早野龍五・糸井重里「知ろうとすること。」新潮文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-10-118318-3, \430+TAX

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 色んな人が本書について述べているので今更ここでワシが何か言っても蛇足でしかないのだが,未だに「放射能汚染の疑いとの共存」ができていない人が結構な数いるようなので,私見を述べておくついでに本書を紹介する。

 誰しも死ぬ,致死率100%,でも死を恐れるばかりで何も手が付かない状態に陥るのは愚かである。勿論,がんを宣告されて余命○年,などという状態であれば落ち込んでシクシク泣くだけということになるのも止むを得ない。しかしそれでも一定期間だけだ。脳が正常に働き,知人友人とのコミュニケーションが取れているうちは何かをしなければならない。前に進まねばいけない。飯も食わねばいけないし性欲も発散しなければならないのである。

 東日本大震災と,放射能村が作り上げた原子力発電の安全神話によって,福島第一原発は1号機から3号機までメルトスルー状態となり,燃料が入っていなかった4号機も巻き込んで水素爆発を起こした。その際,大量の放射能(放射性物質)が拡散し,その影響は東京地方まで及び,2011年3月23日には金町浄水場で最大210ベクレルに達したと東京都が発表するに至る(日経新聞参照)。この時はワシも東京にいて,放射能入りお茶を飲んでいたりするわけだが,味に変わりはないし,年も年だし,そもそも人体に多大な影響が及ぶ量でもないと判断して大して気にもかけないでいた。とはいえ,遠く福島から関東地方,果ては静岡までその影響が及んだわけだから,全体としては大量の放射能がばらまかれたことは間違いない。その反省もろくすっぽしないまま,既存原発周囲の避難計画も立てずに(そもそも全住民の避難なんか考えて作ってないだろうし)再稼働だけ進めようという輩が跋扈しているのは腹立たしい限りである。最低限,原子力村関係者が福島県民に土下座してからモノを言うべきだろう。
 あまつさえ,現状の福島第一原発の汚染水はUnder controlとはとても言えず,原子炉と漏れた燃料を冷やすことはできているが,致死量の放射能を含んだ汚染水全てを回収できているのかと言うと,かなり怪しいと言わざるを得ない。どうも地下水(+汚染水?)の流量が多いせいで,原子炉周囲に張り巡らせようとした凍結土壁の計画も失敗に終わっており,一部は海に流れているのではという疑いがどうしても拭えないようだ。4号機の使用済み核燃料の移設が,事故後3年以上経ってようやく終わったという現状では,肝心の1号機~3号機の廃炉作業がそのうち終わるなんてことは信じられないというのも無理からぬことである。

 さりとて,立ち入り制限地域の外では福島産の農作物には影響がほとんどないらしいことも分かっている。汚染された水田で育てた稲にセシウムが吸収される率も低いようだし,全品検査してもコメから放射性物質が検出されるということはないらしい。何より,ホールボディカウンターを使って3万人分のデータをまとめた知見を査読論文として早野らがまとめている。これらの仕事にはツッコミが多数あるようだが,反論があればデータをまとめて論文にしてキチンとした学術雑誌に投稿して掲載してほしいものである。

 だから安心,というのも,言い過ぎになる。糸井は福島産のコメに含まれる放射能の議論において,次のような知見を述べている。

糸井「軽々しく安心ですなんていうと,逆に不審がられるでしょうし,けしからんってことになりそうです。かといって,気にしすぎるのは,あまりにも現実的でない。」(P.78-79)

 確率的にはかなり低い危険性に対して,その危険性に対して,言い方を変えると,かなり高い安全性に対して,どのように我々はふるまうべきか? ということである。「福島第一原発から漏れ出る放射能が完全にブロックされているとは言えないが,少なくとも農作物への影響は殆どないし,内部被ばくを心配するほどのことはない」と断言するとひょっとすると多少の修正は将来必要になるかもしれない。しかしかなり安全かもしれない状況にも関わらずおびえ続けるのはどうなのか?という問題もある。前者しか言わないのも不誠実だが,後者について全く無視するのは危険性だけを述べ立てた「脅迫」でしかない。正しく恐れる,ということは,正しく無視する,ということと両立するものだし,そうでなければ致死率100%のワシら人間が生きていく甲斐がない。

