久世番子「番線 ~本にまつわるエトセトラ~」新書館

[ Amazon ] ISBN 978-4-403-67051-0, \640
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 三浦しをんのエッセイのようなマンガはないか,と思っていたら遂に出てきた。それが本書である。「ご趣味は?」と問われると,「読書です」などという無難な受け答えが出来ず,つい,「ビブロス(旧・青磁ビブロス)の騒動は本当に心が痛みました何せやおい転じてBLがこれだけ隆盛といわれているのに月刊誌で長く頑張ってきたのはBE×BOYだけですしここがなくなると新書館のディアプラスなんてエッチのエの時もないようなヘタレほのぼの雑誌しかなくなっちゃうし本当にほんっっとうに心配だったんですけどアニメイトさんに引き継がれると聞いて心底安心したんです~」と聞かれもしないのに暴走してしまう輩,それが三浦しをん的読書人という奴である。本に対する愛と情熱あふれる,溢れすぎる愛すべきバカ,そんな人間が描いた,暴走するエッセイマンガが遂に登場したのである。イヤサカ,イヤサカ・・・あ,誤解がないように言っておくが,三浦と違って久世は腐女子ではなく,清く(でもないか)正しい文学少女である。
 マンガが爛熟機を過ぎ,教育カリキュラムとしても定着しつつある昨今,ようやっと読書を楽しむ漫画家自身がその知識と体験をマンガ作品として世に送り出すようになってきた。もちろん今までだってポーズとしての読書を公言する漫画家は沢山いたが,偽りない自分自身の純粋なシュミとして読書を楽しんでいたかどうか,ちょっと怪しいところがある。本好きの人間には,その作品を描いた人間が真の読書家かどうかを探知するアンテナが備わっているので(SFモノにもあるそーな),「こいつはそんなに本好きではないな」とゆーことは直感的に分かってしまうのである。そのような読書家の厳しいチェックを楽々とクリアするマンガ作品,具体的に言うと,いしいひさいちの「ホン!」や,吉野朔実のシリーズ()のようなものは,ごく最近まで現れなかったのだ。
 こういうものは読書を生活習慣として組み込んでいる人間でないと書けない代物なのである。どこでそれを見分けるのか?というのは具体的に説明しづらいのだが,昔,塩野七生がアラン・ドロンのCMを見て,貴族的なマナーを完璧に演じているのに不自然さを覚えた,というのに近い。彼の演技はきっちりしすぎていて,生まれながらの貴族が持っている「マナーに対する自由奔放さ」というものが皆無だった,というのだ。習慣としての読書を行っていない人間が書いたものには,本を読むことによって知識を蓄えた,という意識が強すぎて,少し堅苦しいモノを感じてしまうのである。読書なんて,読んでいる最中が一番楽しいのであって,読了してしまえば結果として知識を得ようが,忘れてしまおうが,本来ドーデモいいことなのである。「勉強としての読書」は「習慣としての読書」とは別物なのだ。
 そんな「習慣としての読書」をして自身の商売ネタとすることに成功した数少ない漫画家,久世番子が,本に関係する社会システムの一部を取材し,時には体験する(した)ことをテンションの高いエッセイマンガにしたもの,それが本書である。
 新書館というところは不思議な出版社で,ことにマンガに関しては派手なメディアミックス戦略というものとは全く縁がないにもかかわらず,ウィングス創刊以来,主として少女漫画系統の漫画家を細く長く育ててきたという実績を持つ。それでいてBL系のディアプラス,そしてエッセイ主体のウンポコと,雑誌不況と言われて久しい近年になって創刊し,発行し続けている。何というか,不思議としか言いようのない堅実な商売をしているのである。ことにウンポコは,訳の分からないタイトルではあるが,傑作エッセイを連載させていたりする,あなどれない雑誌なのである。似たようなテイストのBethは講談社という大出版社が創刊したにも関わらずあっという間に休刊してしまったのに比べると,そのあなどれなさが分かろうというものである。
 久世がそのあなどれない雑誌に連載を持っていることは,一箱古本市を主催する編集者・評論家の南陀楼綾繁さんのblog記事を読んで知っていた。だもんで,本書を見た時には直感的に「あ,さては」と気が付き,掛川の本屋には一冊しか置いてなかったそれを持ってレジに直行したのである。
 で,本書だが,さすがエッセイマンガの名手だけあって,面白く読ませてくれる。ワシが一番笑ったのは写植屋さん訪問記で,何というかメタフィクション的なギャグをかましているのである。詳しくは本書を買って確認してくれたまえ。
 当然,「習慣としての読書」をネタにした作品もあり,蔵書の管理に悩む読書人なら本棚戦線参謀本部のドタバタは「うんうん分かる分かる」となるはずである。ちなみに「壁全面の本棚ぁぁぁ~~~♪」(P.39)をワシは46万円で実現しましたがね。ほほほほほほほほ,うやらまし~~だろぅっ!>久世
 ところで一箱古本市で「死体の本」を買ったのはやっぱり内澤旬子さんだよなぁ・・・と思っていたらやっぱりそうだった。うーむ,内澤のシュミにマッチする本を読んでいたとは,さすが久世である。
 エッセイマンガを面白くする演出と,ウソ偽りのない読書習慣が良い具合に解け合って良質のハーモニーを醸し出している, 小林よしりん言うところの「技術の上に念を載せ」た作品が本書である。本好きのあなたには,是非とも身につまされて読んで頂きたいものである。「安くて軽いマンガ家」(P.31)を体現するような価格と軽さ(最近の本はホント軽いよね)なので,損はしない筈である。

