論文執筆はまた滞ってしまった。11月下旬に発表を入れてしまったので,それが終わるまでは無理だろうなぁ・・・。何とか年内にはケリをつけたい。引っ越しもないし,12月は頑張らねば〜(何度目だ)。
とか言いながら,それにちらっと関連するプログラムは完成しちまった。我ながら面倒なものを作ったなぁとは思うが,これって一体誰が使うんだか。
圓好さんって知らないなぁ。孤独死ってことは独身だったってことかしらん? ま,同じひとり者として,明日は我が身ですな。健康には気をつけようっと。
ワシが株主(っても二株のみ)になっている某社から,毎年恒例の株主総会の連絡が届く。最近は業績が悪化していて,委任状送付のための切手代にも事欠く有様となっていたが,最近は大手企業との提携がうまくいっており,今年に関しては過去最高益とのことである。もっとも,昨年度は最悪だったようで,毎年のことながら,社長の挨拶は愚痴ばっかりである。
仕入れのために普通社債の申し込みを受け付けているらしいが,まだ目標の1/4しか集まっていないようだ。まぁねぇ,ワシも含めて,株主の皆さんは,初年度の一回を除いて,全く配当を得てないんだから,投資に二の足を踏むのも当然である。さすがに今度は短期投資だから,よもや会社が潰れて社債もパー,という事態はなさそうだが,うーん・・・ワシはパス,だな。
しかし,雇われ社員でいるのと,株主でいるのとでは,考え方が正反対になるもんなんだなぁと痛感する。いくら社員は幸せだと言われても,配当や利息が入らないと株主としてはダメ会社のレッテルを貼りたくなるもんなぁ。人間なんて現金なモンである。あ,現金の話だから当然か。
頼まれていた某原稿を先方に送ったが,一日経っても音沙汰なし。以前にもお試し原稿を送ったけど,内容については全然触れてくれなかったモンなぁ。読んでないのか?
良きにつけ悪しきにつけ,内容がどうなのか,反応がないと書いてもつまらん。まあわざわざ読んでやるほど面白くないってことなんだろうから,次回また書いてくれって依頼は多分ないな。ま,この件はこれっきりってことで。あ,ちなみに内容はこれのダイジェスト版です。
どわーっ,2週前に送った論文原稿に著者履歴を追加するのを忘れてた〜。慌ててその部分を学会事務局に送ったけど,これも音沙汰なし。うーむ一体どういうことになるのか,ちと不安である。そーいや,この学会誌に論文載せるの,初めてだったモンなぁ。慣れないことはやるもんではない(そうか?)。
小生御大から,いよいよ翻訳プロジェクトの成果が印刷に回るらしいので,訳者の略歴を送ってくれという連絡あり。そそくさと送ったが,うーん,これは予定通り,年内に第一巻が出そうだぞ・・・。
つーことで,無事出版された暁にはまたここでご報告致します。ジャカジャカ売れる本じゃないし,せめてWebで宣伝せねば。印税?・・・うーん,訳者全員で分割しちゃったら,振り込み料だけで足が出るんじゃないかしらん? 原稿料だってあんまし期待しちゃいかんよな。しかし初めての著作がこれってのは・・・こんな格調高い本にワシの名前が載っちまって,グレードが下がったらすいません。
さて,目の前に迫った科研費の書類書きに専念しますか。
10/28(日) 掛川・台風一過
台風20号は東海地方の太平洋沖を昨日中に通過して温帯低気圧になった。おかげで本日は台風一過のピーカン晴れ。愛野駅からは富士山のてっぺんがちらっと見えた。本日は職場の学園祭の二日目だったが,天候に恵まれて盛況であった。展示に携わった方々はご苦労様でした。ワシはその間をちょろちょろ回ってビデオと写真撮影をしたのみである。
