何故代数学は難しいのか?—「代数系」とは?

 今書いているテキストの一部抜粋。ん~,今週中に上がるかしら?

 前書きにも書いた通り,「代数系」を土台とする現代の代数学は,初学者には取っつきづらい学問である。数学自体,忌避する人達が多い学問であるが,高校までは理系(国際的には認知されていない不思議な学問分類)に在籍し,数学大好きを公言していた学生が,大学入学後に学ぶ代数学となると,途端に戸惑ってしまう,という光景はそこかしこで見られる。
 それは多分,「ルール」が大学以前の高校数学,とりわけ微分積分に代表される解析学のそれと全然異なっている(と感じられる)からであろう。トランプを使って7並べしかやったことのない人が,突然「トランプを使っていろんなゲームができるよ」と言われ,無理矢理ブリッジやポーカーやブラックジャックを教えられるようなものであろう。
 トランプの例えで言うと,代数系を扱う「代数学」とは,トランプのゲームのルールの多様さを知り,その中に共通の法則を学ぶ学問,ということになる。その延長上で,実はトランプを使わなくても,麻雀牌や花札でもゲームはできる,という「メタ(meta)」な視点を得ることができるようになるのである。具体的な計算方法のルールを覚えて積み重ねていく解析学が水平的な視点の学問であるとすれば,代数学は水平視点の知識をベースに,より抽象的な「上から目線」,すなわちメタな方向へと進んでいく学問,ということになる。
 この講義では代数学のベースとなる「代数系」というものだけを抜き出して,その中から親しみやすい題材のみを扱う。トランプというゲームの素材に,ゲームのルールを適用することで新たなゲームが誕生するように,代数系は「集合」という素材をベースに,集合の要素を組み合わせて新たな要素を生成する「演算」というルールを組み合わせて出来上がった「体系(system)」なのである。

7/29(金) 掛川・?

 今週に入っていきなり涼しい空気が戻ってきて,それに誘われたとおぼしきトンボの群れが発生。蝉は活躍の場をなくしているのか,トンボの隙を狙って細々と鳴いている,という感じ。夕方が出番のヒグラシは頑張っているんだけどな。
 ひ~,ぱっつんぱっつんの日々が続いて,日記更新の余裕もナシ。
algebraic_system.PNG
 こんなもん書いているせいである。今年度が最後の担当講義なので,何とか今までの蓄積を纏めておこうと下らないことを考えたせいである。あと1週間しかないのに,やっとラフな下書きができたところだってのに,まだ完成を諦めていないせいである。あ~しんど。
 しんどいので今日はもう寝ます。お盆にはぷちめれ祭りをじっくりやりたいな~。どうかな~。

安田まさえ「数学女子2」竹書房

[ Amazon ] ISBN 978-4-8124-7582-9, \648
mathematical_girls_2nd.jpg
 著者自ら「②巻です,びっくりです。」と書いているが,ワシも2巻が出たのを知って驚いた。結構人気あるんだなぁ,と感心しきり。今時,商業雑誌連載マンガだからといって必ずしも単行本にまとまるとは限らない,という状況であるので,真面目に数学を専攻する学生を主人公にしたマンガが2巻分出版されるだけでも言祝がねばならない。イヤめでたい。目次はないし,数学者名言録って程の分量もない杜撰な単行本の作りは相変わらずだが,妙ちきりんな数学記号を使った意匠はなくなっているし,女の子が可愛らしいので許すことにする。
 本書の魅力については既に語っているので,今回は感心したポイントだけ語ることにする。
 主人公の数学女子達が3年生になり,ゼミ配属される,というのが本書後半の設定であるが,そのうち内山まなは「線形代数ゼミ」に配属される。「線形代数~?」とワシは一瞬違和感を覚えたが,ちゃんとゼミ主宰のA教授が「線形代数を復習して代数を深めたいなと・・・」(P.92)とそのゼミ名の由来をきちんと説明していることに感心したのである。
 本書では専門に深入りした数学そのものの説明は殆どないのだが,ツボをおさえた描写がきちんとなされている。著者はちゃんと数学を履修してきた人なんだろうな,と思えるのはそのためだが,特にこのA教授の言葉はアルティン流の線形代数→代数的構造→ガロア理論という学問体系を抑えていないと出てこないものなのである。それがどーゆーものかって説明は,アルティンの本とか,上野健爾の本とか,アルティンの弟子のラングの線形代数テキスト(特に下巻の方)を参照して欲しい。
 つーことで,次の3巻では華々しくガロア理論のコア部分の解説をお願いしたい,と無茶な願望を書き付けておく。

