よしながふみ「愛がなくても喰ってゆけます。」太田出版

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-87233-936-3, \880
 近年活躍目覚しい女性漫画家,よしながふみによる東京グルメガイド付き,ショートマンガ集である。主人公は作者本人と思しき人物だが,果たしてこれがフィクションなのかエッセイなのかは皆さんの想像にお任せしたい。ともあれ,この主人公の食に対する執念はただ事ならず,故に紹介される和・洋・中華レストランには一度食いに行ってみたくなるずずず・・・あ,よだれが。
 ・・・というのが,某新聞社に投稿した紹介文なのだが,もう一言,付け足しておきたい。
 年齢を重ねたためであろう,よしながふみの描く恋愛はますます多様になっており,本書でもそのバリエーションを一つ増やしている。それは友情とも師弟愛とも区別のつかない一定の距離を保った一見冷ややかな恋愛(?)である。これはよしながらしき主人公とその後輩アシスタントの間にあるものだが,それがある故に本書は単なるショートエッセイの寄せ集めではない,一つのゆるいストーリーを紡いでいるのである。
 果たしてこれが実際にあったことなのかどーなのか,そんなことはどーでもよろしい。はっきりしているのは,色気のない恋愛を扱っていながら,うまい食い物にセックスやヌードの代わりをさせている,きわめてエロくて健全で面白いマンガだ,ということなのである。
 とりあえず,うなぎ好きのワシとしては「安斎」に行ってみたい・・・。

小林信彦「物情騒然。」文春文庫

[BK1 | Amazon ] ISBN 4-16-725616-9, \619
 まあ大体,「団塊の世代」以上の方々の言うことをいちいち真に受けて聞いていては身が持たないのである。こんだけ財政赤字を抱えつつ,今までどおりの年金支給額を維持することは無理。支給額を抑えつつ,年金受給者からも幾分かの負担をお願いするため消費税率のupをするか,どっかの補助金をカットするか,政府の機能を小さくして支出を減らすか,いずれは決断することになろう。どれから手をつけるかは政治的な力学に左右されるだろうが,「どれもこれも一切ダメだ!」という主張をまともに聞く必要がないことだけは断言できる。勝手に言わせておけばよろしいのである。「我々の既得権益を守れ!」という主張には「ワシらの権益はどーでもええっちゅーんかいっ!」という反論で十分だからである。
 故に,この方々のこーゆー主張は気楽に聞けるのである。聞き流せばいい話だからである。それを一切除いた後に,ためにする部分が残るのであればそこだけを記憶しておけばよい。最近のなだいなだや小林信彦の著作にはこの手の聞き流せばよい嘆き節が多くなってきて少々うんざりしている。が,それでも読み続けているのは,まだ「ためにする部分」があると思われるからである。
 本書は連載コラム「人生は五十一から」をまとめたもので,4冊目にあたる。ワシは文庫化されたこのシリーズは全部読んでいるが,一番の売りは著者が体験してきたエンターテインメントの歴史についての記述であろう。それも長く続けているためであろうが,「繰言」めいてくるとちょっとくどい感じがする。著者のお年を考えるとやむを得ないのであるが,愛読者としては著者の「老い」が感じられ,少し悲しい。解説の芝山幹郎に言わせるとこの点は優れたワインの「高原状態」を示す指標となるのであろうが・・・うーん。
 それでも,帰りの新幹線車中で一気読みしてしまったのは,やっぱり基本的には一定水準をクリアした「おいしいワイン」である証拠なのであろう。老いたとはいえ,著者の筆力はまだまだ健在,ということである。その点だけは保証する。

