内田樹・釈徹宗「現代霊性論」講談社

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-215954-8, \1500
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 いや~,面白かった。ほぼ一気読み。といっても本文A5版300ページの厚さの単行本,内容も濃いので東京往復の新幹線では読み切れず,ベッドの中でも読み続けてようやく終わった。数々の思想書をblog更新と共にコンスタントに生み続ける内田樹と,「不干斎ハビアン」で仏教・キリスト教に関する深い知識に基づいて個としての宗教人=野人を評価した釈徹宗,この二人の掛け合い漫才による現代人の霊的考察講義録,もう話があっちこっちに飛んでいくのでこんなblogの記事で全部の内容に触れることなぞできやしない。せいぜい全体的な印象をざっと述べて,面白かったところ,印象深かった部分だけ抜粋してご紹介するぐらいしかできない。本書は講談社の単行本で現在(2010年3月14日)Amazonで119位という売り上げ順位であるからして,遠からず文庫化されるに違いないから,それを待って買おうという人向けの部分的な予習としてお役に立てれば幸いである。
 2005年の後期に神戸女学院大学・大学院で行われた,内田・釈による掛け合い講義「現代霊性論」が元になってできたのが本書である。高々14回の講義でこんな密度の高い話をしたんだから,まぁお二人とも元気ねぇとつくづく感心する。講義内容の主導権を握るのは内田で,時には釈から「さっぱりわからないですね(笑)」(P.164)と言われてしまうようなメタ的言説をまき散らしながら聴衆を引きずり回す。そのような駄法螺とも思えるウチダの問答に対し,一つ一つ丁寧に,古今東西の宗教に知悉した釈が解説を加え,ともすれば虚空に飛んで発散しそうな会話をがっちりと現在の「霊性(spirituality)」につなぎ止めてくれるのだ。一読した印象では,著者並びとは逆に,釈による現代人の宗教論,という感じがする。
 衣食足りて礼節を知る・・・はずだったのが,どうも「衣食が足りた」現代はこの「礼節」の部分が実はよく分からなくなっているのではないか・・・という認識はグローバルに共有されている。本書は,「霊性」がとうとうWHOでも人間の健康の定義には欠かせないものではないか?,と議論になった,という釈の話から始まる(P.14~P.17)。もちろん本書はオカルト現象そのものを扱うのではなく,そのようなものを感じる人間の精神のあり方を論じるものである。死者を奉ったり,世の不条理に悩む現代人が求めたりする宗教的な儀礼・宗旨といったものを含む「霊性」というものを多面的に,そして理知的に語ってくれているのだ。
 例えば,江原啓之・細木数子といった,ちょっとうさんくさい目で見られている民間霊能者についても,もてはやす人々が少なからず存在することに対して,「いつの時代においても教団宗教とともに,常に機能してきたと僕は思います。この(注:民間霊能者の)系譜をまったく排除して宗教を語るわけにはいきません」(P.73)と釈は断言する。教団宗教が苦手とする,目の前にいる相手を精神的に救う,という役割を民間霊能者が担ってきたというのである。精神科医であるなだいなだも,宗教家でしか救うことのできない領域があることを指摘していたが,精神医学が発達した現代においてもなお,江原や細木のような存在が必要であることを,自身が浄土真宗という教団宗教の僧である釈はあっさりと認めているのだ。そーいえば,鏡リュウジも「占星術」を科学的でないと認めながら「役割」があるのだと説いてなかったっけ? たぶんそれは,この民間霊能者としての機能だったのだなぁ。
 本書全体を通じて,ウチダも釈も,「霊性」の重要性を説きながら,そこにまつわる危うさもきちんと指摘している。カルト教団の害に悩む人には,カルトが生じる原因をうまく言い当てている本書は,一つの指針を与えてくれるだろう。
 「「ポスト新宗教」は自分の体験を重視する傾向が強いです。オウム真理教もそうでしたが,神秘体験を大変なことのようにやたら言うんですけど,これにパッチワーク教義が合わさると,危険は倍増する。たとえば禅や瞑想(メディテーション)を実践すると,幻視や幻聴,まばゆい光を見る,何かの掲示を得るなど,神秘体験的な現象が起こります(注:「坊主DAYS」でも「魔境」として紹介されている)。でも,それは生理現象として必ず起こるものやから,そこに本質はないから気にせず捨てていけ,それに足をすくわれちゃいけないと,ちゃんと教えます。きちっとリミッターが利くようになってるんです。」(P.109~110)
 なるほど,伝統は伊達ではないのだなぁ・・・と,普段,実家が檀家となっているお東さん系のお寺に支払うお布施の金額に疑問を抱いているワシも,ちょっとは浄土真宗を見直した・・・かな?
 「なぜ人間は宗教的なるものを求めるのか」という根源的な公案に対して,自分なりの回答を得るため導入として本書を読む,という使い方ができる良書,一読しておいて損することはない。ウチダ本に飽きてしまった方にも,ウチダ本のようなふりをした釈メインの本書なら,万全の自信を持ってお勧めできるのである。