7/18(月・祝) 掛川・曇後雨

 蒸し暑いなぁ~,不快指数100%だぜ,という朝方であったが,昼過ぎからは台風6号の風が吹き込んできて爽やさを感じるほど。夜に入ると一転土砂降りになったが一時的なもので,その後は涼しげな外気になっている。明後日には西日本に上陸して日本海に抜けるようだが,こっちにも影響あるかな? 我が研究室の卒研生諸君はすっかり「20日は休校」と決め込んでいるようだが,そうは問屋が卸すものか・・・さてどうなる?
 英語論文投稿だの,自分の依頼原稿受理だの
bncpack_accepted.jpg
編集委員会だのと色々あったが,何だか忘却の彼方。まだ来月早々締め切りのお仕事は2本も残っているので気分全然晴れず。全く余裕のないことである・・・っと,今週締め切りの原稿も~。うき~。
 来月15日には人間ドックなので,ビシバシ運動して腹筋だけでもヒロミ郷計画を完遂しなければならないのだが,今日も今日とて世間は休日なのにこちとら平日出勤モードで全く運動できないのである。せいぜい腹筋とスクワットだけでも自宅でやっておこう。
 しかしまぁ,世の中いろんなことが起きるよなぁ・・・と。ま,全く触れないのも不自然なので,「公式見解」にはリンク張っておくけど,詳細も何も分からず(土曜日はMさんから静岡で理不尽な叱責を受けていたのだ),周りから聞こえてくる不確かな情報を集約してそれなりに事情を把握するだけしかできんがな。正式なことはまぁこれからでしょうな。ま,これ以上は「ノーコメント」っつーことで。
 さて,休日モードにもかかわらず全開でお仕事してきたので,今日は風呂入ってもう寝ます。又明日も講義に会議に書類仕事だ~。

宮崎克(原作)・吉本浩二(漫画)「ブラックジャック創作秘話 ~手塚治虫の仕事場から~」秋田書店」

[ Amazon ] ISBN 978-4-253-13239-8, \648
black_black_tezuka_osamu.jpg
 いやぁ,最高最高。この表紙左上のギラギラした手塚治虫の姿もさることながら,右下の帯のカット「来週はがんばります」と笑顔で言う手塚治虫に至っては,「漫☆画太郎先生ありがとう!」と叫んでしまいそうになる。・・・いや,そんなことではない。本書の魅力はそんなところではないのだ。本書はちょうど手塚が落ち目の時代に起死回生のヒット作「ブラックジャック」を描き,又売れっ子第一人者に復活していく時期の脂ぎった「黒手塚」を描いた傑作ドキュメンタリー漫画なのである。
 「白手塚」「黒手塚」というタームは,もちろんBSマンガ夜話における造語である。ファンサービスには手を抜かず,対外的にはにこやかだったベレー帽姿の手塚治虫が「白手塚」とすれば,本書は,人一倍嫉妬深く,才能ある新人の登場には常に目を光らせ,自作の人気の上下に拘ったという,今となっては周知の事実になっている人間くさい姿が「黒手塚」ということになる。もちろん,「黒手塚」という言葉は,単なる人間の醜い裏面を表現しているだけではなく,その因ってきたるエネルギーや感情の坩堝,つまりは「情念」の煮えたぎる様を言い表したものなのである。そしてその「黒手塚」を知ることによって,「白手塚」まできちんと繋がって一人の図抜けた巨人・手塚治虫が立体的に理解できるようになるのだ。
 吉本浩二のマンガをじっくり読んだのは,実は今回が初めてである。Webで連載作品を読んだことはあるが,紙媒体では今回が初だ。改めてじっくり画風を眺めてみると,青木雄司を洗練させて構成力を与えるとこうなるのかな,という感じで,デッサンの狂った力業のキャラクターに細密な陰の描線が異様な迫力を添えている。ワシ個人は「デッサン狂いのヘタクソな絵の魅力」について常々考えているので,吉本の画風は良いサンプルなのである。しかし,人柄が人畜無害っぽいところは,う~ん,どうなんだろうな,と微妙な評価で,今一ワシの中ではあまり高く買ってはいなかった。今回この単行本を買っていなければ,当分はその評価を変えることはなかったと思われる。
 しかし,本書はすごいのだ。いや,凄いのは「黒手塚」の情念なのだ。黒手塚が吉本の人畜無害さを吹き飛ばし,土方のようにマンガ執筆という肉体労働に勤しむ巨匠の姿とエネルギーを吉本に描かせたのだ。それはもう漫☆画太郎なんてもんじゃない。自分以外のアシスタントや編集者に作品のネームを内容を確認させ,面白さに疑問を呈する評価を受け取るや,表面的な締め切りなんぞはすっとばして一から作品を書き直す。アメリカ旅行中に自分の頭の中だけで作品を構成し,アシスタントに電話でコマ割りと背景を指示する天才っぷりもさることながら,その帰りの飛行機内で,全ての乗客が寝入っている中,一人,インク壺を左手に持ち,一心不乱にキャラをペン入れしている様の描写は,目撃した永井豪の驚きを再現して余りある。
 エピソードの一つ一つは既に手塚プロのアシスタント経験者や関係者,同業の漫画家やTV番組などで伝わっているものが多く,ワシ自身が初めて知った事実,というのはごく少ない。しかし,知識として得たエピソードの「情景」には,吉本が描いた黒手塚の情念の炎が欠けていたのだ。本書によって,その重大な欠落要素がかちっと嵌まり,まるでアメリカから帰国した手塚が描いたキャラで原稿を埋めるように,「手塚治虫」という像がワシの頭に屹立したのである。なるほど~,漫画でドキュメンタリーを描く意味はここにあるのか,ということを,本作でイヤと言うほど知らされたのである。
 黒手塚が生み出した異常な執着心とエネルギーは,今後もグローバル化した資本主義社会において,重要な原動力となって我々を巻き込み,永久に「リテイク」要求を突きつけるに違いない。「ヒューマンな手塚作品」というレッテルは,表面的にも内面的にも哲学的にも間違っておらず,相当深い射程を持つものであることを,本作はワシら凡人に知らしめてくれるのである。