桂米朝「落語と私」文春文庫,他2冊

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-16-741301-9, \429

落語と私
落語と私

posted with 簡単リンクくん at 2006.12.29
桂 米朝著
文芸春秋 (1986.3)
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 本年(2006年)は,昨年のドラマ「タイガー&ドラゴン」による落語人気を引きずって,マスコミは随分と落語ブームを囃し立てていたが,実際は無風状態と言っていいのではないか。一部のマスコミ受けしている噺家は更に人気が高まったようだが,そうではない普通レベルの噺家まで「落語ブーム」とやらの恩恵を受けているとはとても思えない。ブームを当て込んだ出版もちらほら見られたが,爆発的な売れ行き,とまでは行かなくとも,数万~十数万部のセールス記録を残した本が一体どれほど存在していたのか,甚だ心許ないというのが実情ではなかろうか。
 実際,寄席に行ってみると,人気者の番組が組まれていない平常時の固定客の年齢層は高止まりしたままのようだし,つまんないベテランのレベルが上がっている訳でもなく,番組が変わる度に必ず通いたくなる程の面白さはそんなに期待できない。フジテレビ提供のお台場寄席・Podcast版の司会進行を勤めている塚越アナは「寄席は当たりが3割(あれば上等)」と言っていたが,まさしくその通り。今のTVのバラエティ番組のテンションに慣らされている我々にとって,寄席はちょっとおとなし過ぎるのだ。従って,これから先の寄席の入りは元通りの低空飛行を余儀なくされると思われる。
 春風亭小朝「いま,胎動する落語」(ぴあ)は,前著「苦悩する落語」の続編として今年出版されたインタビュー集であるが,落語界の将来が楽観できる状態にはないことを如実に物語っている。詳細は本書に譲るが,媒体に乗って宣伝できる売れっ子に活躍の場を広く与えつつ,若手の有望株をうまくユニット化して舞台に上げること等,つまりは常に新機軸を出し続けていく必要がある,ということを力説している。いまや,芸能界にもしっかりしたポジションを確保した小朝にしか言えない,きついけれども問題点を的確に指摘する説法は,あのまろやかな口調も手伝って非常に説得力がある。
 とはいえ,小朝ですらそれだけの危機感を捨てきれないという現状は,きちんと認識しておく必要があろう。本年は落語協会会長も馬風に代替わりし,そのあたりの事情も述べた自伝「会長への道」(小学館文庫)も出版されたが,この中で会長は次のように述べている。
 「上野鈴本演芸場も,近年は出演メンバーが変わって,若くて面白い連中を出すようになったけど,寄席はああでなきゃいけない。世間一般にはまだ無名でも,センスのいい若手を次々と入れていけば,まだまだお客が陰気になるわきゃない。
 (略)
 個性を上手に差配すれば,寄席はまだまだ面白くなると思いますね。」(P.213)
 つまり,馬風会長もそう落語の現状を楽観視していないことが分かる。現状維持ではダメで,伝統を壊さない程度に新機軸をつぎ込む必要性を訴えているわけだ。もちろん,会長の音頭取りで各種のイベントも怠りなく準備しており,その一つが六代目・小さん襲名,もう一つが木久蔵・きくお同時襲名であり,その陰で目立っていないが,「春風亭柳朝」(小朝の師匠)も近々復活予定なのである。
 ・・・とまぁ,後継者の多い古典芸能と言えどもそう安閑としていられない現状を一通り憂いたところで,原点回帰,そもそも「落語とはどのような芸能なのか?」といことを一度振り返っておく必要があろう。
 「落語とは?」ということを解説した本は数多あるけれど,漫画のことは漫画家に効くのが一番説得力があるのと同様,やはりここは噺家に聞くのが一番である。そうなると,いまや人間国宝・桂米朝以外に適任者はそうそういない。語り口は丁寧で奇を衒わず,歴史的な事柄もそのバックグラウンドとなる知識も備えた現役噺家が書いた「落語の教科書」が,表題の「落語と私」である。タイトルだけを見ると「自伝かな?」と思ってしまうが,これは,ポプラ社から1975年(昭和50年)に出版された中高生向けの「落語入門書」である。それが1986年に文春文庫に収まり,2006年には第7刷を数えるまでに至っている。バカ売れとまでは行かないが,定番の書として定着していることは間違いない。
 本書の締めくくりとして,米朝は師匠・米団治から入門時に贈られた言葉を掲載している。有名な言葉なので知る人も多かろうが,ここで改めて引用しておく。
 「芸人は,米一粒,釘一本もよう作らんくせに,酒が良いの悪いのと言うて,好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに,むさぼってはいかん。ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に,世間へのお返しの途はない。また,芸人になった以上,末路哀れは覚悟の前やで」(P.216)
 「末路哀れ」が覚悟の「上」ではなくて,「前」というところが凄いな,と思う。一人寂しく橋の下でのたれ死にすることを「リスク」ではなく「当然」として考えろ,ということなんだろうが,これって,学者とか評論家とか作家にも通じるモンがあるよなぁ。世間が決めた自分の値打ちを自分で引き受けて,更に精進を重ねるほかないのだ,ということは馬風も本にも書いてあるけど,言うは易し,行うは難し,なんだよな。しかし,それ以外のまっとうな芸人人生はないわけで,仲間内で愚痴っている暇があったら,精進すべきである。そしてその先にしか,落語の未来も,「世間が値打ちを決める」商売の未来もない訳だ。
 びしっと背筋を伸ばして頑張らなきゃ,と気合いの入った一冊(プラス二冊)である。

