6/9(火) 掛川・曇

 曇天曇天。もういい加減梅雨だろうと思ってたら,本日東海地方梅雨入りとのこと。今年はどよどよな,いかにも梅雨らしい気候が続くのかな。
 先週は逃避行動ピークに達し,さて週末に勢いをつけてと思っていたら,土曜日後半からのどが腫れ,日曜日は微熱を出して寝込んでしまった。で,月曜日は史上最悪の体調でヘロヘロ講義を行い,本日になってようやく復帰してきたところ。うがぁ~,論文の手直し~,金曜日の講演準備~,どぉ~しぃ~よぉ~お~。などと書いてある暇があったらやるべきですな。やります,明日から(ダメじゃん)。
 今年もWebデザイン特別プログラム用にPCを買うので,昨年度と同じくHとDに見積もりをお願いする。今年はDの方には「当て馬なので適当で良いです」と言っておいたので,昨年のようなデッドヒートにはならずに済んだのだが,スペック通りのものをきっちり要求金額に抑えてくるところはさすがである。こりゃ,営業戦略ではDには叶いませんな。それに引き替えHの渋いこと渋いこと。こっちが「Dはこんな金額で出してきてんねんでぇ? なしてあんたんとこはこないにたっかいのかのぉ?」とねじ込んでようやく金額を下げてくるのである。やっぱり合併合併で寄せ集め世帯のHに統一的な営業戦略を取れと言うのは難しいのかなぁ。まぁ,あんまり引き下げないようなら,Hを袖にすればいいだけの話。どーせWindowsマシンだしさ。どうやったって扱いは変わりませんって。
 国産メーカー? えーっと,日本にPCを作っている会社ってありましたっけねぇ? ああ,私は愛国者なので,プリンタはCanonとEPSONを愛用してますよ。何か問題でも?
 城繁幸さん平川克美さんの本に噛みついている。なるほど,ワシが城さんの主張に感動する理由が分った気がする。ということで,早速今週末の東京行きの際には平川さんの本を買ってシミジミするとしよう。矛盾している? いや,城さんの主張に感動してガンガンやる奴と,平川さんの主張にシミジミして理性的になる奴と,どっちも拝聴して「包摂」しちゃう奴,それぞれいないと世の中回っていかないってことなのだよ。あ,その前に小林よしりんの新刊も入手しなくちゃ。ああ東京行きが待ち遠しい~。
 本年度のUNIX講義は,やたらに学生さんの出来が良いので,ドンドン先に進むようにしている。だもんで2回分(ひょっとすると3回分)ほど余裕ができたので,PHPとデータベースプログラミングもやろうと画策中。実習で使っているマシンは既に9年~10年目のPentium III PCなのだが,いっかな壊れないので(壊れても修理できていたので),まだVine Linux 3.2を入れたまま使っている。で,何が良いかなぁとちょろっとググってみたら,今更Berkeley DBでもないとすると,SQLiteしかないのかなぁという結論に。Public Domainなのに,今も更新がなされているところがとても素敵だ。データベースがファイルになるので,ホームディレクトリだけで作業ができることがいいね。
 となると,SQLite関数を標準搭載しているPHP5を入れるのが良かんべということで

# apt-get install php5-apache php5-sqlite

として作業を完了。データがふくれるとアクセス速度は格段に落ちるようだが,まぁ,実習で使う程度なら支障なし。さて次週には教材を作ってみますか。
 ボチボチやって寝ます。

小谷野敦「東大駒場学派物語」新書館

[ Amazon ] ISBN 978-4-403-23113-1, \1800
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 本書を読了し,つくづく感じたのは

小谷野先生,フケましたねぇ~!

