おざわゆき「凍りの掌」Vol.1,Vol.2,Vol.3(完結), 同人誌&小池書院

[ 著者サイト ] 頒価 \1000(だったかな?)
[ Amazon ] ISBN 978-4-86225-831-1, \1238 (2012年6月発売)
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 終戦記念日なので,何かそれにちなんだものを取り上げようと思ったときに真っ先に思いついたのがこれである。ということで,ワシが大好きな同人作家・おざわゆきのシベリア抑留マンガをご紹介したい。
 太平洋戦争における日本の「敗戦」を考える切り口は,ほぼ出揃っているように思われる。政治面では天皇の統帥権を盾に,いわゆる「城下の誓い」に至らしめるまで,次から次へと内閣を翻弄してきた帝国陸軍の責任を第一に考えるべきであるし,しかしそれを支え続けたワシら国民の責任というものも同程度に考える必要がある。戦中,東京で少年時代を過ごした吉村昭は「私の文学漂流」で,世に認められるきっかけとなった作品「戦艦武蔵」の土台となった資料である「『武蔵』の建造日誌から立ち上る熱気」を受け,「私が少年時代に感じた戦時の煮えたぎっているような空気」を思い出して次のように述べている(P.217)。

 戦後,戦争は軍部が引き起こし持続したものだ,という説が唱えられ,それがほとんど定説化している。しかし,少年であった私の目に映じた戦争は,庶民の熱気によって支えられたものであった(太字はワシによる)。

 ナチス・ドイツ同様,そういうものが成立する土壌はポピュリズムにあるのだということは,洋の東西を問わない事実だ。しかし民主主義がそれなりに回っていくためにはポピュリズムの力を利用しなければならず,結局の所,政治家がその他大勢の国民を煽ったり騙したりなだめすかしたりしながら,ある程度長期的な観点に立って合理的な方向性を探っていくほかないというのもまた事実である。その意味では,ちょっと合理性を欠いた行動をし過ぎたな,と言わざるを得ない時期が昭和初期~20年8月15日ということになろう。そして,合理性を無視し続けた結果,敗戦後に国民が支払わねばらならなかった「代償」は,64年経った今に至るもワシら国民を色々な意味で「屈折」させ続けているのである。
 大きな「代償」の一つが,植民地・満州国崩壊によって引き起こされたものである。邦人引き上げの際の混乱によって残留孤児問題が引き起こされ,近年まで毎年のように肉親捜しが続けられたことは多くの人が記憶していよう。ワシが一番好きな竹宮惠子の作品は「紅にほふ」であるが,満州花柳界で育った3人姉妹(血は繋がってないが)それぞれの人生が時に優しく,時に残酷に描かれる入魂の作品である。当然,日本への引き揚げの苦労も描かれるが,この3姉妹はまだマシな方だったようで,悲惨きわまりない事件も多数あったこともちゃんとモノローグでは述べられている。残留孤児問題はそんな事件の一つであった。
 さて,満州国崩壊と共に,ここを実質的に抑えていた関東軍がソ連軍に連行されてシベリアで過酷な肉体労働をさせられるということが起こった。これがシベリア抑留事件である。本書は著者の父が体験したこの抑留経験に基づいた漫画作品である。
 つげ義春の作品を表して,赤瀬川原平は「悲惨な町の安全運転」と言った。けだし名言である,とワシは感じた。その意味は「つげ義春コレクション 大場電気鍍金工業所/やもり」の解説を読んで頂きたいが,おざわゆきのシリアス作品も,意味は多少違えど「悲惨な町の安全運転」めいたところがあるように思えるのだ。
 おざわゆきの作品については,竹宮惠子が的確な解説をしているので,まずはそれを引用しておこう(「竹宮惠子のマンガ教室」筑摩書房,P.199)。

