美濃部美津子「三人噺 志ん生・馬生・志ん朝」文春文庫

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-16-767966-3, \505

三人噺
三人噺

posted with 簡単リンクくん at 2005.12.26
美濃部 美津子著
文芸春秋 (2005.11)
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 一人暮らしを長く続けているせいなのか,単純に年のせいなのか,「家族の情愛」みたいなことを語ったエッセイや小説を読むと涙腺が緩んでしまう。下手なTVドラマではそんなことはないのだが,ドキュメンタリーなどでそのようなシーンがあるともう涙と鼻水でグショグショになってしまう。みっともないことであるが,このような感情があることで,不心得者であるワシでも人並みな人生を送れているのであろう。故に,「家族の情愛」に反応するこの感情は,一種の安全弁としての役割を果たしているのである。これがなくなれば,年端もいかない子供や足腰の弱い老人に平気で暴力を振うような人間になるに違いない。そうならないよう,人生の安全弁を点検するために時々は「家族」を扱った読み物に触れることは必要である。
 本書はそのような目的にジャストフィットした,いや,しすぎたエッセイである。ワシはもう涙ボロボロ,胸の奥底を刺激されつつ本書を読了したのであった。
 著者は,古今亭志ん生の娘さんである。故に,十代目馬生,三代目志ん朝のお姉さんでもある。本書はこの3人についての思い出話であるが,破天荒な人生を送った志ん生についての記述が一番多い。志ん生についてのエピソードは今でも噺家の枕に登場するが,肉親から直接聞かされると妙に切なく感じてしまう。
 例えばこんな話がある。著者が子供の頃は貧乏のどん底にあったが,糟糠の妻であった美濃部りんは,正月と盆には必ず新しい着物を子供にあつらえていた。しかしそれも,次の年には箪笥から消えてしまう。「お父さん(志ん生)が持ってっちゃうのよ,質屋に。」(p.45)
 また,第二次大戦末期に東京が空襲に晒されるようになると,「お父さんは,あてになんない」体たらくである。「何しろ空襲警報が「ウーッ」って鳴ろうもんなら,一目散で逃げ出すんですよ。」 挙句の果てに,「迷子になっちゃう。だから,あたしたちが後を追っかけて,捕まえなきゃならないんですよ。これが空襲のときの日課。」(p.70) ・・・結果,志ん生は円生と共に満州へ慰問,というか逃げ出すことになる。
 今だったら間違いなく即離婚となるであろう情けなさであるが,それがかえって家族の団結を深める方向に作用しているところが泣けてくるのである。もし志ん生が本業の落語においてもさほど目立つ力量を持っていなかったとしても,この家族は最後まで幸せに暮らすことができたであろうと思えてくる。
 すべてが壮大な母性に包まれて語られるせいか,ところどころ笑えるエピソードが出て来ても,チクチク胸の奥を刺激してくる。したがって,泣ける話になってくると,もうたまらない。生きている間好きだったウナギを絶ち続けていた志ん朝をしのぶため,陰膳を頼むところなぞもう堪らなく悲しい。「今なら心おくなく食べられるだろうと思ったの。」(p.154) ・・・と書いていても泣けてくる。
 ああ,わかった。どうやらワシはオバサンの母性という奴に,めっぽう弱いらしい。それに加えて家族愛。こりゃダメの2乗だわ。安全弁の点検・・・のためだけには,ちっと刺激が強かった。しくりん。

