おざわゆき「あとかたの街1~5」(完結)講談社

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「あとかたの街1」[ Amazon ] ISBN 978-4-06-376999-9, \580+TAX
「あとかたの街2」[ Amazon ] ISBN 978-4-06-377075-9, \580+TAX
「あとかたの街3」[ Amazon ] ISBN 978-4-06-377144-2, \580+TAX
「あとかたの街4」[ Amazon ] ISBN 978-4-06-377221-0, \580+TAX
「あとかたの街5」[ Amazon ] ISBN 978-4-06-377350-7, \580+TAX

 2014年初頭から始まった連載が本年(2015年)半ばに終了,最終の第5巻が出版されて,名古屋空襲を描いた初の長編漫画が完結した。戦後70年を経て第2次世界大戦時の日本を描いた映像作品はボチボチ「時代劇化」しつつある中で,辛うじて肉親からダイレクトに聞き書きできる現時点で描かれた「生の感触」を伝える役割を果たす作品として,図書館に置かれてもおかしくない漫画作品である。まずは完結を喜びたい。

 とゆー真面目な意見は他にもたくさん書いている人がいるだろうから,ワシは個人的な「萌え」をここで書きつけておくことにする。
 それは本作の第2巻の表紙に描かれた,物資の少ない中で男物のコートを羽織った主人公の女学生・木村あいの姿によって発動されたのだ。ルパン三世の五右衛門バリに「可憐だ・・・」と思ってしまったのである。萌えたのである。
 萌えたといえば,同様の胸キュン(死後)を,本年9月に出張で行ったドイツ・ポツダムでも感じたのである。毎日国際会議の会場となっている大学へトラムに乗って通っていたのだが,そこには必ずスカーフを被ったムスリムと思しき少女が乗り込んでくるのである。それを見るとワシはドキがムネムネになったのである。ロリコンかワシは。
 いやそうではないのだ。
 ワシはどうも「健気(けなげ)」にヤラれてしまうようなのである。自分を取り巻く家族や社会や時代の状況に対して声高に反抗するのではなく,従順に,だが,真摯に向き合っている姿にワシは心底惚れてしまうようなのだ。多分,ある種の合理性を主張している向きが,実は自身の利益の最大化を狙って行動しているだけという事例に普段から多数触れているため,心底ウンザリしているという事情が大きい。きりっと真一文字で口元を結びつつ日常を営む,その姿にワシは涙が出そうになる程感動するたちなのである。ドイツで見たムスリムの子供たちも,本書で描かれている登場人物たち,とりわけ,主人公のあいにも,ワシは共通するきりっとした口元を見たのである。

 本書で描かれているあいは,幼少の妹・ときと鶏・クラノスケを手放すことなく,どんな困難があっても家族として行動を共にしようとする。大黒柱である父親がイマイチ頼りないこともあって,日本本土の制空権が完全に失われた後,木村一家は焼夷弾が散らばる中を名古屋市内から岐阜へと疎開。それでも最後まで家族と共に生きていく姿は健気で尊い。全く持って結婚するならこういう娘さんに限るよなぁと,我ながら昭和のおっさんのような感想を抱いてしまうのだが,こういうタイプに弱いんだから仕方なかろう。

 してみれば,ドイツで見かけたスカーフほっかむり娘さんたちも,ムスリム家族内の結束の証としての服装をしている訳で,木村一家と同様の健気さが充満しているのも当然なのだ。こういう家族愛とそれを表現する健気さに対する「萌え」感情,誰しも強弱の差はあれど持っているものであるとワシは信じるのであるが如何か? 読者諸氏におかれましては,完結した5巻セットを読破して,戦時中の庶民の大変さを知ると共に,いつの世もどんな地域でも人間社会を成立させてきた最小単位である家族愛に対して胸キュンさせて頂きたいものである。

