TOBI「眼鏡とメイドの不文律」フレックスコミックス,アサミ・マート「木造迷宮」リュウコミックス

* 眼鏡とメイドの不文律 [ [Amazon](http://www.amazon.co.jp/gp/product/4797351640?ie=UTF8&tag=pasnet-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4797351640) ] ISBN 978-4-7973-5164-4, \560
* 木造迷宮 [ [Amazon](http://www.amazon.co.jp/gp/product/4199500766?ie=UTF8&tag=pasnet-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4199500766) ] ISBN 978-4-19-950076-3, \552
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 他愛もないラブコメは今でも好きである。読者としては「ああ,これはいつぞや読んだラブコメと同じだな」と思って安心してしまうので,逆に著者としてはその「期待」を裏切りやすい。その逆に,ストーリーが類型的であればあるほど,そこに埋め込まれているディテールの読み取りが容易くなる。著者が意識していようといまいと,それは個性という奴に他ならない。よって,こうしたblogのネタにしやすいのであるな。もっとも時間の無い時には「そんなコマけーこと,書いていられっかいっ!」となってしまうから,あくまで暇な時専用のネタではある。
 つーことで,純然たる「他愛もないラブコメ」2冊をまとめて紹介することにする。といっても,ストーリーがありきたりであることは面白くないということと同義ではないので,その辺誤解なきように。
 この2冊を取り上げたのは,どちらもデビュー間もない新人の作品であるということもある。何せワシは齢四十路を越えようという兼業マンガ読みであるから,近頃は新人を発掘している暇がなく,どうしても既読の作家のものばかり読んでしまう。だもんで,なるべく銭に余裕があればジャケ買い,ペラ買い(めくってみて自分との相性のみをチェックする)もするようにしている。といっても出版不況の昨今,少部数で膨大な点数の新刊書が出ているわけで,とてもじゃないが新人に限っても無作為抽出レベルのチェックもできやしない。従って,この2冊が選択されたのはホントに偶然,しかし殆どの漫画単行本はたぶん,どれをとっても数万単位の方々に気に入られるレベルのものばかりなのだ。それだけ,日本の漫画文化は古びてきたとはいえ,相当な厚みをもっているのである。
 まず,「眼鏡とメイドの不文律」から行こう。単行本はこれで2冊目,初単行本は「[眼鏡な彼女](http://www.amazon.co.jp/gp/product/4797347058?ie=UTF8&tag=pasnet-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4797347058)」であるらしい。・・・前作はまだ読んでないけど,このベタベタなタイトル・・・いや,著者の眼鏡っ子に対する愛は分かる,分かるが,ふつー,もう少しひねるもんだろう。そして2冊目が「眼鏡っ子」と「メイドさん」である。ベタにも程があろうというものである。でも可愛いから許す。ま,著者も「いい加減にしろと言われそうですが」(著者挨拶)と自覚はあるようだし。
 この単行本の大部分を占める「MAID DE NIGHT! — メイドでないと!」を強引に一言で言うと,「押しかけラブコメ」という奴である。短く収めた「ああっ女神さま!」みたいなもんか。早い話が,オクテかつモテナイ男が抱きがちのファンタジーである。そのせいか,どーも男の子が無個性過ぎて物足りない。絵のトーンがまだ固まりきっていないのか線がへろへろで,緩やかな雰囲気作りには役立っているが,全体的に軽い感じがする。まあそれを言うと「ヘタリア」なんて鉛筆書きだから尚更なんだけど,今風ではあるんだろうが,オッサンマンガ読みにはちと感情が込めづらいトーンではある。でも可愛いから許す(そればっかりや)。
 画風で言うと,真逆なのが,アサミ・マートの「木造迷宮」である。筆で描いたような,くっきりしたタッチの一本線で,画力は相当ある。コミティアからコミックリュウ編集部が引っこ抜いてきた新人の一人で,中野晴行さんお気に入りの坂木原レムも同様の経緯でデビューしたようだ。二人ともゲーム会社に勤務していた経験があるようなので,ひょっとして顔見知りなのかな? 社会人経験がある分,年齢はTOBIよりワシに近いぐらいであろう。ワシには大変しっくりなじむ描線は,古い木造建屋の表現とマッチしており,ストーリーより絵に興味のある人なのかな,という感じがする。一人暮らしの冴えない中年物書きオヤジのところに割烹着の可愛い女中さんがいて,あれこれ世話を焼いてくれるというストーリーは,もう独身男の妄想でなくてなんであろう。ワシはメイド喫茶ブームに対して,何故日本のよき伝統である女中(もう差別語ではなくなったのか?)を置かないのか!,と憤りを感じていたので,なおさら共感して読んでしまった。ヤエさん,可愛いです(バカ)。
 ということで,メイドと女中という和洋の違い,画風も正反対な新人作家の作品ではあるが,末永くご活躍して頂きたいものである。