ということである。もう少し穏当な言い方をすると,「老成した」ということになろうか。いや,ワシもあと七年したらこういう境地に辿り着きたいものだ,と,本気で思っているのである。
 ワシは小谷野に言わせれば三流大学の出であるから,東京大学というエリート様の集う大学のことをワシの経験から類推すると怒られるのかぁと昔は常々思っていた。が,一応学者になって十数年経ってみると,東大出といってもいろんな人がいて,大学出てから十年スパンでがんがん活躍している人というのはそんなにいないということが分ってきた上に,まぁ大学というもののめんどくさい人間関係は似たところがあるんだなぁということも知るようになってきたから,本書に綴られている教員同僚間,師弟間のいざこざについては「あんな感じか」と具体的事例に当てはめつつ解釈してもいいだろうと判断しているのである。で,そーゆー経験を経てから読むと,本書は真に面白いだけでなく,時には我が身に「痛み」が降りかかってきたりして,大変スリルとサスペンスにあふれている「私小説」(特に「間奏曲」以降)として楽しめるのである。
 普通,東京大学と言われて思い浮かべるのは,三四郎池のある本郷キャンパスだろう。こちらは日本最初の帝国大学以来の伝統があって,緩やかな傾斜がある広大な敷地を初めて歩いたときには「明治村(行ったことないけど)みてぇ」と感動したものである。今はだいぶん建て変わっているけど,明治~大正期に作られたとおぼしき古い建物が多く,旧跡マニアなら散歩するだけで楽しめる。
 しかし,東大にはもう一つ,旧一高の流れをくむ「駒場キャンパス」がある。まぁつい最近は「柏キャンパス」なんてのもできたけど,あれは大学院だけなので(悪い意味で)別格である。教養部のある駒場には,ワシは一度しか行ったことがないのだけれど,本郷とは違って,学生さんが多くて賑やかだけど,何だか「ふつ~の総合大学」っぽいなぁという印象しかない。
 本書はその,東大の中心からはちょっと外れているという意味を持つ「駒場」という地名のキャンパスに本拠地を置いた大学院の,「比較文学専攻」という,比較的小さな「学派」の生い立ちから現在に至るまでの歴史を,そこに集った教員と学生(院生)の業績とイベントといざこざを描くことで語っている。「ゴシップ」というにはかなり上品なエピソードが多くて,もっとドロドロした(あ,今の職場にはありませんよ,念のため)話を見聞きしてきたワシなどは,「ふ~ん,やっぱり東大は上品なんだなぁ」と思いそうになったが,まぁ筒井康隆の「文学部唯野教授」を「悪ふざけが過ぎる」と言った小谷野先生の書くことだから,そこそこ抑制が効いているのかなぁ,とも思う。その辺を割り引いたとしても,ふん,やっぱり腐っても(失礼)東大というだけのことはあるな,と改めて認識した私大,じゃない,次第である。
 上品,と感じたのは,描かれているコンフリクトが殆ど学問に関するものだからである。学者なんだから学問のことで議論するのは当然でしょうと考える純粋無垢な方は今時いないだろうが,実際,大学といえども,まぁ普通はどっかの会社と変わらぬ個人的な性癖や思想の違いがいざこざの元になっているのである。ワシはゲスだしエリート大学出身ではないからまぁいいとしても(良くないか?),ご大層な大学出身者だって,あれこれ理屈並べた理論武装は見事だったりするけど,内実はワシ以上のゲスだったりすることも少なくない。学問思想上の衝突なんてのは,あったとしても限られた小数の方々だけで行われるに過ぎない。大体,衝突するほどの業績もないというのが大多数なのである。
 それに比べると,やっぱり東大,特に四天王(芳賀徹・平川祐弘・小堀桂一郎・亀井俊介)のうち,前者の御三家間のコンフリクトは,気性の問題もあろうけど,かなり学術上のまっとうなやりとりが多く,頭の良さってのはこういう所でも分るモンなんだなぁと感心する。文学に暗いワシには内容のことは分らねど,腐っても(しつこい?)東大というブランドを背負っているだけのことはしてきたということは確かだろう。
 本書では,学者としての小谷野の仕事の見事さも際立っている。自分が見知ってきた記憶以外に,おそらく相当の資料を渉猟しているものと思われる緻密な事実の積み重ねがある。内部に詳しい人なら突っ込みどころの幾つかは見つけるのかもしれないが,ワシには隙が見えなかった。あるとすれば,せいぜい小谷野の個人的印象に基づく記述への突っ込みぐらいだが,それも良い具合に練れていて,昔の激しい感情の発露に比べると,ほどよいエスプリに消化している。特に「間奏曲」に描かれている,比較文学専攻に進学するまでの「私小説」は,自分のダメさ加減を自覚した世代の人間なら思い当たることが多くて,「痛がゆい」刺激を与えてくれるだろう。ここらあたりも,様々な議論・軋轢を経てきた故に得た「味」なんでしょうな。これを「老成」と言わずしてなんと言えばいいのだ。47にしてにはちと早いような気もするけど。
 凡人が書いたなら単なる個人の思い出本に堕してしまうものを,楽しく読めるエンターテインメントにも,学問上も無視できない優れた資料にもなっていることを考えると,ワシにとっては現時点での小谷野本のナンバーワンが本書である。「小谷野敦(トン)」という人物の形成を知る上でもお奨めの一冊である。