 本書によって,少なくとも福島では放射能物質の計測は続いているし,農作物への影響は少ないし,立ち入り制限地域以外での生活を完全否定することは「あまりにも現実的ではない」という認識は持てるはずだ。コントロールできていない汚染水の一部については心配が尽きないが,少なくともその影響が他の地域まで波及する状況になれば,早野らのグループに知覚されないはずはないだろう。そのぐらいの信頼はしていいとワシは断言する。

 心配は尽きないが,尽きないからこそ計測を継続して「知ろうとすること。」それしかできることはないし,それによって知ったことは,無視していいはずがない。「放射能汚染の疑いとの共存」とは,「放射能による危険」と「放射能を受けても安全」との両天秤を持ち続けて日々生活することなのである。

中村公彦・責任編集「コミティア30thクロニクル1」「同 2」,「同 3」,双葉社

Vol.1 [ Amazon ] ISBN 978-4-575-30677-4, \1500+TAX
Vol.2 [ Amazon ] ISBN 978-4-575-30729-0, \1500+TAX
Vol.3 [ Amazon ] ISBN 978-4-575-30795-5, \1500+TAX

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 間違いなく2014年一番の「労作」の一つであり,一マンガの読み手として,コミティア参加者として感嘆する作品集であったので,ここで一言述べておくことにするのである。

 大きなプロジェクトを長期に渡って維持するには,その中核をなす人間の「徳」,即ち人間力が不可欠であるようだ。竹熊健太郎はコミケを率いてきた米澤義博や2ちゃんねるを創設した西村博之にそれを見出している

コミケが始まったのが1975年、米澤さんがコミケの主催者になったのは80年ですが、現在のコミケがここまでの規模になったのは、なんと言っても米澤さんの力でしょう。
以前俺は2ちゃんねるの西村博之氏に会ったとき、なんとなく米澤さんに感じが似ているなと思ったことがあります。顔も世代もやってることも違うのだけど、世の中に対する柳に風的な態度というか、飄々とした感じに共通点があると思ったのです。

「世の中に対する柳に風的な態度というか、飄々とした感じ」というのは,言い換えると大人(たいじん)の風格があるということである。今の政治家で言うと,千葉市長・熊谷俊人夕張市長・鈴木直道にもそれを感じる。聞かれたことには的確に答えつつ,理不尽な批判に対しては受け流し,自分や組織内でストレスを必要以上に貯めこまない。歳を取るごとにある程度はできるようになることではあるが,デカいプロジェクトを維持するだけの度量を持った人はそれほど多くない。急速に業績を伸ばした企業がちょっとしたことで躓いたとたんにワンマン経営者の馬脚が現れ,世間の指弾を受けて崩壊していくのはごく普通のことであり,それ故に創業以上に長期にわたる業績の維持において,経営者の人間力が試されることになるのである。ワシは直接コミティア主催の中村公彦さんとお話したことはなく,遠目にみてあの太ったおじさんかという程度にしか知らないのだが,書いたものを読む限り,かなりの大人とお見受けする。それ故に30年もコミティアが続いており,本書のような優れた作品を生み出す土壌を維持できたのであろうと想像している。

 本作はそのプロジェクトを率いてきた(つーか,成り行きで引き受けざるを得なかったらしい)中村の編集によるコミティア・サークル参加者の傑作集である。今やプロになった人が多いが,プロへの登竜門として機能するだけでなく,商業誌とは異なる描きたい作品を描いて出店するプロ作家も,プロにはならずにゴーイングマイウェイを貫くアマチュアプロ(変な言葉だが)まで,様々な描きたい欲求を包含してきたオリジナル創作同人イベント,それがコミティアである。いくつかあった(ある)オリジナル創作同人イベントのなかでも毎年4回,ビッグサイトの2ホールを埋め尽くすサークル数をコンスタントに維持するまでに至ったのは,

  • デザイン性に優れたパンフレット「ティアズマガジン」のクオリティの高さと記事の面白さ
  • すべてのサークルの見本誌を集めて閲覧できる読書会の開催
  • 優れた作品を単行本にまとめて販売する試み
  • Belneワークショップや商業誌出張編集部による若手育成システムの展開

等々,試行錯誤の末にたどり着いた試みが成功したからであるが,それを可能にした代表者の姿勢があってこそだろう。それを評価したみなもと太郎先生のご尽力もあって文化庁メディア芸術祭功労賞を得たのは大変めでたいことであるが,ある種当然と言えよう。読者との直接接触できるだけでなく,小なりとはいえマネタイズの方法も提供できる場があってこそ,日本の漫画界の今が存在しているのである。

