群ようこ「音の細道」幻冬舎文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-344-41096-1, ¥457
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 まずは上の写真を見て欲しい。あなたはこれを見て,違和感を覚えるだろうか? いや,地縛霊とかそーゆー話ではない。・・・分からない?
 無理もない。
 確かにこの写真だけではよく分からないだろう。しかし,手にとると・・・おおっ,これは!・・・となるのである。
 ワシはいつもの群ようこエッセイを読むつもりで買っただけなのに・・・。それが,一冊の文庫を巡る,ミステリーの始まりだったのです(大げさな)。
 本書は幻冬舎の広報誌「星々峡」に連載されていた,音楽にテーマを絞ったいつもの群ようこエッセイ集である。大体は連載時にリアルタイムで読んでいたのだが,この度文庫化されたのを機に購入したものだが,今回は内容ではなく,本書の外観のみ語ることにしたい。内容なんて,群ようこであるから,今更ワシがあれこれいうこともないっしょ(なげやり)。いや,面白いのは確かなので,その点は誤解なきようお願いしておく。
 掛川の書店の文庫新刊コーナーに平積みになっていた本書を手に取り,レジに向かう途中,ワシは違和感を覚えたのである。
 違う。何かが違うぞこの文庫。
 あれ・・・?
 小さ・・・い?
 いや,文庫だもんなぁ,そんなことないよなぁ。各社統一サイズだし,ワシの感覚が狂ったのかな? 
 ・・・と,まあ自分を納得させて,家に戻ったのである。
 しかし,枕頭に置いて寝る前に読み始めると・・・やっぱり変なのだ。明らかに・・・小さいのである。で,実際に他社の文庫と比べてみると・・・
 ああっ,何ということだ! 文庫が,文庫が・・・・

縮んでいるっ!(悲鳴)

 まずは,論より証拠。これをご覧あれ。比較対象に使ったのは集英社文庫の森まゆみ「寺暮らし」である。これも面白いちゃぶ台エッセイなので是非お勧め・・・ってそれはそれ,これはこれ。話を戻す。
 高さはご覧の通り,同じである。
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 しかし,正面から見ると・・・
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 あ,ずれてる。
 更に拡大してみると・・・
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 やっぱり,横幅が5mm程足りないのである。うーむ,伊達に十数年間に渡って文庫を読んでいなかったのだな。持っただけで違和感を覚えたワシの感性は鋭い。褒めて欲しい。
 しかし謎だ。単に造本が間違っているという話ではない。平積みになっていたこの文庫は皆同じサイズだったように記憶している。幻冬舎文庫はあまり買う機会がないのだが,皆このように横幅が狭くなっているのだろうか? 今度本屋で試してみよう(迷惑な奴)。
 しかし謎である。あの見城徹のことだから,コレも何かの仕掛けなのかな,という気もするが,意図がさっぱり分からない。どなたか事情をご存じの方に,是非教えて欲しいものである。