 絵は三頭身ぐらいのバランスで,卵のような丸い顔の中に,大きな目が半分くらい描いてある,全然シリアスな雰囲気じゃない絵なのに,その絵のまま,戦争で難民になってしまって,放浪している間に自分の身を売って家族を助けていく,というドラマチックな話を,こんな薄い同人誌の中で描いている人がいるんです。本当に枝葉の部分を全部そぎ落として,話の骨子だけを伝えているんですけれど,それはそれですごいというか,読んでしまえばすごいドラマだった,そういう描き方をする人もいるんですね。

 今なら西原理恵子に似た画風,といえば当たらずといえども遠からず,ではあるが,納得して頂ける方が多いだろう。ただ,叙情と根性に頼った短編が多いサイバラと決定的に違うのは,竹宮が言うように,おざわは骨太で重厚なドラマを展開するストーリーテラーであることだ。そしてその物語は悲惨な状況であっても,パンドラの箱に唯一残った「希望」を感じさせるものである。これはオザワ流の「安全運転」=「ハッピーエンド」なんだろうなぁと思えるのである。ワシは宗教には全く疎いのだけれど,業田良家の「自虐の詩」の幸江が辿り着いた境地と同じ,「悟り」というものがオザワにもサイバラにも共通してあるような気がしているのである。そしてそれは悲惨さが自尊心をズタズタにするような経験によって得た,いつまでも尾を引く疼痛を抱えたものであるように思えるのである。
 オザワ作品は以前,「才能とは何か?」というテーマで谷口ジロー作品とまとめて論じたが,ワシはあの作品,かなり実体験に即したものだと思い込んでいるのである。で,ワシの感性をヒリヒリと刺激した,あの作品に描かれた世間との軋轢は,現在でも大なり小なり,誰しも世間に出る時には感じさせられる通過儀礼なのだと気がついた。
 現代は教育の場であれ会社であれ役所であれ,効率化を求められる時代である。故に,誰しも他人から「評価」されることになる。客観性のある評価であれば個人はそれに従うほかなく,自尊心との齟齬がどうしても生じてしまう。それに甘んじるのか不満を述べ立てるのか,評価を上げる努力をし続けるのかは人それぞれであるが,ある程度飯が食える状況に持って行ければそれなりの「悟り」の境地に達することが出来る。しかしそこに至るまでには通過儀礼としての「痛み」が誰にでも生じざるを得ない。優れた作家はその痛みを読者に「共感」させ,一種のコミュニケーションツールとして利用し,自分の表現を伝えるのである。BSマンガ夜話用語である「あざとい」というタームも,多くの読者にこの共感作用を呼び起こしたという肯定的な意味で使われているが,その意味ではオザワも十分「あざとい」作家であると言えよう。
 そう考えると,父君の体験とは言え,シベリア抑留をテーマに作品を創ったおざわゆきの意図は明白である。作家の直感として,これは自分の持つ資質と呼応するテーマだと断じたのだ。自分が描くべき物語だと,135ページものネームをバリバリと切っていったのである。本作は,右翼がソ連の横暴さを非難するためのものでなく,左翼が戦争の悲惨さ/愚かさを訴えるためのものでもないのだ。ただ,オザワが描くべき作品だったというものなのである。
 それ故に本作は,誤解を恐れずに言うが,面白い作品なのだ。井伏鱒二の「黒い雨」が優れた文学作品であるという以上に,面白い作品であるのと同じ意味で,エンターテインメントとして優れているのである。
 いしかわじゅんは「いわゆる反戦漫画とか戦争漫画を」「あまり読まない」と言う。その理由はこうだ(「秘密の本棚」小学館,P.369)。

その多くが,苦しいと描いてしまうからだ。痛いと,辛いと,悲しいと描いてしまうからだ。現実の大きさに甘えて寄りかかり,表現することから逃げてしまっているものが多いからだ。
 大きな事件があって,それを克明に描いていけば物語の形にはなる。傷を負って痛いと描けば,痛みはわかる。愛する人を失って悲しいと描けば,もちろんそれは伝わる。しかし,それは表現ではない。