西原理恵子「毎日かあさん 5巻 黒潮家族編」毎日新聞社

[ Amazon ] ISBN 978-4-620-77058-1, \838
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 今更サイバラ漫画,しかもベストセラー(2008-12-24現在 Amazonで4位)になったものを褒めちぎっても,Webの海にゴミを増やすモンだと思ってから本書についてはスルーするつもりでいた。いや,もちろん今まで以上に面白いのであるけれど,サイバラ漫画の新展開がっ!・・・というものでは決してないので,お勧めの言葉は今まで書いた記事で尽きているのである。
 しかし,一つだけ,これはワシにとって,いや,日本男児の根幹にかかわる重大トピックが本書に取り上げられていたを見つけたので,以下,そこに焦点を絞って本書のぷちめれに代えたい。
 それは,「洋式トイレ問題」である。まずはこの読売新聞の記事をご覧頂きたい。ワシはこれを読んでウヨクな頭が沸騰してしまったのである。

座って小用を済ますなぞ,日本男児の恥である!


便器は西洋列強に倣えども,日本の侍の魂はすっくと立ち上がって尿をジョロジョロと排出する行為に宿るのである。それを世の女どもは分かっとらんっ! 男児が座りションベンするためには,ペニスを股に挟んで下に向けねばならんのだ。これは

負け犬がしっぽ巻いて逃げる


のと同じ屈辱感を覚えるポーズに他ならない。いや,大の時は必然性があるからいいのである。大便をひりだす必要がないにもかかわらず,女どもはワシらに自分らと同じ行為を強要する,これが日本男児の魂を破壊する行為でなくてなんであろう。
 ・・・と,ワシは確信していたのである。自分の家の新品のトイレが臭くなるまでは・・・。
 さて,ここでもう一つ,産経新聞の記事を読んで頂こう。右翼ポーズで有名な産経であるからさぞかしワシの気持ちを代弁してくれるんだろうと思っていたらさに非ず。文句の言いようもないぐらい合理的な研究結果に基づいて,男子の立ちションがトイレの悪臭の根源であることを語っているではないか。
 ああ,これだったのだ。ワシの全財産を叩いて購入した新築マンションのトイレが臭くなってしまったのは・・・。いや,ワシはちゃんと掃除はしていたのだ。どこが汚れているんだか分らない便器をピカピカに磨き,床には掃除機をかけていたのだ。
 しかし死角があったのだ。
 壁である。
 壁をふき取ることなぞ,想定外だったのだ。新品の洋式水洗トイレからアンモニアの臭気が発せられるようになったのは,実は壁に飛び散った尿の飛沫によるものだったのだ。それも,ワシが日本男児の根幹と信じる行為によってもたらされたものだったのだ。
 毎日かあさんは世の女性を代表してこうのたまうのである(P.45)。

 毎日自分で掃除してから言え
以上

 と。
 日本男児の伝統を守るには,風呂掃除の他に,毎日の便所掃除を男の仕事に追加する他ないのである。サイバラにまた一つ大事なことを教えて頂いたことに謝し,深く首を垂れ,臭いトイレを何とかしようとワシは心に誓ったのであった。

