小島貞二「高座奇人伝」ちくま文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-480-42615-4, \950
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 古谷三敏「寄席芸人伝」を読んで以来,芸人のエピソード集で面白そうなものがあれば読むようにしている。芸人・学者・教師には奇人変人が多いと言われているが,実際その通りで,ことに現代のようにモラルのない人間があっという間に排除されるようになる前は,よくもまぁこんな生活ぶりができたモンだと呆れかえる事例が結構ある。実際,これが身近な知人とか肉親に居たならたまらないだろうが,火の粉の降りかからない距離から遠目で見ている限りは,「ああまたやってるよ」と気楽な見せ物のように楽しめる。もちろん,「楽しめる」なんてものではないレベルまで逝っちゃっうこともあって,本書で言うなら「気○い馬楽」の生活ぶりがそれにあたる。そんなトンでもない噺家でも,死んだ後で二十日祭が開かれたり,故人を偲ぶ地蔵まで造られるんだから,人の評価ってのはスッキリといかないもんだなぁとシミジミ思う。
 本書は1979年に出版されたものを文庫化したものである。時期的に見て,多分,寄席芸人伝のネタもとの一つじゃないかなあと想像する。実際,「気○い馬楽」も含めて,「あ,これはあの話に出てきたエピソードだ」と気がついたものが結構ある。さすがウンチクマンガを標榜するだけあって,古谷先生,勉強していたんだなぁと感心する。もちろん,エピソードがそのままストーリーになっているわけではなく,きっかけとして使っているものばかりである。
 本書は,初代三遊亭円遊,三代目蝶花楼馬楽と同時代の柳家小せん(「め○らの小せん」),柳家三亀松,二代目三遊亭歌笑の評伝を中心に,小さな噺家・芸人のエピソード集を挟んで編まれている。単純に面白い小説としてではなく,噺家がその時代にどんな芸を見せ,それが現代にどのように繋がっているかも記してある点,歴史読み物としても役に立つようになっている。が,中心はやっぱり噺家の生き様と死に様だ。その中でも,やはり馬楽のそれは図抜けている。
 芸人として優れていたことは本書の中核であるこの五人に共通している。しかし,女性からはもてなかった円遊は円満な夫婦生活を送り,道楽が過ぎて三十路になった途端に失明した小せんも夫人に助けられて有料落語指南所を営み,三亀松は遊びに狂っても最後は夫人に看取られて死に,歌笑は夫人にぞっこんだったことを考えると,この四人は常識人と言えるが,馬楽の晩年は完全に破綻している。最初の師匠をしくじって破門になるわ,博打中に警察に捕まって監獄にぶち込まれるわ,生き別れになった妹を取り戻した途端に売り飛ばすわ,あげくに頻繁な吉原通いが祟って明治末に発狂する。何度か発作を起こして入退院を繰り返した後,肉親にも見放され,最後の頼みの吉原(最後の頼みがこれかよ)も炎上し,失意と孤独のうちに五十一歳で死ぬ。まぁ,今なら妹を売り飛ばした時点で犯罪人だ。それも東北の貧しい農家がやむを得ず,というのとは正反対で,単純に遊び金欲しさというんだから,非道というほかない。
 それでも死後に故人を偲ぶ集まりがあったり,馬楽地蔵ができたりするのは何故なのか? 芸人として優れていたことは確かだが,愛される要素があったからとしか言いようがない。そしてその要素は,この破綻した生活ぶりにあるのだ。
 馬楽にはもう一つ,インテリという側面もあった。仲間から蚊帳を買うために集めた金を「三国志」の本を買うために使ってしまう。そして狂ってからも漢詩を書いちゃったりするのだ。こういうメンを勘案すると,総じて「その知己やよし」と,芸人仲間からは愛されていたとしか言いようがない。
 おもしろうてやがて悲しき・・・というのは,破滅型芸人の人生を描写したような文句である。本書の表紙は南伸坊の,一見ユーモラスな噺家の絵だが,本書を一読した後に見ると,ピントの定まっていない描線と出っ歯が目立つ大口が何やら不気味な印象を与えている・・・ように見えてしまう。本書で小島が語った芸人,特に馬楽は,非道な馬鹿,と一言では片付けられない人間に潜む魑魅魍魎を体現しているように思えてならない。