御手洗直子「31歳ゲームプログラマーが婚活するとこうなる」新書館

[ Amazon ] ISBN 978-4-403-67174-6, \850+TAX

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 以前ここで紹介した「31歳BLマンガ家が婚活するとこうなる」の続編,今度はゲームプログラマーである旦那の側の婚活エッセイマンガである。相変わらず乾いたユーモアのある作風で,お気楽に読めるし,何より数少ない「男側から見たネット婚活の赤裸々な実態」が垣間見えるので,普段から出会いがないとお嘆きのオタク(に限らないけど)なモテない男性諸氏におかれては,ネット婚活を始める前に是非一読し,「粉かけた女性からの返信が全くない」「リアルなデートの第一回目で相手が目の前に現れず終わる」「ファッションセンスのダメさをズケズケ指摘される」等々の悲惨な経験談を頭に叩き込んでおくべきである。

 ネット婚活を始めるシチュエーションは人それぞれであろうが,一番の理由は「出会いがない」ということであるらしい。地方自治体が相次いで婚活イベントを主催するのも,リアルな出会いの機会を増やしたい→既婚者を増やさなければ地域の維持ができない,という危機感の現れのようで,高知・奈良・長野・福井で行われている報告書(PDF)をチラ見するだけでもその一端が理解できようというものである。身の回りには出会いがなく,行政の手助けも受けられないとなれば,人類の利器・ガイアの神経回路ともいうべきネットを通じた(いささか恣意的な)ランダムアクセスに頼るのもむべなるかな,という気がする。

 この御手洗直子の旦那がネット婚活を始めた理由は,ボンヤリ過ごした20代を振り返り,「このままいくと彼女とか結婚とかスルーしたまままた10年経過する気がして・・・」「よし決めた!31歳これからの目標は女の子とお近づきになる!」(P.9)という決意である。で,登録したはいいけれど,前述のような悲惨な目にあいながら5年間(長ぇよ!)もの歳月を過ごすことになったというのである。全くもって同様のオタク的もっさり系男性として思い当るところの多い(だから思い返したくない)貴重で笑える(傍から見ればね)体験を積み重ねてきたからこそ,本書は是非とも同類男性諸氏にお勧めしたいエッセイになっているのである。

 身も蓋もない統計調査によれば,結婚できる男性は「正規社員(職員)として一定以上の所得がある性癖普通,人格穏やかな人」ということになる。所得があることはもちろんだが,社会的常識を一定以上備え,女性に対する配慮ができなければ,結婚には至らず,したとしても長続きしないのだろう。当たり前のことではあるが,これらの条件が最初から揃っていればまず目の高い女性連中が見逃すはずがなく,「モテる男性」となってあっという間にゲットされてしまうことになる。そうやって男としての主体性を何ら発揮することなく篭絡された例を幾つか目にするにつけ,高度に発達した情報社会における弱肉強食的結婚事情の何と残酷なことか!と叫びたくなる。そしてその他大勢の女性からそっぽを向かれた「モテない男」どもは,結婚のためにはどんな悲惨な目にあったとしても主体的に動かざるを得ない,動き続けざるを得ないことに気が付くのである。

 本書で描かれる御手洗直子の旦那の経験はなかなか悲惨だ。御手洗の筆致がユーモラスで乾いているから読めるけど,自身がそーゆー目にあったら早々に挫折して引きこもってしまうかも・・・と恐ろしく思うかもしれない。やれ「臭い」だの「ダサい」だの「車持ってこい」だの・・・まぁいろんな要求を突き付けてくるもんだなぁと,ワシはあきれ返ってしまった。勿論ワシも何件か「お見合い」の経験があるが,ここまであれこれ言われたことはないので,ワシは随分と常識的な女性たちと接触できていたのだなぁと知ることができたのである。

 とはいえ,悲惨だろうが何だろうが,活動し続けないことには結婚には至らないし,何より経験を積むことで身を持った学習をすることになり,少しずつレベルアップして最終段階の手前では短期間の同棲経験(SEXがあったかどうかは描いてないが)までするに至るのだから,人間何事も経験と学習だなぁと思うのである。これ何か似ていると思ったら,新卒の就活と全く同じシチュエーションなのである。けんもほろろに門前払いされる経験を経て己を知り,自分にふさわしい企業を少しずつ受験していって最終面接まで辿り着けるようになって内定を得る,という過程は婚活も就活も同じなのだ。
 もちろん一発受験ですぐに内定を得る「モテる就活生」というも存在するがそれはごく僅か。大多数は多くの「お祈りメール」を貰った末に社会への入り口にたどり着く。この高度に発達した情報社会では選択と選別を我々も企業も日常的に行っており,他者からの要求を無制限に受け入れることはあり得ない。自らが拒絶することは当然の権利である以上,「自分が拒絶される」ことも受け入れなければならず,であればこそ,拒絶に対して「傷ついた!」と喚き続けることは無駄以外の何物でもない。自分だって拒絶することがある以上,拒否されて傷つくことはお互い様なのである。

