1巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-04-853724-7, \1200
2巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-04-853725-4, \1200
明治の半ばから終わりにかけて,ため息と共に詩を詠んでいた,うだつの上がらぬ男がいた。生前は小説で身を立てることも夢想していたようだが叶わず,貧窮の果てに死んだ後,彼の詩は世の大多数の「うだつの上がらぬ」男たちに支持され,今も生き続けている。国語の授業では必ず彼の詩の一つや二つは取り上げられるようになって久しいが,女性の感覚では「ダメ男の自己憐憫なんかにつき合ってられっか」と一刀両断の元にうち捨てられるのが常のようで,ついぞ好意的な感想を聞いたことがない。
彼の,ひたすら享楽的で,家族を慈しまない生活態度は,いつの時代も「健全」とは相反するものであることは確かだ。そして,彼の詩は,そのどうしようもない彼の生活態度と,社会的に認められないという嘆きを源として沸いてきたものである以上,「健全」でない部分を持つ世の男どもの琴線に触れないはずがないのである。
石川啄木は,つい最近も離婚した(させられた?)嘆きを女々しく愚痴る現代短歌作家によって光が当てられたが,そんなことに関係なく,人間の虚栄心と自己愛と競争心が消滅しない限り,彼の詩は人々の口の端から漏れるつぶやきとして残っていくに違いないのである。
母親に捨てられた若い男・Nがいて,ヒロシマで放射能を母親の胎内において受けた若い女・ヨーコがいて,人生の第一歩を踏み出せず躊躇しているTがいて,Nを思慕しながらも満たされないセーラー服の女・ヨーコがいて,革命を夢想しつつ権力に凭れるSがいて・・・まあつまり,背負ってきた人生は様々なれど,「青春のモラトリアム」がもたらす焦燥感にさいなまれている若い衆が昭和40年代に生きていれば,こういう嘆息調の啄木の詩がぴったりくるということなのだろう。大塚によれば,彼らの「内面」は啄木に託されたようなもんであるから,物語はどうしたって「やるせなさ」の固まりとならざるを得ない。誰一人として,筋書きがあらかじめ決まった映画のようには行動できず,短期的な目的を持った途端に結果に裏切られるのだ。
啄木なのである。
彼らは別段特別な存在ではなく,ごく普通の,どこにでも存在するアンラッキーな十把一絡げのサンプルに過ぎないのである。啄木は,そんなサンプル達のつぶやきを短く的確な詩に残してのたれ死んだ,これも明治のサンプルの一人だったのである。大塚英志は,そんなサンプル達を,この時代に発生した事件・事象をうまく絡めて物語を紡いだのである。
藤原カムイはデビュー以来培ってきた表現力を,我々が持っている「青春のモラトリアム」という共同幻想の構築に注いだ。昭和40年代の人物や背景を,軽みを帯びた陰鬱さのスモッグの中に配置できたのは,大塚の原作と注文(ATGの映画のように,とか,永島慎二や宮谷一彦のように,等)に因るところが大きいのだろうが,画力がなければ間違いなく失敗していたに違いない。
初期のSF短編とは別の,雰囲気を醸し出せる的確な表現力は,谷口ジローと双璧をなすところまで行き着いた。しかも,全編に渡って手を入れ直したというだけのことはあって,あまり画面にむらがなく,至極安定している。静謐な雰囲気を壊さない微妙なタッチを,700ページを超える長編で維持できた藤原の力量があってこそ,この作品は傑作たり得ているのだ。
分厚さを感じさせない大作である。啄木を堪能しつつ,読むべし。
二宮ひかる「おもいで」ヤングキングコミックス
[ Amazon ] ISBN 978-4-7859-2805-6, \552
肉欲を排除した恋愛はあり得ない,ということを断言していたのは北杜夫だった。何となく,SEX抜きの「純粋恋愛」というものが至高のものだという意識があったウブな頃にそれを読んだので,えらく感心したのを覚えている。
20年ぐらい前の少女漫画界にはSEXがタブーという雰囲気が濃厚で,既に名をなした大家以外で「まがい物でない恋愛」を描いた作品はほとんどなかったと記憶している。BSマンガ夜話で,大月隆寛が「少女漫画はいつからエロくなったのか」と問題提起をしていたが,全体としては「やおい」の流れと,小学館が先鞭をつけた「初体験ドキドキ路線」(と先達は申していた)が合致して,1990年代前半から「エロくなった」んじゃないかと思っているがどうなんだろう。
