昨日から雨が続く。太平洋沿岸を舐めるように進みつつある台風14号の影響らしいが,その割には冷たく寒い。熱帯性低気圧の親分なんだからもっとねっとりした生暖かい空気を運んできても良さそうなモンだが。そろそろ猛暑の夏のエネルギーも尽きているのかもしれない。
さて,先週から断続的に続けてきた漫画ぷちめれ祭り,ここで一段落とする。ホントはもう1,2冊紹介したかったが,だんだん薄味になってきたので,このあたりで小休止。続きは12月に入って,年末の満州祭りに突入する前に1週間ほど続けてみたい。全く,電子書籍への移行が一向に進まないまま,新刊点数ばかりが増え,自炊ばやりの昨今であるから,紹介したい本が溜まりに溜まってしまうのである。12月まで,ぷちめれのエネルギーを貯めておくのである。
で,突如の祭りのきっかけとなった某誌某原稿の件であるが,めでたく(?)二宮ひかると決定した。Tweetでも「シュガーはお年頃」をお勧めされたので,これを読んでから取り掛かる予定。まぁまた締切直前になるのかなぁ? でも頑張って書きます~,Wさんしばしお待ちを~。しかしあれを読み返すとなると・・・自分ことじゃないのに,自分のことのようにみっともなさを突き出される感じになって,ちとむずがゆいのよね~。
あ,そうそう。MacBook Air,欲しくなって13inchの奴を4GB RAMに増量して注文してしまいましたのよ。ほほほほほほほ。学割が効くので-5000円,オプション品も含めて約13万。128GB SSD入りでこの価格とはね~,CPUは一世代前のものだが,Core i7/i5なんてあの薄さじゃ,筐体触ったらやけどするわ。ワシとしてはAtomマシンよりずっとましなMS Office(特にVisio)の動作が期待できて,NetBook並みの重量で(1.3kgならトントンだ),Windows 7 x64が快適に動作することが不可欠。MacOS X ? んなもん,iTunes専用環境として使えりゃええんだわ。大体,Yahoo! JapanなんてIE on Windowsじゃなきゃ見れないサービスが多いもんなぁ。
到着は次週末,早ければ木曜,最悪,土曜(出勤日・・・トホホ)。楽しみである。ん~,IS03が来る前にあれこれいじってみようっと。ただ,以前買ったMacBook blackのHDDがすっ飛んでしまい,再起不能になっているのが気がかり。水曜日に神保町に出撃するので,銀座のApple Storeに寄って見てもらおうかなぁ。換装費用+αで治るようなら使いたいし。
先週末はイレギュラーに研究室開放することになって,バタバタだったのだが,まぁそれでもお客さん皆無ということにならずに済んだ。
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しかしいかんせん集客力がなさすぎるので,お土産を渡せる親しみやすい題材を考えないとなぁ。オープンキャンパスなら学生さんの説明を聞いてもらうだけでいいんだが,お祭りとなると,それじゃぁ面白味がなさすぎるしな。ゲームは他の研究室でもさんざんやってるし,何かアイディアがあるといいのだが。来年までゼミ生と相談しながら考えるか。
ダイエット強化の季節もそろそろ終わりにして,定常状態に戻したいのだが,胃が小さくなったのか,晩飯が入らなくなった。3コマぶっ続けの特別プログラム終了後でもかけそば一杯で満足。もちろんその後でスポーツクラブでいつものメニュー(腹筋・背筋・エアロバイク・ストレッチ・水泳)をこなす頃には腹がグーグー鳴っている。でもそのまま寝た方が次の日の目覚めが気持ちいいし,何より,まだ出っ張ったままの腹が少しへこんでいるのが良い。このまま内臓脂肪を減らして66kg~67kg台を維持できればいいのだが,さて今後どうなりますやら?
