待田堂子「らき☆すた ゆるゆるでぃず」角川スニーカー文庫,坂田靖子「海に行かないか」朝日新聞出版,猫田リコ「黄昏バス」バンブーコミックス

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待田堂子「らき☆すた ゆるゆるでぃず」 [ Amazon ] ISBN978-4-04-474201-0, \476
坂田靖子「海に行かないか」 [ Amazon ] ISBN 978-4-02-214019-7, \580
猫田リコ「黄昏バス」 [ Amazon ] ISBN 978-4-8124-7061-9, \600
 現実逃避がてらに読む本は,ファンタジーがふさわしい。浮き世のめんどくさいモロモロを全く思い出させないシュールでリアリティが皆無な作品が最高だ。つーことで,逃避ライトノベル&マンガ三冊,まとめてご紹介します。
☆待田堂子「らき☆すた ゆるゆるでぃず」角川スニーカー文庫
 らき☆すたのノベライズオリジナル作品集。こなたのようにベッドに寝転びつつ読みながら気がついたのである。自分の面がぎぼぢばどぅい程,ニヤついているのを・・・。
 うーんさすが,TVアニメシリーズのシリーズ構成を担当していた脚本家(橋田壽賀子賞を取っているらしい)だけあって,本書に収められている4作品,どれもそのまま新シリーズに使っても違和感がない。語りはかがみん2本,ひより1本,最後の作品はこなたが担当している。あとがきは白石みのる語りによるらっきーちゃんねるで〆。うーん,これでOVA二本目,作ってくんないかな。一本目はちょっと内容が懲りすぎていて,TVシリーズのテイストを楽しみにしていたワシとしてはちょっと物足りなかったところがあったから。
 つーことで,らき☆すたファンのライトノベル好きなら楽しめること間違いなしの一作。おっさんの読書好きにはあっという間に読めてしまう文章のスカスカ具合(シナリオにト書きを入れたような雰囲気)が新鮮でありました。
☆坂田靖子「海に行かないか」朝日新聞出版
 小学館の老舗少女(?)マンガ雑誌,プチフラワーが衣替えしてフラワーズに変わっても,坂田靖子のショートコミックは変わらず掲載され続けていた。それが2006年を最後にぱったり掲載されなくなり,どうなったのかと気になっていた。ご本人のWebページも数年更新されないまま。さてはプライベートで何があったのかなぁと余計な詮索(妄想)をしていたのだが,2008年(だったかな?)からWebページも更新されるようになり,宙に浮いていた未収録作品もこの度元・ネムキコミックスの一冊としてまとまった。それがこの「海に行かないか」である。
 多分,1980年代後半から1990年代前半あたりまでのファンタジー短編が一番読者を獲得していると思われるし,ワシもそのあたりの作品集はばっちり揃えている(Juneに長期連載していたものがワシにとってはベストかな)。それ以後の作品は,特に短いものは物語も絵もシュールさが際立ってきて,かつてのファンにとっては好みが分れるところがあるようだ。でもワシは今の作品も別種のおもしろさがあって,良いと思っている。フラワーズに掲載された中では特に「カボチャラアンデッド」が大好きで,雑誌掲載時には感動を覚えたものだ。内容はと言うと,畑に取り残されたカボチャ達が人間達に自己主張を敢行しようという・・・書いているだけでシュールさが理解できようというものである。まあそこに「よくあるファンタジー」を通り抜けたベテラン・坂田靖子の真骨頂があるのだ。
 最近更新されたご本人Webページの弁によれば,この先次々に作品集が出るようなので,楽しみである。現実逃避にさらに磨きがかかりそうで,自分の仕事の生産性に影響がない程度に面白いものを期待している,自分勝手なカボチャラのようなワシなのであった。
☆猫田リコ「黄昏バス」バンブーコミックス
 三浦しをん「ビロウな話で恐縮です日記」(太田出版)をパラパラとめくりつつ,よくもまぁこんだけ仕事しながらBLなマンガやらそうでない作品やらを読んでいられるモンだと呆れてしまう。さすがに近頃は大量の本の整理が付かないらしく,「火宅」を御出て放浪の旅に出ているようだが,多分,持ち運んでいる荷物の中には必ず読みさしのBLが一冊以上仕込んであるはずだ。