養老孟司「解剖学教室へようこそ」ちくま文庫

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-42161-0, \640

解剖学教室へようこそ
養老 孟司著
筑摩書房 (2005.12)
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 ワシは昔から本を書くのが好きだったのである。何せ修士論文は線型代数のテキストにすべく余計な記述を多数くっつけたし,ロクな知識もない段階でWebのテキストも書き,数値計算のテキストも並列計算のテキストも書き,つい先頃は情報数学基礎のテキストも書いてしまった。もちろんキチンと編集者の目を通して出版社からISBNコードを付記されて世に出たものは一つもなく,すべてが自己満足レベルである。
 それでも,まとまった内容をある程度の分量にしてまとめる,という作業をしてきたのは確かである。で,馬鹿なワシでもそれなりに経験を積んでくると,良書というものを書くのはとてつもなくシンドイ作業である,ということは分かってくる。ことに入門書レベルのもので,巷にあふれるITマニュアル本とは異なる内容の,それでいて学術的にもしっかりしたものを書くということは,かなり知識と知恵が要求される作業である。その理由を内田樹は「寝ながら学べる構造主義」の前書きにおいて,次のように述べている。
 「よい入門書は「私たちが知らないこと」から出発して,「専門家が言いそうもないこと」を拾い集めながら進むという不思議な行程をたどります。(この定義を逆にすれば「ろくでもない入門書」というのがどんなものかも分かりますね。「素人が誰でも知っていること」から出発して,「専門家なら誰でも言いそうなこと」を平たくリライトして終わりという代物です。私はいまそのような入門書のことを話しているのではありません。)
 よい入門書は,まず最初に「私たちは何を知らないのか」を問います。「私たちはなぜそのことを知らないままで今日まで済ませてこれたのか」を問います。
 これは実にラディカルな問いかけです。」
 ・・・書き写していて胃が痛くなってきたが,確かに自分が書き散らしてきたのは「ろくでもない入門書」ばかりであったことは認めざるを得ない。しかし,内田の言う「ラディカルな問いかけ」を行う,ろくでもなくない「よい入門書」を書くのが恐ろしく知識と知恵を要求する作業になる,という理由はよくご理解いただけると思う。このラディカルな問いかけに対しての答えを専門家として用意できない限り,それは「ろくでもない入門書」にならざるを得ないのである。そして巷にあふれるものは,圧倒的多数が「ろくでもない入門書」なのである。もっともそれはそれで「ろくでもない入門者」向けにぴったりであるから,需要と供給の関係故に存在しているのであるが。
 養老孟司といえば,今やミリオンセラー街道を驀進中の書き手であるが,本業は解剖学者であり,一昔前の著者が書くものは晦渋を極めた,とまでは言わないが,すらっと意味の通る文章を書く御仁ではなかった。それは自ら言うように,時代遅れの解剖学をずーっと定年まで極めてきた,ということと無縁ではないように思える。大体,時代の脚光を浴びていたとは言いがたい専門分野を選択したという性格は,分かりやすいものとは思えない。しかもあまり脚光を浴びていない,という自覚を持ちながらウダウダと評論文を書くのであるから,その分かりにくい性格とあいまって,文章はどうしてもひねてしまうのであろう。
 ワシは一度著者が新聞に書いた短い評論文を課題として用いたことがあるが,これは完全な失敗であった。「勉強になる」という言葉がキーワードとして登場するのだが,文頭では字句通りの意味で用いながら,最後には皮肉を込めた使い方に変化してしまうのである。このじっくりねっとりした論理展開にワシは魅せられたのであるが,若い学生さん向けの文章では決してない。
 そんな著者が,中学生向けのちくまプリマーブックスの一冊として,十二年前に書き下ろしたのが本書である。今回それがちくま文庫に入り,ワシは初めて読んだのだが,へぇ~,昔の養老先生でも分かりやすい文章が書けたのだなぁ,と感心した。それでいて,本書は解剖学に対する「ラディカルな入門書」たり得ている。
 何せ,本書の第2章は「気味が悪い」である。人体の内部構造を淡々と語るのが「ろくでもない入門書」であろうが,死体は気持ちが悪い理由を語る章を設けているところが凄い。そして,その語りが人体理解への重要なヒントになり得ているのである。解体新書やレオナルド・ダ・ビンチの人体スケッチ画という歴史的事実を織り込みつつ,最後は「分かる」とはどういうことか,という根源的な哲学的話題にまで踏み込んでいく。
 まさしく,ラディカルを地でいく展開を経ていく本書は,文章が分かりやすいだけに過激さが際立っている。解剖という行為の意味を突き詰めて,中学生に理解できる平明さで投げ出している本書は,ワシにとっての「ラディカルな入門書」のお手本であり,あと20年かけてこのレベルに近づきたいと念願しているのである。

