ゆうきまさみ「ゆうきまさみのもっとはてしない物語」角川書店

[ Amazon ] ISBN 978-4-04-854206-7, \1500
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 いやぁ,お互い年は取りたくないものですなぁ,ゆうき先生。前作(上記写真の左)が出た時は1997年,ワシがまだ能登半島でくすぶっていた時代ですよ。「いんたーねっと」とやらがボチボチブームになり出した頃。懐かしいですなぁ。これは後ほど2003年に角川スニーカー文庫本2冊(天の巻地の巻)にまとめ直されましたが,そろそろ視力に衰えが見えてきた三十路後半の身には,ちと読むのが辛かった覚えがあります。だもんで,いまでもこの日に焼けちゃった単行本が手放せないのですよ。
 その単行本が刊行されてから既に11年経ちました。角川書店は角川グループホールディングスを構成する一出版社となり,その社長はあーた,NewTypeの編集長だった井上伸一郎さんですよ。ワシは角川GHDの株主になっちゃうし,全く光陰矢の如し。でもゆうき先生のこのコラムが連載開始以来23年,50才を越えられても未だに続いているのですから,ワシもまだまだ,あと十年は頑張らねば,と,ふんどしを締め直さねばなりません。良き先達は全くありがたいものです。・・・年寄り臭い言い回しに終始しましたが,年のせいと思って聞き流して下さいませ。
 特にアニメオタクではないワシなので,コラムだけは欠かさず立ち読み(買えよ)していたNewTypeともいつしか縁遠くなってしまいました。なので,突っ込みキャラが登場(P.62)していたことも知らず,表紙の女の子を見て,「ああ,ゆうき先生もとうとうご結婚されたのか,羨ましいなぁ」と麗しい誤解をしてしまいました。大変失礼致しました。しかしこのツッコちゃん,可愛いですね。可愛いと言っても既にワシにとっては友人知人のお嬢さん,としか思えなくなっているのが非常に悲しいのですが。
 オールカラーになっても,内容が時事問題から身辺雑記まで節操なく盛り込まれているのは全く変わらず,オールドファンとしては嬉しい限りです。晩年の手塚治虫は丸っこい線を描くと線がふるえてしまうと嘆いていましたが,ゆうき先生はせいぜい目が悪くなった程度(P.98)で,シャープな描線はCGになっても健在ですね。ご健筆,頼もしき限りです。保守復権の先導役・小林よしりんもまだまだやる気のようですから,ゆうき先生には是非とも戦後良識派としての立場を遵守され,ますます議論を深めて頂きたいと願って止みません。
 この調子だと,次の「もっともっとはてしない物語」が出版されるのは10年後ですね。その時,私は50代,ゆうき先生は還暦を迎えるわけで,戦後初の「おたく老人世代」の先鞭役となられるはず。後輩のワシとしては,おたくの老後をどのように描かれるのか,今から大いに楽しみなのです。TVアニメ化が始まったばかりの鉄腕バーディー,掲載誌のヤングサンデーが休刊になってしまって今後の行く末が心配ではありますが,もし連載が中断でもされるのなら,バーディーの次に「ヤマトタケルの冒険」路線が復活するのではないかと,ワシはよからぬ期待を持ってしまっておりますので,それはそれで楽しみです。無粋な輩でどうもすいません。実は初期作品集()が編み直されると知って以来,アニパロコミックス等でゆうき先生の作品を読んでいた時代を思い出してしまっておるのですよ。・・・やっぱし,年ですかねぇ。
 では,これからのゆうき先生のご活躍を祈念して,筆(キーボードですが)を置かせて頂きます。