高千穂遙・一本木蛮「じてんしゃ日記」早川書房

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-15-208774-9, \1000

じてんしゃ日記
じてんしゃ日記

posted with 簡単リンクくん at 2006.12.27
高千穂 遥著 / 一本木 蛮著
早川書房 (2006.11)
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 ここんとこ真面目に仕事に励んでいるためか,腹回りの芳醇さは目を見張るほどである。・・・いやゴマカシはよそう。そうだよ,太ったんだよ,典型的なメタボリック症候群,つまり内臓脂肪が溜まって成人病予備軍になっちまったんだよチクショー。ダイエットをしたいなと思いつつ,ストレスを散らすための間食が止められず,しかも酒もタバコもやらないので,食うことでしか発散できないのだ。このままでは恐らく,平均寿命はおろか,定年退職前に複数の生活習慣病に侵されて死んでしまうに違いない。恐らく日本の学術研究にとってはワシなんぞ早死にしたところで何の痛痒もないばかりか,かえって厄介払いができて清々するのであろうが,そんなことはワシにとってはどーでもいい。別段,100歳まで生きたいとは思わないが,仕事があるうちは目一杯やるだけやって,糸井重里が常々言っているように「ああ面白かった~」と言って定年退職の日を迎えたいと念願しているのである。従って,せめて運動ぐらいは続けたいと,ろくに通えていないスポーツクラブの会費を払い続けているのだが・・・やっぱりこれじゃダメだよなぁ。
 SF作家・高千穂遙も同様の悩みを抱えていたそうである。まあ座業している時間の長い職種であれば誰しもメタボリ体型になるのは避けられないことではあるが,「運動しなきゃ・・・でも仕事しないとおまんまの食い上げだ」とズルズル現状を引きずっていられるのもせいぜい40代後半まで,それを過ぎると老化現象とのダブルパンチで死がずいぃいっと近づいてくることになる。高千穂先生は体の不調を訴えて医者に行ったところ,中年諸氏なら誰しも思い当たる警句を大量に頂いて帰ってくることになったが,それを身に染みて痛感させられたのは,同年輩・同業種の知人の死や入院がぽつぽつ聞こえてくるようになったからだそうである。そりゃそうだ。三十路後半のワシだって,同級生の腹回りの見事さにわが身のそれを思い知らされたりしているんだからな。
 で,誰しもそうであるように,高千穂先生,様々なダイエット法や健康法に取り組んでみるものの,なかなか長続きしない。水泳やスポーツクラブは通うのが面倒になるし,せいぜい散歩に毛が生えた程度のウォーキングが性に合うということが判明したぐらいだそうな。いや,それでも立派。ワシなんぞ,電車+徒歩通勤すら面倒で続けられず,デブった腹を抱えながら自動車通勤が止められないのだから,既にこの時点で高千穂先生に負けている。
 ともかく,自宅玄関前からすぐに修練が始まり,しかも自分の体に負担のかからない運動で,外の景色を眺めながらできる運動であれば続けられる,ということを高千穂先生は発見したのだ。その結果,自転車漕ぎにたどり着き,修練の結果,知人から「えっ,なに,ガン?」と言われるぐらいの劇ヤセを達成し,現在も体脂肪率一ケタ台の体型を維持するまでになったのである。
 本書はその経緯と,ツーリングのための薀蓄が詰まった,一本木蛮との共著によるエッセイ漫画である。一本木蛮も高千穂パパに誘われて(だまくらかされて?),ツーリング仲間として巻き込てしまったので,漫画そのものは大部分,一本木主導で構成されたもののようだ。従って,エッセイ漫画の構成は自然なもので,ガチガチの原作をそのままなぞったものでは全くない。一本木蛮と言えば本人のコスプレの方が漫画作品より有名なぐらいであろうが,漫画家としての力量は高千穂が言うようにかなりのものであり,しかも女性的な色気とかわいらしさを兼ね備えた魅力的な絵も手伝って,情報のみっちり詰まった作品であるにも拘らず,スムーズに読むことができる作品に仕上がっている。
 あの吾妻ひでおをして,「じてんしゃに乗りたくなった」と言わしめるほど,読者を乗せられるパワーを秘めた本作品であるが,残念ながら,早川という健康やスポーツとは縁のなさそうな出版社から出されたこともあってか,あまり配本数は期待できそうになく,田舎の小さな本屋で見かけることは多分ない。従って,ワシみたいな田舎暮らしの人間が購入するとすれば,高千穂のWebページに張ってあるオンライン書店を頼ることになる。本書を読む限り,一本木蛮は「じてんしゃ日記」第二段に意欲を燃やしているらしいから,その念願を達成させるべく,あなたがSF者であろうとなかろうと,自分がメタボリ男(女も可)でなくても近くにかようなデブがいれば,本書を薦めて頂きたいものである。

