岸本佐知子「ねにもつタイプ」筑摩書房

[ BK1 | Amazon ] ISBN 978-4-480-81484-5, \1500

ねにもつタイプ
ねにもつタイプ

posted with 簡単リンクくん at 2007. 3. 7
岸本 佐知子著
筑摩書房 (2007.1)
通常24時間以内に発送します。

 今日はCD-Rを243枚焼いた。
 自慢するわけではないが,私の勤務するこの職場で,CD-Rを焼ける光学ドライブを持ったPCを12台所持している研究室はウチだけのはずだ(違ったらごめんなさい)。もちろん,これらのPCはCD-Rを焼くために揃えたものではない。全ては研究のため,高性能計算という崇高な仕事を遂行するための機械である。高性能なPCが必要であったために,光学ドライブまで「たまたま」高性能になってしまっただけのことである。
 その貴重なPCを,CD-Rの大量焼きのために利用しようと言うのだから,当然,彼らの怒りといったら尋常ではない。
 「なんてことを」
 「計算なら2スレッドまでバリバリに2.8GHzの性能を出せるのに」
 「そんな円盤にレーザーを照射するために俺たちはここにいるんじゃない」
 「PC権侵害だ」
 「無体な」
 「DVD-Rならまだしも」
 彼らの叫びは当然ではあるが,当方にも都合というものがある。ここは電源管理者の特権を振りかざして押さえつけねばならない。
 「うるさい,Intelが失敗作と烙印を押したCPUを載っけているくせに,人間並みに喚くんじゃない。ぐずぐず言うと,電源ケーブル引っこ抜くぞ」
 540MBのISOイメージをGbE経由で奴らのローカルハードディスクに転送し,CD-R焼き作業を開始する。それでも彼らは黙っていない。
 「熱い熱い熱い」
 「たかだか7千円のドライブのために身を粉にして働かされるなんて」
 「せっかくのデュアルコアCPUなのに,それが全く生かせない仕事をさせるとは」
 「ドライブが逝かれたら交換してくれるんだろうな」
 「PC権侵害PC権侵害」
 「エロDVDならまだしも」
 6台のPCをほぼ切れ目なく使いこなして3時間後,ようやく243枚のCD-R焼き作業は完了した。うち1枚はエラーが出て読み取りできない失敗作となった。まあ0.4%程度のエラー率は仕方がない。彼らのせめてもの反逆心なのだろうし。
 「よくやったな,おまえたち」
 お褒めの言葉にも反応しない,6台のPCが静かに電源ファンの回転音のみを響かせて,鎮座している。
 ・・・というのが,所謂「妄想系」と呼ばれるエッセイらしい。三浦しおんのそれは絶対BL由来のものだろうが,端正な(見たことないけど)知性の持ち主の翻訳家・岸本佐知子の「妄想癖」はどこから来たものなのだろうか? トイレットペーパーに何かトラウマでもあるのだろうか? そもそも「べぼや橋」とはどこにあるのか?
 読めば読むほど疑問が渦巻く謎なエッセイである。第一弾も面白かったが,「ちくま」連載のこれも負けず劣らず素敵である。
 ところで,現在も連載中の本エッセイのタイトルは「ネにもつタイプ」である。「ネ」から「ね」への変更に,どのような意味があるのだろうか? ・・・と,疑問は尽きない。