6/2(火) 掛川->名古屋->掛川・曇

 梅雨入り間近ということもあってか,はっきりしない天候。暑くもなく寒くもなく,でもボチボチ室内にいると汗ばんでくるぐらいの気温になってきた。
 本日は1限目の講義終了後,名古屋ガーデンパレスにて研修会に参加。
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 どーせあれだろ? 免許更新時の講習みたいなモンだろうと内職用のNetBookを持参したのだが,思ってたよか内容が濃かった。つーても一方的にレクチャーを聴くだけなのだが,前座の薬物中毒のオーソリティ研究者(現職は公立大学長)が手慣れた内容を小気味よく語り,2番目の麻薬Gメンさんはイマイチ講演慣れしてなくて少し退屈したが,それでも麻薬の生写真をたくさん出してくれたので勉強にはなった。クライマックスは3番目のお医者さん(肩書きは研究室長)で,まー語ること語ること。そんじょそこらの中堅噺家よりずっとお上手。50分間が短く感じられたほどで,もっと聞きたかったなぁ。最後はNHKエンタープライズ作成の(監修は最初の学長さんだそうな),薬物中毒者が自主運営するグループハウスのドキュメンタリービデオで〆。20分ほどの短いものだが,うーん,これ見ておけば,薬に手を出すことはないだろうという重い内容である。
 一応,中島らもの読者ではあるから,薬物については一通りの知識はあると思っていたが,認識を改めなければならないことも結構あった。箇条書きに書き出してみると
 ・オランダでは大麻が合法というのは嘘。取り締まりを意図的に緩くしているだけで,非合法である。
 ・日本や韓国は欧米に比べて極めて薬物経験者が少ない。台湾は欧米並み,中国は公表されている統計データがない。
 ・薬物に手を出す理由として,社会的な環境は殆ど関係ない。若年者に早期教育を行うことがもっとも効果的であることは,アメリカのデータで裏付けが取れている。個人の意識を涵養することが大事。
 ・一見薬物に見えないような錠剤や洗剤等も麻薬として流通している。毒物が混入していることもあり,その影響による殺人も起こっている。
 ・大麻は同量のタバコの20倍の発がん成分が含まれている。脳障害も起こるが,後年に現れるので認知されにくい。タバコより安全という大麻解放論者の主張は嘘である。
 ・麻薬は脳に障害を起こす。最悪なのはアルコールである。
 ・薬物中毒者は厚生後も自殺しやすい。
というところか。なーるほど,中島らもの書くものが「緩くなっていった」のも当然か。主としてアルコールによる影響なんだろうが,最後は階段ですっころんで死んじゃったモンなぁ。とにかく,関わらないのが一番,と。
 さて,思ってたよりハードな研修だったのでもう寝ます。