高室弓生「ニタイとキナナ」青林工藝舎

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-88379-230-7, \1600

ニタイとキナナ
ニタイとキナナ

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高室 弓生著
青林工芸舎 (2006.11)
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 かつて「トムプラス」という雑誌があった。・・・という話は今更なので止めおくが,まあとにかく,やる気のない諦めきった漫画雑誌というものがあれほどみっともない代物に落ちぶれ果てるのか,と思い知らせてくれた反面教師であった。しかし,それでもきちんと廃刊(休刊とは言っていたけれど・・・ね)まで読者として付き合ったのは,あまりメジャーではないが,優れた漫画家に自分の個性を存分に生かした作品を執筆させていたからである。ここでいう「優れた漫画家」とは,作家性の強い・・・いや,もとい,あくの強い,一目見て「これは××が描いた作品だ」と分かる作品しか描かない漫画家のことを指す。横山光輝しかり,手塚治虫しかり,樹並ちひろしかり,夢路行しかり,竜巻竜次しかり,みなもと太郎しかり・・・キリがないのでこの辺で止めておくが,つまりは尾羽打ち枯らしたとはいえ,トムプラスでしか読めない作家の作品が多かったのである。その中にひと際個性的な漫画家がいて,それがつまり高室弓生なのである。
 という話は実は本書の解説にみなもと太郎大先生が書いておられたりする。ただ,ワシ自身はみなもと先生の漫画は好きだが,文章はイマイチピリッとしないのであまり好みではない。みなもと先生は大変苦労人であるので,大変周囲に気を使われる方であり,他人の攻撃や揚げ足取りというものとは全く縁がない。それは大変にオトナの態度であるのだが,こと批評となれば,そればっかりでは読む側としては退屈である。時に辛辣であっても,自分が感じたことはストレートに文章化して欲しいと思ってしまう。本書の解説も,文字数制限のせいかもしれないが,見方が大局的過ぎて,高室の魅力を語るには迫力不足といわざるを得ないのである。そこでワシが非力をわきまえず,高室作品の持つ素晴らしさを,時にはきつい言葉も交えつつ,解説してみたいと思う。
 高室は「縄文漫画家」と呼ばれているらしい。本作品以前にも「縄文物語」という絶版になった作品が存在しており,本書の舞台もそこと同じ場所,但し時代が異なる,という設定だそうな。
 では,高室は縄文世界を描くだけの専業作家なのか,というとちょっと違うような気がするのだ。
 もちろん,本書の主人公は,縄文時代のデランヌ村(現在の岩手県の山中)に住む,ふつーの若夫婦であり,一言で言えば,本書の帯にある通り「縄文ホームコメディ」なのであるけれど,「縄文」が付加されていなければ成立しないような,特殊な環境の特殊な夫婦の愛情を描いたものではないのだ。もし本作品に近い漫画を一つ選べといわれたら,ワシは迷わず池田さとみの「適齢期の歩き方」を指名する。舞台こそ現代の夫婦ものであるけれど,
 ・激しい恋愛のもつれの末ではなく,普通にお付き合いして普通に結婚して普通の夫婦生活を送っている
 ・旦那は組織に属して働いており,左翼に言わせれば「従順な政府の奴隷」であるけれど,普通に働くのがが一番という価値観を持っている
という,これだけ書くと「そんな普通人の生活のどこが面白い」と言われそうであるが,ワシみたいなフツーの常識人(笑うなよ)にとっては,他人様の生活を覗いている感じがして,とても楽しく読めるのである。
 確かに高室は縄文の生活をかなり学術的にも正確に描くし,それが好きでやっているのだろうが,それはあくまで漫画世界の環境の話であって,ドラマそのものは普遍的な,つまりは現代の我々の常識に照らして,なんら不思議のないものに仕上がっているのである。従って,縄文世界に全くなじみのなかったワシでも,連載中からすんなり入り込めたし,今回久々に単行本にまとまったものを再読してみても,全く違和感を覚えなかった。いやむしろ,寂しい中年独身男にとっては,普段意識していない寂寥感をいやと言うほど味あわされて,一人布団で歯噛みしていたぐらいである(大げさな)。
 高室の絵は,汗と油で湿った人間の肉のヒダをやわらかく描くという,一昔前の男性エロ漫画の画風でありながら,画面構成は少女マンガの手法が目立つという,かなり特異なものである。真正面アップの多用や,コマぶち抜きで全身を描く手法はまさしく少女マンガベースのものであるのに,線のタッチは1970年代の劇画調というのは,読者を限定しかねない面もあるのだが,逆に言えば,そのような画風だからこそ,縄文世界,ことに三内丸山遺跡に代表される,稲作が普遍化する以前の古代東北地方の芳醇さを楽しげに教えてくれるのである。みなもと先生が「あなたしか描けない世界」というのはまさにこのことであって,商業的にはとっつきは悪いかもしれないが,描き続ければ一定数の読者を掴んで離さない力量は間違いなくある。幸いにして,今でも漫画家業は続けておられるようで一安心であるが,あまり熱心に高室を追いかけていない怠惰なワシとしては,はやくもっと日のあたる場所に出てきてくれないかなぁ,と本書を抱えてぼんやり念願しているのだ。

