上では欠かせないアイテムだからなのだろう。
 それ故に,本書は一研究者の伝記という以上に,日本の,いや,世界の研究者世界というものがどのような人間くさいダイナミズムを抱えているのかを雄弁に物語っているのだ。物語りすぎて,ワシみたいな三流どころの研究者には耳の痛い文章も多いが,そこがまた本書の語りの「誠実さ」の証拠でもある。山口昌哉とか伊理正夫とか森口繁一といった,ワシにはなじみ深い大御所の名前がたくさん出ていることもさることながら,本書前半には,今野が筑波大から東工大へ異動した際に属した人文・社会学系の話も登場する。いや,大体知っては居たけど,教官のポストって,こんなに厳格に決まっているモンなんだなぁと,正直呆れる程である。何だか言いたいことが多すぎてうまくまとまらなくなってしまったが,兎にも角にも,本書は,「理工系研究者の世界ってこんなモンだよ」と説明するにはうってつけの真実の書であることは断言しておきたい。この方面の知識が皆無な読者にも,晦渋な技術の解説が皆無な本書は面白い読み物となる筈だ。
 だから東工大の皆様,本書に対してはご寛容かつ冷静な態度を取って頂きたく,切にお願い申し上げる次第であります。