財団法人 C&C振興財団 編「コンピュータが計算機と呼ばれた時代」アスキー

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-7561-4677-5, \2100

コンピュータが計算機と呼ばれた時代
C&C振興財団編
アスキー (2005.12)
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 ワシは今でも「コンピュータ」という言い方よりも,「計算機」という言い方を取る。これはワシの大師匠の口癖が伝播したものである。つまり,大師匠は本書のタイトル通り,「コンピュータが計算機と呼ばれた時代」の生き証人なのである。実際,富士通の池田敏男記念室に今でも実働展示されているFACOM128Bを操っていた方であり,そーゆー世代なのだから当然である。
 実は本書は今ワシの手元にない。もちろん,「いい本だ!」と三省堂書店本店にて直感し身銭を切って買ったことは確かだが,まずは「生き証人」に本書を眺めてもらってその感想を聞きたい,と思い,大師匠にプレゼントしたため,今は手元にないのである。
 で,大師匠は本書のページを繰りつつ,懐かしい懐かしいと言いながら日本のコンピュータ黎明期に活躍した「計算機」の数々をご説明下さったのである。豊富な資料写真に付記されたキャプションの正確さにも感心されておられた。
 「いい本だ」というお墨付きを大師匠から頂いた本書は,コンピュータの歴史に興味を持つ御仁であれば是非とも座右においておくべきものである・・・と,虎の威を借りてご推薦申し上げる次第である。ワシは来月にも自分用に一冊買っておくつもりである。

池田清彦「やぶにらみ科学論」ちくま新書

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-06140-1, \700

やぶにらみ科学論
池田 清彦著
筑摩書房 (2003.11)
通常2-3日以内に発送します。

 本書については以前もレビューを書いている。この度,職場から一冊推薦書を出してくれと依頼され,その際に本書を推薦して書いた文章がこれ↓。結局,以前のものを一切参照しない書き下ろしとなったので,ここに載せておきます。どーせ,職場でワシの文章なんか読む奴いないしな。
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 人格穏やかな人に「面白味」を感じることは少ない。泰然自若として何事にも動じず全てを穏便に受け流す,というのは理想ではあるけれど,全てを飲み込むブラックホールのようでもあり,そこから何かが生み出されることはないような気がするのである。その反対の人,つまり人格穏やかならず,常にいらいらしているような人は,周囲の迷惑ではあるけれども,そこには「迷惑」というコミュニケーションが存在していることになる。
 どうも学者先生には「人格穏やか」な人が少ないような気がする。この世界に身を置いて十年ぐらい経つ私には,そう思えて仕方がない。自分も含めて,現状に満足していないことが研究への動機付けになるのであり,それ故に問題解決が出来ずにイラついている,そんな人ばかりなのである。
 本書の著者は生物学者であるが,そんなイラチ学者の典型である。さすがに年齢を重ねているだけあってそのイラつき方は尋常でなく,知識の豊富さも加わって,大変面白い「芸」に昇華している。本書は科学技術に関する短いエッセイをまとめたものであるが,専門の生物にとどまらず,地球温暖化問題や環境問題にも不満をぶちまけている。
 ここで注意して置かねばならないのは,不満のぶちまけ方に筋が通っているかどうか,ということである。人間とは悲しいもので,感情の極限に達すると論理が破綻してしまいがちであり,特に若い時はこの傾向が顕著である。人間誰しも欠点はあり,自分でもうすうす気がついているポイントを突かれると,どうしても逆上してしまうものであるが,論理が破綻してしまってはどうしようもない。そこはボロクソに叩かれるという経験を積み重ねて,感情の向く矛先をうまくコントロールする術を身に付けなければならないのである。それがうまく行けば,論理と感情が均衡した悪口「芸」として第三者を楽しませることができるようになる。
 本書はそのような馬齢を経た上の,論理的な悪口芸で満ち溢れている。ために,現在も感情コントロールの修行中である私が憧れる到達点のお手本となっている。是非とも20年後には池田清彦バリの,論理的嫌味なおっさんになりたいものだと念願している今日この頃なのである。