 一時期は青磁ビブロス(知らんだろうな,この出版社名も)のコミックスを全冊コンプリートに揃えていた若き日のワシも,加齢による衰え(どこだ)には勝てず,今ではとんとBL漫画界には疎くなってしまった。新陳代謝の激しいBL業界の動向はすべて三浦しをんに教えを受けるほど落ちぶれてしまったのだ。年は取りたくないものである。今では二越としみとかえみこ山あたりを細々と読んで満足しちゃっていたりする。
 しかーし,そんな無知な年寄り(元)BL読みでも,たまぁに新人発掘をしたりするのである。直感的によさげと感じて買ったのが,猫田リコの「おつかいくん」だった。そしてお気に入り作家の一員となり,最新短編集である本書もデフォルト買いしたのである。
 初期の魔夜峰央を彷彿とさせる,白黒のコントラストがきつい独特な画風である。ワシはマンガを絵で読む方なので,こういう個性の強い,それでいて華麗なものは大好きである。内容はと言うと,これがまたリアリティのかけらもないシチュエーションで,ヤクザの組長の息子が猫耳つけたバニーガールならぬキャットボーイ(あ,いいなこのネーミング)で登場するわ(「黒田ロマンス」,落語家の兄弟弟子が恋愛関係に陥っちゃうわ(「世界一空気を読まない男」)で,こうして言葉にすると荒唐無稽以外の何者でもないのだが,すべて猫田ワールドの耽美世界に包み込まれているから,そんなに無茶苦茶には感じない。つーか,その辺に違和感を覚える向きは,BLには向いていないと言うべきだろう。
 独特な猫田ワールドだが,本書の中では「うらはら」は少し毛色が異なる。最初は明治・大正時代の物語かと思っていたら,「お屋敷」という存在が台詞中に現れてからは,中世ファンタジーのような展開になる。ま,BLの「お約束」を果たすための単なる道具立て,ではあるんだけど,それはそれとして面白いシチュエーションを持ってきたな,とワシは感心してしまった。
 竹書房としては,猫田に「ココロは錦」のような普通の4コマ作品も描かせているぐらいだから,将来性についてはずいぶん買っているように思われる。「うらはら」で見せたアイディア構成力をもう一歩飛び抜けたものにできれば,独特な画風と共に結構な大物になるかも・・・というのは買いかぶり過ぎかな?
 つーことで,日常から逃避したいあなたにお届けしたい三冊でありました。

(原作)内田百閒・(漫画)一條裕子「阿房列車 1号」IKKIコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-09-179036-1, \1000
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 内田百閒のこましゃくれたエッセイ口調と,一條裕子のひねたユーモアが醸し出す独特の雰囲気がこれほどマッチするとは思わなかった。百閒と一條に両者に共通するのは「上品さ」であるけれど,本書を読むと,一條裕子のオリジナル作品と見まごうばかりの自然なコマ運びで,下手くそな原作ものにありがちの引っかかりが全くない。それでいて,百閒エッセイの全体の方向性は踏襲しているように思えるのである。これは両者のセンスだけでなく,やはり根底に流れる「上品さ」,つまりは百閒と一條が共に持つ,上質なインテリジェンスと心優しさがあったればこそなのであろう。一條に百閒作品を描かせるというアイディアをもたらした編集者(かどうかは定かでないけど)の慧眼に,ワシは唸ってしまったのである。
 一條裕子の作品はこの上なく上品だ。「ギャグマンガ」とは言いたくない。キザな言い方だが,「エスプリの効いたユーモア漫画」なのである。本人の意識はどうか知らないが,頭で構築したギャグではなく,本人の体質からにじみ出たユーモア感覚で作品を描いているように思えるのだ。頭を使っているのは作品の構成であって,ページ数にかっちり納める無駄のないコマ運びは,とり・みきに並ぶ「理数系」作家と呼ぶべき見事さである。両人がさすらいの編集人・吉田保(フリースタイル)のお気に入りリストに入れられ,雑誌(実際はムック扱いだが)で競演しているのも必然的な成り行きだったのだろう。
