戸瀬信之「数学力をどうつけるか」ちくま新書

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-06190-8, \700
 本書は二つの意味で失敗作である。長年,数学力低下を憂い,率先してその危険性を訴えてきたグループの強力な一員が書いた本であるだけに,そしてその内容の多くに首肯できるだけに,誠に残念である。筑摩書房はどうしてこのような本を出版してしまったのだろうか,もしかして,本書で批判されている,同じちくま新書から一足先に本を出している市川伸一の援護射撃になることを見越した上で,編集者はこの本を出したのではないか・・・そんな下種の勘繰りをしたくなるぐらいの失敗作である。
 まず,本書はタイトルで失敗している。本書の大部分は「ゆとり教育批判」であり,もちろんその結果として「(これから成人となる日本人の)数学力」をつけることになる訳なので,読了した後にはタイトルの深遠さが理解できるのであるが,営業的には如何なものか。ワシが本書を買ったのは,著者名ではなくタイトルに惹かれたからである。それは,ハウツーものとしての「数学力のつけ方」を伝授する本だと思っていたからである。日々教育に悩む同業人として何か参考になるところがあるかな・・・と軽く考えて買ってしまったのである。装丁で分かるような単行本ならともかく,装丁はちくま新書全体で統一されたものであり,腰巻に「日本の学力を立てなおす!」と書いてあったって,それはいつもの営業的壮語だな,と一顧だにしない訳で,こんなに壮大な数学教育論ならもっとふさわしいタイトルを付けるべきであった。この点,分かりやすい単刀直入なタイトルである「学力低下論争」に負けている。
 そしてこれが肝心なところだが,市川伸一の批判をするならもっと敵を知ってからやるべきであった,ということが挙げられる。まあ,市川が討論会での戸瀬の発言を捻じ曲げた,なんていうレベルのことに終始しているのなら別段構わなかったのだが,ゆとり教育論者,というより,日和見主義者として批判(P.184~191)しているのである。そうなると,本書より先に「学力低下論争」を読んでいたものとしては,市川のこの文章がどうしても思い出されるのである(「学力低下論争」P.190から)。

 「人が論争に多大なエネルギーをかけるときというのは,一つには何らかの利害意識がからんでいるとき,そしてもう一つは,「自分がこれを主張しなければ,だれが言うのか」という使命感にも似た役割意識をもっているときではないかと思われる。その両方がある場合には,論者は惜しみないエネルギーを論争に注ぐ。しかし,それらは議論の表に「論点」としてあがってこない。そんなことを直接的に言ってしまえば,「あの人は自分のために議論しているのか」と言われるだけである。
 学力低下論の場合も,これらの意識が入り混じっているように思える。ここで,利害というのは,けっして経済的利害ばかりでなく,自らの学問の繁栄,自分の存在価値といったような心理的なものも含まれる。理数系の研究者の場合,本書でもすでに述べてきたが,そうした利害があるのは明らかである。」

 さて,本書には,もう戸瀬の怒りというか憂いというか,そういう感情の発露が散見されて,それはルサンチマン人間のワシにとっては程よいユーモアとなって誠に気持ちがいいのであるが,上記の市川の文を念頭において読むと,その感情の発露部分は全て市川の言う「利害関係」を証明する証になってしまうのである。勿論,この「利害」には,情報処理の,特にアルゴリズムを考え,プログラミングを行う,真の意味での情報技術リテラシーを普及させるという大義名分があるのだが(戸瀬もその点は軽く触れてはいる),そこを理解していない人に,「語学だけで大丈夫?」(P.128~131)にあるような他分野を攻撃する所を見せてしまったら,「ああ,戸瀬は自分の職場を確保したいだけなのだ」と冷ややかに突き放されてしまうに違いない。これは致命的な失敗である。
 これはあたかも,学力低下論争という舞台で,戸瀬という武士が大剣を振り回して市川という曲者の悪代官に切りかかったら,返す刀でばっさりやられてしまったというところであろうか。舞台には上がれないが,戸瀬に共感して客席から見ているワシとしては,この語学教育批判を読んで,「ああ切られてしまった・・・」とガッカリさせられたのである。まあ幸い,PISAの学力テストの結果が出て,日本の子供の学力低下は完全に認知され,文部科学省も見直し作業に入ったようだから良かったものの,論争を吹っかけるのならもっとやり方を考えて欲しかった,というのがワシの正直な感想である。
 例を挙げれば,志賀浩二のように教科書を作ってみせる,つまりもっと具体的な,ハウツー的なところから積み上げていって,いかに数学が現代の科学技術を習得するには必要な知識であり鍛錬になるかを示す,といったやり方がある。人文的な論争をするよりもそっちの方が,ずっと世間に対するアピールができるはずである。そして,失われた学力を取り戻す手立ては,もはやそれしか方法がないのである。
 一連の学力低下論争で気に食わなかったのは,その点である。なんか論争ばっかりやっていて,「これから先,必要となる数学知識とは何か」という具体論の話が全然聞こえてこなかったのだ,少なくとも観客たるワシには。小学校での算数には,特に低学年においては公文式の如く,ある程度の反復的計算練習が必要なことは異論はないが,じゃあ,高校生・大学生初年度に教えるべき数学は今のままでいいのか?という根本的な疑問については,あまりきちんと答えてくれていない。論争は敵を倒す,即ち十数年前までの世論をひっくり返すために必要なものであったことは認めるが,数学そのものの見直しは必要はなかったのだろうか? この問いに答えが出ない限り,やはり学力低下論争は利害関係の絡んだ単なる喧嘩であったと見られても仕方がない。そしてその問いに対して,本書が十分に答えているとはとても思えないのである。