眠くなったので寝ます。
田丸浩史「ここ10年分のヒロシ」富士見書房
[ Amazon ] ISBN 978-4-04-926268-1, \1200
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もうここでは何度も何度も何度も何度も書いたが,ほんっっとに日本のエッセイ漫画の殆どは「ダメな自分を笑って下さい」という判で押したような体裁を取っている。そういう姿勢の方が読者の共感を得やすく,妙な嫉妬心を刺激することなく「ばっかで~ははは」とか「そうそう俺(私)もそう思うし」という無害な小市民的連帯感だけを掬い取ることができる,ということもワシはここでは何度も何度も何度も何度も書いてきたわけである。つまり一言でいえば,そーゆー体裁を取ることが「ベタ」なのであり,それこそが日本のエッセイ漫画の「王道」でもあるわけである。
しかしそんな態度を取れるのは新人のうちだけだ。だんだん冊数を重ねるにつれ,つまりは,冊数を重ねるほどの売り上げと人気を誇るようになってくると,そんな態度にも綻びが生まれ,ついには隠しきれなくなる。なおもダメさを強調するとそれこそが痛々しい,とゆーか,そらぞらしい,ということになり,開き直って金を使いまくる様を描いてしまったりするようになって,中村うさぎが生まれたりするのである(マンガじゃないけど)。
しかし,彼らにも同情すべきところがないわけではない。どれほど長期間活躍しようと,どれほど自著が売れようと,売れない頃に抱えてしまった劣等感からは逃れられず,ついつい福満しげゆきのように,どうかblogとかにこの漫画の感想を書いて下さるとありがたい,ってなことをあとがきに書き続けてしまうのであろう。綺麗な嫁さん貰って大手雑誌の連載2本抱えて子供まで作って都営住宅からも離脱した立派な社会人のくせに,いつまでもいつまでもいつまでもいつまでもうじうじと「下から目線」的物言いを続けてしまうのは,まぁ,仕方のないことかもしれない。あのエッセイスタイルが定着してしまったからには,開き直った福満など,誰が読むもんかと言われかねないところもあるしなぁ。
にしてもさ,田丸浩史ってちと微妙なところにいるよなぁ,と思うのである。「オナホール=田丸浩史」というほどロリコンダメヤンキー系漫画家として定着した田丸であるが,さすがに40歳近くまで途切れずに雑誌連載を抱え続け,2010年夏コミではカタログ表紙まで描いてしまうほどの人気(?)を誇るようになってしまうと,自分でも「ダメ」を売り物にするのがいい加減限界だということに気付いていると思うのだが,どうか? 本書「ここ10年分の」田丸浩史を読む限り,「オナホは親の仇なのでサイン会持ち込み禁止」(2009年11月)ときっぱり断言するまで「成長」している訳で,231ページにおいてはさりげなくパツキン(かな?)のこじゃれた女の横に小さく「彼女」と書いているのを見つけたダメ田丸の愛読者だった奴はここで本書を壁に投げつけたに違いないのである。
つまり,「ここ10年分」ですっかり大人,っつーか,オヤジ化している田丸を本書ではジワジワと見せつけられるのである。
良いことである。
人間たる者,社会の中でもまれ続けている限り成長してしまうものなのだ。田丸はとうとうオナホールを捨て,真のお(省略)に目覚めたのである。祝おうではないか諸君,未だにひとりお(略)から脱しきれない「童貞コジラシ組」なキミ,田丸とともに,そして「おもちゃのさいとう」に集うヤンキー舎弟達とともに,エアロバイクで腹回りの脂肪を減らしつつ,大人(オヤジ)の階段登ろうではないか。そしてヘルメット内側にこびりついた加齢臭をくんかくんかしようではないか。
それにしても,この入手した単行本,発売1か月半で再版されたものであることを考えると,日本にはいかにダメ田丸の愛読者が多いかを思い知らされる。彼らが田丸同様,オナホール呪縛から脱しきれるかどうか,今後の日本社会における若い男子の動向をしばらく眺めていたいものである。
山科けいすけ「SENGOKU 上・下」新潮文庫
上巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-10-130392-5, \476
下巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-10-130393-2, \476