 その結果生まれた作品群が650頁近くの単行本3冊に凝縮されているのだ。ワシは一種の資料本として買ったのだが,プロにならずに書き続けているアマチュアプロ作家の作品(Vol.1の南研一,Vol.2の舞村そうじ,Vol.3のウチヤマユージ)には感銘を受けたし,何よりVol.3の青木俊直「ロックンロール2 花はどこへ行った」には打ちのめされたのである。分厚い作品集の割には定価は控えめだし,まだ書店で売っているし,何よりコミティアに参加すればそこでも買えるので,今活躍中のプロマンガ家の源流を知るだけでなく,彼らを育てた肥沃な土壌を知る意味でも,是非一揃えしておくべき作品集である。

岩明均「雪の峠・剣の舞」講談社

[ Amazon ] ISBN 4-06-334387-1, \700+TAX

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 本書がKCデラックスの一冊として出版されたのが2001年。ワシが戸田書店のフェアで陳列されているのを見つけたのが今年(2014年)で,奥付によると13年間版が切れずに10刷されるに至っている。雑誌がWebに席巻され,書籍が次々に刊行されて雑誌並みに陳列期間が短くなっている昨今では稀有な作品集といえる。それもそのはず,作品を読ませる力量が凄い。全く趣向の異なる時代物2編が収められているのだが,久々に惹きつけられて一気に読んでしまった。長く読み継がれている作品はオーソドックスに読ませる物語になっているという,当たり前だが忘れがちの事実を再確認させられたのである。

 まず「雪の峠」を見ていくことにしよう。時代は関ヶ原直前,常陸・佐竹家の評定の場から物語は始まる。石田三成・西軍側につくか,徳川家康・東軍側につくか,重臣の意見は割れ,隠居した前領主の一言がきっかけとなって東軍につくことが決まりかけたところ,当代領主のあっさりとした一声で西軍につくことが決する。結果として源氏の名門である佐竹家は常陸56万石から,雪深いトーホグ出羽に転封され,石高も1/3の大名に転落し,東軍につくことを主張した重臣は不満たらたらとなる。この辺の事情説明がたった5ページ。これがその後,出羽の国の府となる場所を決める際の騒動に繋がっていく訳だが,政治的駆け引きを見せるストーリー展開に無駄がというものが一切なく,力点を置くべき描写に繋ぎ止める余白を生かした端正な絵の凄味にワシはすっかり魅了されたのである。岩明の出世作である「寄生獣」,最初は陰惨なSFホラーという印象が強くてワシは未読のままきたのだが,連載が進むにつれてユーモア感覚が掴めたのか,本作ではところどころ乾いた笑いが挿入されて,大変親しみやすい隙を作ってくれている。そして最後にはマイペースで当代領主に尽くした渋江内膳が無欲の勝利を掴み,「世代交代」が進むという結末を迎える。そのあたりは本作を読んで頂くとして,そこに至るまでの過程が,漫画の教科書に収めたいほど無駄がなく,ユーモアもあり,伏線がキッチリ引かれており,ツッコミを入れる部分が皆無なのである。いやぁ参った参った。

 参ったところで次の「剣の舞」で,政治的駆け引き主体の前作とは趣向の全く異なる感動作を読まされることになる。

 こちらは戦国時代,武田信玄が破竹の勢いで領土を拡張し,いよいよ長野家が守っている箕輪城に攻めてこようという情勢下の上泉伊勢守信綱の道場に一人の若い女性・榛名が入門を申し込んでくる。家族を信玄方の兵に嬲り殺され,自身も慰み者になり,復讐のため強くなりたいというのがその理由・・・なのだが,この辺りの事情説明はストーリーにうまく埋め込まれていてスムーズ極まりない。言葉による解説では伝わらない榛名の復讐心の強さと,直接の師匠役となる上泉門下・文五の茫洋とした剣の達人ぶりを理解した頃には信玄軍が突入してくるという無駄のなさには一読してから気が付いた。まぁあれだ,切られてから「がっ」という一言を残して真っ二つになっちゃった感があるんだよなぁ。
 あまり詳細に説明するのも野暮だから,この物語の核心は榛名を可愛らしく鍛える文五と,榛名のその後の活躍,そして文五を含む上泉の図抜けた「実戦」の強さにあるということだけ述べておく。文五は筋の悪い太刀裁きには「悪し(あし)」という一言で済まし,「剣を習うのはなぜだ」「何かの「手段」か?」「なら「目的」を思い出せ」ということだけを叩き込む。「目的」を達する道具立てとして,上泉が考案した「撓(竹刀)」が登場するのだが,重くて危険な木刀を使って訓練するのが普通であった時代に,怪我を避けるための腑抜けたものして笑われる存在である竹刀が物語全体を貫く核心になっていることを,読み終わってから気が付くという趣向もニクイ,憎すぎる!

