池田清彦「科学はどこまでいくのか」ちくま文庫

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-42281-1, \640

科学はどこまでいくのか
池田 清彦著
筑摩書房 (2006.11)
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 内田樹の著作から「構造主義」という現代思想を知り,橋爪大三郎によってそれが現代代数学の考え方の影響を強く受けているということを知らされ,ちょうどタイムリーに山下正男の「思想の中の数学的構造」が文庫化されたので,ちょっと深くその辺りの事柄が分かるのかな,と期待しているところに本書もまた文庫化されたのである。池田清彦の文章のうまさは既に知っていたので,早速入手して読んでみた。
 池田が標榜する「構造主義的生物学」とやらがどんなものなのか,その片鱗でも分かるのかな,と期待していたのだが,その期待は裏切られた。しかし,ちくまプリマーブックスの一冊として書き下ろされただけあって,やっぱり文章は面白く,適度な性格の悪さがスパイスとなって,ピリ辛の現代科学技術論に仕上がっている。但し,部分的な突っ込みの鋭さには感心させられつつ,著者の導く結論がことごとく科学技術悲観論に到着するだけで,その具体的な回避策も解決策も提示されずに,未来を放り出しているのは頂けない。
 科学技術万能論というものが色褪せて,今や先進諸国では理工系大学への希望者が減りつつあるのは本書でも述べられているように事実であり,そのことを嘆くつもりはワシにはない。まあ個人的には自分の職場の未来が明るくない,ということは困ったことではあるが,今の日本社会がどれだけ科学技術に従事する人間を求め,そいつらが生み出す成果に見合う待遇をしてくれるのか,となると,かなり疑問であるので,いわゆる「理系離れ」現象は自然なことであると納得しているのである。
 逆に言えば,それだけ世間が科学技術研究者に対しては,成果を期待しつつも,一定の「うさんくささ」を持って見ている訳である。科学技術が軍事と密接に結びついて発展してきたということが周知の事実となって久しい上に,研究者も人間であって,性格の悪い奴らもいるし(平均値より悪いように思う),金や名誉に転びやすい性質も備えていることも,各種のニュースでいやんなるほど知らされ続けているのである。そりゃ,「あいつらを野放図にしておけば,軍事機密の技術だって転売しかねないし,何に使うか分かったモンじゃないぜ」と思われるのは当然であり,昨今聞かれる「研究がやりづらくなった」という研究者間の愚痴は,その世間の風潮の現れが原因の一端ではないかと推察されるのである。
 さらにここで逆に考えてみれば,そのような世間の監視が厳しくなったことで,野放図な科学技術の発展というものに一定のブレーキがかかってきたと言えるのである。もちろん,今後も人権を無視した科学技術の乱用や犯罪が根絶されることはないだろうし,池田が指摘するように政治と科学技術の蜜月は進んでいくであろうが,それが全面的なカタストロフィーへとなだれ込んでいく前触れであるかのような言説というものは,どうも信用しがたいのである。つーか,池田センセーは悲観的な要素だけを選択的に取り上げるのがお上手なのである。本書に述べられている事はかなりの部分当たっているのであるけれど,現実というものはもっと巨大で果てしがないものなのだよ,ということは,少なくともプリマーブックスの対象読者である中高生の諸君に伝えておく必要があろう。
 だいたい,本人は東大出て山梨大学の教授になり,いまや早稲田大の教授であるにも関わらず,何がおちこぼれ学者なものか,エリート路線まっしぐらの癖にちゃんちゃらおかしい。確かに政府の審議会に呼ばれるような特権的エリートではないのかもしれないが,人文系の方々にはない生物学の専門知識を売り物にして思想界に切り込んでいく著作を数多くモノにしている売れっ子(印税はたかが知れているかもしれないけどさ)ライター学者として確固たる地位を占めているのである。そーゆー影響力のある学者の著作,しかも一般向けの文庫本に,悲観的見通しだけを書き連ね,それを食い止める方策の提言もなしでは,無責任といわれても仕方ない。
 あ,もしかして提言が出来るほどの能力がないから「おちこぼれ」なのかしらん?