 前著でも描かれているように,御手洗の旦那は御手洗と出会うことで長きに渡った婚活を終了する。最終的にはオタク的趣味と収入(重要!)以外のことには興味のない御手洗直子と結婚するに至り,婚活中に学んだ数々の「社会的経験」は不要だったのかな・・・と旦那本人は感じているようだが,ワシとしてはこの経験があったからこそ結婚後の生活も安定的に営めるのでは,と思う。必ずしも望んで得た婚活経験ではないにしろ,それは今後の結婚生活における種々の波乱を乗り越える礎になるのではないだろうか。

 ま,過ぎ去ってみれば何でも「思い出」になってしまうものである。ネット婚活を,この御手洗の旦那ほど経験していないワシとても,今になってみれば人生を振り返る際のスパイスになっているなぁと感じるのだから,これからネット婚活に入ろうという男性諸氏におかれましては,本書を前書と共に読み込んで,スパイス慣れしておくのも一興ではないかと思うのである。

マイカタ「かたくり」上・中・下,一迅社

上 [ Amazon ] ISBN 978-4-7580-0878-5, \1240 + TAX
中 [ Amazon ] ISBN 978-4-7580-0879-2, \1240 + TAX
下 [ Amazon ] ISBN 978-4-7580-0880-8, \1240 + TAX

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 世に蛮勇あり。・・・というのはオブラートに包んだ婉曲表現であり,つまりは「バカじゃねぇの!」と吐き捨てられる行為一般を蛮勇と呼ぶのだ。

 本書の出版はまさに蛮勇,オールカラーで全話収録,しかも三分冊で一冊税込だと1300円を超える価格で一括販売である。バカのやることである。ワシが一迅社の株主なら怒り狂って社長の首を絞めに行く。既に実績のある有名マンガ家なら復刊ドットコムという事例があるからまだ理解するのだが,著者は日本のプロ商業漫画界ではほぼ無名の存在であり,しかも内容は弱小Web会社のブラック社畜生活を明るく描く,解説なしの専門用語だらけの不親切極まりない1ページ完結のぶつ切りマンガだ。講談社のWebマガジンで連載されていたとはいえ,3年の連載期間中に一度も単行本にまとめようという話もなかったという,商業的には完全に見捨てられた作品なのだ。捨てる神あれば拾う神ありとよく言われるが,拾って出した単行本が売れなければ神どころか単なるスッテンテンの貧乏人になるだけだ。まともな出版社ならやらないことを一迅社はやらかしたのである。

 しかし一迅社はそのような前科がある。低迷していた夢路行の全集を出し,鉛筆書きの個人Webサイトに張り付けられていた白黒ビットマップをまとめて単行本化してアニメ化まで行っている。まこと,賢いサラリーマンだらけの日本の出版界において数少ないベンチャー魂にあふれた大馬鹿者の出版社である。漫画に対する目の付け所については確かなものがあり,それが大衆に刺さるものかどうかを世に問う度胸は大したものなのである。確かに本書は,そして作者のマイカタにはそれが備わっており,オールカラーのド高い贅沢な大判単行本として読者に届けるだけの価値のある作品だと一迅社は確信したのだ。そしてそれは確かに間違っていない。間違っていないがビジネス的にどうなるかは未知数だ。しかるに大馬鹿出版社の大博打に対し,ワシは戸田書店静岡本店において大枚払って本書を入手し,読破してこれを書くことでその博打に一口乗ることにしたのである。以下は丁半の結果を待つこのワシの高揚感をお届けすることにする。