瀬戸内寂聴「孤高の人」ちくま文庫

[ BK1 | Amazon ] ISBN 978-4-480-42310-8, \580

孤高の人
孤高の人

posted with 簡単リンクくん at 2007. 3. 4
瀬戸内 寂聴著
筑摩書房 (2007.2)
通常24時間以内に発送します。

 本書は,瀬戸内が私淑していたロシア文学者・湯浅芳子(1896~1990)に関する短いエッセイをまとめたものである。ワシは「ちくま」連載中からちょくちょく読んでいたが,このたび文庫化されたので早速買い求めて再読したという次第である。
 湯浅という人は,まあインテリにはありがちではあるけど,レズビアンだったということを差し引いても,相当変わった人である。彼女の人生全体を貫いた姿勢こそ,確かに本書のタイトルになっている「孤高」という形容詞がぴったりであるが,その性格はかなり「狷介」,つまりキツイのである。ストレートに他人の論評をするところなぞは,まあ何と言うか,「図太い」瀬戸内のような人だからこそ耐えられたのであって,日和見的に生きている一般人にはとうてい付き合える相手ではない。
 ただ,そういう人に限って,どういうわけか,そのようなキツイ自分を受け入れてくれる度量のある人間をかぎ分ける嗅覚が発達するらしく,湯浅は最晩年に至るまで,かいがいしく自分の面倒を見てくれる友人知人に事欠くことはなかったようだ。このあたりは,破滅型の人間にはない,本能を抑えきるインテリジェンスを感じさせる。周囲にとってははた迷惑ではあるが,一本筋の通った哲学を護持できたのはそれ故なのであろう。
 文学史に疎いワシでも知っている作家らと親交のあった湯浅の人生と恋愛遍歴の一端を教えてくれる貴重な資料であると共に,「何故こんなメイワクな人がこの世に存在するのだろう?」という疑問を解消する一助になりそうなエッセイ集である。瀬戸内の法話が今も人気を博しているのも,湯浅のような人との交友の蓄積があるからなんだろうな,きっと。