小林よしのり「ゴーマニズム宣言Special 天皇論」小学館

[ Amazon ] ISBN 978-4-09-389715-0, \1500
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 先ほど,この記事を書くためにAmazonの情報を見ていたら,売り上げ順位23位(2009-06-23現在)だった。村上春樹ほどではないけど,相変わらず売れてるなぁ~と感心。熱心な小林よしりんファンの存在に加えて,「天皇」を真っ正面に据えたタイトルと内容だから,人目を引くのは必然ではある。でまぁ,そーゆー内容の本を買い込む人種にはさわやかな読後感を与えてくれるとなれば,この順位も妥当なんだろうなぁ。
 ワシがゴー宣を愛読していたのは幻冬舎時代の「わしズム」初期の頃までである。以前にも何度か書いている通り,小林の「思想」が固まってきてからは,同じ文句の繰り返しを聞かされているような記述が増え,その精神には共感するものの,エンターテインメントとして楽しみたい人間には説教臭く感じるようになって次第に距離を置くようになってしまったのだ。
 以来,ゴー宣の連載をまとめた単行本は完全スルー,「沖縄論」や,イデオロギー臭皆無の「目の玉日記」を読む程度のおつきあいになってしまった。逆にA級戦犯無罪論なんてのはちょっとなぁ・・・と完全に読む気が失せたものである。東京裁判そのものは問題が多いとはいえ,敗戦の責任の所在を霧散霧消させるような論にお付き合いする気はなかったからである。
 ・・・と,自分と小林とのお付き合いを振り返ってみると,ワシが年を取るごとに共感の度合いが薄れていき,是々非々的な読み方をするようになってきたことに気がついた。それでも根本部分の所でワシの精神と共通するところが今も多く,何だかんだ言って,このblogでの「ワシ」という言い方も含めて,随分と小林よしりんには育ててもらったんだなぁとシミジミ思う。どうもお世話になりました。
 で,今回の「天皇論」である。
 ワシが高校生か大学生の時,天皇暗殺をテーマとするフィクションが話題となったことがあった。ワシも読んでみたけど,期待したほどのスリルもサスペンスもなく,「で,暗殺が成功したらどうなるの?」という疑問だけが残る,ワシにとっては豆腐のような作品だった。多分,「天皇」という言葉に反感を抱く向きにはカタルシスを与えるものだったんだろうが,普段のワシの生活には殆ど関わりを感じさせない存在に対してそんな感情をワシが持てるはずもない。本書でも触れられている,初期ゴー宣「カバ焼きの日」を単行本で読んだ時にも,何が問題なのかさっぱり分らず,「不敬だとか言って出版社に押しかける人間を恐れてのことか?」程度の認識しかなかった。ロイヤル爆弾なんて大して面白いギャグとも思わんかったし。
 つまりは,本書の序章で描かれている若い頃の小林と同じ程度の認識しか,「天皇」という存在には持っていなかったのである。小林と異なるのは,今もあまり変わらず,当今のむつまじい夫婦のお姿を見て,「結婚ってのもいいもんなんだろうなぁ」と思わせる程度の敬愛しかない。・・・何かすげー不敬なことを書いているような気がしてきたが,ホントなんだからしゃーない。
 さて本書では「天皇」というのが日本にとってどんな存在なのか,歴史的経緯と,特に昭和天皇と当今の事跡を辿りながらネッチリと約380ページを費やして語っている。天皇が歴代権力者に一種の免状を発行して生き残ってきたということは,みなもと太郎「風雲児たち」でも語られていてよく承知されている事実だろうが,小林の論ではそこが,皇帝ごと移り変わってきた中国と異なり,日本において大殺戮が起こらなかった理由だと熱く語るのだ(第17章)。この辺,ワシはちょっと違和感があり,大殺戮が起きづらい風土だったから天皇も廃されずに残ってきたのでは?・・・と思うところもある。
 他にも,「うーん・・・?」と感じるところがあって,全面的に賛成と言いかねるところがある。それでも全体的に,小林が「天皇」に関する事跡や論を集めて紡いだ熱くて厚い「物語」には,やっぱり感動してしまうのである。50を過ぎて洗練された絵を維持し,SAPIO誌連載分と同量以上を書き下ろして繋がりに違和感を持たせない本書は,語られている内容とともにこの「物量」をもって人を圧倒してしまう力がある。その意味で,やっぱり小林は希有な力量を持つ漫画家であることは間違いない。ホント,50過ぎてよくこんなに描けるよなぁ~。
 本書では特に原武史が批判されているので,ワシみたいに小林の「物語」に違和感を持つ向きは読む価値があるような気がする(まだ未読)。読んだ結果,論としては本書を蹴飛ばすことになるかもしれない。ただ,蹴飛ばすにしても受容するにしても,ワシにとっては重要な楔を打たれたことだけは確かなようである。
 しかしまぁ,400ページ近い単行本が1500円か。安いよなぁ・・・最初から「売れる」という見込みがなければこの価格にはなるまい。現状では小学館のこの見込み,ばっちり当たっていると言わざるを得ない。蛇足ながら,愛国的商売の上手な小学館の営業戦略の確かさにも感服しておこう。