 一條作品のもう一つの特徴は,余白と白さを生かしたセンスあふれる画面構成であろう。書き込まれた絵やアップは少なく,リズムと空白で読ませる。遠景から描かれた極めて客観的な視点の絵は,デッサンがきっちりした「うまい絵」に分類されるものであるが,空白とのバランスも見事で,こんだけ高度なことをやらかした漫画がしょうもない(褒めてます)ことを延々と語っているのだから,うーん,追随するのは難しい作家であることは間違いない。
 内田百閒の作品を読んだことはないので,ワシが抱くイメージは,黒澤明の映画「まあだだよ」で得たものしかない。まあそれほど間違いはないだろうと勝手に結論づけるとして,その印象を一言で言うと,「心底善人のくせに,それをストレートに表現することに含羞を覚えるインテリ」というものである。本書巻末には「特別阿房列車」の冒頭部分が抜粋されているが,それだけ読んでいても,論理的な文章でありながら,感情の発露がありつつ,訳の分からん理屈でたたみ込むという芸当が見て取れる。師匠・漱石譲りのところが大きいように思えるが,ワシは文芸評論家ではないのでその辺の推理は得意な人にお任せするとして,この抜粋部分と一條のコミカライズ部分とを比較すると,一條の構成力の見事さが読み取れるのだ。それを紹介しよう。
 文章,特にエッセイは,全体の方向性さえ示されれば(場合によっては「方向なんぞ定めない」という方向性(?)でも可),枝葉部分はどうとでもできる。デコラティブにもできるし,極力シンプルにすることもできるし,全体の方向性に棹さしてもいい。百閒の文章は感情の発露で飾り付けを行っているように思え,そこの部分が上質なユーモアを醸し出す手助けをしている。
 しかし,一條は枝葉部分をすべてそぎ落としているのである。たとえば「阿房列車」の意味を述べた文章,戦後になって一等車が復活したことを述べた段落,大阪駅内に無駄遣いをしそうな店が連なっていることを述べた文章をカットし,大阪行きの列車を決めるまでのグタグタした思考行きつ戻りつする様子に絞って描写を行っている。全体の方向性とは関係のない飾り付けをスパスパと枝払いし,漫画としての分かりやすさを重視した構成にしているのである。それで十分,というか,そうすることで,一條裕子の持つユーモアセンスが生かせているのだから,名人芸としか言いようがない。
 本書で指摘しておかねばいけないのは,もう一つある。それは一條裕子のチャレンジだ。見開きにドンと据えられた「見せ場」。ごった返す東京駅のホーム,驟雨に煙る富士岡駅の風景,友釣りで引き上げられた鮎が空中を舞う夏の球磨川・・・,一條裕子の卓抜な画力と画面構成力が光るシンプルだが感動的な絵が,読者の目を釘付けにする見せ場を作っている。今までのユーモアものにはなかった,ベタだがワシら大衆に分かりやく感動できる見開きページは,間違いなく,一條のチャレンジ精神が生み出したものだ。紀行エッセイを紀行マンガに変換する「意味」を,一條はこの見開きを描くことで見いだしたのであろう。
 ワシは鉄っちゃんではないので,本書に掲載されている,百閒乗車の列車編成表は全く分からないのだが,見る人が見れば,凝った本だなぁと感動するものなのであろう。編成表といい,箱入りの古風な装丁といい,チャレンジングな見開きページといい,分りやすく面白いマンガ構成といい,本書全体が懲りまくっているのは間違いない。掲載誌はメジャー版元・小学館にはあるまじき低部数なんだそうであるが,個性が際立つ作家を集めた雑誌をまとめて読むのは難しく,むしろこうして単行本という形でばら売りしてもらった方が,コアなマンガ読みでない読者にはありがたい。実際,本書は普通のマンガ読みな人にも楽しんでもらえる,「普通に面白い」ように一條が百閒を「翻訳」してくれているのだから,ちょっと高めの定価ではあるけれど,それだけの価値があると断言できる。マニアックなのは本の作りだけであって,内容は決してそうでないだけに,もうちっと一條裕子をたくさんの方々の手にとってもらいやすいよう,凝らない体裁のコスト安な本ににしても良かったのではないか,と,その点だけはちょっと残念に思っているのである。

牧野貴樹「π 円周率1,000,000桁表」暗黒通信団

[ Amazon ] ISBN 978-4-87310-002-9, \341