吉村昭「死顔」新潮社

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-10-324231-0, \1300

死顔
死顔

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吉村 昭著
新潮社 (2006.11)
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 滋味,という言葉がある。最近の文学界の動向は全く不案内であるが,奇を衒わず,それでいて「説明」ではなく「描写」を深めることによって滋味を引き出しつつ,小説という形態でしか表現できないものを著す,という吉村の執筆態度は,今も昔も,そして未来に渡っても営々として引き継がれて行くに違いないと確信しているのである。このようなオーソドックスな技法は,才能ある書き手が散々試行錯誤した結果にたどり着いたり,最初から不器用を自覚した書き手によって追求されたりするものであるけれど,それ故に,廃れることはないものなのである。吉村は多分,後者の方だろう。不器用を自覚しているからこそ,取材を重ねて史実を重んじる態度を崩さず,かといって司馬遼太郎のように思想の大風呂敷を広げることもしなかったのだ。
 その吉村の遺作小説を集めたのが本書である。もちろん,香典代わりに購入したのであるが,その死に際しての行動が「尊厳死」論争を引き起こしたこともあり,いったいどういう死に様だったのか知りたい,というスケベ根性も手伝っていたことは否定しない。本書の最後には妻である津村節子の「遺作についてー後書きに代えて」も収録されており,ワシのスケベ根性はこれを読むことで収まったのであった。しかし,本書はそのスケベ根性を叩き潰す以上の効果を,ワシの荒んだ精神に与えたのである。
 吉村の短編小説を読むのはこれが最初ではない。完全なフィクションも,伝聞に基づく元ネタが存在するものもあるのだろうが,初めて読んだ短編集には,地味だが,それなりに年齢を重ねた人間には思い当たる,「あれ?」と感じる行動を的確に描写する凄みが漂っていたのである。
 本書に収められている現代が舞台の短編「ひとすじの煙」「二人」「山茶花」「死顔」は,それ以上の凄みを感じた。ショッキングな事件が起こる作品も,淡々と常識的な出来事が連なるだけの作品もあるのだが,どれもこれも読了後には「うーん・・・」と眉間にしわ寄せて考え込まされてしまったのである。これを面白いと感じるか,地味でつまらないと感じるかは,多分人生経験の差によると思われる。芥川賞を貰い損ねたのは多分この地味さによるのだろうが,一定数以上の読者を得て世の尊敬を集めていたことと思うと,今更どーでもいいことではある。無理して派手を装って執筆させられることの多そうな現代の作家にとっては,吉村の存在は救いになっていたのではないだろうか。
 本書で唯一,未発表の歴史短編「クレイスロック号遭難」は,吉村の史実に対する真摯な態度が感じされる,吉村らしい作品である。このような歴史作品を多数執筆していながら,日本社会や歴史に関する思想を語らなかったのは,無論,歴史に対する思想がないわけではなく,下から事実を積み上げること,その営みこそが自らの思想を語ることに繋がっていたと考えるべきであろう。この路線を引き継ぐ地味な作家が,これからも大器晩成的に支持されていくことを願って止まない。
 ご冥福をお祈り致します。

西村しのぶ「西村しのぶの神戸・元町”下山手ドレス”」角川書店, 「下山手ドレス(別室)」祥伝社

「西村しのぶの神戸・元町”下山手ドレス”」角川書店 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-04-853145-X, \820
「下山手ドレス(別室)」,祥伝社 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-396-76386-7, \781