 これを耳が痛いと感じる人もいよう,ヒドイ言いぐさだ,戦争の悲惨さから目を背ける口実に過ぎないという人もいよう。
 しかし戦後64年も経っているのだ。直接その被害を受けた当事者が言うならともかく,間接的にその話を聞き取り,それを「表現」しようというのであれば,少なくともそれをどのように読者に伝えるべきかは表現する者が真剣に考えるべきだ,と,いしかわじゅんは主張しているのだ。ワシはこの意見を支持する。
 おざわゆきが書き下ろした本作が,いしかわじゅんの言う「表現」になっているか,と言えば,いしかわの意見は知らねど,ワシ自身は十分それに叶っていると,この2冊を読む限りは断言する。抑留そのものが国際法に則って正しいとはとても言えないことぐらいは主張しても良さそうだが,それもかなり抑制的。ソ連兵による扱いが非道であることを声高に主張することもあまりなく,ひたすら過酷な収容所生活が描かれるだけだ。それはオザワが描くべき所がそこにあるからなのであって,別紙でオザワが主張するように,シベリア抑留を告発することが目的ではないからである。そしてこの重苦しい,いつ終わるとも知れぬ極寒の地における過酷な労働生活は,「読ませる」物語になっているのである。
 本作は3部作だそうで,多分今年(2009年)には完結すると思われるが,ワシはまだ未見である。それを楽しみにしている,というと悪趣味なようだが,面白い作品なのだからしゃーないではないか。大体,戦争漫画が面白くて何が悪いか,とワシはいしかわじゅんに成り代わって叫びたいぐらいだ。まぁそのうちどっかのプロパガンダに利用される可能性はあるけど,そうなったらなったで良いではないかとも思うのだ。たとえ思想のフィルタがかかっても,物語の面白さに違いはないのだから,どーせ使われるなら面白いものの方がイイに決まっている。原爆の悲惨さを伝える作品として丸木位里・俊の絵が今も流通しているのも,圧倒的な迫力があってのことだ。吉村の言う「煮えたぎるような熱気」の源泉を肯定的に描いた小林よしのりの「新ゴーマニズム宣言 戦争論」がベストセラーになったのも,左翼の反発を呼び起こすだけの圧倒的な表現のエネルギーがあったればこそだ。「表現」として優れていて,ワシの共感を呼び起こす「あざとさ」を持つものであるなら,ワシは積極的にその作品を支持していきたいと思っているのである。そして優れた「表現」が右にも左にも氾濫することで,「屈折」が複雑さを増して強固な地盤となり,現代日本の長い「戦後」が豊かになるとワシは信じているのである。
 是非とも完結した本作を読んで,このエントリにその感想を追加したいと念願しつつ,コミケにも行けずにいじけている終戦記念日のワシなのである。11月のコミティアか年末のコミケには何としても出かけて3作目を読みたいぃ~ぞ~っと,オスの負け犬が掛川から遠吠えをお届けした次第である。
[2010-09-01 追記] 2010年8月15日付で完結編のVol.3が発行され,ワシは8月29日のコミティアにて入手した。3冊の中で一番分厚く,111ページの力作。収容所での共産主義洗脳活動のリアルな描写があって,骨組みとしての知識はあったものに「肉付け」される感じがして,このVol.3だけ取り出しても十分「面白く」読むことができた。
 刊行が一年遅れたこともあって,民主党政権のもと,「戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)」が2010年6月に成立(朝日新聞)。洗脳された帰国者の共産主義活動が問題視されたことも,成立が遅れた原因であるらしい。そのことの是非は置いておくとして,ちょうど法律が成立した年に本書が刊行されたのは,意図せぬ偶然とはいえ,救済に間に合わずに亡くなった抑留者の慰霊としても相応しい。
[2012-06-26 追記] 小池書院から3冊分の同人誌を纏めた単行本が刊行されたので,そのデータを追加した。