得能史子「まんねん貧乏」ポプラ社

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-591-09509-6, \1000

まんねん貧乏
まんねん貧乏

posted with 簡単リンクくん at 2006.11.18
得能 史子著
ポプラ社 (2006.11)
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 このエッセイ漫画を発見したのは,いや,正確に言えば,発見「させられた」のは,先日訪れた札幌の,程なく閉店するという書店においてであった。
 この書店は,2階が漫画専門フロアになっているのだが,ここの品揃えは全国的に見ても面白いものであった。今や落ち目になっている漫画家や,ほとんど無名と思われる漫画家の作品が妙に目立つ配置になっていたりして,高校生の頃からちょくちょくチェックさせてもらっていた。いや,勉強させて頂いていたのである。
 本書もそこでドカンと平積みになっていたのである。特等席ではないものの,一番店の奥の台に,この白い,それでいて何か惹かれる絵の表紙のこれが積まれていたのであった。
 不幸にしてその時ワシはあまり持ち合わせがなくてスルーしてしまったのだが,本日(11/18),紀伊國屋書店新宿南店にて本書と再び邂逅したため(平積みではなかった),無事ゲットして,帰りの新幹線車中で読了したという次第である。これは札幌の閉店書店がもたらした「縁」という他ない。
 札幌で本書を手にとって気に入った理由は四つある。
 一つは,著者の得能(とくのう,と読む)がワシとほぼ同年配の女性だったということである。大体,どーゆー訳か,自分の生年すら明らかにしない女性漫画家の何と多いことか。特にBL系は惨憺たるもので,そんなに三十路過ぎて男×男を描くのが恥ずかしいんだったら描くのを辞めたらどうか,というぐらい多い。それに引き替え得能のこの開けっぴろげな態度は素敵である。
 二つ目は,最近結婚した相手がNew Zealerにも関わらず,それを一切ネタにしていない,ということである。こんなおいしいネタを持っていれば,ポプラ社の小栗左多里にもなれるというのに,何と慎ましいことか。・・・最も本書がそこそこ売れて,続編が執筆されるとなれば変わってくるのかもしれんが。
 三つ目は,絵がうまいということである。今日日,女性のエッセイ漫画家は掃いて捨てるほど出版されており,絵の巧拙は,素人に毛が生えた程度から,西原理恵子黒川あづさ級まで,天と地の差がある。もちろん,それと内容の面白さは別物であるが,読者だってそう安くない金を払って本を買うのであるから,絵がうまいに越したことはないのである。
 得能の絵は,2~3頭身の丸くて簡素なものであるが,立体を立体としてキチンと捕らえており,それでいて適度な湿り気を感じさせる優れたタッチも備えている。本書が刊行されることになったのは,ポプラ社の編集者が偶然,Webページに掲載されていた得能の4コマ漫画を発見したことが切っ掛けとなったのであるが,編集者の「目に止まった」ということが,絵の魅力を物語っているとも言える(たぶん)。カラーページは皆無な愛想なしのエッセイ漫画であるが,多分それはこの描線の持つ魅力を最大限引き出すための仕掛けであって,決して得能がメンドクサがったわけではないと思いたいのだがどうなんだろう。
 しかし,最大の理由は,何と言ってもタイトルにある通り,自分のビンボウ暮らしを描いている,ということである。
 今日日,日本社会,いや先進諸国は「下流化」「二分化」が社会問題のパラダイムになって久しく,それを冠した書物は沢山出版されている。しかし,「下流」人間の当事者からの生の声を,2,3行のインタビューの抜粋ではなく,ごそっと固まりで差し出してくれるものを,ワシは見たことがなかった。本書は20代から30代を「フリーター」として,本人曰く「人生をなめてかかって」過ごしてきた下流人の生の声が詰まっている希有なものなのである。
 多分,編集者も著者も,ライトなエッセイ漫画を描いて出版したつもりなんだろうし,概ねそのような記述が多いのだが,結構,ちくちくと胸を刺すエピソードがちりばめられていて,三十路過ぎのフリーターに対する世間の厳しさが伝わって来るのである。その結果,ワシにとってはとてもライトエッセイ漫画と呼べる代物ではなく,得能の丸い自画像の,欠けたラグビーボールのような目の奥に潜む,マリアナ海溝より深くて暗い何かを見てしまったような,そんな大仰な形容詞を使いたくなるような感想を抱いてしまうのである。
 一番うるっときたエピソードは,小銭を貯めて美容院に行く話である。内容は本書を読んで確認して頂きたいが,ワシはこのユーモラスな記述の奥にある,悲しみの大きさに感動してしまったのであった。これって,勝海舟が貧乏だった幼少の頃,餅をもらいに行った帰りに落っことしてしまい,それを拾おうとして自分の惨めさに気が付き,餅を川に投げ捨てたっていうエピソードとよく似ているんだよなぁ。大金持ちでもない限り,誰しも似たような「惨めさ」は味わっているのではあるまいか。
 貧乏とは,金がない苦しさではなく,将来に対する不安だ,というのは誰の言葉だったか。簡素な絵でそれを背後に感じさせてくれるこの作品は,一定レベル以上の画力があってこそのものである。得能の「だらしない私を笑って」というへりくだった態度は日本の強固な伝統に基づくものであるけれど,多分,「だらしない私」を一番いとおしく,悲しみをたたえた存在であると知っているのは,得能自身なのだ。そして,それに共感している同世代の中年たるワシも,収入の違いこそあれ,「だらしない私」を抱えていること間違いないのである。
 ワシの考え過ぎなのだろうか? それは本書を御一読の上,各自で確認して頂きたい。