 人間が切られる描写のダイナミックさと,痛々しさの両方を兼ね備えた静謐な画風,そして無駄のない達人のようなストーリー運びと構成,岩明の完成度を見せつけられる本作は,これからも末永く読み継がれて欲しい一冊である。

むんこ「ゆあまいん」竹書房

[ Amazon ] ISBN 978-4-8019-5031-3, \648+TAX

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 表紙からして尋常でない色気が充満していたので迷わず買ってしまったのである。凡百のファミリー4コマ漫画を描いている地道なマンガ家だと舐めていたワシは,本書を食い入るように読み,「尋常でない色気」に充てられて思春期の悶々とした気分を思い出してしまったのである。あまつさえ(以下略)・・・はーすっきりした。スッキリしたところでもう一度読み直してみても,やはりこの「尋常でない色気」,即ち「SEXまで一直線!」な空気を醸し出している作品の凄味は薄れてないと断言するのである。

 ワシは未読だが,本作の主人公である堀川舞と幼馴染の吉岡敦は「まい・ほーむ」(全3巻)の主要キャラであるらしい。本作は彼らが中学卒業時に正式なカップルとなるところから始まる初々しい恋愛4コマ漫画である。恋愛マンガとしてはよくある設定と言えるが,本作の場合,彼らを取り巻く人間関係の豊潤さが,この二人をして「ここまで祝福されているなら・・・行くか!」という気分にさせる,この構成の妙が素晴らしい。ジコチューカップルの作り上げる二人だけの世界というのもファンタジーとしては悪くはないが,現実的には健全な未成年の男女がうまくやっていくには周囲の理解が不可欠で,そこを丹念に描くことで逆に舞と敦が近づく過程にリアリティが増す。例えば,舞の父親は躁病的にかっとんだキャラクターだが,それ故に舞の母親は離婚して別の過程を営んでいる様子。将来は父娘家庭に収まりそうな敦に理解を示しつつマイペースを貫く親父,そして離婚した母親に舞が敦と二人で会いに行くエピソード,どちらも二人の距離を接近させる要素として有効活用されているのだ。

 ・・・と言うと,エロエロな展開を予想する向きもありそうだが,むんこはその点抜かりがない。裏表紙の4コマ「今日もプラトニックか・・・」が端的に示している通り,清純なストーリーであることは保証する。保証するが最後は読者に(ワシだけかな?)思いっきり期待(妄想)させるところで打ち切っている辺り,憎いニクい作りになっている辺り,「イジワル・・・」とヤキモキしてしまうこと請け合いである。

 「私の青春はこんなんじゃなかったですよ?」という著者にして,この「尋常でない色気」ムンムンな114頁,書店からは割と早く消えてしまったようだが,見逃すのはチトもったいない。柔らかい簡素なペンタッチで描かれた舞の艶めかしく健康的な舞の造形とその可憐さに萌えようではないか,かつてDT心を燻らせた男どもよ!

吉本浩二「カツシン 1巻」新潮社,春日太一「天才 勝新太郎」文春新書

[ Amazon ]「カツシン」ISBN 978-4-10-771770-2, \580 (+TAX)
[ Amazon ]「天才 勝新太郎」ISBN 978-4-16-660735-8, \940 (+TAX)

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 何度か書いていることだが,迷惑な人間のやることなすこと伝聞で聞く限りは,この上ない娯楽である。自分がそういう被害を被った経験があれば,周囲の人々への同情を込めた共感を覚えるだろうし,自分が迷惑をかけた経験があれば,そういう別の迷惑モノへの共感を覚える。どちらにしろ,読み手を駆動させるなにがしかの共感の回路を開くこと間違いないのである。