山岸凉子「押し入れ」講談社,同「白眼子」潮漫画文庫

押し入れ [ Amazon ] ISBN 978-4-06-375680-7, \648
白眼子 [ Amazon ] ISBN 4-267-01740-9, \571
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 夏なので怪談ものをご紹介・・・と思ったのだが,ワシはドーモここんとこ,怪談とは相性が悪い。何年か前は,「ほぼ日の怪談」に集まった投稿を読んで結構怖い思いをしていたのだが,先日読んでみたら,怖いという以前に,怪談の構成があまりにも良くできていることの気がついてしまい,どっと白けてしまった。それもこれも稲川淳二が悪い。というより,口コミで伝承され素朴に怖がっていた民間伝承である「トイレの花子さん」的怪談を商売のネタとして取り上げ,ワシらに消費させ続けてきたマスコミが悪いのである。ああいうものは,そもそもワシら日本人の土俗的な道徳観念に根ざしたものであり,因果が巡って人に祟ったり,恨みを持って亡くなった人が化けて出たりする話を聞くと,そこがじわっと刺激されて怖くなるというものなのだ。日常生活においては,ごくたまに,しかも整理されていないしゃべりを通じて聞くからいいのであって,マスコミから工業製品のごとく整理され演出されて出てきたものは,あくまでエンターテインメントの要素のみを取り出したものでしかなく,土俗的精神構造をチクチクする怪談とは別物なのである。
 山岸凉子の「押し入れ」は,その点,きちんと「因果応報」を踏まえた短編が納められていて,どれもこれも普通に怖い。単に怖いだけではなく,「ああ,こういうことをしちゃいけないな」という気も起こさせてくれるほど,本書に収められている4つの短編は古いタイプの民間伝承に基づいたストーリーになっている。「夜の馬」では薬害を引き起こした大御所の医者が地獄に引きずり込まれるし,「メディア」では子供に執着しすぎた母親が現実に子供に「祟る」し,表題作「押し入れ」は美内すずえのアシスタントが経験した,よくあると言えば良くある「事件」をネタにしているし,最後の「雨女」では,次から次へと女性を食い物にしていく男が「因果」を引き摺っていく様が描かれている。怖い思いをして読了した後には,「悪いことはしないほうがいいな・・・」と身に染みて感じさせる土俗的作用があるのだ。もちろん,山岸独特の儚げな描線と吸い込まれそうな白いバックの作用によるところも大きいのだろうが,それよりも山岸自身の,とても素朴だが太古から積み上げられてきた,誰しも共通して持っている伝統的道徳観念への敬意というものが大きいように思われる。
 山岸の,道徳観念への敬意は「白眼子」を読むとよく分る。ワシはこの作品が今はなき「コミックトムプラス」に連載されていたのをリアルタイムで読んでいたのだが,戦後の札幌が舞台ということもさることながら,戦争孤児だった主人公を狂言回しにして語られる,不思議な能力を持つ盲目の「白眼子」という人物の持つ土俗的思想に感動したことを今でも覚えている。いわゆる「霊能者」という部類に入るのだろうが,依頼人のごく素朴な願望,死んだ息子の今際の様子を知りたいとか,死んだ母親の成仏状況を知りたいという要望にはきちんとした回答を与える一方,白眼子の姉の「旦那」の運命についてははかばかしい予言はせず,二人の旦那は破産したり実子に殺されたりするのである。
 白眼子は言う。「幸と不幸は皆等しく同じ量」なので,「必要以上の幸運を望めば」「すみに追いやられた小さな災難は大きな形で戻ってくる」。自分の能力についても「せいぜい小さな災難を小さな幸福に変えるぐらい」と言い,「災難は来る時には来る」ので「その災難をどう受け止めるのが大事」と主張する。多分,こういう台詞は誰しもどこかで聞いたことがあるものだろうが,それだけ素朴だが重要な人生訓=伝統的道徳観念であると言える。こういう哲学を持ち,周囲に対してセンシティブな神経を持った人物が古代におればキリストや仏陀のような宗教的主柱となったかもしれない(なだいなだ「神,この人間的なもの」(岩波新書)参照)。そして現代でも,こういう人物は,安らかな人生を送れるに決まっているのである。
 科学技術がどれほど進展しても,いや進展したからこそ,ワシらには分らないことが増えるばかりであり,予測不可能な未来が待ち構えていることは昔よりも明白となっている。となれば,日々の生活においては,太古から積み上げられてきた伝統的美習,「足を知る」とか「礼儀を重んじる」とといった生活習慣を重んじて生きていく他ない。たまに無軌道な振る舞いに及ぶことも「祭り」「ハレの日」という伝統に組み込まれた行事の頻度程度にしておくのがイイに決まっている。山岸の著したこの2作には,書物というものがワシらの日常生活において果たしてきた,こういった伝統的美習を伝えてきたという役割を再確認させてくれているように思えるのだ。