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 多倍長計算に手を染めるようになって,10年経つ。一応査読論文も何本か書いてきたから,ボチボチこの分野に関しては言いたいことを言っても罰は当たらんだろうと思うので,ここらで本音をぶちまけておく。
 そもそもワシがGMPMPFRを使ってライブラリを作ってシコシコ計算してきたのは,たーくさんの数字の羅列を眺めるのが好きだからである。まあ元は誤差誤差した計算を解析するのに飽きて,「だーっと桁をたくさん取って計算すりゃいいんだろ!」とヤケクソのように始めたのがきっかけなのであるが,元々数字フェチの気があったのが運の尽きで,以来,100桁,1000桁の数値データをみなければ満足しない体となり,中毒の様相を呈するようになってしまったのである。もちろん,「たくさん数字が並んでると楽しいでしょ?」では論文にならんので,それなりに実用的な意義のある悪条件問題やら多倍長計算の分散・並列化やらを対象としてもっともらしい理屈をつけてまとめるのであるけど,根源的には「数字の羅列が好き」という以上の動機が見あたらないのだ。
 だから,本書のような,ホントにπを百万桁並べただけの潔い本は,もうそれこそベッドに引きずり込んでホンホン(by 唐沢なをき)したいぐらい大好きなのである。もちろん数字の一個一個を丹念に読むなんてことはしない。適当にぱらぱらめくって一ページあたり一万桁並んでいる数字を眺めて悦に入るのである。これで一時間はイケる。
 ・・・ええ,変態だよヘンタイッ! いいじゃないか,誰にも迷惑かけてないんだからさ,ほっといてちょうだい!,とワシは声を大にして言いたいのである。
 変態の告白だけで終わっちゃうと,ワシの学者人生も共に終わっちゃいそうだから,もう少し真面目な話をしておく。
 そもそもπを含む実数は,無限桁小数でなければ正確な表現ができないようになっている。有限桁小数(=有理数)による数列の極限値は有限桁に収まらないのが普通なので,極限計算を土台とする微分積分を行うためにはどうしても無限桁小数を扱わねばならない。とはいえ,それは理論上のことであって,実際に扱う数値が無限桁ではどんなスーパーコンピュータを持ってしてもπの値の出力だって終了しやしない。だから実用的には適当な桁数で打ち切って(丸めと呼ぶ),単精度(約7桁),倍精度(約15強桁)とかでコンピュータでは計算することになっている。ここに理論との齟齬(=誤差)が生まれる。誤差をどーにかする方法は難しいのと簡単なのがあるが,とりあえず桁数をどんどん増やして計算しておけばそんなにおかしな結果にはならないんじゃないの~,とバカの一つ覚え的解決をするのが多倍長計算という奴である。頭の良い方策は,誤差の影響が少ない計算方法を問題ごとに考えるという奴であるが,これは数学的かつ数値計算的素養が必須なので,誰にでもできるというものではないし,やっぱり有限桁計算である以上,限界はあるのだ。
 とゆーことで多倍長計算をしておけば誤差の影響は減るのでめでたしめでたし・・・とはいかない。すぐに分かることだが,10桁の小数同士のかけ算をやるのと,100桁小数同士のかけ算をやるのとでは計算の手間(=計算量)がモンのすごく違ってくる。つまり,桁数が大きくなると計算量が増え,それに比例して計算時間も増えてしまう。なるべく大きな桁数でも計算時間を余り増やさないようなアルゴリズムを考えると・・・やっぱりここでも頭を使う必要が出てしまうのだ。
 ワシはバカなので,頭を使うより定評のある多倍長計算ライブラリ(GMP,MPFRはこれの一種)を使うだけという安易な方法を取ったけど,ここんとこを自力で解決しようとすると,アルゴリズムとコンピュータの内部構造に通じる必要が出て,相当の馬力を必要とする仕事になる。手計算をそのままなぞる計算方法では桁が増えると非効率になるので,計算量を減らす複雑なアルゴリズム(たとえばGMPのマニュアル参照)を使い,しかもそれを高速に実行できるようチューニングを行うという作業になるからだ。
 円周率πの計算も事情は一緒で,桁数を長くすればするほど計算時間は格段に増える。ちなみに世界記録を作った研究室出身の方は,計算時間を極力抑えるアルゴリズムを極めて,その方面では世界的に有名なライブラリを作り上げている。純粋数学の方々にはπの計算なんて,と軽視する雰囲気もあったようだが,コンピュータ屋にとってはかなりいい仕事(の目標)を与えたと言えるのである。もっともその後,BBP公式なんて理論的にもおもしろい結果が出たりするから,みんなが面白がって群がっている研究テーマからはいろんなものが発生するものだと感心する。
