岩明均「雪の峠・剣の舞」講談社

[ Amazon ] ISBN 4-06-334387-1, \700+TAX

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 本書がKCデラックスの一冊として出版されたのが2001年。ワシが戸田書店のフェアで陳列されているのを見つけたのが今年(2014年)で,奥付によると13年間版が切れずに10刷されるに至っている。雑誌がWebに席巻され,書籍が次々に刊行されて雑誌並みに陳列期間が短くなっている昨今では稀有な作品集といえる。それもそのはず,作品を読ませる力量が凄い。全く趣向の異なる時代物2編が収められているのだが,久々に惹きつけられて一気に読んでしまった。長く読み継がれている作品はオーソドックスに読ませる物語になっているという,当たり前だが忘れがちの事実を再確認させられたのである。

 まず「雪の峠」を見ていくことにしよう。時代は関ヶ原直前,常陸・佐竹家の評定の場から物語は始まる。石田三成・西軍側につくか,徳川家康・東軍側につくか,重臣の意見は割れ,隠居した前領主の一言がきっかけとなって東軍につくことが決まりかけたところ,当代領主のあっさりとした一声で西軍につくことが決する。結果として源氏の名門である佐竹家は常陸56万石から,雪深いトーホグ出羽に転封され,石高も1/3の大名に転落し,東軍につくことを主張した重臣は不満たらたらとなる。この辺の事情説明がたった5ページ。これがその後,出羽の国の府となる場所を決める際の騒動に繋がっていく訳だが,政治的駆け引きを見せるストーリー展開に無駄がというものが一切なく,力点を置くべき描写に繋ぎ止める余白を生かした端正な絵の凄味にワシはすっかり魅了されたのである。岩明の出世作である「寄生獣」,最初は陰惨なSFホラーという印象が強くてワシは未読のままきたのだが,連載が進むにつれてユーモア感覚が掴めたのか,本作ではところどころ乾いた笑いが挿入されて,大変親しみやすい隙を作ってくれている。そして最後にはマイペースで当代領主に尽くした渋江内膳が無欲の勝利を掴み,「世代交代」が進むという結末を迎える。そのあたりは本作を読んで頂くとして,そこに至るまでの過程が,漫画の教科書に収めたいほど無駄がなく,ユーモアもあり,伏線がキッチリ引かれており,ツッコミを入れる部分が皆無なのである。いやぁ参った参った。

 参ったところで次の「剣の舞」で,政治的駆け引き主体の前作とは趣向の全く異なる感動作を読まされることになる。

 こちらは戦国時代,武田信玄が破竹の勢いで領土を拡張し,いよいよ長野家が守っている箕輪城に攻めてこようという情勢下の上泉伊勢守信綱の道場に一人の若い女性・榛名が入門を申し込んでくる。家族を信玄方の兵に嬲り殺され,自身も慰み者になり,復讐のため強くなりたいというのがその理由・・・なのだが,この辺りの事情説明はストーリーにうまく埋め込まれていてスムーズ極まりない。言葉による解説では伝わらない榛名の復讐心の強さと,直接の師匠役となる上泉門下・文五の茫洋とした剣の達人ぶりを理解した頃には信玄軍が突入してくるという無駄のなさには一読してから気が付いた。まぁあれだ,切られてから「がっ」という一言を残して真っ二つになっちゃった感があるんだよなぁ。
 あまり詳細に説明するのも野暮だから,この物語の核心は榛名を可愛らしく鍛える文五と,榛名のその後の活躍,そして文五を含む上泉の図抜けた「実戦」の強さにあるということだけ述べておく。文五は筋の悪い太刀裁きには「悪し(あし)」という一言で済まし,「剣を習うのはなぜだ」「何かの「手段」か?」「なら「目的」を思い出せ」ということだけを叩き込む。「目的」を達する道具立てとして,上泉が考案した「撓(竹刀)」が登場するのだが,重くて危険な木刀を使って訓練するのが普通であった時代に,怪我を避けるための腑抜けたものして笑われる存在である竹刀が物語全体を貫く核心になっていることを,読み終わってから気が付くという趣向もニクイ,憎すぎる!