一本木蛮「戦え奥さん!!不妊症ブギ」小学館

[ Amazon ] ISBN 978-4-7780-3501-3, ¥952
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 単なる偶然ではあるが,本書が発売されてすぐ,ある人気女性シンガーが深夜番組で「35歳をまわるとお母さんの羊水が腐ってくるんですよね」と発言したことが事件になった。この発言事件の前に厚労大臣の失言が国会等でやり玉に挙がったが,その時は概して世間の反応は冷静だったのに対し,今回の事件は市井の人々の中に相当な深い傷を残したようで,そのシンガーの活動は当分自粛,担当ディレクターも処分を受けるという,関係者一同総懺悔という状態になった程である。
 ワシは本書を読了し,一本木蛮は今回の発言をどう受け止めたのか,それが一番気になった。今のところ特に公式な反応はしていないようだが,本書は続編が予定されているらしいので,ひょっとするとそこには掲載されるかもしれないし,スルーしているかもしれない。いや,一本木のような真面目な大人の女性のことだから,多分,反応したとしてもそれは怒りとしてではなく,深い悲しみを伴ったものになるのだろうと勝手に想像している。
 それは本書で描かれている,長年に渡る不妊治療の悲喜こもごもを知れば,納得して頂けると思う。不妊治療に関する本や当事者の体験談などは既に山程出版されているに違いないが,ワシは生憎未見であるので,そういうものがどういう傾向を持っているかは全く知らない。しかし多分,その中でも本書は相当な異色作だと思われる。著者自身の体験談という以上に,優れたエッセイ漫画としてずば抜けた出来であるからだ。
 一本木蛮のエッセイ漫画が面白いということは,「じてんしゃ日記」を競作した高千穂遙が保証している上に,「じてんしゃ日記」自体がそれを実証しているから,今更繰り返す必要もないだろう。しかしどこがどう面白いかはもう少し詳細に説明する必要がある。以下の記述はワシの主観に基づくものだが,なるべく大方の納得が得られそうな所を取り上げてみることにしよう。
 第一に絵が魅力的だと言うことが挙げられる。ワシは一本木デビュー当時の少年漫画を読んだことはないのだが,丸っこく可愛い絵でありながら抑揚の強いペンタッチであるというのは,まさしく往年の少年漫画のそれである。漫画の絵からペンタッチが抜け,抑揚のない線が主流になってきたのは,とり・みきがサインペンを使い始めた1980年代後半からの流れだと思われるが,21世紀に入ってからは逆にペンタッチの抑揚が強まってきたように思われるのだ。その意味では,一本木の力強く,それでいて滑らかなペンタッチの絵は,流行の荒波の中を一回転して結構先端に押し出されたものになっているのだろう。
 第二に,そういう可愛らしい絵で描かれる世界は極めて上品であるということが挙げられる。ワシにとってはケバいコスプレイヤーのねーちゃんとしての一本木のイメージが強烈だったので,ヤンキー系の人かと思っていたのだが,前作「じてんしゃ日記」も含めて,不良っぽい香りが全然しないし,スケベネタも健康的かつ健全なものになってしまっている。手塚治虫は矢口高雄の作品を評して「上品」と言っていたが,曲がったところが皆無な矢口の描く世界と,一本木の作品とは通じるところが多いように思われるのだ。
 第三に,情報量の豊富さを指摘しておきたい。優れたストーリー漫画を描ける作家のものでも,ことエッセイ漫画となると情報量が極めて少ないスカスカの作品になってしまうことがある。白く抜けた絵で短いページ数で体験談を描けばエッセイ漫画になるという勘違いが原因だろうが,物語を進めることが目的のストーリー漫画とは質の違うものだという認識は最低限必要だ。読者はエッセイ漫画に「現実感」の皮を被せて読むのであり,作品はそこに寄りかかって構わないが,その現実感の導入の手助けをするための「情報」はふんだんに盛り込まねばならない。自分を中心としたしみじみエッセイなら周囲の景色を的確に描き,体験記なら5W1Hは不可欠だ。本書は一本木自身の不妊治療体験記であるから,不妊とはどのようなものか,夫婦,特にダンナはどのように協力すべきなのか,どのように治療されるのか,やれば必ず治癒,つまり妊娠できるものなのか・・・等々,描かねばならない情報は大量にあるが,本書にはそれがもうてんこ盛りに詰まっているのだ。てんこ盛り過ぎてちょっと重いかなとも思うが,それだけ本人も,同じ不妊に悩む女性もダンナも,知りたい,知らねばならないことが多いという証でもある。重いテーマをノンフィクションとして過不足なく描くための誠実さもまた,この情報量によって裏付けられているのである。
 中年男のワシは,不妊治療というものが女性にとってどういう体験なのかということがよく分かっていないし,本書を読んだからといって,分かった,などと軽々しく言えるものではない。言えるものではないが,しかし,「軽々しく言えるものではない」ということは理解したつもりである。正直言って,この先,一本木夫妻に子供が授かるかどうかは分からないが,身を持って体験したことを優れたエッセイ漫画として世に出した功績に対してはそれなりの報酬があってしかるべきではないか,とワシは願っているのである。

羽崎やすみ「リリカル・メディカル」ウンポココミックス(新書館)