小谷野敦「東大駒場学派物語」新書館

[ Amazon ] ISBN 978-4-403-23113-1, \1800
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 本書を読了し,つくづく感じたのは

小谷野先生,フケましたねぇ~!

ということである。もう少し穏当な言い方をすると,「老成した」ということになろうか。いや,ワシもあと七年したらこういう境地に辿り着きたいものだ,と,本気で思っているのである。
 ワシは小谷野に言わせれば三流大学の出であるから,東京大学というエリート様の集う大学のことをワシの経験から類推すると怒られるのかぁと昔は常々思っていた。が,一応学者になって十数年経ってみると,東大出といってもいろんな人がいて,大学出てから十年スパンでがんがん活躍している人というのはそんなにいないということが分ってきた上に,まぁ大学というもののめんどくさい人間関係は似たところがあるんだなぁということも知るようになってきたから,本書に綴られている教員同僚間,師弟間のいざこざについては「あんな感じか」と具体的事例に当てはめつつ解釈してもいいだろうと判断しているのである。で,そーゆー経験を経てから読むと,本書は真に面白いだけでなく,時には我が身に「痛み」が降りかかってきたりして,大変スリルとサスペンスにあふれている「私小説」(特に「間奏曲」以降)として楽しめるのである。
 普通,東京大学と言われて思い浮かべるのは,三四郎池のある本郷キャンパスだろう。こちらは日本最初の帝国大学以来の伝統があって,緩やかな傾斜がある広大な敷地を初めて歩いたときには「明治村(行ったことないけど)みてぇ」と感動したものである。今はだいぶん建て変わっているけど,明治~大正期に作られたとおぼしき古い建物が多く,旧跡マニアなら散歩するだけで楽しめる。
 しかし,東大にはもう一つ,旧一高の流れをくむ「駒場キャンパス」がある。まぁつい最近は「柏キャンパス」なんてのもできたけど,あれは大学院だけなので(悪い意味で)別格である。教養部のある駒場には,ワシは一度しか行ったことがないのだけれど,本郷とは違って,学生さんが多くて賑やかだけど,何だか「ふつ~の総合大学」っぽいなぁという印象しかない。
 本書はその,東大の中心からはちょっと外れているという意味を持つ「駒場」という地名のキャンパスに本拠地を置いた大学院の,「比較文学専攻」という,比較的小さな「学派」の生い立ちから現在に至るまでの歴史を,そこに集った教員と学生(院生)の業績とイベントといざこざを描くことで語っている。「ゴシップ」というにはかなり上品なエピソードが多くて,もっとドロドロした(あ,今の職場にはありませんよ,念のため)話を見聞きしてきたワシなどは,「ふ~ん,やっぱり東大は上品なんだなぁ」と思いそうになったが,まぁ筒井康隆の「文学部唯野教授」を「悪ふざけが過ぎる」と言った小谷野先生の書くことだから,そこそこ抑制が効いているのかなぁ,とも思う。その辺を割り引いたとしても,ふん,やっぱり腐っても(失礼)東大というだけのことはあるな,と改めて認識した私大,じゃない,次第である。
 上品,と感じたのは,描かれているコンフリクトが殆ど学問に関するものだからである。学者なんだから学問のことで議論するのは当然でしょうと考える純粋無垢な方は今時いないだろうが,実際,大学といえども,まぁ普通はどっかの会社と変わらぬ個人的な性癖や思想の違いがいざこざの元になっているのである。ワシはゲスだしエリート大学出身ではないからまぁいいとしても(良くないか?),ご大層な大学出身者だって,あれこれ理屈並べた理論武装は見事だったりするけど,内実はワシ以上のゲスだったりすることも少なくない。学問思想上の衝突なんてのは,あったとしても限られた小数の方々だけで行われるに過ぎない。大体,衝突するほどの業績もないというのが大多数なのである。
 それに比べると,やっぱり東大,特に四天王(芳賀徹・平川祐弘・小堀桂一郎・亀井俊介)のうち,前者の御三家間のコンフリクトは,気性の問題もあろうけど,かなり学術上のまっとうなやりとりが多く,頭の良さってのはこういう所でも分るモンなんだなぁと感心する。文学に暗いワシには内容のことは分らねど,腐っても(しつこい?)東大というブランドを背負っているだけのことはしてきたということは確かだろう。
 本書では,学者としての小谷野の仕事の見事さも際立っている。自分が見知ってきた記憶以外に,おそらく相当の資料を渉猟しているものと思われる緻密な事実の積み重ねがある。内部に詳しい人なら突っ込みどころの幾つかは見つけるのかもしれないが,ワシには隙が見えなかった。あるとすれば,せいぜい小谷野の個人的印象に基づく記述への突っ込みぐらいだが,それも良い具合に練れていて,昔の激しい感情の発露に比べると,ほどよいエスプリに消化している。特に「間奏曲」に描かれている,比較文学専攻に進学するまでの「私小説」は,自分のダメさ加減を自覚した世代の人間なら思い当たることが多くて,「痛がゆい」刺激を与えてくれるだろう。ここらあたりも,様々な議論・軋轢を経てきた故に得た「味」なんでしょうな。これを「老成」と言わずしてなんと言えばいいのだ。47にしてにはちと早いような気もするけど。
 凡人が書いたなら単なる個人の思い出本に堕してしまうものを,楽しく読めるエンターテインメントにも,学問上も無視できない優れた資料にもなっていることを考えると,ワシにとっては現時点での小谷野本のナンバーワンが本書である。「小谷野敦(トン)」という人物の形成を知る上でもお奨めの一冊である。