サイトリニューアル予告

 といってもまだ未確定要素が大きいのだが,このblogも含めて,”http://na-inet.jp/“以下の内容を全部Movable Type 5 を使ってコントロールし,デザインを簡素化,全面的に更新をRSS経由でお届けできるような仕掛けを入れたいと考えている。本来は,このWebサイトを抱えるサーバをCentOS4からCentOS5に入れ替えと同時に行いたいと考えていたのだが,作業がめんどくさくなる割にメリットがねーなと躊躇しているので,とりあえずWebの方を優先して行おうと決断した次第である。
 何でそんなことをするのか? まず,静的HTMLをしこしこ手直しするのに飽きた,ってことが挙げられる。手打ちHTMLを維持するのも面倒だし,CSSに至っては自分のデザイン能力の無さにあきれているので,人様のものを使っちまおうと思ったのである。ただしディレクトリ構成は維持し,ページ構成もなるべく現行のままで行きたい・・・けど,どこまでできるかなぁ?
 もう一つ,大きい理由は,6月に公開講座の講演を予定していること。ここでWeb 20年の歴史を語るというエラそーなことを担当するので,そのためにワシのページを実験台にして「現代のWebサイトはこんなもんですよー」とサンプル提示したいのである。YouTubeからGoogle Adsenseのお誘いを受けたついでにGoogle Adを貼り付けるためのアカウント申請をしてしまったので,ベタベタあっちこっちという程でなくても広告を貼り付けてみようと思った,ということもある。そーゆー用途にはMT5の広告入りテンプレートを作っておくと便利ですからね。そうそう儲かるというものではないし,せいぜい月々数百円程度ってところだろうから,本格的に銭儲けしようという向きには手間の割に効率が悪すぎるが,一応,Webデザイン特別プログラムを担当している以上,そーゆーめんどくさいサイトを維持するってぇのは自分のスキル維持のためにも必要と考えたのである。お客さんに嫌がられない程度に広告を挿入するセンスってのも大事だしね。
 つーことで,4月~5月にかけてボツボツ作業ができればと考えているが,サボっている仕事が多すぎてこっちに労力を振り向けられるかは分からない。でもまぁ,できなきゃできないで,「昔はワシもこんなことを考えていたんだぜ」程度の話題のネタにはなるから,こうして書き付けておく次第である。