えみこ山「懐疑は踊る 3」ディアプラスコミックス

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-403-66140-8, \580

懐疑は踊る 3
懐疑は踊る 3

posted with 簡単リンクくん at 2007. 2.19
えみこ山
新書館 (2006.5)
通常2-3日以内に発送します。

 どうもこの先きちんとしたぷちめれを(「きちんとした」もんあったのかという突っ込みは聞かないぞ)書くのが難しくなりそうな感じなので,この際,お蔵出しを兼ねて,昔から愛読している作家の作品を紹介することにしたい。
 その第一弾としてご紹介するのが,えみこ山である。「えみこさん」ではなく「えみこやま」と発音する。昔風の言い方をすれば,典型的なやおい作家,ということになるのだが,今やBLとか耽美とかモーホー(古いか)という,区分があるんだかないんだかワケワカのジャンルが勃興しているから,もはやかつての「やおい」という単語が持っていた雰囲気を伝えられる時代ではなくなっているのかも知れない。「やおい」で通じるような方々は既にオジサン・オバサンと呼ばれる歳になっている筈だ。
 「やおい」に関しては,例えば三崎さんの記事とか,Comic新現実 Vol.4の佐々木悦子「やおいの起源概論」を参照して頂きたいが,思いっきり簡単かつ乱暴に言うと,「美少年( or 美青年)がいい雰囲気になってあーだこーだする」,主として女性作家によるフィクションであり,1970年代後半から商業作品・同人誌上を席巻,今のBLというジャンルを形成する原動力となった一大ムーブメントでもあった。
 その中で,同人誌から商業誌へとデビューしていくものも多く,メジャーどころとしては坂田靖子から始まってCLAMPまで多数挙げられる。えみこ山も小説担当のくりこ姫と合同でサークル「えみくり」を主催し,かなりの人気サークルになったが,商業誌デビューは1990年代に入ってからと,かなり大器晩成的にデビューした漫画家である。
 ワシとえみこ山の初邂逅はほぼ商業誌デビューの時期と同じである。ただ,初めて手に取ったのは,えみくり発行の同人誌で,くりこ姫の方がメインの旅行記「中国トラベルトラベリング」であった。これはまだ手元にあるので,写真を貼り付けておく。
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 この中にえみこ山もカットや短いエッセイマンガを寄稿している。
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 確か本書は即売会の会場ではなく(壁際サークルで近寄るのも憚られたと記憶する),金沢のブック宮丸で入手した筈である。就職早々,能登半島のど真ん中へ左遷されて腐っていたこともあって,給料はたいて様々な少女漫画を買い漁っていた時期があり,その頃に購入したものと思われる。ワシが持っているのは1992年の奥付がある奴だが,着任したのがちょうどその年であった。
 で,すぐに嵌った,という訳ではない。くりこ姫のエッセイはそれなりに面白かったが,入れ込むほどのこともなく,えみこ山の絵に好感は持ったものの,ストーリー仕立てのきちんとした作品ではなかったため,これも追っかけるほどには至らなかった。ファンになったのは,新書館で単行本が出る前に,アンソロジーとしてまとめられて商業ルートに乗ったものを読んでからだと思う。それでも通販をしてまで手に入れたいという程ではなかったので,しばらくは疎遠になったものの,1996年に新書館から初単行本「抱きしめたい」(現在は品切らしい)が出て,商業単行本のみであるが,追っかけとなったという次第である。
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 以来,ずーっとえみこ山の単行本が出るたびにgetしているのだが,あんまり人に勧める気にはならないのだ。何故かといえば,これはあとり珪子の作品にも共通しているのだが,「ヌルい癒し系」でカテゴライズされそうな感じがしているからである。まあ,えみこ山当人も「男の子同志で悩みもせずにラブラブ」(「ごくふつうの恋」1巻あとがき)する作品だと言っているぐらいだから,そのように一括りにされたとしても怒りはしないと思うが,愛読者からすると,それだけでは済まされない魅力を全く無視した暴論であると言わざるを得ないのである。
 大体,「ヌルい」作品ばかりかというと,そうではないのだ。最近の商業作品にはその傾向が顕著だが,同人誌に載せた作品群には結構感情を揺さぶられるものが見られる。例えば新書館刊行の第二弾作品集「月光オルゴール」に収められた表題作は,ゲイカップルにおける家族愛をテーマとした大河ドラマっぽい作りの大作だし(羅川真里茂の「ニューヨーク・ニューヨーク」より短いけど),続く第三弾の「約束の地」は「泣けるやおいマンガ」の筆頭だと思う。絵の雰囲気が1970年代風の,まだ基礎がしっかりしていない黎明期の少女漫画っぽいものであるので,精密な描写を伴うべき場面はかなり弱いものになってしまうが,物語全体に漂う雰囲気は坂田靖子によく似ていて,「空気」を伝えるには適しているものである。
 たぶん,えみこ山は正統的な少女漫画,それも「やおい」が成立する以前から培われてきた「時代の空気」を会得していて,それが自分の生理とぴったり一致しているが故に,そこから外れるような作品を描くつもりは全くないのだと思う。この頑固さは夢路行にも共通していて,彼女の場合は商業的に干されていた時期においても,同人誌で全く商業作品と変わらぬテイストの作品を描き続けていたぐらいである。同じやおい市場から登場したCLAMPとはその点全く異なっている。これはどっちが良い悪いの問題ではなく,プロとしての資質と姿勢の違いであって,CLAMPのようにふるまえば必ず売れるという保証もないし,えみこ山や夢路行のようにしていればメジャーになれない,という訳でもない。
 ・・・なんだけど,このえみこ山の「成長のなさ」加減は,もう何というか,呆れるという他ない。これは褒め言葉でもあると同時に,もうちっと新機軸を出してくれないかなぁ,という希望でもある。本作は売れない絵描きのチョンガーとその2人の息子たちが主人公の長編「懐疑は踊る」の最終巻であるが,ミステリーの香りを漂わせているにも関わらず,その謎解きの部分がよく分からないまま終わってしまっているのである。その香りは独特の雰囲気にマッチしていていいのだが,描写力(説明力)の欠如がワシのようなオジサンうるさ方には残念に思われるのである。
 長く活躍を続ける作家に対しては,「昔の方が良かった」という意見が必ず出るものである。しかし,「マンネリ」を続けるにはそこに芸がなければならず,商業作品である限り,エンターテインメントとして成立するためには変化をつけ,退屈になってはいけないのだ。えみこ山の場合,その点がちょっと気がかりではあるが,このオールドテイストは日本漫画界の天然記念物として保存しておくべきものであるとも思うのだ。「変わって欲しい」ものと「変わって欲しくない」ものを同時にかなえることの難しさをつくづく思い知らされる,アンビバレンツな感情を引き起こす貴重な作家,それがワシにとってのえみこ山,なのである。