諸星大二郎「闇の鶯」講談社

[ Amazon ] ISBN 978-4-05-375699-9, \1048
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 最近,諸星大二郎にハマっている。ここ数年,立て続けに単行本が出るところを見ると,やっぱり人気があるんだなぁと感じる。つーても,ワシが諸星をちゃんと読めるようになったのはつい最近の話で,それまでは,読むことは読むが,それはちょっといやな気分が残るホラーマンガとして,だったのだ。それが今では良い味のファンタジーとして楽しめるのだから,ジジイになるのも良いモンだと再認識させられる。
 そーいや,高野文子の「黄色い本」(講談社)に「マヨネーズ」という短編が収められている。ちょっとセクハラ気味な男が,ちょっと鈍い,でも可愛らしい後輩の女性と結婚するというものだが,この作品に登場するリアルで艶めかしい,そして人権侵害的ニュアンスもある会話の妙は,若い時分には理解できなかったと思うのだ。してみれば,通な方々が褒めちらかしていた作家性の強いマンガの作品の一部が,ようやくワシにもそこそこ理解できるようになってきたということなんだろう。で,その先は嫌みなマンガマニア親父の道が待っているようで,それもまたどうかなぁとは思うが,まぁ中年になるということはそういう老人への通過儀礼的なことが起こるということなんだろうから,それもまた仕方のないことなのである。
 本書の巻頭の「それは時には少女となりて」は,アフタヌーン誌でリアルタイムに読んでいるのだが,まぁこれは普通に面白い純然たるファンタジーマンガである。最後の「涸れ川」も同様に面白い。しかし,親父なワシはこの2作品より,「描き損じのある妖怪絵巻」と,「闇の鶯」が味わい深く,諸星が持つ思想のバランスの良さが現れていて好感を持ったのだ。
 「描き損じ」の方は,極悪非道な先祖を持った名家の現当主とその息子が,妖怪ハンター・稗田礼二郎と,普通に会話をしている。非道な先祖がいたことや,その先祖のおかげで今の家の隆盛があることを率直に認め,それを今も「引き受けている」この二人は,とても全うで常識的な人間として描かれている。
 「闇の鶯」は,本書の一番の読みどころで,約100ページの中編だが,ここに登場する「鶯」は,人間との関わりについて,こういうことを言う(P.184)。

 山を切り開いても ダムを作っても 人間たちが幸せになるなら私は邪魔はしないわ
 私は人間たちが好き・・・ 人間の文化も・・・
 畑も炭焼きも機織りも・・・
 最近のテレビやワープロだって好きよ
 でも人間たちが 間違ったことをして 不幸になっていくのは見たくない・・・

 妥協的というか,神の化身にしては随分と物わかりが良いことですこと,と,若い頃なら憤ったかも知れない。しかし,今の文化的生活を手放すつもりは毛頭ない以上,増えすぎたワシらとしては自然を司る神様に妥協してもらうほかないと骨身に染みて理解できた中年のワシにとっては,至極穏当,というか自然と受け入れられる理屈を諸星は提供しているのだ。「描き損じ」にしても,どんな非道な犯罪者のDNAを受け継いでいようが真っ当な教育と環境があれば普通人に成らざるを得ず,しかしながらそんな「原罪」とは全く無関係と切り捨てることも出来ない,ということをこの年になれば理解できるのである。通な方なら若い時分でもすっと吸収できるのだろうが,この辺の機微は,昔のワシには受け入れられたかどうか,ちょっと怪しい。
 寡作な高野に比べて,諸星は還暦を迎えてもまだ意気盛んというか,自然体で独自のファンタジー世界を描き続けている。この調子で両人とも,中高年以上のおっさん・おばさん向けの,良い意味で「世間ズレ」した作品を描き続けて欲しいものである。