糸井重里「思い出したら、思い出になった。」ほぼ日ブックス

[ 1101.com ] ¥1470(本体) + ¥630(送料)
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 一冊目に続く,第二弾。
 休日,届いたばかりのベッドに寝っ転がって読みました。
 アフォリズムだとか
 詩だとか
 思い出アルバムだとか
 「つながり」を重んじるものが多いな,とか
 いろいろ感想は持ったんだけど,ぜーんぶ,吹き飛んでしまった。
 それもこれも
 「若いときにとてもお世話になっていた方が亡くなって、
  お通夜に行ってきました。」(P.252)
辺りから涙があふれてきて,年甲斐もなくグズグズ泣きながら読み進んでいたら,最後の写真(P.281)で完全にやられてしまったからである。
 永田ァア
 あんまし泣かせる編集しやがるんじゃねーっ。
 三冊目はもうちっとほっこりさせてくれると嬉しい,けど,いい具合に裏切ってくれるんだろうなぁ。で,また買っちゃうんだろうなぁ。いいけど。
 良き休日になりました。
 ありがとうございました。>糸井&ほぼ日メンバーズ

高田純次「適当日記」ダイヤモンド社

[ Amazon ] ISBN 978-4-478-00376-3
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 わはははははははははは。久々に爽快な笑いを提供してくれる本にぶち当たって,ワシはサイコーに幸せである。それもこれも全てはヴィレッジヴァンガード札幌平岡店の陰謀によるものなのだが,一昔前の「サブカル」的ガジェットにあふれた店内で,本書は斜めに立てかけられたベニヤの一枚板に縦5〜6列,横4列の二次元平面的に飾られていたのである。その割には殆ど売れていないようで,発売以来2ヶ月ばかりそこにずっと置かれていたような感じであった。その証拠に,本書は万物に対して垂直下向きに等しく作用する重力によって,少し型くずれしていたのである。そんな本そのものが醸し出すそこはかとない悲しみは,どこかアンニュイな表紙の高田純次に通じるものがある。もっとも本書の腰巻きを外した途端に爆笑に変わってしまうのであるが。
 真面目な話,高田純次は真剣に「適当男」を演じているな,とワシは感心しているのである。島田紳助だったか,明石家さんまだったかは忘れたが,今一番いい仕事をしているな,と感じるのは高田純次だ,と言っていたのが高田の真剣さをよく物語っている。ワシも「天才たけしの元気が出るテレビ」で売れ出した頃の高田のインタビュー記事を読んで以来,その印象が張り付いてしまっている。進研ゼミに載っていたものだが,至極真面目な記事だったのだ。何が書かれていたか,全く覚えていないが。
 本書は2007年1月から12月までの高田純次の日記という体裁を取っているが,いつもの適当な受け答えで満ちあふれた本である。内容的にはかなり薄いが,それだけにバラエティ的な演出で補う必要があって,至極読みやすく楽しめるようになっている。ワシみたいなスノビッシュでないベタな読者にとっては素直に笑える文句が多数で,ちょっと土屋賢二的な捻りが感じられる。本人がウリにしている下半身ギャグも多く,下らないことといったらない。しかし多忙な芸能活動の中,映画の試写会に足繁く通っている所など,やっぱり真面目さの片鱗は隠せない部分も見られるのだ。ま,本人に言わせればそこも含めて殆ど嘘ということになるのかもしれないが。
 ホントにしろウソにしろ,虚実に関係なく楽しめる内容であることは間違いない。これからも同種の本は多数出版されていくだろうが,現時点でどれがいいか,と言われれば本書を推薦する。何せヴィレッジヴァンガードとワシの気まぐれ感覚の両者がタッグを組んで選んだのだ。信憑性は,高田純次の精液の濃度よりも高いに決まっているのである。