武田徹「NHK問題」ちくま新書

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-06336-6, \740

NHK問題
NHK問題

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武田 徹著
筑摩書房 (2006.12)
通常24時間以内に発送します。

 本書に関してはぷちめれを書くのを当分控えていようと思っていたのだが,著者本人が自身の掲示板で愚痴っていたので,ちょろっとだけ「途中経過」としての感想を述べさせていただく。
 武田が
 「猫の額のような自分の庭の広さに合わせてしか考えを遊ばすことが出来ないせいで、書かれているものとは違うものを読んでしまっているとしたら書き手としてはやはり残念だ。自分の尺に合わせて物事を理解してしまう悲しさはぼくも常に打ちのめされていることではあるけど」
と,blog等でなされている本書の批判に対して述べているけど,ワシも含めたそいつらは基本的には

バカ

なんであって,もう少し説明すると
頭が悪い

つまり
理解力が武田徹に全く追いついていない

だけなんだと思う。実際,ワシが本書に付いてきちんとした意見を開陳できるに至るには,少なくともあと2回ほど,メモを取りつつ通読しないと無理だと感じている。従って,武田はネットなんぞをググるのはやめ,ワシらのようなバカのたわごとに付き合うことなく次回作の準備に勤しむべきである。そしてワシも含めたバカどもは,もう少し勉強してから本書に対して意見を申し述べるべきである。・・・と言いながら書いちゃうんだけど,それは本書に対する意見ではなくて,自分がどのぐらいバカであるか,頭が悪いか,理解力が足りていないか,という自己反省だと思って欲しい。
 本書を読んでいて一貫して気持ち悪さを感じたのは,「公共性」に関する定義が,ワシも含めたバカども分かる形で示されなかったことである。それも第6章「「非国民」のための公共放送」を読んで少しは解消されたものの,比較対象となっているBBCの運営方法等についての予備知識がさっぱりなかったため,武田が理想とする「公共性」の定義を,その具体例や反例も含めて自分なりに整理して把握することができなかったのである。もちろん,参考文献に挙げられている蓑葉信弘の本でも読めば何とかなるんだろうが,イージーに薄い新書でも読んで楽をしようと考えているワシも含めたバカどもにはちと荷が重い。たぶん流動性も込めて,理想とする「公共性」を追い求めるベクトルの方向にそれが見えてくる,という”GNU is Not Unix”みたいな定義なんだろうが,それもかなり怪しい理解の仕方であろう。だから,「武田の言う理想的な「公共性」って何なんだ?」という問題意識を持って,何度か本書にチャレンジしてみる必要があると感じているのである。
 ただ,「NHK問題」というものがかなり根の深い,この「公共性」というものに根ざしたものであり,それ故に議論が錯綜してなんだか訳の分からない方向に流れがちである,というものであることは何となく分かった・・・ような気がする。その問題意識を持たせてくれただけでも,まあ740円の価値はあったかな,と勝手に結論を出しちゃってるんですけど,基本的にバカなんで,このぐらいしか分からなかった,と言うだけのことなんである。営業妨害になりそうな中途半端なものを流しちゃってすいません,武田さん。