 実はこの著者の「マイカタ」という人物,創作系同人誌即売会コミティアではかなりの有名人である。ワシは一度だけ,この著者ともう一人の人物との合作本を読んだことがあるのだが,それはコミティア発行のパンフレットの読者投稿欄で取り上げられていたからである。
 それはマイカタ(女性)ともう一人の人物(男性同人マンガ家)の同棲生活を描いた共作エッセイマンガだった。最終的にはマイカタの方が,もう一人の同人マンガ家の経済力のなさに見切りをつけて別れてしまい,商業作家への道が開いたマイカタが都会に出ていくというものであったが,なる程,明らかにマイカタの作品にはもう一人の作品にはない「魅力」があった。この「かたくり」上巻の最初の部分はその面影が色濃く出ていて,不安定ながらもプロ編集者から「こいつを使ってみようかな」と思わせる独特の作風になっている。

 マイカタの画風の魅力は,(1)融通無碍な描線で描かれた下半身デブな可愛いキャラと,(2)世の無常を泣き笑いでからりと叫んでまとめてしまうブラックジョーク的シンプルさ,この2点に集約される。
 まずは(1)について語ることにする。
 多分,デザイン能力が抜群にあり,図画の構成能力が高いためだろう,キャラの動的表現がたがみよしひさより数倍上回っているにも関わらず,読みにくくはならず,魅力的になっているのだ。しかもこの下半身デブキャラ,特に女性キャラは脂肪多寡にもかかわらずみな可愛い。デブ専エロ漫画的肉ジワがあっても水着姿がエロく感じるのは,かなりの専門的美術教育を受けてきた可能性もあるのでは・・・と思うのである。表紙が名画のパロになっているのもそれ故なのかもしれない。
 そして(2)だ。作者マイカタの分身のような主人公・ナカウラが所属する弱小Web制作会社は,実は親会社のリストラによって消滅した支店が母体となって発足したものであり,まず上巻の最初からエグイ社長のドライな配置転換 or 退職宣言から始まるのである。それがまことに心地よい。ナカウラをはじめとする支店の面々は,支店長を新たな社長とするWeb小企業として再出発,配置転換して散り散りになった元会社の仲間と涙の別れを経て,明るい諦観を持ちつつ,土日祝日が平気で潰れるサービス残業三昧の社畜生活を開始するのである。
 マイカタという作家の持つこの二つの特徴が融合し,不思議な可愛らしさ,明るさを保ちつつドラマチックでリアルなICTを活写した物語世界を展開しているのが本作のもう一つの不思議なところなのである。

 著者のマイカタは都会(名古屋か?)に出てからすぐに漫画だけで一本立ちしたわけでなく,IT会社で働いていた経験があるとのこと。それ故,本作の端々で何の解説もなく展開されるHTMLやらAndroidやらIOSやらソース(HTML,CSS, JavaScriptのプログラム)という用語がリアルな物語の中で昇華されている。このコンピュータ関連会社のリアルさはシギサワカヤ並である。長時間労働にも関わらず明るい諦観で貫かれているのだから,重苦しいシギサワ作品とは雰囲気が真逆であるが,何か奥底には諦観ベースのブラックユーモアテイストがあるのが共通項として挙げられる。現代テクノロジーの粋を集めたはずのICT世界は今だ泥くさい低賃金労働の下支えなしでは立ち行かない,中世的階層世界を凝縮したような構造を持っており,シギサワ作品にもマイカタ作品にもその怨恨のようなものが作品のエネルギーとして立ち現れている。Amazonクラウドは倉庫を駆け回る多数の契約アルバイトによって稼いだ銭がつぎ込まれているし,Googleの堅牢なデータセンターは常に故障する基盤を交換する要員がいなければクラッシュする運命にある。そしてクラウドが支える検索対象データを担うのは,全世界で下へ下へと押しやられたHTML, CSS, JavaScript, ActionScript, PHP, C#, ASPのプログラマであり,JPEGやPNG形式の煌びやかなバナーや飾りつけを作っては張りつけつつWebページを構築するナカウラのようなデザイナーの汗と涙と低賃金なのである。