内田樹「ひとりでは生きられないのも芸のうち」文藝春秋

[ Amazon ] ISBN 978-4-16-369690-4, \1400
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 昨年逝去した作詞家・阿久悠は,今の流行曲と自分の書いてきた歌詞についてこんなことを述懐していた。曰く,今の歌は『わたし』なんだね,ぼくのは『あなた』なんだよ,と。
 本書を一言でまとめるならば,このような「あなた」から「わたし」への行き過ぎた世の流れに棹さす現代批評集,ということになる。
 ま,そんなもの,blogにも書籍にも雑誌にも山ほどあるさ,とお思いになったあなた(お,早速出た),ま,ちょいとお待ちなさい。本書に掲載されている短文は著者本人のblog記事が元になっているが,毎日それをウオッチしているワシも,改めて感心しながら読んじまったぐらい,本書は面白い読み物になっているのだ。
 どこが面白いかってぇと,まず内容が「常識的」なことが挙げられる。以前,著者・ウチダはデカルトの一文,理想郷を探索中であるなら,まずは現在自分が生きている社会とそこに根付いている常識に身を委ねておきましょう,という意味のものを引用していた。しかし,最終的にはイデアを希求していたデカルトとは異なり,ウチダの論法は歴史的構築物である「現在地」こそが最終的な着地点であるという揺るぎない確信に支えられたものなのである。古今東西論客の信頼の置ける文献に依拠しつつ,決して純粋すぎる方向には向かわない謙虚さと常識性を兼ね備えているのである。
 次に,好奇心が旺盛で,かつ体力に溢れているご仁であるため活動が多岐に渡っており,いわゆるアームチェア・ディテクティブのような眼高手低的文章にはなっていない,ということが挙げられよう。大学内では役職を大過なくこなし,新聞連載をこなし,合気道の鍛錬に励むと共に,長期休暇(っても教師にはやることが山のようにあるのだよ)には様々な論客と対談をしたり各種媒体からインタビューを受けたりしつつ,箱根に籠って麻雀三昧の日々を過ごしたりするのである。疲れねーかふつー? こんなアクティブに他人と熱くコミュニケートする人間の書いた「ひとりでは生きられない」というメッセージを込めたものであるから,自らは沢山の弟子や信奉者に囲まれて過ごしているくせに「一人で老後を過ごすのは楽しい」的な自己チュー本を書く奴よりはよほど信用できるというものである。
 既に一人暮らしを始めて20年以上にもなろうかという中年ひとりもののワシであるが,最近ますます「ひとりでは生きられない」という当たり前の事実を身に染みて感じさせられることが多くなってきた。本書を他人にお勧めしたくなっているのも,そうした身に染みて感じる同等の寂しさがそうさせているのかなぁ,と思う。願わくば「プロジェクト佐分利信」(P.63〜67)の成果に一縷の望みを託したく,これからのご活躍を祈念したいのである。ぐっすん。