 人間が切られる描写のダイナミックさと,痛々しさの両方を兼ね備えた静謐な画風,そして無駄のない達人のようなストーリー運びと構成,岩明の完成度を見せつけられる本作は,これからも末永く読み継がれて欲しい一冊である。

むんこ「ゆあまいん」竹書房

[ Amazon ] ISBN 978-4-8019-5031-3, \648+TAX

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 表紙からして尋常でない色気が充満していたので迷わず買ってしまったのである。凡百のファミリー4コマ漫画を描いている地道なマンガ家だと舐めていたワシは,本書を食い入るように読み,「尋常でない色気」に充てられて思春期の悶々とした気分を思い出してしまったのである。あまつさえ(以下略)・・・はーすっきりした。スッキリしたところでもう一度読み直してみても,やはりこの「尋常でない色気」,即ち「SEXまで一直線!」な空気を醸し出している作品の凄味は薄れてないと断言するのである。

 ワシは未読だが,本作の主人公である堀川舞と幼馴染の吉岡敦は「まい・ほーむ」(全3巻)の主要キャラであるらしい。本作は彼らが中学卒業時に正式なカップルとなるところから始まる初々しい恋愛4コマ漫画である。恋愛マンガとしてはよくある設定と言えるが,本作の場合,彼らを取り巻く人間関係の豊潤さが,この二人をして「ここまで祝福されているなら・・・行くか!」という気分にさせる,この構成の妙が素晴らしい。ジコチューカップルの作り上げる二人だけの世界というのもファンタジーとしては悪くはないが,現実的には健全な未成年の男女がうまくやっていくには周囲の理解が不可欠で,そこを丹念に描くことで逆に舞と敦が近づく過程にリアリティが増す。例えば,舞の父親は躁病的にかっとんだキャラクターだが,それ故に舞の母親は離婚して別の過程を営んでいる様子。将来は父娘家庭に収まりそうな敦に理解を示しつつマイペースを貫く親父,そして離婚した母親に舞が敦と二人で会いに行くエピソード,どちらも二人の距離を接近させる要素として有効活用されているのだ。

 ・・・と言うと,エロエロな展開を予想する向きもありそうだが,むんこはその点抜かりがない。裏表紙の4コマ「今日もプラトニックか・・・」が端的に示している通り,清純なストーリーであることは保証する。保証するが最後は読者に(ワシだけかな?)思いっきり期待(妄想)させるところで打ち切っている辺り,憎いニクい作りになっている辺り,「イジワル・・・」とヤキモキしてしまうこと請け合いである。

 「私の青春はこんなんじゃなかったですよ?」という著者にして,この「尋常でない色気」ムンムンな114頁,書店からは割と早く消えてしまったようだが,見逃すのはチトもったいない。柔らかい簡素なペンタッチで描かれた舞の艶めかしく健康的な舞の造形とその可憐さに萌えようではないか,かつてDT心を燻らせた男どもよ!

吉本浩二「カツシン 1巻」新潮社,春日太一「天才 勝新太郎」文春新書

[ Amazon ]「カツシン」ISBN 978-4-10-771770-2, \580 (+TAX)
[ Amazon ]「天才 勝新太郎」ISBN 978-4-16-660735-8, \940 (+TAX)

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 何度か書いていることだが,迷惑な人間のやることなすこと伝聞で聞く限りは,この上ない娯楽である。自分がそういう被害を被った経験があれば,周囲の人々への同情を込めた共感を覚えるだろうし,自分が迷惑をかけた経験があれば,そういう別の迷惑モノへの共感を覚える。どちらにしろ,読み手を駆動させるなにがしかの共感の回路を開くこと間違いないのである。