[ Amazon ] ISBN 978-4-403-61880-2, \530
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 細く長くしぶとく生き残るマンガ家という存在は貴重だ。
 何故か? 理由は二つある。
 一つは,何百万部も売れる大ヒット作を出し,高額所得者にならなければマンガ家に非ず,という1970年代から80年代,いや90年代半ばまで続いてきた庶民幻想を打ち砕いてくれるからである。「儲からないしヒット作もないけれど,プロのマンガ家は続けられる」という証明をしてくれるのだ。
 二つ目は,生き残った理由だ。一言で言うと,個性,格好良く言うと「作家性の高さ」というものがそれなのだが,この場合の個性というのは様々なバリエーションを持っている。脂ぎっている個性もあれば,脂ぎっていると見せかけている努力が個性になっていることもある。概してアクの強いのが個性,ということが多いのだが,羽崎やすみの場合はそうではない。むしろアクのなさこそが個性というべきもので,彼女の場合は大衆演劇の持つ「ベタさ加減プラス大衆性」というものに近いもののようだ。これについては後で再び触れる。
 この二つの理由によって,羽崎やすみの十数年のマイナー商業誌キャリアは貴重なものと言えるのである。
 羽崎やすみは,代表作というものを持たずにデビュー以来十数年,マイナー雑誌を転々として来た作家である。もしかすると,いまでも同人活動(羽柴シスターズ)の方が,盆と年末に東京ビッグサイトに集う数十万人の間では著名かもしれない。ワシは大手サークルの行列が嫌いなので,同人誌の方でどのような活動をしているかはよく知らないのだが,昔読んだ,どこかのアンソロジーに収められた作品(サムライトルーパーのパロディだったかな?)を読む限り,羽崎の作品は同人誌でも商業誌作品同様,全く同じテイストの大衆演劇的コメディであったと記憶している。シリアス作品もあったと思うが,面白かったのはやはりコメディの方である。しかもやおい(現・BL)臭は皆無であった。
 従って,ワシが羽崎作品を熱心ではないが折に触れては読むようになったのは,1991年のコミックスデビューからである。
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 写真でも分かる通り,このコミックスでは羽崎「安実」名義となっているが,間違いなく今の羽崎やすみのデビュー作(更級日記の方が先)である。余談だがこの「NHKまんがで読む古典」シリーズは,1990年代当時の腕っこき同人作家に執筆させた,担当者のシュミ全開(?)の貴重な作品集になっている。くそぅ,鳥羽笙子の源氏物語は買っておくべきだったと今でも後悔している程である。
 羽崎の画力は決して高くはない。普通の美形を描かせると,少女漫画テイストではあるが,かなり地味な顔になってしまう。絵も決してきらびやかではなく,かなり地味。ファッションには全く自信がないということは本人も自覚しているようで,どこかのコミックスのあとがきマンガでそれを嘆いていたぐらいである。しかもコメディ作品内のギャグは相当な「こてこて」である。自分を追いつめるほどの突き詰めたものではなく,吉本新喜劇のパターン化されたそれに近い。まさに見かけはおっさん臭い大衆演劇マンガを十数年に渡って描いてきたのが羽崎やすみなのである。
 しかし,大衆演劇というものがダサいだの芸術性がないだのと批判,というよりは半ば軽蔑されつつも,その伝統は今も途切れることなく続いている。これはつまり,ワシも含めた頭の悪い大衆にとって,高度な芸術的表現などというものよりも,分かりやすい手あかにまみれたユーモアの方がずっと親しみやすいものであることを示している。立川談志がどれほど芸術的に優れた話芸を披露しようと,人気の点では親しみやすい志の輔の芸に敵わないのと同じだ。つまり,羽崎やすみは,どこまで悩んだ結果なのかは不明なれど,同人作品で育んできたバカ大衆向けコメディテイストを延々と維持する道を選んだのである。ワシは,これが羽崎の細く長い活動を可能にした源泉であり,根底には三宅裕司やチャーリー浜の持つ職人的生真面目さがあると考えている。
 最新作「リリカル・メディカル」も,ワシにとっては「いつもの羽崎やすみコメディ」の一つでしかないし,多分,読めばそこそこの満足が得られることも分かっているが,すぐに買って読まなければいけないと言う程の切迫感はなかったのである。しかし,どーも「お馴染みさんのいつもの味」が出されてしまうと気になってしまい,今回出張の合間に大書店を散策中にこれを見つけ,買って読んでしまったのである。で,やっぱりそこには「いつもの・・・」があり,ワシは「そこそこの満足」を得,何だかほんわかな気分を味わってしまったのである。こっ・・・これは,凡人感だっっ!
 そう,予定調和的な大衆演劇を見た後の,何とも言えない「凡人感」,それをワシはしっかりと自覚してしまったのだ。高度な芸術を理解できず,破壊的なギャグに魅力は感じつつも,その先にある破滅の美学に恐れおののいて後退する,それが平凡人の持つ凡人感だ。齢四十を迎える直前のワシは,そんな自分の平凡さを,羽崎やすみと共に,今,噛みしめているのである。