3/9(火) 東京->つくば->柏->掛川・雨後雪

 ひょえ~,疲れた~。おまけに午後からは雪もちらついてきて,どうなることかと思った~。まぁでも,新幹線は数分遅れただけで無事掛川までたどり着いたから,よしとしよう。
 つーことで本日の日程を書いておくと,まずホテルから東大本郷キャンパスに直行して,ワシの(じゃなくてT君の,だが)研究発表をこなす。
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 無視されるかと思ったが,ちゃんと質疑応答があってよかったっす。ま,このテーマの講演もこれで最後だろう。あとはまとめの文書を書かねばならぬ・・・いつになるやら。
 1セッション付きあって,TX経由で筑波大に移動。
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 おとなしく聞いていました・・・ホントだよ。2回質問しただけだし・・・。
 バチが当たったのか,ちょっと相談事も。うーむ・・・どうなりますやら。
 終了後,土浦までバスで出て,JR常磐線経由で柏へ移動し,久々にホワイト餃子を食う。
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 いやぁ,うまかったァ。たまぁ~に食いたくなるのよねぇ。通販で冷凍品を買って自分で焼けばいいのだが,この説明通りに出来る自信がない。油も大量に使うしねぇ。こうして人様に焼いてもらったものを食うことで満足しよう。東京にも幾つかあるようだから,探索しておこうっと。
 ところで東大に来る度に思うのだが,このゴミ箱,壮観である。
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 分別がやたら細かいんだが,部外者にはわかりづらい。もうちっと種類を減らせないのか?
 なんかTwibackrへの送信が失敗している・・・なんで?
 移動で疲れたのでもう寝ます。

3/8(月) 掛川->東京・曇

 どんよりどよどな日。天気予報によると,明日は雨だが,関東地方も山沿いは雪になるようだ。いつものようにジャケット一枚ででかけようとしたが,これはいかんとコートを取りに戻って正解であった。
 出掛けに,せっかく掛川駅構内にできた在来線と新幹線ホームへの連絡通路を使ってみた。階段を取り付けるスペースが無く,上下エレベータを使わねばならないめんどくさい作り。木造駅舎なんぞぶち壊して構わんから,あの狭いホームも含めて全面改装してくれんか?・・・って奴は少数派なんだろうな。ちぇっ。
 そーいや,掛川にもとうとうこんなものが進出してくるのであった。
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 儲かるのかなぁ? まぁ,採算ラインはきちんと計算しているんだろうけど。
 さて,アキバをふらふらしてきたし,資料も一応はできたので内田本でも読みながら寝ます。ちなみに今回は完全自費の有給休暇消化の旅なのである・・・けど,明日発表なのねん。偉い>ワシ 単に研究費を使い果たしたってだけなんだが。