 加えてもう一つ,人類社会が今のような進化をしてきたのは,こういう迷惑人間が,ともすれば安定した人間関係が作る平和だが停滞した世の中をひっくり返してきたからという事実がある。戦争しかり,革命しかり,テロしかり,そして,もっと卑小なレベルでメンドクサイ迷惑人間がどういう意図を持つのか知らんが面倒事を引き起こしつつ会社の業績を上げたり,学校の知名度を上げたり,何の取り柄もないど田舎を世界に知らしめたりする。もちろん大多数の迷惑人間は本人が反省しない限りいつかは始末されることになるのだが,その「寿命」は迷惑と共にもたらせた「業績」によって伸びたり縮んだりする。その一番分かりやすい例が芸人という奴で,一番著名な破滅型芸人・横山やすしは,苦労人の相方・キー坊(西川きよし)の助力で得た漫才の面白さのおかげで,少なくともキー坊の参議院議員立候補による実質的なコンビ解散までは命脈を留めることができた。「遊びは芸の肥やし」として家族を泣かしても借金してでも客を楽しませてさえいれば許されていた,そんな昭和までの芸人の典型として「勝新太郎」がいた。今回取り上げるこせきこうじイズムの申し子・吉本浩二が描いた「カツシン」は,日本の文化を彩った迷惑人間を描いた暑苦しい傑作であり,そのネタ本の一つとなった読ませる評伝が,熱血時代劇研究家・春日太一が著した「天才 勝新太郎」である。

 吉本浩二のマンガは既にここで手塚治虫のエピソードをまとめた「ブラック・ジャック創作秘話」で取り上げている。本書でも相変わらず主人公である人物の持つ「情念」を描くことを主軸としており,いつも変わらんなぁと安心して読むことができた。その分,時系列的なカツシンの人生の把握ができず,まだ1巻が出たばかりであるからして,この先どこまで続くまで分からない続刊の刊行を待つことができず,手っ取り早く読めそうな春日太一の評伝をAmazonで発注したのである。春日の力量は仲代達矢のインタビュー集でよく分かっていたので,安心して買うことができたのだが,読んでみたらもっと面白かったので,一気に読んでしまった。こうしてワシは吉本のマンガと春日の評伝を通じてカツシンを知ったつもりになってしまったのである。主演映画は「迷走地図」しか見たことがないくせに,である。それだけこの2冊の持つカツシン由来の情念が一読者に過ぎないワシの脳を掻き回したのであろう。

 カツシンと言えば,ワシのイメージではこんな感じである。春日の言を借りれば次のようになる(P.287)。

 多くの俳優たちが「タレント」としてテレビの枠に小さく収まっていく中,時代に迎合しない勝は規格外の存在だった。だが,だからこそ,その言動はワイドショーやバラエティ番組の格好の餌食になった。少しでも勝と関わった人間は,面白おかしく勝のことを語った。そのほとんどは,豪快で金に糸目をつけない酒の飲み方や遊びに関するものばかり。勝は生きながらに伝説の存在になり,人々がそれをデコレートして語ることで,その伝説は一人歩きしていった。

 小林よしりんも一度SPA連載時にインタビューしたことがあるようで,その伝説を裏付ける言動に付き合わされた経験を漫画にしている。だがしかしそれをまともに受け取ってはいけないようだ。春日は続けて次のように述べている。

勝に近づく人間はみな,その伝説を期待した。勝もまたそのことをよく知っていた。彼らに喜んでもらおうと,ブランデーを一気飲みし,金をバラまき,「世間のイメージする勝」という道化を演じた。

 まさによしりんもそんな「世間のイメージする勝」の保持の片棒を担がされたわけである。

 さすがに吉本は春日の著作を読み,春日本人にもインタビューしているため,そんな事情はすっかり分かっており,繊細で臆病,自身が出演する作品は脚本・演出・音楽・編集に至るまですべて自分でコントロールしたがる我儘な芸術家であるにも拘らず,役を通じて世間に持たれた豪快なイメージを維持することに腐心するカツシンのエピソードをうまく拾っている。時系列的にはバラバラなのだが,それは各話ごとに軸となる勝を知るインタビュイーの持つ「印象」を大事にしているためであろう。どんなはた迷惑で魅力的なカツシンであったのかを,動きの書けないヘタクソな止め絵でじっくりねっちり情念を伝える,それこそ,そしてそれだけが吉本作品の魅力であり,吉本が描きたいものなのだ。