長谷川武光・吉田俊之・細田陽介「工学のための数値計算」数理工学社

[ Amazon, 出版社のWebページ ] ISBN 978-4-901683-58-6, \2500
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 うはー,やりづれー。というのも本書は献本なのである。つーても献本してもらった癖にイヤミっぽいことを書いたという前例が既にあるので,貰いモンだから筆先が鈍るなんてことはあり得ないことは証明済みである。我ながらなんて「いい性格」なんでしょうねぇ。
 やりづらい理由はもう一つあって,よく知っている内容の,しかも初学者向け(かどうか?)のものであるから,ワシと著者らとの主観の相違が際立ってしまう,ということが挙げられる。つまりは学問論争に繋がってしまうので,本格的に論じ始めたら果てしなく続いてしまいキリがない。これについては著者(ら?)とダイレクトにやりたいと考えているので,ここでは割愛する(でもちょっと混じってしまったか?)。
 なので,ここではワシが個人的に数学を主専攻としない大学学部生向け教科書に必要不可欠と考えている以下の点についてのみ,考えていくことにしたい。
 1) 現代的な内容になっているか?
 2) 抽象的な議論に終始することなく,具体的事例を盛り込んでいるか?
 3) 学習して欲しい基本的内容・記法は本書内の記述で自己完結しているか?
 4) より深い知識を知るための参考文献は明示してあるか?
 5) アフターサービス用のWebページが用意してあるか?
 まず1)について。本書については掛け値なしに合格である。感心したのは
 第2章のIEEE754浮動小数点数の解説(丸めモードの解説も欲しかったけど)
 第3章のLU分解の解説(初学者向けの分かりやすいモノかどうかはともかく)
 第8章のClenshow-Curtis公式の解説(翻訳でない邦書初?)
 第10章の偏微分方程式の解説(詰め込みすぎのきらいもあるけど)
など。特に2章は現代の線型計算が,主として計算性能を上げるためにblock単位で行われていることを意識して記述してあるので,邦書としてはかなり「異色」,でも「現代的」であることは間違いない。LU分解の分かりやすい証明(P.34~36)はワシも使わせ頂くつもりである。
 2)については文句なしに合格。ただ,地方国立大学工学部で教えたワシの経験ではちと高度すぎる事例が多いかなぁと感じた。特に第10章については,これだけで半期を費やすぐらいの時間を掛けないと身に付かないのではないか。本書を使った講義がどのぐらいの時間でどのように行われているのか,興味深い。
 3)について。及第点ではあるが,3人の共著ということもあって,記法に不統一なところが散見されたのは残念。まあでも講義でフォローできる程度だから,大した問題ではない。
 4)はまあ妥当・・・ではあるけれど,古くて絶版になったもの(特に邦文書)が多いのは初学者向けとしてはどんなものだろう。[2], [a]は新版が出ているので,そっちを勧めた方がいい。文献の並び順がどうなっているかも不明なので(「数値計算のつぼ」「同わざ」が離れているのは何でだろう?),も少し気遣いが欲しかったところ。
 5)については,演習問題の解答もある親切なものができつつあるようなので合格。販売時には完成・・・しますよね?
 つーことで,全体としてはちょっと高度な数値計算入門書として,理系のまともな大学生にはお勧めできる内容と言える。これを使って学習した学生さんの中から優秀な研究者が輩出されれば,更に本書の価値が上がろうというモノである。今後大いに期待したい・・・と,著者らにプレッシャーをかけて,やりづらいぷちめれを締めることにする。