谷川史子「くらしのいずみ」ヤングキングコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-7859-2909-1, ¥543
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 漫画家がデビューする場に居合わせる,ということは僥倖である。ましてや,その漫画家が長期に渡って活躍し,ワシの人生と共に歩んでくれるとなれば,バーチャルではあるが,一種の戦友という存在になる。もちろん相手はそんな一ファンのことなぞ知るはずもないから,当方の思いこみに過ぎないのだが,ワシにとっては特別な存在であることは確かである。谷川史子はそんな数少ない存在の一人なのである。
 彼女のデビューの場は集英社の大メジャー少女まんが雑誌「りぼん」だった。「ちはやふるおくのほそみち」という,初々しい少女が描くにしてはオバサンくさいタイトル(小林信彦の小説からの借用か?)の漫画で,古文教師の兄貴を慕う妹の仄かな愛情を,ちょっと荒っぽく,それでいて繊細なカケアミを多用した絵で描いた,不思議な雰囲気の作品だった。ワシは今でもこのデビュー作を含むこの時代の谷川作品が一番好きである。
 りぼんに限らず,集英社という出版社はメジャー路線の王道を突っ走っているにも関わらず,結構,作家性の強い,マニアックな漫画家にデビューの場を与えることを厭わないところがある。個性もまたメジャーに駆け上がるための強力な武器ではあるから,「面白い」と思わせるものを持った若者にはとりあえずツバを付けておこうということなのかもしれない。夢路行も雑誌は違うが集英社の雑誌「ぶーけ」で育っている。谷川も,りぼんの主軸として大ヒットを飛ばすという程ではないが,そこそこの人気を保ち,コミックスを何冊か出した後,ちょっと迷走気味だった集英社の少女まんが雑誌再編成の中でもまれ,マーガレットやぶーけの後継雑誌などで個性の強い作品を描き続けてきた。そして集英社から他社の雑誌にも活躍の場を広げ,この度,少年画報社というメジャー指向を持っていないわけではないだろうが,ぶっちりぎりのマイナー出版社からコミックスを出すに至ったのである。
 しかし谷川は,どこの雑誌でも,どこのコミックスでも,相変わらずの作品を描き続けている。そしてその頑固職人ぶりはヤングキングコミックスでも変わることはなかったのである。
 谷川史子は,一貫して「幸せなカップルの風景」を描いている。しかし決してワンパターンではない。華やかで初々しい画風なのでみんな同じに見えるかもしれないが,ストーリー構成にはかなり変化が見られる。本書は本人曰く「夫婦者しばり」の短編が7つ収められているが,物語の多様さは読む者を飽きさせることがない。ワシは出張先の名古屋でこれを買って読んだのだが,山のような仕事を抱えているにも関わらず,それらをほったらかして本書に耽溺してしまったのである。いや,確かに現実逃避の一環であることは否定しきれないが,四十路目前のオジサンにつかのまの「幸せ」をもたらしてくれたことは事実なのである。
 ワシが一番ぐっときたのは「4軒目・矢野家」の物語だ。一言でまとめると,奥さんを亡くしたばかりの若い男の回想記なのだが,二人で過ごしてきた幸せな日々の回想がサンドイッチのようにストーリーに挟み込まれている。現実と回想のギャップによって読者の感情をひっつかむ仕組みになっている訳だが,これが職人芸的にうまい。ワシはすっかりやられてしまったのである。
 ヤングキング OURSという雑誌は,間違っても女性をメインターゲットにした雑誌ではないはずだが,永遠の少女(by 石田敦子)・谷川に,どう見ても少女漫画にカテゴライズされる作品を連載させるというのはどういう意図があってのことなんだろう? 犬上すくねという成功事例にあやかったのか,破れかぶれなのか,マイナー出版社の考えることはさっぱり分からない。分からないが,確かなのは,谷川史子という希有な作家に活躍の場を与え,傑作コミックスを出版した,ということだけである。これがヤングキングの行く末にどれほど良い影響を与えるのかは定かではないが,日本の漫画文化に一定の寄与をした,ということだけは間違いのない事実なのである。