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いやぁ,本当に出るとは思わなかった。今年(2010年)の大河ドラマ「竜馬伝」に悪乗りする形で「サカモト」が新潮文庫で出た時には,「「SENGOKU」の方が良かった・・・」と,グズグズ言いまくってしまったが,それを知ってか知らずか新潮社は「じゃぁ出してやるぜ!」とばかりに,「SENGOKU」を新潮文庫の新刊としてワシに突き出してきたのだ。これが買わずにおられようか。もちろんワシは竹書房版の三冊(1,2,3)も全部持っているが,しかし! 再発売されたのは嬉しいので,ご祝儀代わりにワシの乏しい小遣いを差し出したのである。
「SENGOKU」は山科けいすけの最高傑作である。
まず,登場人物がメチャクチャ豊富だ。織田信長配下の明智光秀が一応の主人公・・・っぽいのだが,途中から段々怪しくなってくる。信長の天下平定が進むにつれて,攻め込む対象が広がり,武田信玄・上杉謙信といった有名どころだけではなく,関東地方の北条氏や中国地方の毛利氏まで取り上げざるを得なくなっていく。上下巻合わせて35名を4コマ漫画で登場させるんだから,まぁ大変な労力である。
しかもこの35名,明智光秀を除いて全員曲者揃いで,関西漫才用語で言うと,光秀以外全員がボケである。あ,お濃の方や毛利家3人は結構まともか? まぁ,それぐらい個性が強い・・・じゃない,バカな個性を強調させられているのである。信長は気ままに乱暴狼藉を働くし,信玄は戦の才能はピカ一だが手癖の悪いホモオカマだし,謙信はバカだけどともかく強いし,北条氏は図体がデカいくせにセコイ戦いしかしないし,最後の室町将軍・足利義昭はひ弱なくせに青筋立てて信長包囲網の構築に勤しむし,松永久秀はニコヤカに反逆しまくるし・・・いやぁ,みんな笑かしてくれるのである。一応史実に基づいて個性の強調が行われているので,歴史好きだと一層楽しめるというオマケつきだ。
そしてこの35名がくんずほぐれつのバカ騒ぎを縦横に繰り広げるのだが,少し枯れてきた今の山科けいすけ作品(オマケで収録された「仇討ち三兄弟」「秘術」(上巻),「サカモト 番外編」(下巻)など)と比べると,やはりこの「SENGOKU」の若々しい線とキャラクター達の躍動感が際立っているのだ。それだけ一番漫画家としての脂が乗っている時期の作品だということが言えよう。漫画家が描きたい作品であることと内容の充実度は必ずしも比例しないのだ。両者が一致するのはめったにあることではなく,その意味ではこの「SENGOKU」は,それまで培ってきた,かつての大人漫画のテイストを維持しつつ,いしいひさいち流のキャラクターギャグを取り入れた,山科けいすけ独自の世界を生き生きと表現することができた稀有な作品なのである。
その作品が,おそらくは「サカモト」の売り上げ好調(だよね?)の余勢をかって,再び新潮文庫の2冊としてワシらの前に差し出されてきたのである。是非とも,この生真面目に自らのギャグ道を追求してきたベテラン漫画家の真の実力を知るためにも,本書を買って読んで大いに下らながって頂きたいと思うのである。
安田まさえ「数学女子 1巻」バンブーコミックス
[ Amazon ] ISBN 978-4-8124-7444-0, \648
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応用数理学会年会の最中,秋葉原駅構内の書店で見つけたのが本書である。これも何かの縁かとパラパラめくってみると,ふつーのよくある萌え系4コマ漫画の体裁ではあるものの,ところどころに妙な「リアリティ」を感じたのである。で,そのままレジに運び,両国のホテルに戻って読み始めたらこれがなんと,やっぱし「数学科」出身者が描いた漫画であり,あえなく落ちこぼれた数学科出身のワシには分かりすぎるほどの内容がちりばめられていることを知ることになったのである。
数学という学問は自然科学なのか,工学の奴隷なのか,といった疑問は昔から付きまとっている。しかしまぁ,議論のための議論という感じがして,ワシはあまり真面目に考えたことがない。哲学に近い,理論体系を構築できるという側面もあるし,工学に応用できるこじんまりした理屈付けにも使えるという側面もあるので,まぁ哲学と思いたければそう思っていればいいし,自分のやりたい工学的目的に利用できると思えば利用すればいい。森毅流に言うなら「万人が好きなように考えたらええ」というだけの話だ。それだけ変幻自在,ツボにはまれば面白い学問であると,途中で挫折したワシでも断言できる。