 加えてもう一つ,人類社会が今のような進化をしてきたのは,こういう迷惑人間が,ともすれば安定した人間関係が作る平和だが停滞した世の中をひっくり返してきたからという事実がある。戦争しかり,革命しかり,テロしかり,そして,もっと卑小なレベルでメンドクサイ迷惑人間がどういう意図を持つのか知らんが面倒事を引き起こしつつ会社の業績を上げたり,学校の知名度を上げたり,何の取り柄もないど田舎を世界に知らしめたりする。もちろん大多数の迷惑人間は本人が反省しない限りいつかは始末されることになるのだが,その「寿命」は迷惑と共にもたらせた「業績」によって伸びたり縮んだりする。その一番分かりやすい例が芸人という奴で,一番著名な破滅型芸人・横山やすしは,苦労人の相方・キー坊(西川きよし)の助力で得た漫才の面白さのおかげで,少なくともキー坊の参議院議員立候補による実質的なコンビ解散までは命脈を留めることができた。「遊びは芸の肥やし」として家族を泣かしても借金してでも客を楽しませてさえいれば許されていた,そんな昭和までの芸人の典型として「勝新太郎」がいた。今回取り上げるこせきこうじイズムの申し子・吉本浩二が描いた「カツシン」は,日本の文化を彩った迷惑人間を描いた暑苦しい傑作であり,そのネタ本の一つとなった読ませる評伝が,熱血時代劇研究家・春日太一が著した「天才 勝新太郎」である。

 吉本浩二のマンガは既にここで手塚治虫のエピソードをまとめた「ブラック・ジャック創作秘話」で取り上げている。本書でも相変わらず主人公である人物の持つ「情念」を描くことを主軸としており,いつも変わらんなぁと安心して読むことができた。その分,時系列的なカツシンの人生の把握ができず,まだ1巻が出たばかりであるからして,この先どこまで続くまで分からない続刊の刊行を待つことができず,手っ取り早く読めそうな春日太一の評伝をAmazonで発注したのである。春日の力量は仲代達矢のインタビュー集でよく分かっていたので,安心して買うことができたのだが,読んでみたらもっと面白かったので,一気に読んでしまった。こうしてワシは吉本のマンガと春日の評伝を通じてカツシンを知ったつもりになってしまったのである。主演映画は「迷走地図」しか見たことがないくせに,である。それだけこの2冊の持つカツシン由来の情念が一読者に過ぎないワシの脳を掻き回したのであろう。

 カツシンと言えば,ワシのイメージではこんな感じである。春日の言を借りれば次のようになる(P.287)。

 多くの俳優たちが「タレント」としてテレビの枠に小さく収まっていく中,時代に迎合しない勝は規格外の存在だった。だが,だからこそ,その言動はワイドショーやバラエティ番組の格好の餌食になった。少しでも勝と関わった人間は,面白おかしく勝のことを語った。そのほとんどは,豪快で金に糸目をつけない酒の飲み方や遊びに関するものばかり。勝は生きながらに伝説の存在になり,人々がそれをデコレートして語ることで,その伝説は一人歩きしていった。

 小林よしりんも一度SPA連載時にインタビューしたことがあるようで,その伝説を裏付ける言動に付き合わされた経験を漫画にしている。だがしかしそれをまともに受け取ってはいけないようだ。春日は続けて次のように述べている。

勝に近づく人間はみな,その伝説を期待した。勝もまたそのことをよく知っていた。彼らに喜んでもらおうと,ブランデーを一気飲みし,金をバラまき,「世間のイメージする勝」という道化を演じた。

 まさによしりんもそんな「世間のイメージする勝」の保持の片棒を担がされたわけである。

 さすがに吉本は春日の著作を読み,春日本人にもインタビューしているため,そんな事情はすっかり分かっており,繊細で臆病,自身が出演する作品は脚本・演出・音楽・編集に至るまですべて自分でコントロールしたがる我儘な芸術家であるにも拘らず,役を通じて世間に持たれた豪快なイメージを維持することに腐心するカツシンのエピソードをうまく拾っている。時系列的にはバラバラなのだが,それは各話ごとに軸となる勝を知るインタビュイーの持つ「印象」を大事にしているためであろう。どんなはた迷惑で魅力的なカツシンであったのかを,動きの書けないヘタクソな止め絵でじっくりねっちり情念を伝える,それこそ,そしてそれだけが吉本作品の魅力であり,吉本が描きたいものなのだ。

 「座頭市」に関してはどうもワシは見る気が起きないのだが,多分,本人がかなり控えめに演じていた「迷走地図」は,原作の持つどす黒いものをうまく隠して上質な政治ドラマになっていてワシは好感を持っている。巷間言われているカツシンも,ちゃんと普通に演技していたんだなよなぁ。吉本のマンガが出続けているうちは他のものも見てみようかな,と,多分この先当分気になり続けるだろうな,きっと。