うえやまとち「クッキングパパ セレクション」講談社

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-375628-9, \838
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 へー,あの大河連載漫画「クッキングパパ」も単行本で100巻越えかぁ,すごいなぁ~・・・と,ぶらり立ち寄った書店で本書を見つけ,ワシは感心することしきりであった。そーいや,以前もクッキングパパをblogで取り上げたよなぁ,と気がついて探してみたらありましたよ,79巻が出た時に書いた奴が。もう3年以上前のもので,しかもあれから21冊も出ちゃっているってんだから,サスガと言う他ないのである。「こち亀」に続いての単行本100巻越え,次には「パタリロ」が控えているわけだが,さてそうなると次はどの作品が最初に終了するか,ということに世間の関心が移行する・・・のかな?
 さて本書である。ワシも今更クッキングパパのつまみ食い的寄せ集め本を読んでもしゃーないかなぁとは思っていたのだが,これは帯にもあるように,うえやまとち本人によるセレクションなのである。全部で1000のエピソードが100巻に納まっているわけだが,そのうち20作品を選び,その一つ一つにうえやまが短いコメントを付けている。これがなければ本書の価値は半分以下に下がっていたに違いない。連載開始間もない頃,最初に「手応えを感じ,作品の方向性が定まった」作品「子供が喜ぶスイートアップル」から始まって,幼児虐待の兆しを描いた珍しい作品「ミモザケーキ」,田中が結婚する過程を描いた作品群「グータラ作れるグータラおでん」→「かごんまの味 酒寿司」→「ふたりのカツそば」→「みんなで作ったウエディング”ドラ”ケーキ」,その他,うえやまが思い入れを持つエピソードが本書には詰まっている。「クッキングパパなんていつもおんなじじゃーん?」と舐めていた人にこそ,本書を通読して頂きたいものである。何せ定価838円でバラエティに富んだものが読めるのだから。
 全くクリスマスイブだというのに一人でこんなものをシコシコ書いているワシみたいな奴は,忘れつつある「ファミリー」という,煩わしいけど人間社会には不可欠の要素を,うえやまとちに再認識させてもらう必要があるのだ。本書で紹介されているレシピのうち,ワシが作れそうなものはおでんぐらいなもんだが,せいぜいうまそうな料理の描写とファミリーの持つ幸福感に癒されつつ,この年末の時期をしみじみと過ごしたいものである。