しかし,これだけ向き不向きが明確で,同じ「理学」として括られる物理学・化学・生物学と比べると潰しがききづらい学問も珍しい。数学教員やコンピュータ関係に進むのが一般的な進路だが,物理学でも数学教員免許が取れるのが普通だし,今ならシビアで大量のコンピュータシミュレーションを行うのは数学以外の理学関係であるから,プログラマーとしての腕は,専門的な情報科学を収めたならともかく,他学科に比べて優れている,とは言えないのが普通じゃないかと思う。3DCGを使い倒すデモアニメを作ったり,表計算ソフトを常時データ集計用として利用するのはもっぱら数学以外の理学・工学関係だ。ワシなぞ,ロクにLaplace変換を勉強しなかったせいで,化学科とか機械工学科の連中から常微分方程式の解法を教えてもらったりしたものである。そーゆー応用につながる計算技術一般に疎いのも数学科の学生の弱点だったりするので,「何ぃ~,数学科のくせにそんな問題も解けないのか~?」とバカにされたりすることも珍しくない。
じゃぁ,数学科って何をやっているのかというと,伝統的な純粋数学を勉強する方法は,ひたすら理論体系を追いかけるのみ。定理→証明,定理→証明・・・という帰納法的学習を淡々と行うだけなのである。いやぁ,今思い返しても,位相とかトポロジーとか代数学とか・・・さっぱりわからなかったというのが正直なダメ学生としての感想である。今この年になれば,さすがに数学的構造なるものの正体をそこそこ掴むことができているが,高校数学までの「計算技術=数学」みたいなバカの一つ覚えを脱し切れずにいた学部学生の頃は,全く,皆目,この手の理論体系が理解できなかったのだ。これで卒研配属前に「数値解析」との出会いがなければ,ワシはとっくに就職してダメプログラマーとして札幌に戻って幸福な生活を送っていたであろう。
だもんで,本書で主人公である4人の「数学女子」が語る,数学科生活には思わず苦笑してしまうエピソードがたくさん詰まっている。詰まり過ぎていて,果たして一般読者にどこまで受けているのか,ワシにはよく分からないが,確実に言えるのは,数学科生活を送ったことがある奴なら思わず苦笑してしまうリアリティに溢れているということだ。例えば,前述した純粋数学の勉強法など,今ではレベル低下に悩む大学はともかくとして,経験者じゃないと分からないことがしっかり語られている。下手くそな証明は長くなるとか(もっと長くなると「入門書」になるというヲチ),暗号解析専門の教授が妙に若々しい恰好をしているとか(ヒッピー文化の影響か,情報科学の連中はジーパンに派手なシャツを着ていることが多く,茶髪も結構いる),合コンの時にも一人本を読んでしまうとか(ワシはこれをやって批判された経験がある・・・見てたのか,安田!),老教授を慕う女性准教授の造形にはモデルがいそうだとか(美人なのに独身という設定が(以下検閲削除))・・・いやぁ,恥にまみれた自分の大学学部生活を思い起こさせるエピソード満載なのだ。
だからかえって,一般読者にどこまで本作が受けているのか,そこがイマイチよく分からない。女子がかわいいということはさておき,ギャグ一つ一つのレベルが高いかというと,その辺はふつ~の四コマレベルであり,切れ味が優れているというものではない。ベタなギャグを延々と続けるという図太い精神は買うけど,う~ん,どこまで頑張って連載を維持できるのか,ワシにはよく分からない。1巻が出るほどだから,それなりに売り上げはあると見込まれていることは確かだが,さて2巻以降がどうなるか,ワシは注視しているのである。