NHK「東海村臨界事故」取材班「朽ちていった命 -被爆治療83日間の記録- 」新潮文庫

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-10-129551-4, \438

朽ちていった命
朽ちていった命

posted with 簡単リンクくん at 2006.12.31
NHK「東海村臨界事故」取材班著
新潮社 (2006.10)
通常24時間以内に発送します。

 東海村のJCOで日本初,いや世界でも初めてという臨界事故が1999年9月30日AM10:30に発生した。事件のあらましは,例えばWikipediaの記事を参照されたい。
 事故直後に作業に当たっていた3人が被爆し,そのうちの1人が事故から83日目に,もう1人が211日目に死亡した。本書は,前者の治療描いたNHKのドキュメンタリー番組を作り上げた取材班が著したものである。
 この事故については,ワシが静岡に移った直後に起こった事件だったので,発生直後の報道はよく覚えている。政府も非常事態体制で臨んでいたし,チェレンコフ光を発した沈殿槽の臨界状態を停止させるために,政府から派遣された学者がJCO職員に被爆覚悟の作業を行わせたことも後の報道で知った。この辺りの事情の是非についての詳細は承知していないが,その後,直接この事故の原因となる作業を行っていた3人が治療を受けているということ,そのうち2人が重傷ということを聞いたときには,正直,どう反応して良いのか困惑したものである。本書のP.53の記述を読むまでは,どのようにこの83日後に死亡した方に対して「同情」していいものか,全く分からなかった。
 はっきり言って,この事故は,この3人の作業によって引き起こされたものである。臨界事故が発生しかねない作業を命じたJCOの会社としての責任は当然第一に考えられるべきものだが,この作業がなければ,そしてそれが「臨界」に達することがなければこの事件もなかったのだ。つまりは「加害者イコール被害者」という図式が成立しているのである。この83日後に亡くなった方は「(事故が起きた)転換試験棟での作業は今回が初めてだった。上司の指示に従って作業を進め,臨界に達する可能性については,まったく知らされていなかった」(P.53)ために,このような事態を招いた,ということを読まされていなければ,ワシは本書を読了することは多分,できなかったろう。しかしそれでもワシの胸の内のモヤモヤは解消していないのだ。
 本書の記述の大部分は,この亡くなった方の,まさしくタイトルにある通り,強烈な放射線障害によって「朽ちていく」様と,治療に当たった東大病院の医療チームの苦闘ぶりに割かれている。多細胞生物の生命現象を支える部分が破壊されて,どう移植治療や外国の専門家の助力を仰ごうにも,救いようのない事態が続発して,まことに痛ましく無惨である。それを伝えることが番組と本書の狙いであり,この目的を果たすことが出来ていることは十分認める。
 認めるのだが,その上で,やっぱりワシの頭の中の「割り切れなさ」は残っているのだ。それを解消するには当然,事故調査委員会の報告書を紐解く必要があるのだろうし,いずれは読んでみたいとは思っている。
 しかし,高濃度のウラン化合物を扱っている会社で,しかも臨界事故を起こしかねない作業手順が易々と実行されてしまい,それを「知らなかった」ために従順に会社の指示に従った,という事態はやはり問題である。今更言っても詮無いことだが,この時点で「何かがおかしい」という疑問が作業員に湧いていれば,事故は防げた可能性もあるのだ。放射能に関する知識がもう少し与えられていれば,防げないまでも,異議申し立てぐらいはできた可能性はあるのだ。
 死者を鞭打つような文章になってしまったが,「朽ちていった命」について考えるならば,このような事態を草の根レベルで防ぐための方策,上から与えられるものではなく,自己を守るための知識を広く染み渡らせるための具体的な方法論が議論されなければ意味がない。どうしてもグローバルスタンダードという奴は,「お人好し」を食い物にしてのさばっていく傾向があり,しかも最悪の場合,知識がないばかりに人のいい人間を加害者に仕立ててしまうこともあり得るのだ。この臨界事故はまさにその典型例であり,本書はその「同情を躊躇させる被害者」を描いた,優れたジャーナリズムの力量を見せつけてくれる良書である。