西炯子「ひとりで生きるモン!」3巻,徳間書店

[ Amazon ] ISBN 978-4-19-960412-6, \657
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 数年単位でチマチマとまとめられてきた本書,出る度にごくごく短い感想とも言えないつぶやきを書いてきたが,今年もまた,同じように自虐ネタを書くことになった。それは最後に取っておくとして,まずは,本書のタイトル「ひとりで生きるモン!」という,ひとりもの(=負け犬)が強がって叫んでいるような文句は,果たして平成の奇書(by 林真理子)・酒井順子の「負け犬の遠吠え」より先に出来たのかどうかを検証した結果をご報告したい。
 結論を簡潔に言うと,圧倒的に「ひとりで生きるモン!」の方が,「負け犬の遠吠え」より時期が早い。小学館パレット文庫しおりに「魂の叫び」の如き4コママンガが印刷されるようになったのは1997年11月から,単行本1巻が徳間書店から出版されたのは2003年1月(販売は2002年12月かも)。酒井順子がひとりものとしての生き方を肯定的かつ自虐的にIN☆POCKET誌上で描き始めたのは2002年1月号から,単行本にまとまって出版されたのが2003年10月,ちなみに文庫化されたのは2006年になってからである。
 つーことで,「負け犬」というひとりものの新たな概念提示より5年も前に,西炯子は「ひとりで生きるモン!」と強がりつつ,肩で風を切っていたのである。ひとりものの強がりをエンターテイメントにした先駆者として,大いに称揚しようではないか,負け犬諸君!
 ・・・ということで,本書に納められてるエキセントリックな4コマの紹介を兼ねて,ちみっとアレンジした4コママンガのシナリオをお届けする。適宜,西炯子の華麗なる描線を脳内に思い描きながら読んで頂きたい。
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「BLアプローチ大作戦」
 (1コマ目) ベッドにて,男子高校生がぼんやり考え事をしている。
 モノローグ:「彼女にアプローチするためには」「共通の趣味を見つけること・・・」
 (2コマ目) 授業中の教室にて。隣には彼女の座席がある。
 男子高校生:「・・・」
 (3コマ目) 同。
 男子高校生:「年上は受に決まっているよね」(ボソッと)
 (4コマ目) 同。
 両人,力強く握手。
 モノローグ:「やった!」「・・・のか?」
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「私の彼はムダマン」
 (1コマ目) ムダマン!(「ドギャーン!」という派手な擬音と共に決めポーズ)
 (2コマ目) 高校生のT.Kouyaが授業中に考え事をしている。
 モノローグ:「・・・・人生の目標・・・・」
 (3コマ目) 同。
 モノローグ:「・・・・安らかに過ごせる有料老人ホームに入ること・・・・」(←事実)
 (4コマ目) ムダマン!(「ズドーン!」)
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「life is beautiful」
 (1コマ目) 仕事中のT.Kouya。
 モノローグ:「酒もタバコもやらないし」「自炊の飯が一番うまい」
 (2コマ目) Web画面を見ながら和むT.Kouya。
 モノローグ:「本音のところ,彼女も必要ないし」「仕事してれば特に不満もない」「本当の癒しは女子ビーチバレー試合中の選手の写真」(「はぁ,いやされるぅ~」という台詞付き)
 (3コマ目) 天真爛漫な表情の学生のアップ。
 学生:「先生は,何が楽しくてそんな人生を過ごしているんですかぁ?」
 (4コマ目) コンパ中の一コマ,俯瞰で。
 モノローグ:「そんなことを無邪気に言いつつ」「全然単位が揃わないお前の×××を××することだよ」「と,言いたいが言わないよ」「大人になるってこういうことかも,T.Kouya,教師生活16年目」
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 「何が面白いのか全然分らない」という方は,本書を買って実物と触れることで理解をして頂きたい。
 「とても笑った。」という方は,本書を買ってもっと客観的な視点を作品から得て,更に爆笑して頂きたい。
 「T.Kouyaの人間性に疑問を持った」という方は,本書を買う以前に人間を観察する目を養って頂きたい。その上で本書を買って研鑽を深めて頂きたいものである。