 上・中・下の3巻でマイカタのダイナミックな画風は確立し,躍動感と可愛さはそのままにプロマンガ家として一本立ちしたようだ。そして最後には上巻の最初の展開のようなドラマチックな結末と現代ICTの中世的階層世界を描いて結末を迎える。著者によれば単行本化が一向にされないことに業を煮やしての自分から申し出た打ち切りということだが,実は早いうちにICT世界から足を洗って最新技術動向をネタにできなくなったという限界を感じてのことかもしれない。今時,全部Flashで作ったページなんぞ作ってたんじゃスマホやタブレットで見れないページができちゃうだけだしなぁ。

 何にせよ,本書の刊行はワシが目撃した中では本年最大の暴挙であり,そんな大博打を打たせるだけの魅力を称えたマイカタを世に出そう(+ひと儲けしよう)という一迅社のバカな心意気に感動した一大事であった。3冊合わせて4000円近い出費を無駄と思うか安いと思うかは,そんな一迅社の心意気を,マイカタを,そしてマイカタが描いた現代ICTの中世的階層社会を,どう評価するかによって変わる。少なくともワシはそのすべてに対して惜しみない拍手を送りたく,このぷちめれを執筆したのである。

 マイカタと一迅社に幸あれ! 願わくば本書の売り上げと印税で年が越せますように!

小林よしのり「卑怯者の島」小学館

[ Amazon ] ISBN 978-4-09-389759-4, \1800 + TAX

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 久々の小林よしのりフィクション,太平洋戦争から多くの材料を取っているとはいえ,ワシとしてはギャグの少ない近年のよしりん作品を割と愛好している方なので,本書の刊行を楽しみにしていたのである。で,発売日から大して日もおかずに購入,一気呵成に読了し,書下ろしの最終章まで辿り着いてびっくらこいた。

 「これは,『東大快進撃!』じゃないか!」

・・・ということで以下は完全に本書「卑怯者の島」のネタバレになるので,未読の方は読了後に読まれたい。

 よしりん作品に耽溺するようになったのは,現在の多くの愛好者同様,「ゴーマニズム宣言」からである。それ以前の作品も少しは機会あるごとに読んではいたが,元々少年ジャンプ系列の作品が人気ご都合主義的で好きになれなかった上に,絵から入るワシのマンガ読書スタイルにはとてもじゃないが,「おぼっちゃまくん」以前のバランスの悪い絵柄は受け入れ難かったということも大きい。だからデビュー作の「東大一直線!」はパラパラと眺めた程度であり,その続編にあたる「東大快進撃!」も,連載途中の作品を何度か見た程度であり,最終回に至ってはどこかの待合室か書店の立ち読みで読んだというぐらいなのである。
 しかしその最終回は衝撃的で,「ギャグマンガの結末がこれ?!」と驚き,その後,ゴー宣が始まった時も,なるほど,世間に物申すスタイルがここに結実したのかと,割とすんなり受け入れられたものである。その後の活躍っぷりは,ワシより詳しい方が多いだろうから省略するが,色々と物議を醸しつつも健筆をふるって現在に至るのだから,まぁとにかくジャンプ出身者はすげぇなと素直に脱帽するしかないのである。

 「ギャグ漫画家は過酷な稼業」ということは,数多のギャグマンガ家が描けなくなったり失踪したりしている実例が相次いだことでよく知られている。近年は先達のあまりの悲惨さに恐れをなしたか,若いギャグ漫画家は適度に気晴らししたりして作家生命を延長させる術に長けているようだが,その分ギャグに含まれる「狂気」成分が目減りしたように見受けられる。それについての論評は避けるが,よしりん近辺の50~60歳代のギャグマンガ家で現在も現役で生き残っているのはそんなに多くはないことを考えるとむべなるかなと感じる。
 しかし,ワシは面白い作品だけを追い求める無責任な一読者であり,作家が死のうが生きようがそんなことはどうでもいいのだ。表面的な取り繕いとは別に内実は,よしりんがゴー宣で描写していた如く,何でもいいから面白い作品をと渇望する餓鬼のようなものである。特にワシ世代は「マカロニほうれん荘」の栄光と没落をリアルタイムで見ているだけに,作家の枯渇すら楽しんでしまうような浅ましさがあるのだ。
 そんな残酷な餓鬼読者に囲まれてギャグ作品を描き続ける作家はどれほど苦しいことだろう。20代の才能だけで突っ走れた時代ならいざ知らず,机と編集者との打ち合わせ以外の往復運動以外知らずに狭い世界に埋没し続けてギャグを追い求める生活を続けていれば破綻しない方がおかしい。肉体や精神を酷使し続けても,雑誌の人気ランキングや単行本の売れ行きという結果がついてくるかどうかは全く保証のない世界だ。勤め人以外の人生を知らないワシなぞは想像を絶する過酷な世界だなと他人事のように感じるしかない。