とり・みき「冷食捜査官1」モーニングKC

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-372756-2, \619
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 金で金を動かしていた連中の化けの皮がはがれる前から,この国の出版界は沈滞気味になっていた。竹熊健太郎という日の本一の饒舌な男は既に死んでいる状態であると主張していたが,そのいくぶん楽しんでいるような高いトーンのおしゃべりの内容を頭で理解するより先に,敏感なこの国の連中は差し込むような懐の痛みを感じるようになっていた。
 自分を支える地面がカズフサ共々ゴゴゴゴゴという地響きを立てて沈んでいく気分が蔓延してたのは間違いない。しかし,沈むものがあれば浮かぶものもある,ということを,抜け目のない奴らは察知していた。日本が海に沈んだら奈良の大仏は浮かぶだろう,ということを指摘していたトニーたけざきは折角の慧眼をギャグにしか生かさなかったが,講談社には沈む漫画界においても決して沈まないコアなファンの付いているマンガ家を商売に結びつけようとした編集者が,少なくとも一人は在籍しているらしい。ミステリー雑誌「メフィスト」にとり・みきの作品が登場したのも驚かされたが,旧作も含めて「猫田一金五郎の冒険」として一冊にまとまったのを掛川の本屋で見た時には,枯れた涙腺に刺激を感じた程だ。そして看板青年雑誌「モーニング」に登場した時にはあのジャーナリスト・武田徹も日記で言及(2008-09-21)するほどの事件となり,今回遂に講談社モーニングコミックスの一冊として本書が上梓された。
 俺は予言というものを信じないが,蓋然性の高い合理的な論というものには一定の信頼を置いている。この東洋の片隅の国には「とり・みき」という5文字に反応する輩が,少なく見積もっても数万単位で存在していて,そいつらはこの先こぞってUTF-8やShift JISで記述された検索可能な本書に関する電子情報を砂漠のデータセンターへ送り出すことになる,というのは予言ではなく後者に該当するものだ。コアなファンが存在することは,1979年の週刊少年チャンピオンに「ぼくの宇宙人」が掲載されて以来実証され続けてきたのだから。
 ハードボイルドという形式に,俺は全く親しんでこなかった。谷口ジロー&関川夏央の「事件屋稼業」がそれだというなら,それしか知らない,という程度だ。この冷食捜査官シリーズがハードボイルドのパロディであるという言説には,肯定も否定もする資格が俺にはない。パロディではないオマージュだ,いや,とり・みきにとってのハードボイルドそのものが本作なのだ,と言われても同じだ。
 もう一度言っておく。本作と「ハードボイルド」という表現形式との関連について,判断をする資格が俺にはない。関心もない。そんなものを議論して欲しがる奴らの気持ちが,俺には分からない。
 本作は面白い。俺にとってはそれだけで十分だ。遺影のように黒縁で塗りつぶされたA6版の一ページ一ページは重苦しい雰囲気を漂わせると同時に,この黒縁の中だけに俺たちの視線を釘付けにする。コマの一つ一つに詰め込まれた細かい物言わぬギャグの読みとりにマニアを熱中させて止まない。マニアではない俺でも,しょうゆ豚弁当のパッケージ(P.170 2コマ目)を見つけて心が浮き立つのを抑えることが出来なかった程だ。この弁当については吉田戦車が言及してたのをたまたま知っていたからだ。恐らく,他にも俺が気づかないギミックが本書には大量に詰め込まれているのだろう。あと2,3回は再読して未発見のそれを見つけていくつもりだ。
 とり・みきのマンガ家としての活動が少なかったミレニアム前後の時代,彼はSF作家クラブで事務局長を務め,歯槽膿漏のタコ(イカ?)を各種のマンガに登場させる手伝いをし,吉田保や江口寿史とクラブで円盤を回して若い男女を恍惚とさせつつ,吉田戦車と伊藤理佐を山登りに連行して結婚させてしまった。いわば,マンガ・SF業界における黒幕として暗躍してきたのだ。黒幕というには目立ち過ぎだと思うが。
 その一方で,「遠くへ行きたい」をひっさげてフランスに殴り込みをかけ,国際的にもこのサイレントな笑いを届ける努力を惜しんでいない。「わしズム」には重苦しい不安だけを抜き出した作品を掲載させ,気が付くとどこかに「遠くへ行きたい」の9コマが載っていたりする。国内的にも寡作ではあるが静かにマンガ家としての営みを続けていたのを時折目にし,デビュー作以来ストーカーのように後を付けていた俺もそのしぶとさには感心させられた。それもこれも,俺のようなとり・みきストーカーが万単位で存在していたからこそ可能な活動だったことは,とり・みき自身も自著で言及している。
 その結果として,沈滞するこの国の漫画界においてその沈まぬ存在がクローズアップされてきたのも当然のことだ。俺としては逆にモーニングのようなメジャー青年誌までもが,とり・みきという碇にすがってきたことに驚きを感じる。ファンとしてはめでたいことだが,冷食捜査官が農林水産省の事務次官に昇進しても,一流新聞の三面記事になることは期待できない。初芝ホールディングスの新社長のような大衆的人気を得るとは思えない。とり・みきは,秋田書店から出ると決意した時から,そのような路線を自分から忌避してきたマンガ家だからだ。そんなマンガ家にまですがらざるを得なくなったこの日本の漫画業界の行く末が,俺としては少し心配になる。
 しかし,業界がどうなろうと,とり・みきは変わらずマンガ家を組織し,バツイチカップルを誕生させつつ,サイレントな笑いを書き続けるに違いない。
 俺はもう業界の心配するのを止めて,冷食捜査官の旧作が収録された「犬家の一族」(徳間書店)との比較対照作業に入った。そして,本書P.73のセリフ(4コマ目)にある誤植が取り除かれた次の増刷本が刊行されるのを静かに待つことにした。
(注)誤植は他にもあるようだ・・・みんな細かいよな。