「高橋敏也の動く!改造バカ一台」 Impress TV

[ Amazon ] ISBN 4-8443-7022-7, \2980

 旧・通産省,現・経済産業省の旗振りのもと,文部科学省が大学理工系学部が産学連携に邁進するのを黙認して以来,日本の科学技術は企業と大学を巻き込んでグローバルスタンダードに挑み続けている。その動きを苦々しく思っている大学教員もいるが,ワシ自身はそのこと自体は別段悪いことではないと思っているし,世界規模で技術競争が激しくなっている現状を考えれば,遅きに失したぐらいである。
 しかし,著しく欠けている要素がある。それは日本のサブカルチャーの伝統であり,特に

ギャグ成分

が足りない。決定的に足りないのである。
 間違っても,「ユーモア」ではない。そんなスノビッシュなえげれす風味の斜陽帝国人種が好む代物ではない。あくまでも「ギャグ」である。鴨川つばめが立ち直れなくなり,江口寿史が白いワニを出して遁走し,いしかわじゅんが海外に逃亡し,吾妻ひでおが失踪した原因となった,「ギャグ」である。
 困ったことに,かように偉大な先人たちが次々に討ち死にしていった結果,それに続く若い世代は自分大事とばかりに長持ち志向であり,自らをすり減らしながらの「ギャグ」に邁進する者は少ない。そのためもあってか,産学連携においてもギャグ成分に全く欠いており,サブカルチャー大国としてはまことに物足りないと外務大臣がお嘆きである。ワシも大いに同意する次第である。
 しかし,最近は堅苦しくマジメ路線を歩んでいた産学連携に熱心な方々も反省したらしく,つい最近,その成果が函館から発信されるに至った。残念なことに,今ひとつパンチに欠けるロボットであり,現時点ではみうらじゅん言うところの「ゆるキャラ」にカテゴライズされるレベルであるため,ギャグというよりはまだユーモアベースにとどまってしまっている。それでも日本のお家芸をハイテクノロジーを用いて取り戻そうとするその情熱には敬意を表したい。
 そんなギャグに欠ける技術世界に,ギャグをストレートに持ち込んだ唯一の例外がこの「動く!改造バカ一台」である。
 このDVDは,Impress TVの超人気コンテンツの第1話から第20話まで収録した「だけ」の,オマケ動画も説明冊子も何にもない,近頃の過剰オマケに満ち溢れたDVDとは一線を画するスッピンDVDコンテンツである。しかし,それはImpress TVのコンテンツに対する自信の現われであり,決して手抜きでも売れ行きに対する期待のなさでもないはずだと信じたい。
 