最後に苦言を一言。裏表紙に文句を言いたい。1次~3次関数のグラフと数式が印刷されているのだが,グラフはともかく数式がメチャクチャだ。大体,”y=-0.064x-0.096x+1.1152x-1.592″とか”y=0.4x-2.7x-7.1″なんて,同類項をまとめずに放置しておいて気持ち悪くないのか? グラフから想像するに,本来は”y=-0.064x^3-0.096x^2+1.1152x-1.592″と”y=0.4x-2.7x^2-7.1″かなぁと思うのだが,グラフと数式を連動させる必要がないとはいえ,少なくとも「数学少女」を署名にするなら高校数学IIレベルの常識を踏まえたものにしてもらいたい。そんなものを気にする奴を読者には想定していない,という営業戦略だとすれば,それは間違っていると断言したい。少なくとも,気になる奴はコアな読者になるかもしれないではないか。今の時代,コアになる読者がどれだけ貴重か,そこから火が付く可能性があることを,マーケティングを知る竹書房営業部なら知っているのではないか? せめて著者の安田が「う,裏表紙が,気になります・・・」ぐらいの抵抗はしたんだろうと想像し,このぷちめれではこの程度で矛を収めてやるが,2巻がもし出るのであれば,まともな数学を意匠に使ってもらいたいものである。
ヤマザキマリ「イタリア家族 風林火山」ぶんか社
[ Amazon ] ISBN 978-4-8211-7023-4, \781
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2010年ノーベル化学賞を日本人2名が受賞した。両名とも米国大学の同研究室出身者,しかも指導教員も受賞者で,弟子にあたる今回の受賞者の一人を推薦したいと述べていたこともあったとのこと。世界レベルの学術研究競争が激しく行われるようになった昨今,一定レベル以上の頭脳が研究の自由と資金が保障されているところに集まるのは当然である。
それはいいとして,受賞者の一人が,近年日本人の海外留学組が少なくなってきたことを憂う発言をしたことが注目されたのは,「日本のガラパゴス化」を補強する有力な言説になりうるからであろう。何せノーベル賞受賞者だ。言論の重みは背負っている権威がデカければデカいほどよい。日本の若者には覇気がない,もっと海外でもまれて来い!・・・というエラソーな物言いが増えてきたのも,虎の威を借りる狐さんが跋扈し始めたからであろう。
その論はある意味で正しいが,これだけ流通や通信が世界規模でスムーズに流れるようになってきた昨今,果たして海外に出ていく理由が「情報収集」や「異世界コミュニケーション」だけでいいのかどうか,ものすごく疑問だ。例えばしらいさりい(近頃は精神世界に嵌っているようで心配だ)の漫画「ぼくは無職だけど働きたいと思ってる。」ではニートな主人公が,自宅アパートの一室でパソコンとインターネットを通じて毎日フィリピンの女性と英語でチャットする様子が描かれている。日本のどこの駅前にも英会話教室が乱立しているし,少なくとも外国語習得に関しては日本に居ながらにして相当なレベルまで学習することが可能だ。論文だってその他の情報だってWeb経由で相当な量がgetできる。・・・で,かのノーベル受賞者が,日本に戻ってもアカデミックポストに就けないという理由で米国に残ったというから,日本社会はまだまだ閉鎖的だな,と思うと同時に皮肉だとも感じる。・・・とゆーことをもろもろ考えれば,海外に出なければいけないという理由,かなり限られるように思えるのだ。
大体,特に目的もなく「海外留学してから今後の人生考えます」って奴ほど先行き不安に思えるのは杞憂だろうか? そんな奴はせいぜいコーヒーショップで麻薬に染まって沈没するのが落ちである。むしろ海外渡航を安心して見ていられるのはエネルギーに満ち溢れた「愛すべきバカども」に限られるのだ。よく分からない自分の内部から湧き出てくる「好奇心」,仏教用語でいうところの「業(ごう)」という奴を抱え,未知の世界に漕ぎ出ていく「愛すべきバカども」は,何があっても異世界に漕ぎ出していくものだからだ。ヤマザキマリの近著を読むにつけ,ワシはますます「愛すべきバカども」がいとおしく思え,その一人である著者に限りないエールを送ってしまうのである。
ヤマザキマリは現在,夫(ベッピーノ)と一人息子(デルス)の3人家族で米国・シカゴに住んでいるらしい。本書ではあまり詳しく語られていないし,他の著作を読んでもよく分からないが,文学を研究しているというこの旦那(ヤマザキより14歳年下),相当の学者だと思われるんだが,誰か日本のイタリア古典文学者でお知り合いはいないのだろうか。是非ともこのベッピーノの学者としての人となりを解説してほしいもんだ。何せ,結婚したのがベッピーノ21歳の大学生の頃。熱烈なプロポーズにほだされて,既にデルスを育ててた子持ちの「平らな顔族」ヤマザキは正式に結婚した訳だが,その当時に学者としての優秀さに魅かれていたわけでは決してない。変なオタク文学青年だった彼が,米国の大学に招かれるまで優秀な学者に育ったのは,偏にヤマザキマリの生体エネルギーがベッピーノを育てたとしか思えないのだ。それぐらい,本書で語られるヤマザキマリのエネルギーにはすさまじいものがある。これだけの「業」を抱えているからには,そりゃぁ,イタリアでもキューバでもポルトガルでも米国でも楽しく生活できるってモンである。