黒川あづさ「アジ玉。」中央公論新社

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-12-003684-7, \880

アジ玉。
アジ玉。

posted with 簡単リンクくん at 2005.11.29
黒川 あづさ著
中央公論新社 (2005.11)
通常24時間以内に発送します。

 本書を一言でまとめると,不法滞在者のバングラディッシュ人と結婚した日本人漫画家によるエッセイ漫画ということになる。今回始めてこの結婚の顛末を単行本として刊行したことになるので,高橋由佳利,小栗左多里,流水りんごという国際結婚エッセイ漫画家グループにまた一人お仲間が加わったことになる。
 黒川あづさといえば,ワシにとっては青年誌に連載されたラブコメ漫画「リダツくん」の著者,というよりは,やはり「じょりじょり系」ホモ漫画家としてのイメージが強い。
 いわゆる男×男(この表記も古いかな)恋愛のジャンルは「ショタ系」「美青少年系」「じょりじょり系」の3つに大別される。このうちショタ及び美青少年系は,じょりじょり系に相対する,頭髪以外の毛を持たない人間しか登場しない「つるつる系」としてまとめることもできる。黒川あづさはデビュー当初この「つるつる系」の作品を描いていたが,そのうち中年オヤジに目覚めたらしく,ダンディかつアンニュイなじょりじょり無精髭漫画家を主人公とするシリーズを描くようになっていった。いわゆるBLと呼ばれるつるつる系作品群とは違い,青年漫画テイストの濃い絵柄だったと記憶する。ただ,作品や単行本に対するコダワリが強かったらしく,それ故なのか,近年はあんましワシの目にとまる所では描いていなかったようである。で,久しく見なかったじょりじょり系作家が,エッセイ漫画ライクな白くて軽い絵になって登場したのであるから,まぁ驚いたのなんのって。反射的に手にとってレジに向かったのは言うまでもない。
 で,そーゆー経歴を知っていると,本書においては中年以上のオヤジの描き方が「じょりじょり系」的に丁寧であることに御納得頂けることであろう。資産家である義父や政治家の義兄の絵は力がこもっていて,さすが黒川先生ご健在なり,と拍手を送ってしまうのである。
 最後にタイトルについても触れておこう。著者のダンナさんは結婚するまでは不法滞在者として日本で働いていたのだが,前述の通り,実家は資産家であるので,黒川先生は特に狙ったわけでもないのに玉の輿に乗ってしまったのである。で,「アジアの玉の輿」を略してこのタイトルになった,らしい。
 まぁそれはいい。しかし,萌えるひとりものとして気になるのは,黒川先生がバングラディッシュ人のボンボンと結婚するに至った理由である。勿論,日本人とは何人かとお付き合いをしてきたのだが,「言葉は通じても本音を語らない」(P.10)野郎ばかりでお気に召さなかったらしいのである。「仕事でもないのにうわべだけのおつきあいするほど私もヒマじゃない」(同上)とは,誠にその通りであり,日本人独身男性を代表して,無駄に時間を使わせてしまったことを深くお詫びする次第である。
 しかしまぁ,(現実の)日本男児に愛想を尽かしたおかげで玉の輿にも乗れて,セクシーなおみ足を持つダンナさんとも生活が共にできるようになったのであるから結果オーライ。今後の課題は唯一,本書がそこそこ売れて続編が刊行されて日本での生活を続けて行く事だけである。もしそれが適わなければご実家に戻られて,リッチな生活(だけではなさそうだが)を送る羽目になるらしい。黒川先生のお眼鏡が適わなかった日本人ひとりもの男としては,本書を身銭切って購入し,ご夫婦の日本生活への援助をさしあげることで,せめてもの償いをさせて頂きたく,今後のご活躍をBlogを見つつ,お祈り申し上げます。