 最近はパソコンも高速になったので,本書に載っている百万桁計算はかなり軽い計算になっている。試しにSuper πというベンチマークソフトを使ってみたら,Athlon64 X2 3800+マシンで53秒(104万桁)だった。最新のQuad core CPUならこの1/4,さらにSIMD命令を使ったりすればもっと高速化されるので,本気になってあれこれ高速化のためのチューニングをやれば,10秒を軽く切るんじゃないのかな。
 本書に掲載されているπの百万桁は自作のプログラムで計算したとのことであるが,だからまあ多大な計算時間を要するというものではないし,計算の仕方はそれこそググってもらえば山ほど出てくるから,真にオリジナリティのある仕事とは言えない。著者としてはプログラムを作る方もさることながら,数字をかっちり並べてTeXで製版する方もおもしろかったのかなぁと想像する。本書は暗黒通信団というサークルが発行した同人誌ではあるが,ちゃんとISBNコードも取得して一般書店に流通させたりしているあたり,しかも314円という,あらかじめ決められていたようなやっすい頒価をつけちゃうあたり,ワシみたいな数字フェチを喜ばせるというやり方で日本文化に貢献しようというあたりの,心意気は見事である。つーか,心意気しか褒めようのない本を出したこと(eの本もあるらしいがワシは未見)が素晴らしい,とワシは,これはイヤミではなく,素直に感心しているのである。

漫画家デビュー物語:吾妻ひでお「地を這う魚 ひでおの青春日記」角川書店,小林まこと「青春少年マガジン1978~1983」講談社,久世番子「わたしの血はインクでできているのよ」講談社

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吾妻ひでお 「地を這う魚」 [ Amazon ] ISBN 978-4-04-854144-2, \980
小林まこと 「青春少年マガジン] [ Amazon ] ISBN 978-4-06-375618-0, \933
久世番子 「私の血はインクでできているのよ」 [ Amazon ] ISBN 978-4-06-337661-6, \667
 青春は光り輝く時代,なんて嘘っぱちを流しやがったのはどこのどいつだ。少なくともワシが見聞した限り,高校から大学を経て社会人になり数年過ごすあたりまでの時代をもう一度繰り返したいと願う人間は皆無であった。曰く,「体力・気力はあったけど思い返すだに恥ずかしいことばかり」「思い通りにならないことばかりで嫌気がさした」「四畳半の下宿で引きこもり生活になってしまって十二指腸潰瘍を発症して病院に担ぎ込まれた」・・・などなど,まーロクでもない思い出したくもないことばかり。知識経験不足のバカで貧乏だったにも関わらず,鼻息だけは荒いクソガキだったワシなぞは,あの当時のことを思い出すと身悶えしたくなるほどである。少なくとも人並みの世間体ってものを身に付けるまでの,そーだなー,三十路前半までの人生はなかったことにしておきたいと思っているのである。
 だがしかし,だ。今の自分があるのは,穴掘って埋めてコンクリ詰めにした数多のみっともない経験が土台となっているからであって,今更隠したところでしゃーないではないか,とも理性では思うのである。自分にどんな才能があり,どんだけの力量が発揮できるかは,それが試されるような出来事がなければ一生分からないまま。BSマンガ夜話で夢枕獏が「才能ってのは汲んでみなければ分からない。もう滅茶苦茶な状況になって汲み出し続けて『これまでかぁ』と精も根も尽き果ててようやく分かる」と言っていたが,よほど幸運な人間でない限り,一定の地位を社会に築くまでは「めちゃくちゃな状況になって汲み出し続ける」作業を若い時分に経験するものなのであろう。それ故に,そんなきつい経験は二度とゴメンだ,と思うのが普通の人間の青春の有様なのだ。