諸星大二郎「闇の鶯」講談社

[ Amazon ] ISBN 978-4-05-375699-9, \1048
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 最近,諸星大二郎にハマっている。ここ数年,立て続けに単行本が出るところを見ると,やっぱり人気があるんだなぁと感じる。つーても,ワシが諸星をちゃんと読めるようになったのはつい最近の話で,それまでは,読むことは読むが,それはちょっといやな気分が残るホラーマンガとして,だったのだ。それが今では良い味のファンタジーとして楽しめるのだから,ジジイになるのも良いモンだと再認識させられる。
 そーいや,高野文子の「黄色い本」(講談社)に「マヨネーズ」という短編が収められている。ちょっとセクハラ気味な男が,ちょっと鈍い,でも可愛らしい後輩の女性と結婚するというものだが,この作品に登場するリアルで艶めかしい,そして人権侵害的ニュアンスもある会話の妙は,若い時分には理解できなかったと思うのだ。してみれば,通な方々が褒めちらかしていた作家性の強いマンガの作品の一部が,ようやくワシにもそこそこ理解できるようになってきたということなんだろう。で,その先は嫌みなマンガマニア親父の道が待っているようで,それもまたどうかなぁとは思うが,まぁ中年になるということはそういう老人への通過儀礼的なことが起こるということなんだろうから,それもまた仕方のないことなのである。
 本書の巻頭の「それは時には少女となりて」は,アフタヌーン誌でリアルタイムに読んでいるのだが,まぁこれは普通に面白い純然たるファンタジーマンガである。最後の「涸れ川」も同様に面白い。しかし,親父なワシはこの2作品より,「描き損じのある妖怪絵巻」と,「闇の鶯」が味わい深く,諸星が持つ思想のバランスの良さが現れていて好感を持ったのだ。
 「描き損じ」の方は,極悪非道な先祖を持った名家の現当主とその息子が,妖怪ハンター・稗田礼二郎と,普通に会話をしている。非道な先祖がいたことや,その先祖のおかげで今の家の隆盛があることを率直に認め,それを今も「引き受けている」この二人は,とても全うで常識的な人間として描かれている。
 「闇の鶯」は,本書の一番の読みどころで,約100ページの中編だが,ここに登場する「鶯」は,人間との関わりについて,こういうことを言う(P.184)。

 山を切り開いても ダムを作っても 人間たちが幸せになるなら私は邪魔はしないわ
 私は人間たちが好き・・・ 人間の文化も・・・
 畑も炭焼きも機織りも・・・
 最近のテレビやワープロだって好きよ
 でも人間たちが 間違ったことをして 不幸になっていくのは見たくない・・・

 妥協的というか,神の化身にしては随分と物わかりが良いことですこと,と,若い頃なら憤ったかも知れない。しかし,今の文化的生活を手放すつもりは毛頭ない以上,増えすぎたワシらとしては自然を司る神様に妥協してもらうほかないと骨身に染みて理解できた中年のワシにとっては,至極穏当,というか自然と受け入れられる理屈を諸星は提供しているのだ。「描き損じ」にしても,どんな非道な犯罪者のDNAを受け継いでいようが真っ当な教育と環境があれば普通人に成らざるを得ず,しかしながらそんな「原罪」とは全く無関係と切り捨てることも出来ない,ということをこの年になれば理解できるのである。通な方なら若い時分でもすっと吸収できるのだろうが,この辺の機微は,昔のワシには受け入れられたかどうか,ちょっと怪しい。
 寡作な高野に比べて,諸星は還暦を迎えてもまだ意気盛んというか,自然体で独自のファンタジー世界を描き続けている。この調子で両人とも,中高年以上のおっさん・おばさん向けの,良い意味で「世間ズレ」した作品を描き続けて欲しいものである。