石浦章一「東大教授の通信簿」平凡社新書

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-582-85263-7, \720
 以前,高校の教員集会とやらに引っ張り出されたことがある。学生(高校生の場合は「生徒」と呼ぶのが普通らしい)による授業評価について,高校よりも先行して実施している大学としてコメントして欲しい,ということのように記憶している。
 現在の小中高校教育の現場は良く知らないが,全ての授業,あるいは全ての教員が行った授業のどれか一つを対象として,受講学生にアンケートを取っるようなことはしていないのが普通だろう。しかし,大学の場合,特に私立大学は,少子化の進展によって学生数を確保することが難しくなることもあって,授業評価に積極的に取り組んでいるところが多い。今では国公立大学でも,講義終了時にアンケートを取るのが普通である。
 その集会では事前に出席者へ質問項目を聞き取っていたようで,当日その場で「これについて答えて下さい」と質問をまとめた書類を渡された。その中に「アンケートを取って学生におもねる姿勢を取るのはいかがなものか」というものがあり,当時はまだ気弱な三十路ニューカマーだったワシは,「おもねるというのはどういう意味か分からない」と戸惑いつつ,「まあ確かにひどい言葉を投げつける学生も居ますが,それは適切に無視できるようになってきてますよ」と答えたのであった。
 返す返すも残念である。
 考えても見よ,学生はサービスを受け取りたくて安くない学費を支払い,それを糧として我々センセーどもは日々の生活を送っているのである。こちらの力量に差があるのは仕方がないが,それなりに良い「サービス」を講義を通じて返すのは当たり前のことではないか? それを「おもねる」とは何事であるか! てめぇらこそ力もないくせに自分のプライドだけ擁護したがっているアマちゃんなのであって,アンケートにあれこれ書かれるのが怖いなら,実のある講義をしてみろよっ!
 ・・・と,今ならこーゆー文意を真綿にくるみつつ,でも所々に棘は突き出ている,というような答え方も出来たであろう。残念である。
 うーむ,のっけから熱くなってしまったが,しかし,日本のセンセー方は概して「打たれ弱い」存在である。いーじゃねーかよ,メガネが変とか,ヒゲ剃ってこいとか,ブサイクとか馬鹿とか死ねとか書かれたってよ。こっちはいい年した大人だぜ? 勝手に言ってろよ,こちとらこれで金とって生活している立派な社会人,親の脛かじって自分の至らなさとまともに向き合えないボンボンと一緒にするんじゃねーよ,ぐらいのオヤジ的開き直りでどっしり構えていただきたいものである。
 そーゆー授業アンケートの自由記述欄に書かれた極端なご意見は,ワシがコメントしたとおり,「適切に無視」すればいいのであって,問題はその他の,統計的指標がはじき出される所にある。講義内容の難易度,板書の使い方,配布資料の量と内容,受講生への講義参加促進努力の有無・・・,と「良くて当たり前」と思われそうな項目は数値で答えることになっているから,全体の評価値が一目瞭然となる。ワシら教員にはその結果が全体の平均値に比較して高いか低いかも分かるようになって返ってくる。ワシの場合は,全体として中の下,というところで,ちょっと手を抜いた講義を続けると下がり,頑張ると上がる,という,まあ「いいところもあるが悪いところはそれを若干上回る」平均的な教師なのではないかと自己評価しているのである(甘い?)。いや,こーゆー評価はワシにとってはありがたいものである。変に自己肥大して「ワシの話が分からんのは受講生が悪い」となることもなく,頑張れば平均レベルにはなる,という自意識をアンケートなしで得られたかどうか,甚だ疑わしい。
 という訳で,本書は天下の東京大学で実施された授業評価の結果を分かりやすくまとめたものである。生命科学を専門とする著者が書いたものであるが,本書には専門に関する記述は殆どない。東大教員の仕事の内容や教育システムの解説,著者自身の論文成果の経年変化,等々,大学内部の仕組みに疎い人が読んでも誰にでも分かるようになっている。そして授業評価の結果も「まあ,そんなもんだわな」と納得させられるものであって,ワシが知る限り,まともに教育を行っている大学ならば,似たような統計結果が出ているのであった。その結果を知りたければ,本書を買って読んで下さいませよ。
 さて,大学のセンセー方の評価については大体出揃った昨今,著者もちょろっと述べているが,次の課題は「受講結果の精査」である。多少学生さん達からの評価は悪くとも,脱落者が増えない程度のものであれば,学生さんの「不満」よりは「得たもの」が多い方がいいに決まっている。大体,教師に対する評価なんて,社会人になって数年すればガラッと変わってしまうものである。それよりは成果,そう,「評価よりは成果」を重視するような授業評価が行われれば,打たれ弱いセンセー方もその真価が分かってくるのではないかしらん?