 ギャグに必要なのは正確なセンスと過剰さであり,ギャグセンスの示す方向を性格に目指して真摯な努力と体力を注ぎ込むことによって得られるものである。かのエジソンもギャグには「99%の汗と1%のセンス」が必要であると述べている通り,汗もセンスも欠けてはならないのである。
 高橋にはその両方が備わっている。さすが故・矢野徹御大が見いだした人材だけあって,科学技術の無駄遣いっぷりと,計画がものの見事に失敗したときの愚痴りっぷりには,文章だけからは分からない「ギャグ魂」が籠もっている。それを見事に引き出しているディレクター・トッポ松浦氏の飄々とした突っ込みには大阪漫才の息吹が宿っており,日本の民俗芸能の精神も伝わっており好ましい。
 個人的には第21話以降が好みなのであるが,それが収録された第二弾DVDが出版されるには,本DVDがImpress TVが予想する以上の売れ行きが是非とも必要であるに違いないとワシは確信しているのである。従って,産学連携に勤しむ技術者・研究者・教員の諸氏には是非とも本DVDを購入し,ギャグ成分を研究に持ち込むべく参考にして頂きたい。多分,文部科学省も本DVDを研究費で購入する分には税金ドロボー扱いにはしないはずである。ちなみにワシは私費で購入したので誤解なきように願いたい。

西原理恵子「パーマネント野ばら」新潮社

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-10-301931-X, \952

パーマネント野ばら
西原 理恵子著
新潮社 (2006.9)
通常24時間以内に発送します。

 かの漫画王いしかわじゅんがのたまう事には,毎日新聞社から出したエッセイ集の,本屋店頭における扱いがあまりよろしくない,あれは毎日に政治力がないからだ,毎日では仕方がない,ということであった。しかしそれを聞いたワシは,どんな地方の場末の本屋にも一冊は置いてある「毎日かあさん1」も毎日新聞社発行の漫画です,従って,失礼ながら,いしかわ先生の本の扱いがよろしくないのは単に「サイバラ」と「いしかわ」の