釈徹宗「不干斎ハビアン 神も仏も棄てた宗教者」新潮選書

[ Amazon ] ISBN 978-4-10-603628-6, \1200
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 内田樹先生のblogにリンクがあったので,面白そうだな,と思って買っておいたのが本書である。本年度は10年間途切れなかった非常勤講義がなくなったので,その分の時間を研究にぶちこんでおり,興味のある本でもついつい積ん読の山に埋没させてしまっている。本書もそのうち忘れ去られるかという矢先,英文の報告書を特急仕上げで完成させて気が抜けたのがGW突入直前。手持ち豚さん((c)高橋なの)状態になってベッドに寝転んだ時,枕頭にこれが積んであり,つい先ほど読了することができたのである。
 宗教というと,せいぜいお東さん(浄土真宗大谷派)の檀家というぐらいのおつきあいしかない不信心なワシなのであるが,宗教者という人種には興味が多少はある。多分,その昔に遠藤周作の著作などに触れたことと,普段は神も仏も排除してしまった学問に埋没した生活を送っていることが関係しているのだろう。どっぷり填るつもりは毛頭ないが,「気になる存在」として横目でちろちろ眺める程度の興味が続いているようなのである。
 確か高校か中学の国語の教科書だったと思うのだが,遠藤周作の短編小説で,「ねずみ」(だったと思う)と揶揄されていた外国人の神父が登場するものを読んだことがある。戦後,主人公が「ねずみ」神父が捕虜の身代わりになって死んだと聞かされて感慨にふける,というのがラストシーンだった。
 そーいや,今思い出したのだが,山崎努の一人芝居で,「ダミアン神父」というのもを見たんだったな。いやまぁ壮絶なまでに「キリストに狂っている」ような,まあキリスト教的には素晴らしい人間なのだろうが,ワシみたいな不信心者にはついて行けないような人種のお話だったなぁ。
 まぁ,大体話題になる宗教者ってのはそーゆー一刻者が多い。それはそれで面白いんだけど,ワシみたいなゲス人間とは相容れないところがあって,実際にそーゆー人が身近にいたら,敬いつつ遠ざけるように過ごすことになるに違いないのだ。
 しかし,棄教者となると,話は別だ。文学的なテーマとしてよく取り上げられているらしいが,ワシは読んだことがない。だって堅苦しそうじゃん。でも人間として実在していたら,ワシは自分から近づいていって根掘り葉掘り話を聞き出そうとするだろう。だってワシはゲスなんだからね。神様を棄てちゃったという一種のダメ人間の方が共感できるところが多そうだし,反面教師としても役立ちそうじゃん。故・中島らもは,薬物中毒の教育をしたければ,ヤク中体験者を雇って全国の学校で講演させろと主張していたが,それに近い「教育効果」を,棄教者からは聞き出せそうだ,という予感がワシにはするのである。
 だもんで,この「不干斎(ふかんさい)ハビアン」なる人物は面白そうだと,ゲス人間たるワシは思ったのである。何せ,「神も仏も棄てた」んだからね。どーゆー人物か,知りたくなろうというモンである。
 で,結論から言うと,ゲス人間としてのワシの感性を満足させてくれる人物ではなかったが,言論なるものに関心のあるヘボ学者としての感性は結構刺激してくれた,そーゆー本であった。宗教者である著者によれば,ダメ人間というよりは,ある種の宗教者として位置づけるべき人物がこの不干斎ハビアンということになるらしい。ワシの予想とは違ったが,いい意味で裏切ってくれた本書は,この先碌なことがなさそうな予感のする日本社会に生きるワシらに,「そーゆー開き直り方もあるのか」と知らしめてくれる優れた学術書である。