なかせよしみ「でもくらちゃん」リュウコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-19-950136-4, \571
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 先日,友人から「お前はしぶとい」と言われた。
 最初は意味が分らなかったが,言われてみれば,確かにワシは結構しぶといかもしれない,と今更ながら思い当たった。24歳で就職し能登半島に飛ばされつつ仕事と平行してDr.取って6年,それから間もなく静岡の方に転職して10年,合計16年もの間,何だかんだ言ってもコンスタントにダメダメなものとはいえ,アカデミックキャリアを積み重ねてきたのだから,自分の能力に比して,まぁよくやってきた方だよなぁと,自分の書き散らしてきたものを眺めながらシミジミしてしまうのである。大体このblogにしたって,自分用のメモ代わりの日記であって,まさか人様から多数閲覧してもらうようになり,批判までして頂けるようになるとはついぞ思ったこともなかった。ましてや,顔見知りの方から「blog読んだよ!」と面と向かって言われて肩身の狭い思いをするなんて,想像の外である。・・・そっか,ワシは案外「しぶとい」人間なんだと,四十路を迎えてようやく会得したのである。
 しかし,世の中上には上がいる。ワシより5歳も年長,四十路後半にしてComicリュウの新人発掘コンテスト「第4回龍神賞」に応募し,見事審査員の一人である安彦良和の推薦を得て銅龍賞を獲得した,なかせよしみである。
 名前と自画像(の長く伸びた後ろ髪)から女性だとばっかり思っていたら,受賞コメントに「家内が喜びました」とあって,ありゃ男性だったか,と知ったのである。どーりでコミティア50thプレミアムブックに堂々と生年月日が書いてある訳だ。応募当時で44歳,現在は45歳になる「新人」は,しかし正確に言うと既に1999年にデビューして現在も連載も持っており,その意味から言えば立派なプロである。リュウ・大野編集長はコミティアでなかせの同人誌も継続してウオッチしていたようで,期待が高いせいか,応募作については「評価は余り高くない」「線・構図などが,この段階で固まってしまっていいのか,という気持ちがある」と述べている。もう一人の審査員,吾妻ひでおの評価も「SFとしてはありがち」と,「水準以上ではあるけど,もっとオリジナリティというか,この作家特有のクセみたいなものを見せてほしい」とあまり高くない。
 再(再々か?)デビュー作「うっちー3LDK」はComicリュウ2009年4月号に掲載されているが,ワシが読んだ限りは,安彦良和の意見も,大野編集長・吾妻ひでおの意見もそれぞれ正しいところを言い当てているように思える。多分,多数決を取ったら大野・吾妻の評価を支持する方が多いだろう。しかし,少数派かもしれないが,安彦のように,なかせ作品がツボにはまる読者が必ずいると思われるのだ。このあたりの機微を大野がすくい取ったのか,それとも本人に発破をかけるつもりなのかは知らねど,昔から同人誌・商業誌で書き継いできたシリーズをまとめた単行本を先駆け的に出版したのである。それが本作,「でもくらちゃん」である。
 昭和20年の終戦直後に出茂倉(でもくら)家には双子が生まれ,昭和42年にその双子がそれぞれまた双子を生み,この4人から平成に入って3人ずつの娘が生まれた。つまり,1×2×2×3 = 12ということで,ちょうど1ダースの,個別認識が本人達にもヘアバンドの力を借りなければ出来ない娘の集団ができたというのが本作の基本シチュエーションである。で,画面に12人の子供がわらわらとゴキブリのように這い回る・・・というと気持ち悪そうだが,かわいさもプラスされているから,雰囲気は異様なれど,まぁ,普通のシチュエーションコメディとして読むことは出来る。この1ダースの娘集団の謎は,単行本の最後当たりで明かされるのだが,このきちんとした「オチ」のつけかたは,とり・みきの単行本とよく似ている。長期間にわたってあっちこっちの媒体に掲載されたバラバラの短編を編んでみて,足りなそうな所を書き下ろしで埋めたら,うまい具合にまとまりがでた,そんな感じのウェルメイド単行本なのである。これは結構マニアックなツボを刺激しているように思えるので,アリの集団に萌えるタチの方にはお奨めしておきたい。
 個人的には本作より,今シリーズ連作になっている「うっちー3LDK」が単行本としてまとまる方が楽しみなのだが,果たして大野編集長は,せめて原稿が一冊分溜まるまでなかせよしみをComicリュウ誌上で泳がせてくれるのであろうか? ワシ同様,細いながらもしぶとく商業漫画界に踏みとどまってきたなかせに,ワシは共感を覚えずにはいられないのである。