鹿島茂「乳房とサルトル」光文社知恵の森文庫,同「神田村通信」清流出版

「乳房とサルトル」[ Amazon ] ISBN 978-4-334-78496-6, ¥619
「神田村通信」[ Amazon ] ISBN 978-4-86029-218-8, ¥1600
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 この年末から正月にかけては鹿島茂の本を楽しませて貰った。日本では希有な体力と人気を誇る書き手についてワシが今更あれこれ言う必要はないのだが,自分用のメモとしてこの2冊を読んで感心したところをワシなりにまとめておかねばと思ったので,このエントリを立てた次第である。鹿島茂の読者である方にとっては役に立たない文章になるのは間違いないので,ま,適当に読み流して頂きたい。
 一応,大学教員という世界に身を置いてぼちぼち10年になろうかという経験から言うと,学者として優れている教員は,教育者としても優れているし,学内の雑用(と呼ばれているが,組織としては不可欠な手続きが大部分)においても手腕を発揮することが多い。逆に言えば,学生から総スカンを食らうような講義しかできない教員は,学者としても疑問符を付けられることが多く,組織人としての仕事もろくすっぽ出来ない,ということである。ワシ自身はもちろん後者に属するダメ教員であるが,鹿島茂は間違いなく前者の代表格なんだろうと思える。ま,こんだけ各種媒体に文章を発表していてどこに組織人としての仕事をする暇があるのかな,とは思うが,そういう仕事をやらねばならないとなれば,馬車馬のように片付けてしまう筈である。
 これはつまり,体力の違いという奴である。古谷三敏の傑作漫画「寄席芸人伝」では,体力のない落語家がマラソンに勤しんで芸を立て直すという話が出てくるが,これを基礎付けるものとして,ベテラン落語家がある日本の小説家(誰かは不明)から「ロシアの小説に長ぇのが多いのは,体力が違うからだ」という話を聞いた,ということが紹介されている。人間の脳は他の哺乳類と比較してもダントツにエネルギーを費やす部位になっているために,それを下支えする他の器官が丈夫でないと旺盛な頭脳活動を維持できない,ということは,言われてみれば当たり前のことである。そして,活発な頭脳活動が出来れば体力もあり,体力があれば他の肉体活動もこなすことが出来る訳である。
 「乳房とサルトル」は文藝春秋の「オール読物」に連載されていたエッセイをまとめたものだが,これは単なる雑学エッセイではなく,知識の正しい使い方を踏まえたプチ論文集になっている。よくもまぁこんだけ大量の本を読み,その内容を正しく把握した上で,既存の知識をくみ上げて一つの仮説を惜しみなく開陳できるものだと感心する。
 例えばタイトルに挙げられている「乳房」は巻頭のエッセイ「巨乳 vs. 小乳」から来ているが,このエッセイでは,現在日本の巨乳ブームというものを長い歴史的スパンから俯瞰してみると,これも一つの文化現象として位置づけられるという事実を知らしめてくれるし,「サルトル」については,「マロニエの木の根っこの会」(P.196〜204)において,有名な「嘔吐」というものがサルトルの植物嫌悪に由来するものではないか,という仮説を多くの事実を踏まえて論証している。トンデモに流れず,具体的な事実を踏まえて確実な論証の道を教えてくれるというエッセイは,優れた学者が持つ凄みを教えてくれるという意味で貴重なものであるが,それを長年続けているのだから呆れてしまう。一体全体どっからその活動を支える「体力」が出てくるのか,不思議というほかない。
 恐らく体力以外の秘訣があるんだろう,と思っていたら,その内実の一端が明かさせるエッセイ集が昨年末に刊行されたのであった。それが「神田村通信」である。
 この「神田村」とは,もちろん,世界にもまれな本の町・神田神保町のことである。鹿島茂の知的活動はこの神保町が支えていたのである。
 まず,職場が共立女子大という,学士会館のすぐ近く,神保町まで歩いて数分という立地であることが大きかったようだ。欲しい資料があれば,普段から目星を付けた古本屋へ飛んで行けるというのは,本好きのワシとしても羨ましい。ワシもかつては駿河台の日大・理工学部に通っていたから,ちょっと研究に疲れると坂を下って靖国通りをウロウロしたものである。鹿島茂の活動は,神保町という知の源泉抜きには存在し得ないものだったのだ。
 しかも現在は神保町に個人事務所を構え,自宅も神保町のマンションに移してしまったと言うではないか。これはもう末期症状という他なく,羨ましいを通り越して呆れてしまう。
 ま,都心に衣食住の拠点を移してしまったことで,副作用というものもあるようだ。それは本書で確認していただくとして,良いことも悪いことも余すところなく書いていて恬淡として諦めていないところは素敵である。出来の悪い学者と言えど口は立つから,ダメ大学教員でも批評だけはいっぱしのことが言えるものである。人をくさすのは簡単なことなのだ(ここでワシもやっているし)。しかし,経済を含めた社会活動を続けて行くには,他人の批判をすることよりも,批判される側に立つ,つまり,自ら飛び込んでいくしかないのだ。
 ワシは,世間の注視や非難を浴びつつも泳ぎ続ける姿に対して感動するタイプである。小林よしりんもそうだし,小谷野敦内田樹もそうだ。他にも無名ながら「泳ぎ続ける」人たちが沢山いて,この先ワシの短い人生ではそういう人間だけを見ていきたいな,と念願しているのである。この2冊の著作を読み,どうやら鹿島茂もその一人としてカウントしていいことが分かったので,これからのご活躍を眺めていきたいと,ワシは正月早々決意した次第である。