 ここで取り上げる3冊のマンガのうち,「地を這う魚」と「私の血はインクでできているのよ」(長ぇよ)は吾妻ひでおと久世番子がデビューするまでの「みっともなさ」の軌跡を描き,「青春少年マガジン」はデビュー後の過酷な週刊誌連載を闘ってきた小林まことが,早世した同期漫画家・小野新二と大和田夏希らとのさまざまな思い出を切々と描いている。3冊に共通しているのは,デビュー前後の時代は誰しも精神的・肉体的にきっつい思いをするものだ,ということを隠さずに語っていることだ。この度めでたく(?)四十路の仲間入りをしたワシは,漫画としての面白さと共に,彼らの誠実さに感銘を受けたのである。以下,それぞれのマンガ作品について,面白さと感銘のポイントを語っていこう。
○吾妻ひでお「地を這う魚 ひでおの青春日記
 失踪直前に描いていた「夜の魚」シリーズは,広くて暗い昭和40年代を彷彿とさせる街中を主人公・吾妻ひでおとその仲間たちが徘徊する,独特の雰囲気を持った作品だった。大塚英志・責任編集のComic新現実の著者インタビューを読んで,それが実際に吾妻ひでおが北海道の仲間たちと上京してデビューに至るまでの出来事をファンタジー風味にした作品と知った。そのインタビュー中に大塚が吾妻に直接依頼をして始まった新たな「魚シリーズ」が,Comic新現実→新現実→コミックチャージ(休刊が決定)と場所を移しつつ,この度ようやく一冊にまとまった。それがこの「地を這う魚」である。
 吾妻ひでおは,「うつうつひでお日記」(P.183)でこの新シリーズ作品を次のように評している。

 今回の「地を這う魚」は
 以前描いた「魚シリーズ」
 のような狂気や迫力
 恐怖感を出せませんでした
 今の自分には
 あの続きを描くのは
 無理のようです

 吾妻自身は,何故あのような「キ○チガイ漫画を描けたのか分からない」としているが,やはり失踪直前の精神状態と,恐ろしいほどの画力と色気のブローアップ時期にあったことの両方が作用して,あのような傑作が描けたとワシは推察している。こんなことを言うとまた吾妻が傷つくかもしれないので言いづらいが,ええい言ってしまおう。ワシは今でも失踪直前,1980年代後半の吾妻ひでおの絵・作品が最高だと思っているのである。
 その時代を知っているワシから本作を見る限り,少なくとも最初の,Comic新現実に描いていたいた自分の作品は,若干の狂気の香りは感じられるものの,まだ本調子ではないな,と感じてしまうのである。作品のコンセプトも変わっており,キャラクターは同じであるが,オムニバス的にファンタジーとして描かれていた旧「魚シリーズ」とは異なり,時系列的に,秋田書店でデビューが決まるまでの出来事が並べられている。まさに大塚が名づけたキャッチフレーズ「吾妻ひでおの青春」が描かれているのだ。
 本調子ではない,と思っていたワシであるが,今回こうしてまとまったものを読むと,どんどん「リハビリ」が進み,荒っぽかった線が精緻になり,文字通り「地を這う魚」の数は画面いっぱいを埋め尽くすほどに増殖していることが分かり,吾妻ひでおのクリエーターとしてのプライドの凄みを思い知ることになった。
 コマの隅から隅までうぞうぞしている魚以外の生物も多様だ。タコ,イカ,イモリ,ヤモリ(区別がつかんが),昆虫やロボットまでが,社会の構成員としてみっしりと詰まっている。仲間以外の他人は,その存在以外は無意味であるから,何も人間の形をしている必要がない,ということを本作を読んで深く納得した。日々の食いブチにすら事欠く毎日を,仲間と戯れつつ描く本作は,旧シリーズとは別物ではあるけれど,普通に暗い東京における青春を描いた良作であることは間違いない。
○小林まこと「青春少年マガジン 1978~1983
 目は口ほどにものを言う,という格言は,この小林まことの漫画には当てはまらない。逆だ。小林作品ほど,口が目以上に生き生きと表情を作り出しているマンガは,今の日本には見当たらない。への字に曲がった口,たばこの煙を吐き出す河童のような口,キュビズム作品の如くパースが狂った半開きの口,固い意志を表わす左下から右上に伸びる直線上に固く結ばれた口,「びぎえぇえええええん」と咆哮する鉄アレイ口・・・まー,小林作品のキャラクターの口はホントに見ていて飽きない。つーか,口が刻むリズムで読まされているように思えるんだが・・・錯覚だろうか?