 「座頭市」に関してはどうもワシは見る気が起きないのだが,多分,本人がかなり控えめに演じていた「迷走地図」は,原作の持つどす黒いものをうまく隠して上質な政治ドラマになっていてワシは好感を持っている。巷間言われているカツシンも,ちゃんと普通に演技していたんだなよなぁ。吉本のマンガが出続けているうちは他のものも見てみようかな,と,多分この先当分気になり続けるだろうな,きっと。

緑のルーペ「こいのことば」太田出版

[ Amazon ] ISBN 978-4-7783-2235-9, \1000+TAX

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 本書は太田出版のWebマンガサイト「ぽこぽこ」で連載されていた作品で,ワシは毎回更新されるたびに読んでいたのである。理由は表紙絵を見れば一目瞭然,エロいからである。で,そのエロさに騙されて読み進むにつれて次第に「これは一筋縄にはいかない作品だな」ということが分かってきたのである。後にこの著者の作品群のAmazonレビューで読んでわかったのだが,この「緑のルーペ」という著者,元々そういう「純粋なエロを目指してきた読者に衝撃を与える」タイプのようで,本作も連載途中から感じた疑問を解決することなく,一応の大団円を迎えたように思わせておいて,単行本のために書き下ろされたおまけマンガにおいて「ああやっぱり」という・・・まことに底意地の悪い「オチ」を用意しているのである。まぁこちとらも一応年季の入ったマンガ読みだからして,大方そんなところかと納得はしているが・・・それにしてもまたレビューの難しい漫画にしたもんだよなぁとワシはつくづく感心しているのである。

 難しい漫画が増えた,というのはワシの歳のせいだけではなく,日本の漫画表現が格段に進化していることが一番の理由だろう。漫画に限らず,全世界的にThe Internetを通じて伝播しやすい五感に訴えるメディア表現が恐ろしい勢いで拡散し共有され昇華されたものを更に目の肥えた読者が評価して優れたものをまた拡散する・・・という動きが全世界的に定着している。そのような流れはもはや止めようがなく,どんな独裁政権ですら抗えないものになっている。
 日本の漫画に限ってみても,コンピュータの導入によって作画過程がデジタル化されてカラー表現が進化するとともに,漫画作品の,少なくとも広告媒体としての流通の主流がPIXIVのような作品投稿サイトや,出版各社が展開しているWebマンガサイトに移りつつある。マネタイズ方法としては今だ単行本が主であるとはいえ,物理的な場所を取る書籍の出版点数が増える一方の昨今,読者の持つ物理スペースに限りがある以上,Kindleをはじめとする電子書籍に移行していかざるを得ないであろう。
 そのような時代状況にあって,ただ長いだけの作品の単行本の巻数を増やすだけで読者がどの程度ついてくるのか,かなり疑問だ。少なくとも長編の実績が皆無の新人作家に関しては,まず短編集,そして単行本1冊で収まる物語をコツコツ積み重ねて自身の作品世界を豊潤にしていくことが不可欠ではないか。そしてそれはベテランになっても変わらず,いずれは今の小説界のように物語としての完成度がまず真っ先に求められるようになるとワシは確信しているのである。
 その意味で,本書のようにWeb連載をしつつ,単行本一冊で収まる分量の重層的な漫画作品をコツコツと生み出している作家・緑のルーペの次回作にワシは大いに期待しているのである。

 で,本作なのだが,未読の読者にはとりあえず「エロ漫画」というのが一番分かりやすい端的な説明となる。しかし「読後感は,人によるが,良くない,かも」という奥歯にものの挟まった言い方をせざるを得ないところに本作の一番の特徴があるのだ。