堀田善衛「ミシェル 城館の人」第一部~第三部 集英社文庫

第一部 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-08-747749-5, \838
第二部 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-08-747759-2, \838
第三部 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-08-747772-X, \838
 古典を読め,とはよく言われることであり,実際読むべきである,とは思う。古典とは,その後それを追う著作がいっぱい出て,「何でこんなに言及されるのか?」と不思議に感じたときに紐解かれる,いわば著作の源泉なのである。そーゆー代物は読みたいとは思うが,例えば「たけくらべ」を読もうとしても,文語調に慣れていないヘタレな現代一般人の多くは読了できないだろう。短いこの作品にしてからこの体たらくであるから,源氏物語なぞは,まあ無理である。せいぜい,瀬戸内寂聴円地文子の現代語訳を通じてオリジナルの息吹を感じる程度が関の山である。
 更に問題なのは,文語もさることながら,その古典が執筆された際の時代背景についての知識が必要になることである。実は,ワシは名前を出していながら白状するが,源氏物語は現代語訳や大和和紀「あさきゆめみし」すら読んだことはない。もちろん,学校教育でちらりとその抜粋を見かけたことはあるが,光源氏なる人物がいかような女遍歴を辿ったのか,ということはさっぱり分からなかった。おぼろげながらも筋を知ったのは,川原泉「笑うミカエル」を読んでからである。おかげでワシの光源氏像はエラく偏ったものとなってしまっている。
 とまぁ,読みたくても読めないのが,ワシにとっての古典である。どーせオリジナルを読めないならさ,いっそマンガでもダイジェストでも小説でもいーじゃん,と安易な開き直り状態に陥ってしまっているのである。
 というわけで,「ミシェル 城館の人」である。ミシェル,とはMichael de Montaigne,つまり「随想録」を著したモンテーニュのことである。皮肉もあり,鋭い文明批評あり,何より相対主義的な思想書と褒めちぎられることの多いこの古典は,しかし白水社の全訳は2186ページ・・・もうそれを聞いただけで読む気が失せる分厚さである。せいぜい同じ出版社から出ている新選本の方を読むのが精一杯である。しかしそれとても,それが執筆された時代背景を知っているのと知らないのとでは,やっぱり読み方が変わってくるのではないだろうか。現代にも通じる,かなり普遍的な「エセー」であるとは言え,それが16世紀の宗教改革の嵐が吹き荒れていた頃に,政治的に重要な役割を果たしながら,一人城館に篭ってこれを書いていた,ということが分かってくると,より一層,古典としての凄みが理解できそうではないか。しかも,ミシェルさんは,領主としてあまりよい働きをしたとは言えず,父親には溺愛されてラテン語の早期教育まで受けさせられたが,母親とはあまりうまくいかず,しかも妻は寝取られる,というプライベートまで明かされてしまうと,だからこそこれが書けたのかな・・・と変な納得をしてしまう。そーゆー,ミシェルさんに関する様々な政治的・家庭的な事柄も,「エセー」からの豊富な(ちょっと重複は多くてくどい感じはあるけど)引用も含めて時系列的に述べられている本書は,言葉は悪いが「馬鹿でも読める随想録」と言える。ワシはこの3部作を読了して,すっかりモンテーニュが,随想録が分かった気になってしまった。
 しかし,本書は小説としての筋の通し方も見事である。最終的にモンテーニュが到達したもの,それに向かって収斂していくまでの流れが,歴史的ドラマの要素も加わって,結構ドキドキできたのである。相手に合わせるだけの相対主義は思想とは呼べない・・・モンテーニュがたどり着いたのはそんなものではなく,自分の内面を徹底的に見つめることで築くことの出来た「思想」であると,堀田は言う。果たしてワシみたいな文学的素養のない人間にそれが正しく理解できているかどうかは怪しいが,どーも,小林よしりん的な「絶対主義」よりは,ずっと相対的な「構造主義」の方が肌に合うよな,と感じつつあるワシとしては,ミシェルさんに近しい感情を勝手に覚えてしまっているのである。