 ・・・で終わっちゃうと「不干斎ハビアン」ってのが具体的にどーゆー人物なのかがさっぱり分らん上に,本書の魅力がどこにあるのかも示せてないから,ネタバレしすぎない程度に(しちゃうかも),ワシが理解した範囲でハビアンと本書の著者・釈徹宗の言論の素晴らしさを縷々語ってみたい。
 まずこのハビアンなる人物の略歴を,本書のP.26~41の記述から抜粋して紹介する。
 1565年頃 北陸に誕生 → 京都で臨済宗(禅宗)系統の寺院で学ぶ
 1583年 キリスト教に入信,大阪・高槻の神学校で学ぶ
 1586年 正式にイエズス会修道士となり,大分・臼杵の修練院へ移動
 1603年 京都・下京教会へ移動,説教師のリーダーとして活躍
 1605年 仏教・神道・儒教と対比させつつ,キリスト教の優位性を説く「妙貞問答」を執筆
 1606年 林羅山と対面,その様子は羅山の「排耶蘇」に記述される
 1608年 突如,女性修道士と共にイエズス会脱会,そのまま棄教
 1614年 キリシタン関係者から隠れるように各地を渡り歩き,長崎に定住
 1620年 キリスト教批判書「破提宇子」を執筆,京都管区長コロウスが禁書に指定
 1621年 長崎にて死去
 ・・・まあ,呆れるというか何というか。一生のうち,キリスト宣教のための名著「妙貞問答(妙秀と幽貞という二人の尼の問答形式)」を書いたかと思うと,棄教後の最晩年には「破提宇子(提宇子(デウス)を破る,の意味らしい)」を書く。恥も外聞もないのかお前はお前は!・・・と,キリシタンからも神道・仏教側からも非難されそうな行いをしている。
 しかしどちらも現在まで伝えられる名著となっていて,「破提宇子」は明治期にキリスト教の普及を恐れた政府によって復刊されてたりするから,ん~,頭は切れる人物だったんだなということは認めざるを得ない。幕府に重用された儒学者・林羅山と対面してディベートを行っているあたり,体制側からも一角の人物として見られていたことを示している。
 本書ではハビアンによるこの二冊に対して,それぞれ一章ずつ割り当て,詳細な分析を行っている。その結論をここでバラすと新潮社の金君がフォーカス仕込みのカメラ抱えて殴り込んできかねないので止めておくが,「ちょっとそこまでハビアンに肩入れしてイイのかぁ~?」と言いたくなるほどのものである。それは「野人」という,ある種の真摯な宗教者としてハビアンを著者が評価した結果なのであるが,これについては本書で多数紹介している先行研究者からは相当反論があるやもしれない。
 しかし,著者・釈徹宗は,宗教者としてというよりは,宗教「学者」として,ハビアンの言論の論理性と近代性(ちょっと眉につばつけておく必要はあるようだが)を,ネチネチと突っ込みつつ,総体としては評価せざるを得ないと結論づけているのだ。その手腕は,釈の可能な限り内省的な分析ぶりによって認めさせられてしまう。ワシは人文系の学者には相当いかがわしい言論をまき散らすバカ共がいることに常々憤慨しているのだが,考証自体がいい加減で,単なる自分の哲学を土台にしたことしか言わない輩とは異なり,釈の言論は相当まっとうなものとお見受けした。ことに時々開陳してくれる「メタ議論」,議論の手法についての解説には感心させられたものである。皆さん,本書のキーワードは「turn around」ですぜ。おおっとこれ以上の解説は野暮というもの。ちゃんと本を買って読んで確認して下さいませ。
 結論において,釈はハビアンという人間をこうまとめている(P.246)。