しかし北杜夫の言葉を借りれば,エロ化とは恋愛のリアル化に他ならない。いろいろな経緯と辿りつつ,最終的には男は女にSEXさせろとせがみ成就する,というのが「普通の恋愛」のあり方であり,べたべたした両思いにたどり着きながらキスだけしておしまい,などというマンガが流行っちゃったために日本の少子化路線が定着したのだ・・・というのは妄想であるが,まあつまりは日本のマンガもようやくリアルな恋愛が主流になった訳で,まずはこのことを言祝ぐべきである。最近では「ラブロマ」が,SEXというベタになってしまった用語を廃しつつ「みかん」に至って完結したが,さて童貞マンガの巨匠とも言うべき植草理一の「謎の彼女X」がどういう決着を見せるか,今から楽しみである。
・・・話が逸れたが,何を言いたいかというと,二宮ひかるは男性誌で長く活躍しながら,リアルな恋愛を書き続けてきたマンガ家であり,その祖先はやはり少女漫画なのだ,ということなのである。
二宮の存在は割と早くから知っていたように思う。しかし,ちゃんと単行本を買って読んだのはつい最近,それもキングからアフタヌーンに場所を移した第一作「犬姫様」からである。結局この作品は人気がなかったためか,はたまた作家本人の事情か,うやむやのうちに単行本一冊にまとまる分量で連載が終了してしまったのだが,エロいロマコメとしては十分面白い作品になっていた。
以来,気になる作家の一人だったのだが,どうも新作が見あたらず,記憶の隅に追いやられていた。今回久しぶりの単行本が出たので,迷わずレジに持って行ったのである。そして期待は裏切られることはなかったのだ。良い機会なので,この際,ワシのSEX観も絡めて二宮作品を論じたい。
これは個人的なことなのだが,最近はすっかりAVがダメになってしまったワシなのである。このAVとはAudio Visualのことではなくて,Adult Videoの略称である。とにかく最近のAVは全然ものの役に立たないのだ。
いや,EDになってしまったという訳ではない。それはワシではなくて×義○である。とにかく近頃のAVときたらフェラチオばっかりで,現実のSEXからは遊離しすぎている・・・いや,世間のカップルの多くがフェラっているというなら話は別だが,恋愛初期のさかりがつきまくっている一時期ならともかく,慣れ親しんだ時期のそれは
「・・・いい?」
「え~,するのぉ?」
「あ・・・やめとく?」
「う~・・・ま,いっか」
・・・ってなもんで,例え法的に夫婦となっていても,女性の「ご許可」を頂かねばおいそれとはできない代物であるらしいのだ。まあこれは当然のことで,DV(家庭問題の用語は何故2文字が多いのだろうか)状態ならいざ知らず,男女同権を重んじる現代人が営むカップルは,まず第一にきちんとコミュニケーションを取り,両者の合意の元に全ての物事がなされるべきと考えるのが普通だろう。
今のAVにはそーゆー「普通のSEX」がなさ過ぎるのである。もちろん,縄で縛ったりつるしたりするのが好きだという御仁も相当数いるのだろうが,ワシにとっては痛々しすぎて見るに耐えない。うぐいすみつるが力説するように,SEXは男女のコミュニケーションの一手段なのであり,恋愛活動の一環として行われるべきものである・・・というのがワシの持論なので,どうも性的感情を高ぶらせる前の精神的前戯という奴が全くないAVはワシの実用には適さないようなのである。
で,二宮作品であるが,一見するとお気楽なお色気マンガに過ぎないと見られがちである。しかし,作者本人としてはSEXを全面に据えつつ,自身が理想とする究極の恋愛の姿を描写したいのだろう。それ故に,ワシにとっては2Dでありながら,十分,実用AVとして使える(何にだよ)作品に仕上がっているのである。作者は怒るかもしれないが,「愛のある実用AV」とは,ワシにとっては最高の褒め言葉であるので,どうかご寛恕願いたい。
本書は5シリーズから成っている短編集である。著者のあとがきによれば,いろいろと事情があり,なかなか作品が描けなかったようだが,そのようなスランプを感じさせないみずみずしさは健在で,どれも良い短編である。ワシの好みは物書き女性とそのペット(若い男)のシリーズなのだが,二宮の「恋愛観」を知るには,姉×弟というカップリングの2短編「とうきび畑でつかまえて」(二宮は道産子か?)と「あおぞら」を比較するのが一番分かりやすいと思われる。