ease [ イーズ] Vol.1

[ BK1(リンク見つからず) | Amazon ] ISBN 4-7767-1455-8, \667
 雑誌大不況時代である。出版大不況時代という言い方もあるが,単行本に関しては「売れない→多品種生産→一冊あたりの売れ行きが落ちる→ミリオンセラーを狙って更に多品種生産→・・・」という悪循環に陥っているが故の,いわば自業自得であるからあんまし深刻とも思えず,しかも多品種生産だから,ワシ好みの,あんまし一般受けしない作家や漫画家の本が沢山出るようになって,かえって嬉しい悲鳴を上げたいぐらいであるが,雑誌に関しては相当深刻らしい。まあねぇ,これだけWebや携帯(Free contents through the Internet)が普及して情報がそこから得られるとなれば,読んだら捨てるだけの紙媒体を買おうとは思わんでしょう。大体,これだけゴミ収集が厳しくなっている状況ではおいそれと分厚い雑誌を買うわけにはいかない。掛川市では古雑誌・古新聞回収は月イチしかなく,しかも雨天延期である。新聞なんてとんでもない,雑誌も月刊誌どまりであり,ジャンプだのマガジンだの新潮だの現代だのといった週刊雑誌なんぞ,ゴミ出しを考えたら定期購読する気には,とてもならない。昔はアエラを読んでいたが,静岡に来る際に購読を止めてしまった。
 そんな時代であり,有能な編集者の多い出版界であるから,あの手この手で既存雑誌の目減りを食い止めようとしているようだ。一時期目に付いたのは,カリスマ的な個人を編集長にして雑誌を作るという動きで,青木雄二,さくらももこ,松山千春,桃井かおり,小林よしのり,大塚英志(編集者だから意味合いがちょっと違うかな)・・・が引っ張り出されていたが,「頓知」にさっさと見切りをつけた筑摩書房が太田垣晴子を連れてきて「O(オー)」を発行させたあたりで,そろそろ種が尽きた感がある。で,次は何が出るのかなぁ,と思っていた所に出てきたのが本書である。
 ISBN番号が付与されているので区分としては単行本だが,「まあ,売れなきゃすぐに止めるし・・・」的なムック形式の雑誌と見て差し支えないだろう。表紙は志村貴子の描くモノクロの女性のアップで,「女性のための雑誌」とはどこを見ても書いていないが,まぎれもなく二十代から三十代にかけての女性向け(負け犬予備軍向け?)の内容になっている。第一特集が「見栄(みえ)」であり,第二特集が「ペット」,そのテーマに沿ったショートコミックとエッセイ(ツチケンや藤田香織さんまで!)がてんこ盛りである。谷島屋でこれを見て「新しい百合雑誌かぁ?」と思い,手にとってパラパラとページをめくったエッセイ好きのワシが反射的にレジに持っていったのは無理もないのであった。
 しかし,ワシは一抹の不安を禁じえないのである。かつて同じような体裁のムックが何冊か出版されているが,どれもこれも長く続いたためしがないのである。たとえばコミックaria(光風社出版・成美堂出版)しかり,Short Stories(白泉社)しかり,である。このease(イーズ)は前者のようにエッセイも載せ,後者と同じ版形である。なんか「いつか来た道」を歩んでいるように思え,ワシとしては絶対に末期の水を取るまで付き合おうと決心しているのである。さて,「O」と「ease」,どっちが長く続くのか? 8:2のオッズで誰かワシと勝負しませんか?