色摩力夫「フランコ スペイン現代史の迷路」中公叢書

[ Amazon ] ISBN 4-12-003013-X, \2000
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 そーいや,スペインにフランコという独裁者がいたな,と気が付いたのは,昨年(2007年)のいつだったのか。八重洲ブックセンターでウロウロしている時にはたとひらめき,「フランコ,フランコの評伝はないか」と店内のデータベースを漁ってみたら,ヒットしたのがこの一冊。もはや在庫処分待ちという古ぼけた本の谷間にこれが残っていたのを見つけ,早速購入した。が,その後しばらくをパラパラとはめくるものの読了には至らず,ネチネチとベッドサイドの机に置きっぱなしになっていたのだが,今年(2008年)に入って軽度の鬱状態になり,逃避行動を取る中で本書にチャレンジ,時系列でフランコの事績を描き出した重厚かつ簡潔な記述に引き込まれ,一気果敢に読了してしまったのであった・・・が,ワシのは悩みは深くなるばかりで,ますますフランコという人物が分からなくなってしまったのである。
 ↑を読んでもワシ以外の人間には何が何だかさっぱり経緯がワカランだろうから,以下ではも少しかみ砕いて説明することにする。
 高校で世界史を取ると,今はどうだか知らんが,ワシが高校生の時は第二次大戦終了直後で授業は打ち切りとなっていたものである。従って,授業の終盤で習う第二次世界大戦における枢軸国(ドイツ・イタリア・日本など)と連合国(イギリス・アメリカ・ソ連・中国など)の勢力図は大概頭に残っている。その勢力図には,ユーラシア大陸の西のはじっこ,イベリア半島に,塗り分けされていない空白地帯があった。これがフランコが独裁者として君臨していたスペインである。そしてフランコと言えば,ヨーロッパファシズムの一角を担っていた極悪人ということになっている。・・・ん? ファシストの独裁者の癖に,世界大戦中はドイツ・イタリアに与せず,中立国? どーゆーことなんだろう?
 ・・・というのが,「フランコという独裁者がいたな」と気が付くまでの経緯である。
 しかしこのフランコという人物,どうにも分かりづらいのである。例えば,水木しげる「劇画ヒットラー」(ちくま文庫)には1940年にフランス・スペイン国境近くのエンダヤ(水木著ではアンダイエ(仏語読みかな?))で行われたヒットラーとの会談が描かれている(P.215)。ここでフランコは,(スペイン内線による疲弊のため)スペインは他国と戦争が出来る状態ではないことを述べ,ノラクラとヒットラーからの参戦要求をかわしている。
 が,本書によればこれは事実ではなく,会談後に外相間で取り交わされた議定書は,むしろドイツ・イタリアとの枢軸同盟への参加の意思表示に近いものだったという。また,フランコもこの会談の時期までは,破竹の勢いでフランスを屈服させたドイツに傾いていたようだ。しかし,この会談後にフランコの政治的参謀となったカレロ・ブランコの超合理的な「政策メモ」(この後も度々フランコの政治的指針となる)の指摘により,フランコは枢軸同盟への参加を徹底して引き延ばすようになり,結果として中立国としての立場を維持することに成功した。うーん,独裁者にしては日和見的な態度である。
 日和見といえば,独裁者に駆け上る契機となったスペイン内戦(1936年~39年)への関わりも,本書によればフランコの自発的なものではなかったようである。植民地モロッコで軍事的才能を発揮していた彼を,人民政府に対抗するクーデター首謀者側が引っ張り出した,というのが真相らしい。結果,内線の中で権限を一手に握ったフランコは独裁者としての地位を獲得し,内戦にも勝利してスペイン全土を掌握するに至るのである。うーん,ナポレオンがフランス革命のドサクサで担がれて皇帝になっていく過程とよく似ているよな。結局,乱世の中では洋の東西を問わず,秀でた軍事能力を持つ者に権力が集まっていくものなのであろう。
 フランコの日和見的態度は,大戦後のスペインの地位を高めるのにも大いに役立っている。腹心カレロ・ブランコは大戦後の世界秩序が米ソ冷戦という構造になっていくことを冷徹に見抜き,フランコに提出した政策メモで,亡命した人民政府側の勢力を弾圧したところで,共産主義の招来を恐れる西側各国はスペインを非難こそすれ,実効的な圧力をかけてくることはないから気にするな,と助言する。外交官である著者も「シニカルな文書と見えるが,その洞察力は認めざるを得ない」(P.242)と舌を巻いている。こうしてフランコは独裁的政治を維持しながらも,政権内部では権力闘争のバランスの上に立つ「調停者」としてふるまいながら,スペインに高度成長をもたらすのである(1960年代)。正確に言えば,経済政策に全く疎いフランコが,カレロ・ブランコ率いるテクノクラートの政策を丸飲みしたことによるものらしいが,それを許容する独裁者ってのも度量が広いというのか,単なるボンクラなのか・・・。
 こうして全く楽しくなさそな独裁的権力を維持しながらも,フランコは自分の後釜となる政体を,スペイン内戦前の「王国」に戻すよう計画していたというから,ますますこちらは混乱させられる。千年帝国を夢見たヒトラーとは正反対の現実主義者であったフランコは,カレロ・ブランコの案に従い,徐々にファン・カルロス一世を次期国家元首とすべく体制を整えていくのである。結果,フランコが危篤になるや権力が国王に委譲され,スペイン「王国」が復活したのである。その後は議院内閣制の立憲君主国家へ移行,スペイン内戦時からは想像も出来ない程のスムーズさで独裁国家から脱却したのだから,何というか,見事としか言いようがない。
 こうなると,フランコを単なるファシスト独裁者呼ばわりするのは「何か違う」感じがする。透徹した合理性を愛したという以外,首尾一貫したイデオロギーはなさそうだし,あからさまな抵抗勢力は弾圧しながらも,部分的に選挙を行うなどして民意を確認しながら各勢力間のバランスをとり続け,次の世代へのバトンタッチをスムーズに行うための体制作りに勤しんだのだ。・・・一体全体,何が面白くて独裁者になっていたんだろうと首を傾げてしまう。ホントーに独裁を楽しんだんですか,フランコさん?
 本書の副題は「スペイン現代史の迷路」となっている。これは,フランコの歴史的歩みを学問的にカッチリ押さえて重厚な記述を行った著者をして,フランコ時代をどのように捕らえていいものやら判断が定まらなかったという意味が込められている。いや確かに,独裁的権力を維持しながら合理性を追求するという訳の分からなさは迷路なんてモンじゃない,「迷宮」と言いたくなるほどである。しかし,参謀役カレロ・ブランコと,彼を重用したフランシスコ・フランコのコンビが愛したこの「訳の分からなさ」が,政権を長期に渡って維持する原動力となったことは本書によって明らかになったのである。しかしそれでもなお,フランコという人物がもたらした筈の,この長期独裁政権の根本的原因がどこにあるのかは今持って不明であり,それ故にフランコ時代の位置づけも宙ぶらりんになっているのだ。
 本書は優れた学術書であることは疑いない。にも関わらず,対象が「フランコ」であるが故に,事実関係以外のものが見えてこない。これは一種の「芸術」である。
 そう,本書はフランコ独裁そのものが芸術的な「訳の分からなさ」に彩られたものであることを明確にしたという意味で,貴重な一冊となっているのである。