二宮は男女の思いやりの深さが同程度になることが最高の恋愛だと考えているようだ。常識的だが,まあ世の中そううまくはいかないもの。逆にそれが達成されていれば,近親相姦もタブーではないということなのだろう,この2作品には背徳感を全く感じない。しかし,「とうきび畑・・・」がコメディなのに対し,「あおぞら」が暗く沈んだ雰囲気なのは,前者が二宮の理想に達しているのに対し,後者はどうも姉のそれに対して弟の思いは薄いのではないか,と,少なくとも姉はそう感じている,という点が雰囲気の差を生じさせているのだろう。弟に押し倒され,あらがうそぶりだけする姉は,肉欲以外の真の愛情を欲するために泣くが,それが更に弟の欲情を増すことにしか繋がらないのだ。・・・こう書くとまるでポルノだが,姉の思いは結局通じず,空に舞い上って胡散霧消するだけという様が描かれると,ポルノとは縁遠い作品と言わざるを得ない。やはり本作も含め,二宮は一貫して「まるごとの恋愛」を追い求める作家なのだ。
Gペン(?)によるごっついペンタッチを持ちながら,白さをうまく使う画面構成や,SEXの細かい描写をせず,抱き合っている様を上品に描くところは,完全に少女漫画テイストである。前述した恋愛観も合わせると,やはり二宮の出自は少女漫画と言わざるを得ない。今も男性誌において「愛情の伝道師」たり得ているのは,「エロくなった少女漫画」がそれだけ男性にも支持されるリアルさを獲得するようになったということなのであろう。ファンタジーに走りすぎたAVにカツを入れるべく,二宮には末永く,愛を書き続けて欲しいと念願する次第である。
唐沢俊一「新・UFO入門」幻冬舎新書
[ Amazon ] ISBN 978-4-344-98035-8, \720
格差社会という言葉が蔓延って久しい。さりとて,全ての格差をなくすことは不可能である。今問題にされている格差とは,「自宅」を持たないホームレス・ネットカフェ難民・ニートと,「普通の生活」が可能な層とのギャップが広がっていることを指しているようだ。確かにこの格差社会は問題だが,定職を持って働いてさえいれば人並みの生活ができるようになればよし,というのが一応の合意点であり,すべての労働者を一律の経済力に揃えるなんてことを今の日本で望んでいる人は,まあ殆どいないだろう。
逆に言えば,どんな好景気であろうと,定職を持てない人を皆無にすることもまた,不可能である。これも少数ではあるが,知能も健康にも問題はなくても,性格的にどうやっても真面目に働くことができない人種というものはいる。ワシは教師であるから,こういう言説を吹聴してはいかんのかもしれんが,やはり「社会的不適応者」をゼロにすることは不可能と言わざるを得ないのである。そしてこの社会的不適応者の中に,自分への社会的評価というものを客観視できない人たちがいる,ということは間違いない。
人間誰しも欠点はある。日本人の健常者なら誰でも東京大学に入学できるわけでも,オリンピックに出場できるわけでもない。誰だってできないことはあるのだが,それに対する「お前はダメな人間だ」という評価がなされてしまうと,これはなかなか辛い精神状態になる。試験で赤点を取る,転んだわけでもないのに徒競争でビリになる,飛んできたボールを受け損なう,大学入試に失敗する,入学しても留年してしまう,入社試験にしくじる,取引先と悶着を起こす,営業成績がビリになる,リストラされる・・・などなど,もう言い訳のしようのない辛い事実と付き合っていかなければ人生を全うすることなぞできはしないのだ。だから,徹底した楽天気質か自分を客観視する回路がイカれた人間でなければ,「人生は大変だなぁ」とため息をつきながら日々をやり過ごさねばならない。逆に言えば,その事実を受け入れることができさえすれば,まともな人生を送ることができるのである。内田樹がいうところの「正しいおじさん」(or おばさん)とはそのような悟りを持った人たちのことなのだろう。さらに逆に言えば,「正しいおじさん」になり損ねた人種の,更に一部が社会的不適応者になってしまうのである。もっと詳しく言うと,人間誰しも社会的不適応な部分は持っており,これを人生経験を経ることで少しずつ軌道修正していくことで,正しいおじさんへの方向付けを行っていくというのが,「普通の人」の人生なのである。
本書を読むと,どうやらUFOを目撃した人々のうち,特にトンデモなことを言い出す人はこの「普通の人」への方向付けをたまたま,あるいは意図的に間違ってしまった人種のようである。人生の悩みを超常的な存在に託してしまう,というのはワシも高校生ぐらいまではやっていたし,まともな社会人の中にも霊感があるとぬかしよる輩はいる。しかしまぁ,そーゆー非科学的とされる存在にはあまり深入りしない方が人生にとってはよさそうだな,と,普通の人は年とともに悟っていくものだ。そこを掛け違ってしまって,しかもそのような存在を信じ続けてしまうと,と学会メンバーの格好の餌食になってしまう訳なのだ。