 本作は太平洋戦争末期の壮絶な日米の激突を描いた,かなりリアルな題材に基づく長編漫画であるが,読み進むにつれて奇妙な懐かしさを感じるようになっていった。それは食料弾薬一切の補給路を断たれて飢餓線上を精神力だけで生き抜いている日本軍部隊の隊員によしりんスタッフが使われているという点であり,そして最終章のクライマックス,バス乗っ取り犯のナイフで割腹した主人公がギラギラした目を輝かせているシーンで確信に至ったのだ。「わぁ,よしりんは芯の部分で変わってないな!」と。
 もちろん,本書はギャグ作品ではなく,シリアス一辺倒の物語だ。タイトルである「卑怯者」は,激戦を愛国者としてではなく卑怯者として生き抜いてしまった主人公を指す言葉であるが,実は本書の主要キャラクターは,忠心を尽くしたトッキ―を除いて漏れなく「卑怯」な部分を抱いている。日本兵だけではなく,直接対峙した米兵にも腰抜けがいる。もちろん英雄的活躍もたくさんあるが,多くのキャラクターが「卑怯」と「英雄」の間を振れ幅の違いはあれ,往ったり来たりしているのだ。その精神の振幅は同胞意識であったり,栄養状態であったり,混乱の激戦における瞬間的なシチュエーションによって規定される。この振幅状態の描き方はシリアスそのものだ。しかしこのシリアスさが実は小林よしのりの原点である「狂気的ギャグセンス」の発露によるものではないか。奥底に破壊的衝動を抱えつつ,時代時代の状況を凌いでいき,ついには自らのよって立つところを崩壊させてしまう狂気のどん詰まりを描いた作品として,本作はまぎれもなく「小林よしのり」作品の神髄を露出させているのではないか? それがワシの感じた「懐かしさ」の一番の理由なんだろうと,ワシは勝手に確信しているのである。

 手元にはない「東大快進撃!」のラストだが,ワシが覚えているのは,ついに東大に合格を果たして安田講堂(だったっけ?)の屋上に上り詰めた主人公・東大通が,ライバルの秀才(不合格)が打ち込んだ楔の招いた講堂崩壊に巻き込まれて消えていく,というものだった。「え?ギャグマンガなのに最後がこれか? 小林よしのりって狂ってんなぁ」というのがワシの感想であり,それは本作においても全く変わっていない。右に左に天皇に玄洋社に反戦に反原発に・・・と目まぐるしく思想の変遷を繰り返しているように見えるよしりんであるが,真の部分は内蔵する破壊的狂気,そしてそれをガードしつつも活写する卓抜な表現力を武器に「今現在」を解釈して表現活動をし続けているだけなんだろう。個々の言動に対しては違和感を持ちつつも,ワシが今もよしりんの,特に「フィクション」を楽しんでいられるのも,餓鬼のように面白さだけを追求する卑しい読者根性を満足させるだけの狂気を発信しているからに違いない。そしてそれが小林よしのりが解釈した「リアルな戦争」に結実して,本作として届けられたのだから,餓鬼のようにワシは喜んでしまうのである。

 でもワシは「夫婦の絆」の続きも渇望しているんですがね,小林先生・・・まだあきらめてませんよワシ。

佐々大河「ふしぎの国のバード 1巻」エンターブレイン(KADOKAWA)