そんなハビアンの宗教性にはリアルな身体性が感じられる。実際に,ハビアンは自らの進行に突き動かされて日本各地を駆け巡る生涯を送っている。同じ信仰を持つものを導き,奮い立たせ,また他宗教・他宗派の人々と真剣に向き合い,討論してきた人物なのである。将軍から大名,学者,仏僧,婦女子,市井の人々に至るまで実際に宗教論をかわしながら鍛錬されてきた宗教性こそが,ハビアンを「野人」へと到達させたのである。

 ワシはここんとこを読んで,内田先生はお嫌いなようだが,小林よしのりを思い出してしまった。左右陣営の人々と渡り合い,オウム真理教から付け狙わられ,薬害サリン事件に首を突っ込んで唾棄され,新しい教科書を作る会を立ち上げたかと思うと脱会し,右だか左だかよく分らんカテゴライズ不能のエネルギッシュな「小林よしりん」としか形容のしようのない人物になっている。そっかこういうのが「野人」か,とワシは勝手に解釈しちゃっているのだが,まあ他にも宗教家ではない「野人」ってのは居るよね。
 いつの時代も,頭と体ががっちり結びついて,周囲の空気とは関係なく自分の生理のみに忠実な蒸気機関車のごとく突き進んで生きていかねばならない人物というものは居る。ハビアンはたまたま時代状況が彼とキリスト教と邂逅させたために,無節操な宗教渡り歩きと非難されても仕方のない生き方をしてしまったが,すべての宗教を敵に回す著作を二つ歴史に残したことで,日本社会に根強い土俗的信仰を認識させたことは大いに評価して良い。機関車に踏みつけられたハビアン周囲の宗教者達は少しの恩恵と大いなる迷惑を被った訳だが,日本の文化向上のためには欠かせない礎を残したということだけは確かなようである。