人生とは辛いものなのだ,とは藤原正彦の言だが,これは,特別な能力に恵まれず超人的な努力も苦労もできやしない普通の人間にとっては,自身の至らなさを客観視しつつ,世間との折り合いをつける作業そのものが人生なのだ,ということを言っているのだ。もうスッカリUFOとも霊現象とも超能力とも縁遠くなってしまったワシであるが,それはつまり,正しいおじさんの道を歩めているということでもある。その意味では自分に対して少しは褒めてやりたい気分になってきたところである。
本書に関しては引用ミスの問題があったし,事実の羅列が多くて唐沢俊一の地の文章が少なく,ワシにとっては物足りなく感じるところはあるものの,トンデモな人達にも我々と大いに共通する部分があることを優しく述べているところはもっと喧伝されていい本である。異性人の来訪を信じている人には全然期待はずれの本ではあるが,UFO事件をいぶかしげに眺めていた多数の方々にとっては「そーか,そーゆーことなのか」と膝を打てる,人間精神の一端を垣間見せてくれる良書である。
岡田斗司夫「「世界征服」は可能か?」ちくまプリマー新書
[ BK1 | Amazon ] ISBN 978-4-480-68762-3, \760
筑摩書房 (2007.6)
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仕事の一環で,サーチエンジンを作っている。いわゆるランキング機能つきのものなので,極小サイズのGoogleもどきみたいなもんである。
作っているとは言っても,主要部分は全て外注,つまりワシの研究室のOBに作ってもらったもので,ワシ自身は「こんなの作ってくれない?」という言いだしっぺ役と,ランキング機能を付加したに過ぎない。まあたくさんの共著者を連ねた論文に「名前だけ」載る偉い先生よりは働いたと思うのだが,昔に比べて馬力も時間もなくなってしまったワシとしては,自分一人でこれを作り上げられなかったことを素直に反省する次第である。力不足でごめんなさい。
それはともかく,このランキング機能と言う奴,作るのがとーーーっても楽しかったのである。内容は馬場さんの解説ページにある奴を素直に実装しただけだが(疎行列向けの最適化はがりがりと行ったが),それに基づいて10段階にランク付け,つまりURIに「成績」をつけるのだが,これがすーーーっごく楽しいのである。もちろんプログラムを作るのも楽しかったのだが,それ以上に,このワシが,普段は静岡西部で孤独にシコシコと○○な○○を相手にロクでもない日々送っているこのワシ自身が他人のWebページに「成績」をつける,というこの超生意気な作業がワシの脳内に巣食う邪悪な欲望に火をつけてしまったようなのだ。
わーははははははは,貴様らはワシの成績の前にひれ伏すのだ!
と,どっかの安っぽいTVアニメか特撮映画の悪役のような気分になってしまったのである。
どーも,ワシも含めたオタクという人種の多くに「世界を自分の前にひれ伏させたい」,言い換えると,「自分が一番偉い,偉くなりたい」,という欲望が隠されているのではないか。このゆがんだ自尊心を抱えているために,自分の世界を作って引き籠ってしまうという行動に出るのではないか。本書を読み進むにつれて,ふーんなるほどなぁと感心すると共に,「世界征服」ってのはオタク人種自身に巣食うこの欲望の反映なんだな,とつくづく思い知らされたのである。
岡田斗司夫の分析力と話術はさすがだなぁと常々思っているのだが,本となるとイマイチ感心できないものもある。フロンやプチクリもちらりと書店店頭で眺めて,こりゃ合わないなと感じて購入しなかった。しかし,本書はちょうどワシがWeb世界の征服者気分を味わっていた時に出たものであったので,唐沢俊一の新刊と共に迷わずgetしたのである。
そしてその読みは正しかった。本書はワシの高揚した「世界征服」気分をちゃんと代弁してくれる内容であり,エンターテインメント世界に登場する多数の征服者や現実のモンゴル,ローマ帝国,USA等を例示して分析し,「世界征服」の目的,手法,意義を明快に述べている。その内容については高々200ページ程度の本書を読了してくれれば,すぐにご理解いただける筈である。