西村しのぶの神戸・元町「下山手ドレス」
西村 しのぶ著
角川書店 (2001.2)
この本は現在お取り扱いできません。
下山手ドレス〈別室〉
西村 しのぶ
祥伝社 (2006.7)
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 「神戸在住」という漫画があった(現在は連載終了)。漫画自体はワシの好みのテイストで,購読雑誌を買うたびに欠かさず読んでいたが,それとは別なワシの感性が「神戸のおしゃれなイメージにうまく乗りやがって」と臍を噛んでいたことは正直に告白しなければならない。
 そうなのだ。ワシはコジャレた場所や人間に対しては本能的に敵対意識を持ってしまう,「ウザい奴」なのである。原宿や渋谷を仕方なく通り過ぎるときには,マシンガンをガンガン撃ちまくってイケてそうな若者がバタバタと死んでいく様を脳内で思い描くことにしていたぐらいである。これは恐らく,バブル絶頂期に大学生活を送りながらもそこに乗れず,家賃月額一万二千円(大家さんがさらに千円引いてくれていた)の風呂なし洗濯機・トイレ共同のボロアパートで寂しく過ごしていた頃のルサンチマンの後遺症であろう。ワシが小谷野敦を愛読するのは多分,彼がブ・・・いや,この辺で止めておくことにしよう。
 ともかく,ワシがファッションとか流行とか(どっちも同じ意味なんだがな)に疎いことは今もそうで,それ故に,趣味の漫画でもあまりオシャレなものはワシの視野に入らずに来たのである。
 ただ,何事にも例外もあって,エッセイ漫画は別である。フィクションとは逆に,自分とは全然異なる価値観を持っている作品の方が,いろいろと発見があって面白く読めるのである。もちろん,ワシが共感する思想を持つ作品もいいのであるが,そればっかりでは脳細胞が安心しきってしまい,飽きてしまうのだ。むしろ「テメェ,人生そんなことでいいのか?いいんだな,なるほど,そういう考え方もあるのか」と,反感→肯定(洗脳?)という過程を経る作品の方が,中年を迎えて死に絶えつつある脳細胞のシナプス活性化のためには好ましいのである。
 しかしそれにも限度というモノがあって,この西村しのぶの超コジャレた煩悩全開のエッセイ漫画に対しては反感を持つ隙などみじんもないのだ。「ああ,世の中にはこういう人生の過ごし方があるのだな」と感心させられるばかりである。そしてワシの頭には,若い頃には少しはオシャレを気取った方が良いかも,という後悔の念すら湧いてくるのである。