ヤマザキは既にたくさんのエッセイ漫画を執筆しているようだが,ワシは本書が初ヤマザキである。だもんで,どういう人生を歩んできたのかはよく知らないのだが,どうやら大学時代からイタリアで美術を学びつつ,寄り道的にキューバにボランティア活動しに行ったり,子供を作ったり(恋人とはその時点ですっぱり別れたそうな・・・すげ),ベッピーノと子連れ結婚して,しばらくは北イタリア・ベネト州の山麓にある旦那の実家で大家族生活を送っていたらしい。本書では主としてそのイタリア大家族生活が語られているのだが,まーこれが目からウロコ,イタリアのこじゃれたイメージが大崩壊してしまう。本書を読むまでは,ワシにとってのイタリア生活の知識は塩野七生から仕入れていたのだが,旦那がイギリス人の医者,都市部で使用人付の生活を送っているプチブル塩野の生活ぶりとは真逆のヤマザキマリの庶民的・土俗的生活っぷりは,塩野から植えつけられた先入観をぶち壊すのに十分な破壊力があったのだ。以下,破壊された先入観を列挙してみよう。
1.「欧州では老人介護問題は存在しない」・・・年老いた親はドライに割り切って全員老人ホームにぶち込むのかと思っていたが,ヤマザキマリは姑とともに98歳のアンナ(姑の母親)の食事の世話をしている。・・・下の世話はどうなっているのか。やっぱりイタリアにも「ヘルプマン」がいたりするのだろうか?
2.「子供はさっさと独り立ちして18歳以降は家を出る」・・・旦那の実家で大家族生活を送っていることもさることながら,旦那の妹まで小姑として居座っている。恋人募集中らしいが,社会に出たら一人暮らしして探すもんだと思ってたよ,ワシ。
3.「欧州では妊産婦を大事に扱う」・・・デルスを出産後,ヤマザキは病院内を歩いて病室に帰らされるところだった(結局,歩けなくてキャリーで運ばれた)。他の妊婦はひいひい言いながらも自力で戻っているとのこと。・・・日本だと妊婦虐待とか非難されそうだ。さすがローマ人の末裔は丈夫である。
4.「欧州では単身赴任はあり得ない」・・・旦那はシカゴ赴任後,しばらく単身赴任生活を強いられた。ヤマザキはポルトガルを気に入っていて,米国に興味がなかったとのこと。・・・かわいそうなベッピーノ,日本のサラリーマン転勤族は君の味方だ!(号泣)
・・・以上,確かにノーベル賞受賞者が言うように,海外に行かなければ分からないことはたくさんあるのだなぁと思い知らされたのである。しかし,果たしてヤマザキのような生活っぷりを望んで渡航する奴らがどのぐらいいるのやら・・・? いや,たぶん,子供を産んだ時点で,そして,油絵をやめて漫画を描いて生活すると決意した時点で,日本に戻ってくることを選択するのが普通だろう。傲慢な銭湯設計者を描いた「テルマエ・ロマエ」で手塚治虫漫画文化賞を受賞するほどの評価を得ているのだから,漫画の才能がないとは言わせない。出産後の放置プレイにもめげずに子育てをする根性があるヤマザキが,かのノーベル賞受賞者じゃあるまいし,日本に自分の生きていくポジションが築けないとは思えない。ではなぜ,ヤマザキは世界を漫遊し続けるのか?
それはヤマザキの持つ「業」に他ならない。赤道に近い温暖な地域を好み,情報にまみれた日本や米国のような先進諸国を避け,土俗的なイタリア大家族の中に溶け込んで自分の仕事を決して手放さないヤマザキの生き様は,万人にまねできるものではなく,過大なエネルギーを抱え込んだ「愛すべきバカども」にしか出来ないものなのだ。そして,本書は,そのバカどもが向う見ずにも飛び込んだ世界でしか得られない体験を描いた,貴重な一冊になっている。ヤマザキは大陸的なユーモアに包んで,イタリア人の生のエネルギーをワシらに伝えているのだ。どっちかてぇと,ノーベル賞受賞者の言説よりヤマザキの押し付けでない本作のあけすけな語りっぷりの方が,異世界体験の素晴らしさを上手に伝えてるように思えるのだが・・・ガラパゴスに住まう平らな顔族の諸君,どう思うかね?