秋山祐徳太子「天然老人 こんなに楽しい独居生活」アスキー新書

[ Amazon ] ISBN 978-4-04-867241-2, \752
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 独身生活が長かった噺家・柳家喬太郎の新作落語「いし」には,主人公のひとりものがタオルで顔を拭いた途端,その臭さに気が付いて鼻を曲げる描写がある。「タオルが臭い」というのはズボラなワシにも覚えがあって,そもそもタオルはシャツやパンツのように洗うべきモノと認識していなかったことによる,男性ひとりものの典型的な失敗例なのである。
 もう一つ,家事に疎いひとりものが引き起こす失敗例に,「脱水し終わった洗濯物を脱水槽に入れたまま放置プレイ」というものがある。これは一度やったら二度とやらかすまいと心に誓うほどの悲劇だ。何せ,洗い立ての洗濯物が洗う前より臭くなってしまうからである。しかも,タオルなら一枚だけだが,洗濯物全体が臭気に覆われてしまうのだ。タダでさえ加齢臭が気になるお年頃のワシら中年男が,自らの怠惰によってお気に入りの衣類をアンモニアの固まりにしてしまったのである。臭い男が臭い衣類を着て町中を闊歩する様を思い描いてみたまえ。悲しいどころではない,社会の大迷惑である。奥田民生なのである。
 秋山祐徳太子はこの大迷惑をやらかしたとのことである(P.21~「独身行進曲」)。ただ,単なるギャグネタとしての迷惑話ではない。その時には「臭いシャツ」をきちんと指摘してくれる方々が周りにいて,すぐさま替えのシャツを持ってきてもらってそれに着替えたという,ひとりものをフォローする心暖まる(そうか?)美談になっているところがいい。
 本書は美術家・秋山の短いエッセイ集をまとめたものだが,副題が「こんなに楽しい独居生活」となっている通り,かなりその「独居生活」,つまりひとりもの生活はアッパーである。本人が無理して明るくふるまっているという風ではない。かといって,少ない年金を貰いつつ,都営住宅に住むという生活を卑下して笑い飛ばすという訳でもない。多くの友人知人ご近所さんと真っ当な社会生活を営み,時にはダリコパフォーマンス(本書帯のポーズがそれ)を結婚披露宴で演じたりする,そんな日常をカラッとした筆致で描写しているのだ。だからもちろん,人様に「独居生活」を勧めたりする愚を犯したりはしない。ましてや,独居していないまっとうな家族を非難したり拗ねたりはしていないのだ。今から思えば,かの酒井順子ですら,うまくオブラートに包んで誤魔化してはいるものの,自身が独身であることの自己肯定を語りたい欲望が溢れていたように思える。それに比べると,著者が齢70を超えているせいもあろうが,本書にはそんな自分勝手な主張は皆無である。
 それ故に,巻末の赤瀬川原平との対談を含めて200ページに満たない本書を読了した後の爽快さは際立っている。私は日々こんな「独居生活」をしています,というだけの,シンプルでアッパーな語りをまとめた薄い新書は,鬱々とした日本社会に清涼な空気を運んでくれる扇風機のような存在である。