小谷野敦「評論家入門」平凡社新書

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-582-85247-5, \760
 某先生から聞いた話である。ある旧帝大を定年退職した老先生が,文系主体の私大へ移った。が,教授会の長さに閉口して,程なく今度は理工系の私大へ異動したそうである。その某先生曰く,「文系の人たちとは文化が違いすぎる」。
 文系理系という区分はかなりいい加減なもので,その間には広大なグレーゾーンが広がっている。国立N大学工学部の助教授ミステリ作家によれば,「数学に畏敬の念を持っているのが理系」ということになるそうだから,それ以外の学者は全部文系ということになってしまう。しかし,経済学なんてのは確率微分方程式を扱ったりするから,これでは理系になってしまう。しかし経済学部を「理系」に区分している受験資料をワシは見たことがない。まあ,その程度の区分なんであろう・・・と,この業界に来るまではそう思っていたのである。
 しかし,今となってはやはり文系と理系では明確に文化が違うものであると確信している。前者は「研究者自身の人生哲学も含めた議論がなされ,そこには感情的対立が当たり前のように混入している」学問分野であり,後者は「明確な目的を持ち,そこへ達成するための方法論を客観的データを土台として打ち出す」学問分野である。勿論かなりの割合でどちらも例外を含むので,あくまで個人的な概要であるが,前者が感情論も一つの議論の土台になっているのに対し,後者にはそれがあまり見られない,少なくとも感情論が議論の中にむき出しになることは殆どない,という意味での「大雑把な文化の違い」はあるように思えるのである。故に,「文系」の学者の多い教授会は議論百出で時間が長引くのに対し,「理系」の学者の多い教授会では大多数が客観的データを得るべく「早く終わんねーかな,プログラミングの続きをしたいのにな」と内心思っているために(ワシだけか?),自分に直接降りかからない限りはシャンシャン会議を黙認,というか積極的に後押しして早く終了することになるのであろう。
 本書は文字通り評論家になるための入門書を目指して執筆されたものであるが,多くは小谷野の個人的体験談である。勿論,「一般向けに書かれていて,学問を踏まえていながらアカデミズムの世界では言えないようなことを,少しはみ出す形で言う,これが評論の基本的な姿だと思ってもらえばいい」(P.39)とか,「評論とは,あくまで,カネになる文章のことなのである」(P.40)とか,「全面的に間違っているような論争を,勝てると思って始めたとすれば,それは勉強が足りない。しかしそれでも間違っていたと気づいたら,それは謝るしかない」(P.179)とか,ちゃんと読者をして「うんうん,そーだよな」と納得せしめる胸のすく小谷野節が随所に見られるので,ファンは迷わず購読すべきである。しかし,やっぱりもっと面白いのはその個人的体験談で,それを読むと,「ああ文系って,なんて神経をすり減らす学問分野なんだ」と嘆息してしまうのである。涙なくして読めないのは第五章の「評論家修行」で,著者の半生が語られるのであるが,まー東大出てカナダに留学して博士号を取って著書を出しても中々認められずといった苦労が語られ,大変な世界であるなあと人事ながら同情してしまう。ま,あくまで自己申告であるから,どこまで信用できるかは微妙であるが,少なくとも著者自身としてはこういう「苦労」を味わったということは紛れもない事実なんであろう。
 ああ,ワシは理系でよかった,一人でシコシコプログラミングしていればいいんだから真に気の弱いひ弱なワシ向きの学問分野である。売れなくてもいいから,暫くはインターネットで好き勝手に書いていようと,本書の目的とは逆向きの決意をした次第である。