 煩悩全開のエッセイ漫画といえば,一条ゆかりを置いて他にはない。うまいモノを食いたい,いい男と付き合いたい,リゾートでくつろぎたい・・・ということを言いまくり描きまくって,「一条ゆかりなら当然だよね」と世間を平伏できるパワーはさすがというしかない。しかしそのエネルギーは,幼き頃の貧乏暮らしの苦労が根底にあって湧き上がってくるものであり,それを知る多くの読者は,どんなに一条ゆかりが女王様のように振る舞おうとも,「苦労人なら当然だよね」と納得してしまうのだ。大体,彼女の場合は,「煩悩パワーが次の仕事に繋がる」と公言している通り,仕事のサイクルの中に組み込まれた行動だから,遊んでいない一条ゆかりは多分,仕事もできない筈なのである。
 西村しのぶには,そのような苦労人の香りが一切しない。その時点で既にワシは敵対意識を持ってしまう筈なのだが,このエッセイはあまりに自然体で,「はあ,スキーですか」「ピンクハウス・・・ね」「カナダでリゾート・・・へぇ」「ボディバッグっつーはやりモノがあったのか」「バリで石けん作らんでも・・・」と,これまたジェラる隙がないのである。タイトルカットは毎回ゴージャスでトレンディー(死語?)な女性が描かれるが,ワシにはまぶしすぎて生きている人間に思えない。
 多分,普通に流行に敏感で,無理のない生活を送っている社会人の女性にとっては,かなり自然な行動・意見を述べているのではないか。短い(1 or 2ページ程度)ページ数ながら,テンションが高いことでワシみたいなウザい男でも面白く読まされる作品に仕上がっているが,そんな生活を送っている普通の女性(20代後半~30代)ならもっと共感して楽しめるんだろうなーと思えるのである。
 2006年に出た「下山手ドレス(別室)」は1998年から2006年にかけてのエッセイをまとめたものであるが,「本家」は2001年に出版されており,これはなんと1988年から1998年まで,コツコツと10年以上に渡って連載されてきたモノをまとめた,激動の「失われた10年」を物語る世相史に仕上がっている。この2冊を合わせると,著者がデビューして間もない20代前半(多分)から,30代(後半?)までの生活を語っていることになるわけで,その間,バブル崩壊ありーの,オウム事件ありーの,阪神・淡路大震災ありーの・・・と,ワシのようなおっさんは思い出に浸ってしまうという特典が得られたりする。
 そんだけ息の長い作品であるから,当然,著者自身も「キャピキャピのギャル(死語だらけ)」から,結婚して主婦となり,メガネをかけながら痛む腰を気にする「オバサン」に変化している。今のところはまだ「妙齢」という訳のワカラン単語で誤魔化しが効く年ではあるけれど,「下山手ドレス」はまだこの先も当分続きそうであるから,きっと更年期障害が気になる年まで,西村は開けっぴろげに自分の煩悩を語ってくれるに違いないのである。共に老いていくパートナーに欠けるワシとしては,価値観の全く異なる異性がどのようにオバサン化していくのか,大変下品な興味を持ちつつ末永くお付き合いしていきたいと思っているのだ。