瀬戸内寂聴・横尾忠則(画)「奇縁まんだら」日本経済新聞社

[ Amazon ] ISBN 978-4-532-16658-8, \1905+税
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 静岡に移って以来,新聞は取っていない。日々のニュースを知るだけなら新聞社のWebサイトを常時チェックしていれば事足りるし,最近ではVistaの標準ガジェットとしてニュースサイト向けのRSSフィーダが提供されているので,こちらからブラウザを立ち上げなくとも自動的にニュースは入手できるようになっているから,ますます紙媒体としての新聞はワシにとっては必要がないのである。
 それでもたまーに紙の新聞が読みたくなることがある。そんな時は決まって日経を購入する。駅売りのものを買うと他紙より20円高いのは玉に瑕だが,読み物が他紙より面白いのでこれを選択してしまうのである。たまーに読むと,普段はWebで読めないコラムがあったりして新鮮だ。
 そんな折り,おっと思わせる連載が登場してきたのである。それが瀬戸内寂聴の「奇縁まんだら」であった。瀬戸内の人間観察は程よく距離があり,それでいてちょっと下世話な好奇心も満たしてくれるものであることは「孤高の人」でよく分かっていたので,見かけると必ず読み通していたのである。連載はまだ続いているようだが,本書はそのうち2007年に執筆・掲載されたものが収められている。
 しかし,ワシは挿画を添えている横尾忠則の作風が派手なペンキ絵のようであまり好きではないので,その画力の確かさと技量の豊かさには敬意を表しつつ,「邪魔な絵だな」と思っていた。本書にはその「邪魔な絵」が殆ど全部収められているのだが,これはこれで独立した画集にしてもらった方が,ワシとしてはありがたかったな。地味な白黒の本文に比して,目がちかちかしてくるぐらいの強烈カラー作品なのである。
 本書では,瀬戸内が女学生だった頃に学校で見かけた島崎藤村から始まって,正宗白鳥,川端康成,三島由紀夫,谷崎潤一郎,佐藤春夫,舟橋聖一,丹羽文雄(亡くなったのは最近だが),稲垣足穂,宇野千代,今東光,松本清張,河盛好蔵*,里見弴,荒畑寒村*(おお,「坊っちゃんの時代」!),岡本太郎*,壇一雄,平林たい子,平野謙*,遠藤周作,水上勉まで,実際に縁のあった著名人について,自分が見聞きし,調べた範囲のことだけを短くまとめている。*を付けた文化人・政治家・学者・評論家を除くと他は全て小説家であるが,まあこれは作家・瀬戸内の本分を考えれば当然である。しかし,孤高を保って殆ど他と交わらない作家も多い中,瀬戸内のこのような交流範囲の広さはちょっと珍しいのではないか。人間そのものに文学のネタを追求してきたという作家としての姿勢もここに影響しているように思われるのだが,どうだろうか?
 個人的には,稲垣足穂のヒモ生活ぶりが興味深かった。なーるほど,自己模倣を徹底して排除したストイックな寡作ぶりは,奥様の献身的な働きが支えていたのか,と得心したものである。本連載が終了した暁は,ぜひタルホから譲り受けたという小机を含めて,展覧会でも開いて欲しいものである。それとも,もうとっくにやってたりするのかしらん?