水島新司「野球傑作選1 くそ暑い夏」ヤングジャンプコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-08-877651-4, \562
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 水島新司のマンガを購入して読むのは久しぶりだ。実家には叔母から譲り受けた「ドカベン」(チャンピオンコミックス)が揃っているが,読み返すことは余りない。大体頭に入っているし,読み出したら止まらなくなることが分っているからである。特に不気味な高知代表(土佐なんとか高校だったか)との死闘は一番心に残っているもので,あの憎たらしい笑い方をするチビが最後の最後でボールを取るところなぞは,思わず頑張れと心中で叫んでしまう・・・ああ,かように読むどころか語り出しても止まらなくなってしまうのである。
 加えて,近頃ようやく引退が決まった「あぶさん」(ビッグコミックス)なら,たいていどこのラーメン屋でも床屋でも病院の待合室でも揃っていたりするから,わざわざ購入して読む必要もない。どこから読み始めても,「ああ,あぶさんも歳だなぁ」とか,「ハゲチャビン親父がマンガに出てくれたら面白いのになぁ」(もう出ているかな?)などと思いながら楽しい時間を過ごすことが出来るのである。
 そう,水島新司のマンガは,日本人の親父ならなら誰しも一度は目にしたことのある普遍的な共有物であり,いつ読んでも期待を裏切られることのない希有なものなのである。
 久しぶりに読んでみようかとワシが手に取った本作は,ビジネスジャンプに連載されている短編シリーズである。共通するのは夏の甲子園球場で活躍する高校球児が主人公というのみ。一作ごとに異なるキャラクター達が,さわやかな活躍を見せてくれる。それでいて,老練なストーリー展開と描写力によって,一作一作が短編とは思えない程の読み応えがあるのだ。「短編小説とは人生の断面を切り取って提示するものである」ってのはどっかの作家が言ったことらしいが,水島のこの短編シリーズはまさしくそのお手本と言うべき,若い高校生達のみならず,周囲の大人達の人生の切り口も提示して豊かな世界を築き上げているのである。
 本作には,鈍くさいけどチームの要になる奴,心に負い目を持ったかつての剛速球投手,力量ではピカイチだが運や人間的魅力に欠ける奴,ちょっと間が抜けているけど巧みに試合を運んでいく奴等々が登場する。彼らが紡ぐ物語はとても魅力的で,そして唸るほど巧みに編まれている。今は日本各地にマンガを教える大学や専門学校があちこちにあるようだが,本作は実作の教科書として,すぐには到達し得ないけど目標とすべきものを次世代の作家達に提示してくれるものとワシは確信しているのである。