小谷野敦「文学研究という不幸」ベスト新書

[ Amazon ] ISBN 978-4-584-12264-8, \752
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 だんだんこのblogのぷちめれ,マンガ,数学,コンピュータの本を除けば,内田樹と小谷野敦の著作で埋まりつつある。それも当然で,今の時代,あんまし自分に耳障りの良い言論ばっかり読んでいても,それが真実である気が全くしないのだ。TVを見なくなってしまったのも,時間が取れないこともあるが,一部の報道番組やドキュメンタリーを除けば,何だか庶民派を気取った「生ぬるい癒し」的コメントに満ちていて欺瞞的だと感じ始めたからでもある。国債発行残高は世界一,そのくせ少子高齢化の進展も世界一のスピードで進んでいて,社会システム,とりわけ税金の使い道については縮小均衡を目指さねば日本が持たないという状況なのだから,そうそう癒しばっかり求めていても問題の解決には繋がらないのは当然である。
 その点,ネットの動画コンテンツやニュースサイトの情報,個人blogやTwitterでは,玉石混交なれど,結構真実味のある耳の痛い意見がたくさんあって,こっちを見聞きしていた方がよっぽど面白いし刺激的だ。とりわけ愛読しているのが内田樹小谷野敦。ウチダの言論が自省的・メタ的な志向を持っているのに対し,コヤノのそれは実証主義的文学研究の延長線上でひたすら現実的・他罰的という,対照的な論者がこの二人なのである。一般にはコヤノの短兵急な批判文の方が耳に痛く感じられるし,それを武器に盛んにあっちこっちの論者に噛み付いては無視されまくっているようだが,人の悪さはウチダの方が数段上,ウチダ的構造主義に基づく怜悧な文は,時に罵倒よりもきっつい絶望に落とし込むこともある。商売のウマさではウチダはコヤノとは格が違うので,絶望の谷に突き落とすのではなく,谷底を見せつつ,向こう側の「希望」にうまくロープを渡してくれるから,読後感は爽やかである。しかし渡った後には「絶望の谷底」があることをワシらいたいけな読者に植えつけてしまうのである。ま,普通はこれを「達観」と呼んでいるようだけど,ね。
 小谷野敦の言説は,「中庸,ときどきラディカル」という著作があるように,現実を見据えた中庸的なものがほとんどで,理想主義的なところには決して流れない。その分,客商売としては最低なところがあって,「もう少し愛想があっても良いじゃないの」と思わないではない。ファンタジックなメタ的思考は皆無で,「証拠はこれとこれとこれだ,なにか文句あるか」という言い回しが多い。本書でもこれでもかこれでもかというぐらい,文学研究者の実名とその有り様を挙げ,「だからぁ,実態はこんなもんなんだって」という愛想のない記述がひたすら続くのだ。これが有名な「小谷野節」なのである。
 しかし,ワシにはこの小谷野節が痛快なのだ。愛想のない文章は,裏を返せば,地に足の着いた懇切丁寧な記述とも言えるし,何より,メタ空間に逃げないところが潔い。例として,読む人が読んだら激怒しそうな記述(P.103~104)を挙げる。

 要するに,文学部は一流大学(注:旧帝大・早慶クラス)にだけあればいいのである。同じく(注:文学研究のための)大学院も一流大学だけにあればいい。もっとも,本当は,二流大学以下の大学に学んで医者になるだのというのは,人命にかかわるだけに問題なのだが,国民全体に行き渡るほどに優秀な頭脳が存在しないのだから,仕方がない。これは高校や中学校の教師もおなじで,もし一流大学卒の人たちだけが中学校や高校で教えていれば,生徒の学力ももっと向上するだろうが,それだけの量の頭脳が存在しないのだから仕方ない。理工学部とかの「実学」は,さほど頭が良くなくても,工程さえ分かればいいので,二流大学でも,まあ意味はある。

 普段から小谷野の文に接しているワシなぞは,いつもの論が出たなと思うだけなのだが,真面目な人であれば口角泡を飛ばして反論してきそうだ。しかし,三流大学出のワシとしては,教師生活16年の経験を踏まえると,この文章は統計的に見て概ね「正しい」と認めざるを得ないのである。怒る気には到底ならず,むしろ,口は悪いが世の真実を淡々と語ってくれているように感じるのだ。
 本書全体で,小谷野は,大学という場に雇用されながら文学研究を行う人間は少数でいいと主張し,過去から現在に到るまで,文学部における人事や論争のゴタゴタを述べ立てる。ワシの乏しい知見では,たとえ実学的な学部でもこの手の議論や出来事はついて回るし,むしろ「実学」と絡むだけにメンドクサイ出来事は文学部より多いんじゃないかという意見も出てきそうだ。
 その意味で,小谷野の個人的な恨みつらみがドライブして出来上がってきた本書は,何故か,「文学」を「工学」でも「理学」でも「農学」でも「医学」でも置き換えたところで,概ね成立してしまう不思議な汎用性を備えている。多分,これは小谷野の実証的な物言いが功を奏しているのだろう。学問の相違はあれ,大学なんてのは人間がゴチャゴチャとより集まって行われる営みの一つに過ぎないのだから,事例をかき集めてみれば共通部分が多いのは当然と言える。従って,本書は,どんな学問であっても「研究という不幸」はついて回るという,ごく当たり前の「中庸」的なことを主張しているに過ぎないのだ。