ネームバリューの違い

なのであって,出版社のせいではないのでは? と思ったものである。
 そして今回,この本が発行されたことで,ワシの前言は正しいこと確信させられたのである。
 新潮社といえば,良質な漫画作品を扱っていながら,ことその営業成績に関してはロクでもないことで有名である。
 まず発行されても店頭で見かけることは少ない。ワシが技術者ドキュメンタリーとして一押しする漫画,小沢さとる「黄色い零戦」や,杉浦日向子の最高傑作「百物語」,ベテランギャグ漫画家初のエッセイ漫画を収録した,山科けいすけ「タンタンペン」。マンガを大々的に扱っている大規模店には,まあなんとか平積みになる程度は配本されていたが,地方の中堅書店ではまずお目にかかれなかった。少しは版元になっているコミックバンチを見習えよ,と言いたいぐらいの体たらくであった。
 しかし,サイバラは別格であった。茶畑しかないようなド田舎の本屋でも平積み,50万都市のコミック専門店でも平積み,日本全国津々浦々,どこへ行ってもサイバラ初のオトナ(オバサン)の恋愛・感情を描ききった意欲作は配本されていたのである。
 つまり,やっぱり出版社の問題ではなかったのだ。
 サイバラの新刊は,「サイバラ本」という分類にカテゴライズされているものであって,おそらくは「ムラカミハルキ本」より若干格下ではあるものの,日本各地に固定ファンが少なくない一定数存在する,とニッパンやトーハンから太鼓判を押された存在になっていたのである。従って,毎日新聞社という朝日や読売やそのうち産経にも抜かれること確実の斜陽新聞社であっても,良質マンガを売るノウハウを全く学習してこなかった文芸only新潮社であっても,関係なかったのだ。「西原理恵子」という名前が,配本数を決定する唯一の決め手なのである。いしかわじゅんの嘆きは正しく,それは斜陽新聞社から発行される,ほどほどの部数の売り上げのみを期待される本に相応しい,普通の扱いだった,というだけのことだったのである。
 本書とほぼ同時期に角川書店から馬鹿でかい版形の「いけちゃんとぼく」も出ているが,絵本というだけあって児童書っぽい内容(クライマックスはちょっとオトナっぽいが)であり,少し物足りないと感じた。それに対し,本書は今までの西原キャラよりずっと等身のでかい少女漫画的美人が主人公で,かのいしいひさいちが藤原先生や月子を登場させた時のような,いい意味での違和感を漂わせる冒険的な作品になっている。すれっからしの中年の心象に近い感覚も好ましく,建前だらけのリーマン生活に嫌気がさしている向きには,登場人物たちのすがすがしい生きっぷりを楽しむことで,ストレス解消間違いなしである。
 「男ははようおらんになるにかぎるなー」という言葉は真実である。
 