「街場の中国論」において,内田樹は日本は中国に対してもUSAに対しても小国,つまり属国的な対応しか取れない国であることを主張している。してみれば,この「世界征服」という奴,特に日本のエンターテインメント作品に登場してそれを目指す輩は,ワシ同様,卑小な自我を支える欲望の象徴なのかもしれない。
内田樹「街場の中国論」ミシマ社
[ BK1 | Amazon ] ISBN 978-4-903908-00-7, \1600
日曜日の午前中,AM7:30~AM11:00頃まで,フジテレビ,NHK,TV朝日の番組リレーを眺めることが,政治経済に関心のある日本のサラリーマンのデファクトスタンダードになって久しい。ワシも時間に余裕ある時は(ない時でも現実逃避行動の一環として),ぼーっと眺めることにしている。ここ10年ばかり,そーゆー日曜日の午前中を過ごしてきたが,年とともにワシの脳内の視聴態度が変わってきたのである。
以前は野党や攻め立てる司会者に共感して見ることが多かったが,今は与党代表者や攻め立てられる側に日ごろの自らの言動を重ねて見ることが多くなっている。そして,つくづく「言い立てるだけ,批判するだけってのは楽だな」と思うようになった。逆に言えば,自分が批判される側になってきた,ということでもある。言い訳をする,自己弁護をする,そーゆー「情けない」立場になってきた,ということである。客観的に見て,ワシ自身に責任がある失敗を重ねてきた,という訳である。・・・書いてきて気分が暗くなってきたが,まあ,ワシが子供の頃,オトナが遠い目をしながら「・・・いろいろあるんだよなぁ・・・」と誰に語るでもなく呟くのを何度か聞いたが,それを同じ態度をワシが取るようになった,ということなのである。その意味で,ワシはオトナになったのである。
で,今のワシは選択的にリスクをとるかどうか,考えるようになっている。卑怯な態度だなぁ,と我ながら思うが,リスクを引き受けるからには責任が付きまとう訳で,できもしないことをやすやすと引き受けることはかえって相手に失礼になる,と考えてのことである・・・おっと,もう言い訳を始めてしまった。それでも我ながらバカだなぁ,と後で思ってしまうリスクを抱えてしまうことは,今でも多いと感じる。その意味でワシはやっぱり本質的にバカなんだろう,きっと。
そんなワシとは真逆の人間がいる,ということを知ったときは新鮮な驚きを感じた。自分の社会的地位を維持するための必要最小限のことはするが,それ以上のことはひとかけらもやろうとしない,そーゆー人間のあっけらかんとした態度表明を聞いたときは少し感動した。同時に,こりゃ困ったことになったなぁ,と大いに戸惑ったのである。でまあ,実際,そーゆー人間の尻拭い,しかもリスクつきの仕事も引き受けさせられて,ウンザリさせられているのである。
ワシら人間は,国,地方,市町村,町内会,会社,学校,各種団体・・・いずれかの組織に属し,そこで一定の社会的役割,つまり,内田樹いうところの「雪かき仕事」を大なり小なりこなしている。その自分とは直接関係のない「雪かき仕事」は,個人としては避けることは可能だが,「誰かがやらなければならない」重要な仕事なのであって,みんなが避けてしまうと組織全体が困ったことになる,つまり,個人個人が基本的人権を維持できない事態に陥ることになる。内田はこのような「雪かき仕事」を徹底して避ける人種,個人の「目先の」利益しか見ずに行動する人種を「小利口」と,皮肉を込めて命名した。
「集団の一定数だけがそれを行う場合には利益が多いが、閾値を超えると不利益の方が多い行動」というものが存在する。
これを読んで,そっか,ワシが感動したリスク忌避人間は「小利口」だったのか,とポンとひざを打ったのである。そして考え込んでしまったのだ。小利口にならず,バカからある程度は脱却するための個人の道を探りつつ,社会全体として機能不全に陥らない方策はないものか,と。
本書は「中国論」と銘打ってはいるが,内田も述べているように,一定の客観的事実を踏まえてはいるものの,詳細を極めた提言や研究を述べ立てる現代中国論ではない。太古からの存在しつつけてきた最も近い大国について,「小利口」ではない態度で内田が真摯に考えたcleverな論考,それが本書である。
だからといって,「ウチダのいつものエッセイの寄せ集めだろ?」と軽んじるのは間違いである。この現実的な「おじさん的思想」をどう捕らえるのか?,と質問することで,その回答者の現実的思考能力を測ることができる,そーゆーリトマス試験紙(最近は使わないかな?)として役に立つ思想書なのである。