 小林作品に共通する大衆的ユーモラスさに乗って読み進んでいくと,少年マガジンの賞を獲り,同時期にデビューした小野新二や大和田夏希と「新人3バカトリオ」を結成する所までは,過酷な連載をこなす様も面白く眺めていられる。しかし・・・,あまり書いちゃうとネタばれになるので詳細は省略するが,メジャー週刊誌の連載ほど人気と自己評価の狭間で苦しむ世界はないな,ということをジワジワと読者に伝えてくるあたりから・・・となってくるのである。ま,その辺を知りたければ本作を買って読んで下され。
 最終的には小野も大和田も1990年代中盤に逝去してしまうのであるが,これらの死を単純に「過酷な人気商売の故」としてしまうのは,ちょっと違うような気がする。大なり小なり他人との比較による評価を受けるのは現代社会では当たり前のことで,漫画ビジネスの世界ではそれが極端に変動する収入や人気として跳ね返ってくるというだけのことだ。それを自分が受け入れて飼い慣らしていくことができれば,ホントにそれ「だけ」のことなのである。他人による自分という人間の評価に対してどのように精神の安定を保つか,あるいはそれをバネにしてモチベーションを高めるか。現代人であれば,引退するまで悩み続けなければならない宿命なのである。
 小林まことが生き残ってきたのは,締め切りをぶっ飛ばしたり,授賞式を大遅刻したりする,確信犯的ズボラさがあったればこそだろう。本書を読む限り,とことん真面目な他の二人は悩みをストレートに抱え込んでしまったり,酒で発散させてしまっているために,早く天に召喚されてしまったと感じられる。もちろん,小林まことの作品が広く支持されているからこそズボラが可能であるとも言えるが,ワシは逆だと思っているのである。
 何故なら,川崎のぼるを源流としてその延長上に表情を獲得した小林まことキャラの口は,明確な意思の現れであるからだ。呆けたり歯を食いしばったりナナメ一文字に結んだりするためには,描きながら作者自身が同じことをしなければならないのだ。つまりは作者の意思があってこそのものなのである。ズボラ決め込むことができるのも,まずは「どーでもいーや」と投げ出す意思があってのことなのだ。
 まさに,小林まことの漫画家人生は,「口」の作る表情がすべてを物語っているのである。
○久世番子「私の血はインクでできているのよ
 シリアスな匂いのする2作に比べ,本作はあの暴れん坊本屋さんこと久世番子が軽やかな語り口のエッセイ漫画に仕立てたものであるから,気楽に笑って読める・・・のは一般人の証。一度,漫画家に憧れてめったやたらに漫画を書きまくった経験のあるオタクであれば,本書が暴露する,久世番子の画風が確立されるまでの恥さらし的な絵の変遷を笑うことはできないはずだ。「ああ私もそうだったなぁ・・・」とため息交じりにしみじみと昔を思い出すであろう。
 そう,本書は久世番子の「まんが道」なのである。いやー,昔はこんなのを描いていたよな~というようなこっぱずかしい絵を次々に見せていくのである。もちろんそんなものを晒す作者自身が一番恥ずかしい思いをしているのであるが,それをうまくユーモアに昇華しているところが久世番子エッセイ漫画のテンションの高さ維持に貢献しているのである。
 ・・・とまぁ,デビュー直前までのところまでは,お気楽ないつもの久世漫画なのであるが,新書館デビュー時のエピソードは,漫画家志望の方なら一読しておく必要があろう。ネタばれにならない程度にそのエッセンスを言っちゃうと

新人賞獲得はプロデビューを意味しない

とうことになる。重要なのは,編集部とコンタクトを取ることなのだ。
 個人的には,久世番子はストーリー物よりエッセイ物の方が,現時点では断然面白いと思っている。エッセイ物が最後どこに着地するのか分からないというハラハラドキドキ感を持たせてくれるのに対し,ストーリー物だと,うまくまとめ過ぎているように思えるのだ。たぶん,久世はインテリジェンスあふれる人なので,エッセイ漫画のように「はっちゃける場」がないとかしこまってしまう傾向があるのだろう。悪い意味で,ストーリー物の場合は少女マンガの典型的ストーリーを追いかけてしまい,独自性が発揮されづらいきらいがあるように思える。デビュー時にもたついたのも,そのあたりのパンチ力の無さが原因かも知れない。