参考文献を明示しない人々

 つい最近,当学教授の最終講義(ワシは聞きに行けなかった)の要録を読んでいたら,地動説に関してガリレオはコペルニクスについて全く言及していない,というお話で締めくくっていた。ふーん,今も昔も人間同士のプライドと功名心のぶつかり合いってのは変わらないんだな,とシミジミ思う。と同時に,参考文献の明示,つまりは先行研究・事例へのリスペクトを表わす,ということに関してはいろんな人が大なり小なり,意図的あるいは過失によって悶着を起こしてきて,今もそれは絶えていないということを考えると,ある程度のコンフリクトを抱えているからこその「文化」なのかなぁという気がしてくる。
 ワシの漠然とした「著作物」のイメージはこんな感じである。まず土台には,多数の人間同士のコミュニケーションという「空気」と,そこでやりとりされる情報という「水蒸気」が不可欠である。その中の特定の個人や団体の熱気が空気の流れを作って水蒸気を集め,「雲」,即ち一つの文章・一冊の本として集約される,と。情報を語る言語は所詮「借り物」(by 糸井重里)であるが,情報そのものだって,元はといえばどっかからの借り物からしか派生しないものである。集めた情報の編み方とか,それを土台として自分なりの積み上げたものに対しては「著作物」として保護しなきゃいけない,という考え方は現代では常識となっているけど,茫漠とした「雲」の周辺にくっきりとした境界線があるはずもない。著作物ををどこまで保護すべきなのか,唾棄すべきなのかということは,文化のジャンルによって恐ろしいほどの幅があり,歴史的な経緯やビジネスとしての価値,果てはナショナリズムまで絡んできて,「こっからここまでを著作物として認める」という明確なラインは引けそうにもない。もし引けるとすれば,権利者同士のぶつかり合いの均衡点を取るしかなく,それとても時代の変化によって変動することは避けられない。大体,本気でぶつかり合うならまだマシで,大方はぶつぶつ言いながらも裁判沙汰にはせず,当事者がそれぞれ勝手な言い分を表明しておしまい,ということになる。こうなると漠然とした,ある程度合理性のある世間的な合意点というものの形成すら難しい。かくして剽窃だの盗作だのという問題は尽きることがなく現れては霧散霧消するか,どっちがいい人とか美人だとかハンサムだとか金持ちだとか貧乏人だとか著名人だとか学歴が高いキャリアがあるまだ商品価値がある,いやもうない・・・などといった要素に引きずられて時には非合理的な世間的空気が作られて終わってしまうもののようだ。詳しくは栗原裕一郎さんの本でも読んで下さいな。全くいやんなってくるから。しかしまぁ,そこで曲りなりにも積み上がってきたものを尊重しなきゃいけないのは言うまでもない。参考文献の明示ってのは,その尊重すべきものの一つである。
 apjさんとこのblogエントリで,と学会がらみの悶着について運営側の唐沢俊一さんの意見に軍配を上げたら,案の定というか,アンチ唐沢な方々が集まってきてちょっとしたボヤみたいになっている。ワシはと学会の関係者でもないし,この悶着については全く知識がないのでどっちが正しいとか間違っているとかは分らないが,どうもアンチ唐沢な方々は潔癖なお人が多いようで,ワシみたいなゲスにはどーにもその言説が「純粋まっすぐ君」(by 小林よしりん)みたいで,生理的に受け付けないんだが,漫棚通信さんの件以来,訴求力のある町山智浩さんが煽ったこともあって,どーも唐沢俊一さんには風向きが悪いようですな。ま,仕方がないとはいえ,随分とまぁにくまれているモンだと感心させられる。憎まれるってのは大物の条件でもあるわけで,ひょっとしてアンチ唐沢な方々ってファンの裏返しなのかと勘ぐってしまいたくなる。
 ご本人が認めた漫棚さんの件以外にも,パクリだ剽窃だと唐沢さんが言われ続けているのは,トンデモ事件コラムとかに参考文献(URL)を明示しない上,引用文を多用しないという書き方に起因しているように思われる。ネット時代なんだから,ネタ元として使っているところには仁義を切るべきだろうし,そうでないなら文献を最後に書いておくとかすればいいようなモンだが,それをしていないのは本人のスタイルなんだろう。実際,学者じゃあるまいし,いちいち文献なんぞ羅列していられるかいってんだ,と開き直っちゃった人もいるんだよね。代表的なところでは「なだ・いなだ」がそうで,ちくまプリマ-ブックス「こころの底に見えたもの」でも,フロイトの学説を紹介しながら文献については明示していない。同じシリーズでも金森修の方はちゃんと巻末に文献一覧があるのとは対照的。なだに言わせると,ろくに読んでもいない文献の羅列は学者が権威付けのためにするもんである,と。その割にはビジュアル著作権協会で人様の著作権の使い方には随分小うるさいのですねとイヤミの一つも言いたくなるが,あんまし唐沢さんみたいに声高な批判が聞こえてこないのは単に売れてないからなのか,それともアルコール依存に関してはオーソリティである医者という立場のおかげか?