小島茂「学位商法」九天社

[ Amazon ] ISBN 978-4-86167-209-5, \2500
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 Degree MillもしくはDeploma Mill(以下,本書に倣ってDMと略記)と呼ばれる,未認定の学位を発行して利益を上げる団体の存在を初めて明確に認識したのは小谷野敦のエッセイを読んだ時である。突撃型の体験エッセイという感じのものだったが,スパムメールの一つに「学位を差し上げます」というものがあり,それに応じて先方と連絡と取ったところ,何やら怪しげな団体だということが分かってすったもんだする,という内容だった。カナダに留学経験のある小谷野のことだから,エッセイのネタになると思ってあえて突撃してみた,ってことなのかもしれないが,ひょっとしてホントにDMの存在を知らなかったのかもしれない。当然ワシも全く知らなかったので「へぇ〜,そーゆー所もあるんだねぇ」と感心した次第である。そーいや,海外から山ほど届くスパムメールには何とかdegreeとか書いてあるよなぁ,今も昔も変わらず,ね。
 しかしまぁ,スパムを送ってくる所はまだ怪しげさに可愛げがあっていい。いや,もちろんこれにだまされる人も多少はいるのかもしれないが,毎日何万通も未承諾広告を送りつけてくるような輩を信用する奴は,まあ自業自得である。問題は,対外的にはもっともらしいWebページや活動内容を喧伝していながら,実は全く設置地域の政府や公共団体からの認証を受けていないDMの存在である。昔,三遊亭楽太郎が博士号を取ったと宣伝していたことがあったが,今から思うとあれもDMだったかな,と思う。楽太郎は知人の社長(?)から,論文を送付するだけで博士号が取れるという話を聞き,様々な人の助けを借りて博士号を取得したと言っていたが,結局はDMの広報塔として利用されたということなんだろうなぁ。まあ芸人としては正式なものであれ,騙されたものであれ,どっちにしてもネタにはなるので,損にはなっていない。社会的な影響はともかく,本人としては「シャレ」の一言で済んでしまう話である。
 しかし,ご立派な認可大学の教員が実はDM博士号保持者だった,となるとシャレでは済まない。文科省の調査よって全国の国公私立大の約50名がDM学位を持っていることが判明しているが,本書の著者,静岡県立大・小島茂によれば,実体はもっと多いらしい。小島の地道かつ真摯な学術的研究活動の結果,DMの存在が広く知られるようになり,ヤバいと思ったDM教員は学位を取った大学名を隠すようになってしまったのだ。週刊現代には公になったDM教員のうち,コメントが取れた約半数の実名リストを記事に掲載しているが,これはまだ氷山の一角に過ぎないってことになるのだろうか。ホント,シャレにならない事態である。以前にも書いたが,安くない公金がつぎ込まれている教育活動に従事する教員は,一人残らず経歴と博士号取得大学を明記する責任があるだろう。
 本書はそんなDMについての知識を一通り授けてくれる貴重な一冊である。何せ現在進行形でDMからの攻撃にさらされつつ,果敢な広報活動を続ける著者が書いたものだけに,説得力が違う。それでいて,DMの定義,DMの行動様式,世界各国におけるDMの活動状況,DMへの対抗策がきっちりとした資料引用に基づき,冷静な筆致で述べられている。様々な形で難癖を付けてくるDM相手にマスコミもbloggerも及び腰になっている(実はワシもその一人だ)中,現在入手できる最高の一冊であることは間違いない・・・つーか,一冊しかないんだなこれが。その辺が日本の言論界の情けない所だが,いまいち世間的な盛り上がりに欠ける理由も本書には述べられている(P.107〜P.112)。日本の大学,特に理工系以外の分野では歴史的に博士号の所持が重視されておらず,最近になってグローバルスタンダードの風を受けて学位が大学内では重要視されるようになり,日本の欧米変調の風潮もあいまって,DMが現役教員にも浸透してきた・・・が,世間的には大学の勉強なんて不要,という認識が強く,いまいちDMへの危機感が薄い,ということのようである。困ったことだが,DM学位を持つ判事が蔓延って,結果的に裁判で有罪判決が覆ってしまったイランの例,DMが政府高官に食い込んでしまったカンボジアの例などを読まされる(P.31〜32)と,これは本書副題「教育汚染」という文句が大げさではなく,背筋が寒くなる話であることが分かる。前述の通り,全大学教員の履歴の全面開示を義務づけ,DMへの監視の目を厳しくすることを国家レベルで行わなければ,日本の国力も世界的な信用も失ってしまう事態になりかねないのである。
 ということで,教育関係者,特に教員採用に関わる方々には必読の書である。大学に一冊ぐらいは常備しておきましょう。
 ついでに言っておくと,もう少し組版のレベルを上げてくれ>九天社&デザイナー 誤字脱字はないが(小島先生の尽力か?),段落組違いとか,文字間隔の不自然なばらつきが散見され,内容はいいのに外見で損をしている。ここは小林よしりんの名言,「技術の上に念を乗せろ!」を噛み締めて頂き,次版の改善に期待をすることにしたい。