西島大介「世界の終わりの魔法使い」河出書房新社

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-309-72846-4, \1200
 サラブレッド,という言い方があるそうだ。何のことかというと,いわゆるエリート純血主義のことである。出身地,出身校,両親・親類等が優れている人物のうち,特に才能に秀でている者を引き立ててエリートとして育てあげる,というシステムをそう呼ぶのだそうである。取り立てて才能もなく,出身大学も並以下,人並みはずれて努力家というわけでもないワシは,最初そのシステムを聞いてムカついたものである。大体,サラブレッドだらけの世の中って面白くなさそうである。ワシみたいな馬鹿もいた方が,何かと賑やかで,トラブルは多いけど,それ故に思わぬ見返りもありそうじゃないか。
 しかし,サラブレッド・システムでなければ生まれ得ない人物,というのも確かにおり,馬鹿を生かすなら,飛び切りのエリートもいないと釣り合いが取れない,とも言える。まあ,最終的にはバランスの問題になるのだけれど,とびっきりのエリートってのは,やっぱり必要だな,と,同世代のそーゆー人物と言葉を交わす機会が多くなってくると,そう思うのである。
 サラブレッドなら,自力で這い上がってくるんじゃないかって? いや,それじゃまずいのである。千尋の谷から這い上がって来た時点で,サラブレッドは獅子になっているのである。馬はやっぱり平和な牧場で,飼い葉に困ることなく,それでいて「走る」ための鍛錬だけは怠らずに続ける,そうやって育てなくてはならない。余計な岩登りなんぞさせてはいけない。ま,ワシみたいな馬鹿は,「馬鹿力」がないと世の中渡っていけないので,大いにロッククライミングに励む必要があるのだが,ね。
 で,西島大介である。後見人は・・・いっぱいいそうだけど,やっぱり大塚英志の力が大きいのかな。独り立ちして書いた作品は既に2作。「凹村戦争」と,この作品である。「へえー,新人でもう書き下ろし2作目?早川と河出から,ねぇ」などと嫌味を言ってはいけない。彼はエリートなのである。サラブレッドなのである。その資格を十分備えた作家(漫画家,と言われた方が嬉しいのかな?)なのである。大事に育てようではないか。冗談抜きで,ワシは宮崎駿亡き後は西島大介が日本のカルチャーを引っ張っていくのではないかと,期待しているのである。
 とにかくセンスがいいのだ。一見かわいい3頭身のキャラクター達が,鮮血を噴出しながらバラバラになったり,SEXしたり(本作ではベロチュー止まりだが),泣いたり笑ったり絶望したりと,白い画面を有効に使って柔軟に動き回り,ストーリーを作っていく。読み終わってみると,実は二作とも馬鹿マンガ(by BSマンガ夜話)だと結論付けられるのだが,それ故に読了後の爽快感はなかなか心地よい。久々にヤラれたという気分を味わって,ワシは大変に嬉しいのである。
 現在連載中の「ディエンビエンフー」はタイトルから分かる通りベトナム戦争が舞台の作品だが,これも含めて3作全て,舞台が破壊されつくした,あるいは破壊されつつある世界である。まあ小難しい評論だと色々理屈がつくのだろうけど,単なる中年の一おっさんとしては,バブル後の失われた十年世代の感覚なのかな,という気はする。そして,絶望の底にいる以上は這い上がるしかない,というストーリーも,そこに由来するのだろう。
 何だこいつ,デザインセンスはあるし,動きはうまいし,デビュー後の活躍の舞台もちょっとマイナーだが注目されやすい所だし,すくすくとエリート街道まっしぐらの癖に,みょーにワシら馬鹿の琴線に触れる作品を描くじゃねーか。あっ,そこが「才能」なのかっ! こいつぁ,やっぱりサラブレッドなんだなぁ。
 とゆー訳で,しばらくは西島大介の走りっぷりに注目,なのである。