・・・以上,漫画家がデビューするまで,あるいはデビュー後にどんな目に合うのかを端的に知ることのできる3作品,資料的価値もあるし,漫画好きならどれか一冊ぐらいは目を通しておきたいものである。そして,ドタバタしまくった昔をシミジミを思い返すまで時が過ぎた時に,「ああワシもそうだったなぁ」と共感しながら読むのがよろしかろう・・・と,四十路を迎えたワシはシミジミしながらそう思っているのである。

若松孝二・制作・監督「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」DVD

[ Amazon ] \4935(初回特別版), \3665(通常版)
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 若松孝二という人の映画を,このDVDを見る前に触れたことはない。Wikipediaとか公式サイトのフィルモグラフィーをつらつら眺めていたら,何本かタイトルのみ知っているものがあった程度で,本作を除いて積極的に見てやろうという気になるものは,今のところ皆無である。ロマンポルノ時代の作品が多いようだがかなり芸術性が高そうで,ワシみたいに,男の幻想丸出しのぬるいAVが好みの奴にはちと「実用」になりそうもない。連合赤軍事件を,犯人側から描いた本作がなければ,ワシにとっては一生縁のない映画監督だったろう。本作だって,監督本人がかなり赤軍派の思想に入れ込んでいたと知ってからは,「きっと青臭くて赤軍のプロパガンダみたいなもんなんだろう」という先入観を持ってしまったので,現実逃避がてらに鑑賞するときも「左翼の洗脳には負けないぞ!」と気合いを入れてから再生ボタンを押したものである。
 しかし,それは完全な杞憂であった。クソ真面目な左翼青年達から成る連合赤軍が警察によって追いつめられ,幹部が逮捕された後,残党があさま山荘に逃げ込み,絶望的な立て籠りの末に逮捕されるまでの,あまりに痛々しい青年たちの有り様をユーモア抜きにストレートに描いており,右翼・左翼のプロパガンダ映像としては全く使い物にならない。しかもエンターテインメントとしても優れており,ワシは坂井真紀演じる遠山美枝子の死に様や,最年少のメンバー・加藤元久を演じるタモト清嵐の叫びに内蔵を鷲づかみにされてしまったのだ。
 現実の連合赤軍事件は全く青臭さの極みのようなものだったが,それを若松孝二のキャリアと「反省」の念をフィルターにして濾過した本作は,上質な映画に仕上がっていた。ワシは自分の先入観の不確かさを恥じると共に,「日本のいちばん長い日」が描いたものと同じ,思想の純粋さが招く非合理的行動をどうやったら防げるのか,考え込んでしまったのである。
 ちょっと気になったのは,「死へのイデオロギー」において,永山洋子を裁いた裁判長の指摘する「嫉妬心」の存在を,若松自身は本作において否定していないところである。これについてはこの文庫本に解説を書いている鶴見俊輔は徹底的に批判しているのだが,ワシは疑問を持っていた。押井守の言を借りるまでもなく,革命だの愛国心だのという「正義」を振りかざしてものを言う人間がトンでもない行動に出ることは歴史が証明している。しかし純粋な精神的理由だけでそうした行動がとられたのかどうかは,かなり怪しいのではないかとワシは疑っている。どっちかってぇと,正義の名のついでに指導者自身の欲求を満足させる行為をやらかしていることが多いのではないか・・・と,純粋な精神を持たない一般ピーポーなワシは考えてしまうのである。
 故に,この映画における永山洋子の描き方は,ワシにとっては腑に落ちるものであった。もちろん,エンターテナー映画を多数撮ってきた若松は,あえて一般ピーポーに分かりやすい解釈を取っただけとも言えるが,若松の心情を左翼的に養護するのは徒労であろう。
 本作は,方向性の定まらない現代の行く末ににとまどう我々一般ピーポーの胃の腑に落ちる映画である・・・確かなことはそれだけであり,それで本作の存在意義は十分満たされていると言えるのである。