[ Amazon ] ISBN 978-4-04-730513-7, \620+TAX

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 本書の紹介をコミックナタリーで読み,その意外な着眼点を面白く思って早速本日,本書を買って読んだ。率直に言って,デッサンのヘタクソな森薫のような画風,新人であることを考慮すれば仕方ないとはいえ,1巻に収められた分だけでも絵の変遷が気になるほどで,マンガとして安定しているとは言えない。しかし,明治初期の日本を旅行して回ったイザベラ・バードに着目してその旅行記を描こうという心意気と,丁寧な描線と緻密な背景の書き込みによって補われた作品の熱量には圧倒された。森薫信奉者の評価が辛くなるのは仕方ないが,いしいひさいちや植田まさしや大友克洋登場後のフォロワーマンガ家の異常な大量登場を思えば,森薫のフォロワーが多少なりとも出るのは,彼女の偉大さを証明するものであれ,否定するものじゃないのだから大目に見て頂きたいと思うのである。

 作者・佐々大河は殆どすっぴんの新人マンガであるらしく,ちみっと検索したぐらいでは大した情報が出てこない。せいぜい2011年早大卒というFacebookの記述があったぐらいだ。それから類推されるのはまだ二十歳代の知的水準の高い若者なんだろうという程度だ。森薫フォロワーらしい画風の所以は不明だが,安定していないところを見ると,2巻以降の激変もありうるかなぁとワシはかなり楽しみにしているのである。

 最近は日本全体の経済のパイがシュリンクしているようで,あちこちで悲鳴のような痛々しい愛国心の発露が聞こえてくる。日本万歳,中国韓国けしからん,日本サービス最高,日本製品品質最高,あまつさえ,第2次世界大戦前後の歴史の無知をひけらかすような「愛国無罪」的言動まで見るにつけ,ちと右翼っぽいところがあるワシですら,おめーらいい加減にせいよと嫌気がさす程だ。在日外国人が日本を褒め称える言動を持ちあげる風潮も大概にした方がいい。政治経済が安定している国ならどこでも真摯に努力している人間はいるし,そこで培っている文化から生み出される製品やサービスはそれなりのものが必ず存在しているのだ。自分で比較対象の努力もせずに,他人の言で持ち上げられて舞い上がっていると,そのうち詐欺師が出てきて騙されること必定である。いやもうすでに中韓のスパイが盛んに「日本素晴らしい大作戦」を決行中で,ワシらの精神をスポイルしようとしているのかもしれない。

 本書の主人公であるバードは,世界各国を巡って旅行記を執筆してきた女丈夫である。写真を見る限り,本書で描かれるか弱き女性とはとても思えない。あんなハードな旅を完遂した西遊記の玄奘三蔵が優男であった訳はないとガタイ男として描いた藤子F不二雄はまことに正しいのである。しかし,イギリスの世間知らずな貴婦人バードを,未開の野蛮国・日本に解き放つことで,蚤の大群に襲われてセクシーな肢体を晒すこともできるし,雑音としてしか聞き取れない日本語を話す素朴な明治の日本人に対する喜怒哀楽を率直に表現することもできるようになるのだ。歴史物を娯楽作品として描く時には読み手の感情を揺さぶらねば,興味を引き付けることはできないから,史実とは異なるフィクションを入れることは当然ある。そこに無粋なアカデミック的茶々を入れるのは学者先生に任せておけばよく,マンガ家は自身の熱意を透過しやすい物語世界を構築することに専念すればいいのである。その意味で,本作は今のところ成功しているといって良い。力量が伴っていないところもあるが,森薫流の分厚いファンタジー世界を描こうとしていることは間違いなく,背景も人物も流麗な描線で装飾されており,この調子で背伸びを続けていけば次巻以降は独自の世界を構築していけるとワシは確信しているのである。

 そして,江戸時代を引きずっている野蛮国日本がいかようなものであったか,ヤワな貴婦人バードの率直な感情表現によって,つまり,現代人であるワシらと共通する欧米的価値観を通じて鮮やかに見せてくれることで,妙な日本万歳的雰囲気に冷や水をかけてくれるのではないかという期待もある。通訳の伊藤鶴吉の謎な経歴について,これからどういう味付けで明らかにしてくれるのかという伏線も用意されている。不安定な所はあれど,期待大の新人マンガ家なので,森薫のパクリだなんだという下らない雑言は無視して独自の佐々大河マンガを目指して頂きたいものである。