 主人公は三十路少し手前のエロ漫画描き「藤之助」と,出会った時には中学三年生の巨乳美少女「悠里」。二人のエロ睦まじい性生活と,悠里の複雑な家庭環境・友人関係が織り込まれた豊潤な物語だ。それ故に,読む人によっては単なるエロとしても「使える」であろうし,切ない青春の恋物語としても読めるし,寂しい学生生活と寂しい漫画家の「幻想的な」恋物語としても読むことができる。ワシのように卓抜な「エロ表現」にWebから導かれた愚かな読者は,これらの重層的な構造に取り込まれて落ち着いて読めなくなってくるのだ。これは特に「幻想的」な部分が強調されてくる,二人のひなびた温泉街への逃避行において顕著になる。いやそもそも本書の導入部からして,「これはひょっとして藤之助の物語世界か?」というニュアンスもあり,途中からは「寂しい悠里が紡いだ幻想?」という感じもあり,最後の最後では「やっぱり藤之助の・・・?」で「オチ」をつけてしまっている。まぁ乱暴に言うと,筒井康隆の「脱走と追跡のサンバ」のようであり,押井守の「ビューティフル・ドリーマー」のようでもあるのだ。

 考えすぎ?・・・そうかもしれない。今年はシギサワカヤ「バーチャルレッド」全3巻を読んで頭が混乱した影響もあり,「卓抜なエロ表現で編まれた幻想譚」に敏感になっている影響もあるだろう。しかしそれは表現者の描く物語世界が重層化し,それを支えるだけの表現技法が定着しているという証でもある。その高度な技法を育んだワシらを取り巻く電脳社会が,もはや通り一遍の単純なストーリーでは飽き足らない読者を育て,そのような読者を満足させるさらに高度な物語を展開する作家を育成し,高度すぎる表現を更に進化させるループを形成した結果,ワシらを取り巻くこの現実社会に奇妙な浮遊感覚をもたらしたと言える。電脳空間を飛び交う情報にどっぷりつかった生活になればなるほど地から足が浮く,そんな感覚を持つに至る。そう,性欲ですら,今や現実世界との接点とはならず,電脳世界からの情報を消費するだけで解消できてしまうのが現代なのだ。

 エロですら現実へとワシらを繋ぎ止める事ができなくなっているという現代の浮遊感覚。それ故に,「繋ぎ止めてくれ!」と「乞い」願う物語。これを今流に的確に表現した本作は,真に今の時代を象徴する豊潤な物語世界を的確に表現した傑作なのである。

おざわゆき「あとかたの街 1巻」講談社

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-376999-9, \580+TAX

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 本書については既に「凍りの掌」で賞を取った程の定評あるベテランだし,完結するまで黙っているつもりだった。しかし,つい最近(2014年6月8日),長崎の原爆被害者の語り部に中学生が暴言を吐くという事件があり,これは「個人的な体験」のぶつかり合いだなぁと気が付いた。それ故に,本書が刊行されたこの機会にかこつけて「個人的体験」について語っておこうとこの記事を書き起こした次第なのである。

 「個人的な体験」は強い。つか,ワシらの脳内に形成される記憶は自分が経験したことの集積であり,ワシらが物心ついてからのあらゆる行動は,食欲性欲といった本能を骨格とし,個人的体験から形成された欲望が筋肉となって引き起こされるものなのである。従って,原爆の被害者が語るものも,それを聞いた中坊が「うぜえ」と感じて暴言を吐くのも,全ては己の個人的体験という筋肉が引き起こす行動に他ならない。社会的儀礼として,真剣に語っている人に対して非難をすることは責められて当然であるが,「うぜぇ」と思うこと自体は自由だ。多分この中坊には当て嵌まらないだろうが,そもそもそれ以前に散々あちこちの書物やらアニメやら小説やら教科書やらで「戦争体験」を聞かされてきた真面目な中学生・高校生であれば,同じような体験談は退屈と受け取られても仕方ない。以前にも,沖縄の戦争体験を聞いた高校生が批判的な文章を書いたことが話題となったが,己の個人的体験は語り口をよほど工夫しない限り,相手の個人的体験として染み込ませることはそう簡単ではない。「学習」という名の強制力は,少なくとも不良がかった相手に対しては効かないものなのである。
 このような個人的体験同士のディスコミュニケーションは我々の社会にはつきものであり,ことに人口に膾炙した日本の被害者的戦争体験をそのまま伝えるということは,少なくとも国際環境が変化した21世紀においてはかなり難しく,単純に戦争反対9条護持安倍政権批判に繋げようという向きは,その目的を貫徹するためであればなおさらその語り口を考える必要がある。つか,ボチボチ戦争体験だけを切り口とした左翼的運動は退屈なので,国際環境と経済動向を土台とした現実的で地に足の着いた安全保障論に基づいた議論をしてほしいモンだ。