魚住昭「野中広務 差別と権力」講談社

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-06-212344-4, \1800
 昨年(2004年)の講談社ノンフィクション賞受賞作だし,かなり話題になった本なので「あ,それ読んだ」という人も多いだろう。それでもあえて取り上げるのは,今年も仕事三昧の日々を送ろうという決意に拍車をかけるべく,まずは惚れ惚れするような力作にあやかろうという魂胆だからである。
 同和問題について語ろうとするとどうしても冷や汗が首筋に滲んでくる。そんな小心者はワシ一人ではあるまい。血筋や生まれで差別するなんて,する側が100%悪いに決まっているのだが,厄介な問題に触りたくないという小市民根性からどうしても避けて通りたいと考えてしまう。この記事も一度破棄して書き直したものである。本書が話題を呼んだのは,野中広務という有名な政治家を取り上げたことと共に,同和問題を扱っているからという一種の「怖いもの見たさ」があったのではないだろうか。
 しかし,本書を読めば,何故この厄介な問題を取り上げたかがはっきりする。それは野中広務という政治家が持つ,強面する恫喝v.s.社会的弱者に対する率直な思いやり,という2面性を理解するにはこの問題は避けて通れなかったからである。虐げられた経験を持つが故に,同じような状況にある者には限りない慈愛を注ぎ,自らがそのような状況にある時は怒りを持って跳ね除ける・・・人間ならば誰しもそうであろう。野中は特に後者の面で才能があり,政治家としての出発が遅かったにもかかわらず,ついには首相候補に擬せられるまでに上り詰めた,それだけのことである。
 佐野眞一に見られるような文学的な比喩は皆無で,怜悧かつ静謐なジャーナリスティック文体が秀逸な,優れた人物評伝である。取材された方は迷惑この上なかったろうが,三流どころのゴーストライターに”My Life”なんて表題で執筆させるより,魚住さんに書いてもらって良かったんではないだろうか。これを読んで野中さんの評判が上がりこそすれ,下がることはない筈である。

「夢路行全集12 鈴が鳴る」一賽舎

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-7580-5108-9, \552
 今年の最後を飾る本は何にしようかな~,やっぱりゆとり教育批判への嫌味かなぁ,それとも好きなマンガで締めるか・・・と10秒ほど考えて後者にしたのであった。やっぱり楽しいのがいいよね。
 イマドキ,全集が出る漫画家というのはかなり限られる。手塚治虫並のネームバリューがあって,なおかつコンテンポラリーな作家はもはや24年組ぐらいじゃないのか。人気作家が難しいとすれば,コアなマニアを捕まえている作家しかいないが,それなりにマスを持たないといくらなんでもペイするだけの販売部数すら稼げないだろう。夢路行はそのあたりのボーダーラインに乗っている数少ない作家(何せ「初版絶版作家」を続けて20年である)であり,しかもかなりのベテランでちゃんとコンテンポラリー・・・というより,今の方がかえってメジャーではないかといういうぐらいの大器晩成なお方である。この機会を逃して全集を出す機会はない・・・と弱小出版社たる一賽舎の社長が思ったかどうかは知らないが,とにかく全25巻を目指して現在出版中である。2ヶ月に一度,3冊づつ発売されるのだが,出す度に取り扱い書店が少なくなっているような気がするのはファンの心配しすぎであろうか? 何はともあれ,やっと半分出たところである。全集完結まで潰れるな,一賽舎!
 という訳で本書である。12冊もある全集の中から何故これをとりあげるかとゆーと,現在秋田書店の雑誌にて連載中の「あの山越えて」の設定とよく似ているからである。まず主人公は学校の先生(「あの山越えて」では小学校の,本書は中学校の)であり,ド田舎(山奥と離島)が舞台での恋愛もの(夫婦でも恋愛しているよーにしか見えない>「あの山越えて」)というところも共通している。しかしやっぱり本書の方がストーリーとしては短い分まとまりが良く,主人公の境遇に著者の体験が生かされていると見えて人物に厚みがあると思えるのである。「あの山・・・」を人から薦められて「ちょっとたりー」と感じた人にはぜひ本書の方をお勧めする。著者が五島列島育ちということもあって,やっぱり海の自然の描写,特に海岸の小さな穴掘り温泉のリアリティは,そんじょそこらのイマドキの都会育ちの作家には描けないだろう。
 この主人公については,全集を続けて読んでいると「あ,あの入鹿さん・・・」と気がつく(著者もセルフパロディと言っているが)という楽しみもある。最近,夢路行を知った方は是非とも本書を読んで,気に入ったら最寄の書店で全集を全部予約して頂きたい。そうすることで取り扱い書店が増えることが期待される。営業力が皆無なんではないかと思われる一賽舎が全集完結まで潰れないためには,それしか方法はないと思いつめる,今日この頃なのである。