コンプティーク・編「らき☆すたコミックアラカルト ~ラッキーたーん♪~」角川書店

[ Amazon ] ISBN 978-4-04-854164-0, \760
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 昔,アニパロ(アニメーションのパロディ作品)に嵌っていた若かりし頃のワシがいたと思いねぇ。原作もロクに知らないのにアニパロのマンガ(同人誌や商業アンソロジー)を貪っていたのだ。何が面白くてその手のものを読んでいたのか,今になってつらつらと考えてみるに,結局,マンガ作品としての「ゆるさ加減」に惹かれたのだと思う。
 細野不二彦の「ギャラリーフェイク」に,偽物の美術品(フェイク)ばっかり収集している男が主人公の短編があったのを思い出す。その主人公がフェイクを好むのは,本物の一級品が持つ厳しさよりフェイクが持つ弛緩した雰囲気が好きだから,ということだった。間が抜けている,とも語っていたように思う。ヒドイいい草だが,当たっていると言わざるを得ない。そしてワシがアニパロ作品に感じた「ゆるさ」は多分,このフェイクフェチ男が好んだものと同じタチのものなのだ。長年に渡って競争の激しい一流少年誌・青年誌で活躍してきた細野にしてみれば,コミケなどの同人誌即売会に群れ集う数多のアニパロ作品は皆フェイクに見えるのかもしれない。いや実際フェイクなんですけどね。
 実際,アニパロの多くはキャラクターの動かし方から崩し方,やおいや百合といった性的表現,ストーリーのたわいなさに至るまで,かなり類型的なものであり,いわゆる「萌え系」の表現と同質の「ゆるさ」を持つ。厳しい編集者のチェックを経て,何が何でも読者の目を惹きつけ,読者に雑誌をレジに持っていかせるだけの念が籠もった一流どこの商業作品に比して,自分と仲間内での満足を得るだけの内輪の表現で済んでしまう同人作品とでは,どうしても後者の表現が緩くなるのはやむを得ない。ましてや書き手の多くは二十歳程度の若者だ。「近頃の若いモンはこんなユルユルのものを書きやがって」と年寄りがギリシャ時代から繰り返されてきた文句を言いたくなるのは分かるが,そんな年寄りだって若い時代があったはずで,ワシから言わせりゃ全共闘時代の学生の社会と親への甘えっぷりだって相当のモンだったのだ。てめぇら自分のやってきたことを忘れて何言ってやがる,とイマドキの若者を弁護したくなろうというものである。
 久々にアニメ「らき☆すた」に嵌ったこともあり,このアニパロアンソロジーが幾つか出ていたのは知っていたのだが,どうも食指が動かなかったのは,収められている作品が「ゆるい」ことを経験的に知っていたからだろう。昔は楽しめたその緩さを,今も楽しめるかどうか,自信がなかったのである。
 が,今回意を決して一番表紙が自分にとって萌えているものを選び,購入して読んでみたのだ。ちょっと怖かったが・・・読んでみたら,昔取った杵柄が役に立ったと見えて,結構楽しめたのである。ま,11人(コンビ)(+イラストのみ5人)のらき☆すたアニパロ作品が収められている訳であるから,おのずと作品の巧拙には差が出てしまうのは仕方がない。巻頭と巻末の2作品を寄稿している「杜講一郎×さくらあかみ」コンビのものが一番絵とストーリーのバランスが取れているが,それでもマンガ表現は相当ユルいと言わざるを得ない。意味のない無駄ゴマはあるし,寝ているこなたの髪の毛を指に絡ませて言うかがみん一番決めのセリフが「・・・あまい」である。いや,あまいのはこのセリフが乗っかっているシチュエーションだろう,とマンガにウルサイおっさんとしてはつい前言を翻して突っ込んでしまうのである。どうせなら髪の毛を口に含んで唾液と絡ませつつ恍惚とした表情で言って欲しい・・・というのは頭が腐ってますかそうですか。
 まあしかし若者が描くアニパロは今も昔もユルくて変わってないな~,ということを確認できただけでも収穫ではあった。そして原作の出版元,角川書店がこの手のアンソロジーを編んで出すようになった,というのも時代の移り変わりを感じる。メディアミックスの上に,ファンサービスの一環として公的に認められたアニパロをまとめて売り物にするんだから,骨までしゃぶってスープまで一滴残らず掠め取る,って感じですな。温泉場のでかい旅館が土産屋からカラオケボックスまで建物内に設置して客を完全に囲い込む,他の商売敵には一銭も渡さん!・・・って偏狭な態度そっくりである。それだけ商売としての出版業が厳しいってことなのかしらねぇ。世知辛いですなぁ。まあ角川の株主としては商売熱心なのはいいのだが,客を囲い込んだ結果,温泉街全体としては沈滞してしまった伊豆のどっかの温泉場のようなことになっちゃったら元も子もなくなるのでは・・・と一抹の不安を拭えないのである。
 してみれば,版権なんぞクソ食らえ的に野放図な表現の場として成長してきたコミケは,さしずめ猥雑なカジノみたいなモンなんだろうなぁ。たとえ取引されているものの大部分が緩かろうと,その中からきっと緩さを脱した煌びやかなモノが生まれてくるのだろうから。