 文化的な立ち位置が違うからなんだろうが,特に芸人/職人の世界ではパクリが普通,というと言葉が悪いが,テクニックを見て「盗む」ことはよくあることだ。といってもあからさまなマネでは芸人仲間からは軽蔑されるが,くすぐりや演出を真似するってのは,芸道では普通にあり,あの志ん生ですら,先達のマネと言われていたぐらいである。目の前の客さえ喜ばせておけば,オリジナルかどうかなんて関係ない,瞬間瞬間が重要,という世界では,まずウケなけりゃ話にならない。極端な話,まんまのパクリだって,パクっちゃった方が客を沸かしていれば,それで人気が出てしまうことだって「アリ」の世界だ。ヤクザと言えばヤクザな世界だが,そうやって回っている部分がワシらの世界では今も存在している,ということは事の善悪の判断とは別にして,認識しておくべきだろう。
 昔気質のライターには,文章のリズムが崩れるからと,引用文を嫌う向きがあったらしい。確かに,不用意に長たらしい引用文はちょっと勘弁して欲しいと思う。佐高信の金融恐慌の本がまさしくそれで,もうちっと的確にやってくれと言いたくなったものである。
 引用を嫌い,すべて地の文に押し込んでスムーズな流れの文章を作る,という職人気質は今でもライターさんに残ってたりするだろうなぁとワシは想像しているのである。唐沢さんが以前,東浩紀の文章が下手くそと批判したことがあったが,学者的な文章がライター的な文章に比べて引っかかりが多いというのは,そもそも目的が違うから当然のことだ。何でそんなことで東に突っかかるのか,ワシはとんと理解できなかったが,ドンドン名声を勝ち得ていく東に対する嫉妬と,この職人気質を持つライターとしての矜持が相まってあの批判になったのかなぁと,ワシは勝手に結論づけている。どうも,唐沢さんはアカデミズム的なものとは相性が悪いようだ。参考文献をずらずら書かないのもその辺に原因の一端があるのだろう。
 しかし,芸能プロを経営し,落語会のようなイベントを開くだけでなく,自らも出演してしまう唐沢さんは,かなり芸人的なノリに影響されているし,意図的に芸人的ライターとしての立ち位置を保っているように思われる。だとすれば,ネタの学術的発掘という金にならないことに精力を費やすよりは,ネタは楽に仕入れてうまく裁いて客に出した方が勝ち,という価値観を今も保っていることになる。パクリ批判に対してほぼ沈黙を守っているのは,「へっ,トウシロが外野でギャーギャー言ってても客は気にしねーよ」ということなのかも知れない。そしてその態度が何となく伝わってくると,神経過敏な方々や空気に乗って叩きたい輩が騒ぎ出すのだろう。してみれば,このアンチ唐沢な方々は,実は唐沢さんに載せられているということも・・・あるのかしらん? まー,あちらは結構な経験を積んできたプロデューサーだからなぁ。相当図々しく計算していたとしてもおかしくはない。そーゆー「古狸」みたいな存在には噛みついても取り込まれるだけ無駄であって,遠くで眺めているに限る,というのは,ワシが40年生きてきて学んだ経験則である。
 つーことで突き放す気はないのだ。だって唐沢俊一さんの著作は読んでて面白いところが多いから(最近は町山さんの方が勢いがあって面白いが)。もしあちらがヤクザな「芸人」なら,こちらはもっと無責任な「客」でしかない。少なくともワシという客は,面白いものには金は出すが,道徳を語るだけの社会運動家や街宣車は無視して通り過ぎるようにしているのだ。もちろん「パクリだ!」というご批判はちゃんと受け取って,引用するときにはそっちを使うようにする。まぁ,ワシの商売柄,そうそう使う機会はないだろうけどね。
 してみれば,唐沢俊一という人は,アンチを取り入れることによってさらに使用価値を高めたということになる。無責任な第三者であるワシは,その成果(と悶着)を楽しませていただいて,誠にありがたいと日々感謝しているのである。