 ワシはこの真実をオバハンに分からせるような,底意地の悪いジジイになりたい,と思いました。◎

神谷淳ほか「理工系のための解く!微分積分」講談社

[ Amazon ] ISBN 4-06-155766-1, \2400
 本書は献本で著者のお一人から頂いた物である。年のせいか,最近はこーゆー形で頂く本が増えてきてありがたいやら,(中略),なのだ。それ故に,なかなかreviewしづらいのがこの「献本」という奴なのである。
 まず,「タダ」で貰ったという負い目があって,reviewするにも切っ先が鈍りがちになる上に,著者が顔見知りであるが故の献本なのだから,どーも見知った人が書いた物に対しては,(中略)などは書きづらい。ってすでにもう(中略)を2回も使用していることがわかる通り,ワシが感じたままを書きまくることが難しいのである。
 と言って,この先,献本については全く何にも書かないのも,Google様からPageRank 6を賜っているWebページの主の沽券にかかわる。とゆーわけで,当たり障りのない範囲で好きなことを書きまくることにする。
 本書は理工系の微分積分で扱う範囲をカバーしたテキストであるが,微分積分に関する入門書と言えば,もう腐るほど出版されており,正直言って,個人的にはこれ以上森林資源を無駄にするのは止めた方がいいと思っている。とはいえ,大学教員とゆーのは研究者であると同時に,自らの担当科目に関してはテキストライターになってしまう宿命を背負っている。他人の書いたテキストを使って講義をしたとしても,「この著者はこんなことを書いているが,これはどーでもいい」とか「教科書には書いていないが,こーゆーこともある」とか,随所に批判しながら進めるのが常だ。そーゆー批判を差し挟んだノートを作ると,あら不思議,それはもう別のテキストになってしまうのである。従って,出版されている微分積分の教科書は氷山の一角であって,日本の大学には大学のセンセーの数だけ教科書が存在することになる。逆に言えば,同じ教科書を使っていても,センセーが違えば中身ががらっと変わってしまうのが,大学の講義という奴なのである。
 特に,もしワシが本書を使って講義をしたとすれば,そこに記述されていない,下記のようなことを延々と喋ることになるに違いないのである。
 1. 自然数から複素数まで「集合」と「代数系」としての数の体系
 2. 何故,実数は「直線」なのか?(有理数の隙間を埋める無理数)
 3. ε-δ論法による数列の収束,関数の極限値との関係
 4. 関数の連続性=実数の連続性
 5. (sin x)’ = cos xが弧度法(ラジアン)でしか成立しない訳
 6. 至る所微分不可能な高木関数
 7. 原始関数が表現できない積分の例(楕円積分など)
 8. 曲面積は曲線の延長にあらず(発散してしまう曲面積の定義例)
これで14回の講義のうち半分以上は潰れてしまい,「役に立たないことばかり教えるダメ教師」のレッテルを貼られること間違いない。ただ,ワシは最近,「大学でしか教えてくれそうもない知識」を無理矢理にでも受講生に押し込むこともある程度は必要ではないか,というへそ曲がり的心境になっていて,それ故に「理論体系としての微分積分学」の一端を見せることができるのだ,と開き直りたい欲求が抑えられないのである。
 逆に言えば,本書の記述通りに進めていくことで「役に立つことだけをきちんと教えてくれる良い講義」を作り上げることが出来るのである。例題は穴埋め式で,高校までの数学をきちんとこなしてきた学生さんには無理なく理解できる程度になっているし,長たらしい定理の証明なども皆無,図形による説明は豊富なので,本書で理解できないようなら,大学教養の微分積分の習得は難しいと言わざるを得ない。説明が親切な分,最後はがっちり重積分まで習得できるようになっているから,もし自分の講義で使用している教科書が難しいとか,上記1~8のような晦渋な理論を振り回すバカ教師の講義に四苦八苦している学生さんにとっては良き参考書になることは間違いない。
 ・・・とゆーことはよーく分かっているつもりなのだが,どーもワシは「バカ教師」になる欲求を捨てきれないのだ。いやむしろ,この先定年まで,クビにならない程度に「よく分からない講義」をしていきたいとすら,思っているのだ。それは多分,「よく分からないこと」を相手にすることにしか愉悦を覚えない,どーしようもない性から来ているのであろう。そして,「よく分かる講義」のための技術の習得に「飽きてしまった」(極めた,という意味ではない)のあろう。
 教師としてははなはだ宜しくない態度であり,言語道断ではあろうけれど,そーゆー人間でもクビにならない(今のところは,ね),というのが大学とゆーところの本質を物語っている。そして学生さんたちには,そーゆー言語道断な教師がのさばっていられる理由を,多分卒業後に身を持って知ることになるはずで,そこにこそ,「大学」という教育機関の本当の強みが発揮される・・・と詭弁を弄したい今日この頃なのである。
 最後に,「教師にイヤな質問を浴びせることを趣味としてきた陰険な学生」だったワシが,現在進行形で陰険な学生たらんとしている諸君に,アドバイスを一つ進呈したい。
 本書を使って講義をしている教師には是非とも次の質問をして頂きたい。

まえがきに書いてある「Mathematica」って何ですか?

「Mathematicaって奴を使うと本書の問題は全部解けちゃうんですか?」「Mathematicaがあれば微分積分はとても楽に勉強できるんですか?」「格子状になっている2,3次元図形はどうやって描いたんですか?」という質問でもよかろう。事前にMathematica数式処理Maple, MuPAD, Maxima, Risa/Asirという単語をググっておき,先手を打って予備知識を仕入れておくのもbetterだ。
 おそらく大抵の教師なら,”Mathematica”についての解説や,どうやったらそれを使うことが出来るのか(情報センターのマシンには入っている,とか)を親切に答えてくれるはずだ。そして同時に本書の解説にあるような「手計算」(つーか,理論の方かな)の大切さも同時に解説するはず・・・ですよね?>みゃー先生(とプレッシャーをかけておこう) 特にS岡大学にはとても”Mathematica”には良い環境があると聞いているので,是非とも使って頂きたいものである。