 とはいえ,戦争体験者の「個人的体験」自体はすこぶる面白いものを含んでいる。水木しげるの従軍記は泥臭くてとてもリアルで芳醇だ。中沢啓治の鬼畜米英的怨念のこもった原爆体験は力強くワシらの精神を鼓舞する。手塚治虫の「紙の砦」は戦争が終わり表現の自由がやってきた喜びとその犠牲になった人々への慈愛が込められている名作である。表現形式もさることながら,それぞれが魅力的なマンガ作品になっているのは,そこで語られている個人的体験が,現代の消費社会に生きるワシらにも共通する汎用的な物語を提供しているからである。・・・え,違うって? じゃぁ何で,風の谷に生きる人々を魅力的に描いた宮崎駿や,人食い巨人に囲まれて生きるひ弱な人類の戦いを描いた諌山創の作品がヒットしているのであろうか? あんな空想上の非常体験でもワシらが共感するのは,そこに共通する己の個人的経験を見出しているからである。
 そう,戦争をリアルに体験していない1945年以降に生まれたワシら日本人の大部分にとって,戦争も風の谷も巨人の国もさして変わらない,想像上の状況下の「物語」に過ぎないのだ。それは誰か別の人間から伝えられた物語であり,それはリアルな個人的体験でない以上,受け取るかどうかの取捨選択に対しての自由は厳然として存在する。どんな悲惨な個人的体験であろうと,自分の個人的体験を通じて共感できる部分がない限り,受け入れることはできないのである。

 おざわゆきの作品,世に広く認められた「凍りの掌」,そして本書「あとかたの街」は,戦争体験記ではあるけれど,きわめて個人的経験に基づく漫画作品であり,それ故に,ワシらの個人的経験の共通部分を刺激する魅力的な「物語」を提供している。つまりは,あとがきにあるように,この2冊,おざわの両親の体験談に基づく作品であり,父のシベリア抑留体験を描いた「凍りの掌」に続いて,母親の名古屋空襲体験を描いたら「ここ(書店の平積み棚)に「父」と「母」の本が並んでいたら面白いかも!?」という思いつきによるものであり,悲惨な戦争体験が自分の作風にマッチしているということを知っているからである。悲惨な状況下におけるパンドラの箱に残った希望を描くことを,ストーリー漫画のライフワークとしてるからであろう。多分マゾだ。

 まだホンバンの空襲が始まる前の時代状況をじっくり描く本書でも,そのマゾっぷりはたっぷり発揮される。貧乏な両親に4人姉妹の家族という状況が既に悲惨だ。兵隊となり得る男手のない家族はネチネチと婦人会から詰られるし,主人公の次女「あい」は貧乏ゆえに女学校に通えない。国にすべてをささげる愛国少女にもなり切れない少女あいは,時代に翻弄されつつも精神の自由を手放せないワシら大部分の姿にも重なる。さてこの先いかなる悲惨な出来事が待っているのかと,ワシはドキドキしているのである・・・不謹慎? だったら「物語」じゃなくて客観的事実の羅列だけで読者が付いてくるのか,それで次世代に自身の体験を伝えることができるかどうか,やってみるといい。学者としての仕事ならともかく,そんな退屈な代物,講談社が万単位で刷るとは思えない。個人的体験を伝えたいと真剣に思うのであれば,その「物語化」についても真剣に考えてほしいものである。

 ということで,ホンバンは2巻以降にお預けとなっている「あとかたの街」,本格的にお勧めするのは2巻が出てから・・・という気もしているが,ちょっと古めの少女漫画の愛好者(つまりオッサンオバサン)には,こういうけなげな少女が出てくる物語が結構嵌るのではないか。派手とは決して言えない画風に騙されて,まずは1巻を流しておくと,2巻以降の「パンドラの箱」が楽しめるハズなのである。期待を裏切らない作品になることを期待しつつ,まずはけなげ少女あいの境遇に個人的体験を絡めて共感し,待つことにしたい。