ところでマンションだが,また引き渡し期日が一月延びてしまった・・・。これで正月を新居で迎える計画はパー。1月下旬に引っ越しという最悪のパターンに突入しそうである。どうも業者の作業が滞りがちになっているようで,思っていた以上に鉄筋組み立てが大変とのことである。・・・んなもん,施工時には分かっていたことだろうがっ! まあ,分譲マンション建築は初めてという業者のことだから仕方のない面はあるものの,ワシも含めた既契約者の方々の忍耐強いことといったらないな。8月引き渡し予定が5ヶ月遅延しているにも関わらず,誰もキャンセルしていないんだから。あの中ではワシが一番のクレーマーのようで,昨日も仕事帰りに受付のおばちゃん相手に一悶着(つーか,ワシの一方的なイチャモン)してきたが,今度こそきっちり期日を決めてほしいよなぁ。
現状は変わらず・・・
それでも一階部分のガレージはほぼ完成した模様である。
姉歯よろしく,「うるさい客にせっつかれてやむなく鉄筋を抜きました」などと言ってほしくはないので,まあ辛抱強く待つしかないよなぁ。しかしいつ出来るんだか・・・。
10/26(金) 掛川->浜松->掛川・曇
どんよりした一日。静岡沖の太平洋上に全然が停滞しているらしい。台風じゃないだけマシだが,湿っぽいのはあんまり好きではない。明日明後日は出勤するので,そのときには晴れてほしいなぁ。
MacBookの仮名漢字変換,我慢できないぐらい使いづらかったので,ATOK2007試用版をインストールして試している。うーん,これは便利。変換精度も高いぞぅ。一ヶ月の使用期限前に,電子辞書付きの奴を一本買っておくか。
そーいや,今日はLeopardの発売日だったな。使い勝手は向上しそうだが,もうUpdate作業が面倒なのでこのままで行く。今んとこ,VMware FusionのWindows Vistaで十分間に合ってるからBootCampの必要性も感じないし。
唐沢俊一さんの盗用問題(ワシは「引用ミス」だと思ってるけど)は決着した模様。う〜ん,前にも書いたけど,やっぱし漫棚さんは,裁判に持ち込むかどうかはともかく,ちゃんと弁護士立てて交渉すべきだったんじゃないのかなぁ。まあ,いしかわじゅんの「鉄槌!」を読むと,裁判で勝ったからといって,必ずしも後味のいいもんじゃないようだが。
全国一斉学力テストの結果が出た。地域差があるとか,学校ごとの格差が明らかになるとかイロイロ言われているが,少なくともテストに出題された基礎的問題が解ける程度の学力がついていることは明らかになった。学力低下論者の方々のご意見を是非聞きたいところであるが,何か聞こえてこないなー。いい機会なんだから,是非とも一席ブッて頂きたいものだ。
ここでは何度も書いているが,ワシは学力低下という現象は学習指導要領の問題と言うよりは,世間の雰囲気による影響が大きいと考えている。物知りというだけでは尊敬されなくなったのはWeb+サーチエンジンのせいだろうし,大体,知性よりは芸術的感性とか情緒の方が重視されるようになっているんだから,アクセク知識を仕入れようという「背伸び」をしなくなってきたのは,まあ当然のことである。
しかし,今回の結果を見ると,いわゆる「ゆとり教育」の成果が皮肉にも裏付けられたと言えるのではないか? 少なくとも現在教えられている基礎的内容はかなり定着していることはハッキリした訳で,これは元々「ゆとり教育」が目指していたものである。
結局,学力低下をうるさく主張していた理工系研究者の方々は,自分らの飯の種が失われていくことを恐れて騒いでいただけなのではないか,と思えて仕方がないのである。ワシもその中の一員ではあるから職場がなくなるのは困るのだが,どうも「学力低下→数学・理科離れ」という短絡的な思考には疑義を持たざるを得ない。池田清彦も言っているが,そもそも我慢強く理系知識を習得しても,企業に就職したら所謂「文系」の上司にこき使われるだけで,技術系として頑張る限り生涯賃金は低く抑えられたまま,という状況では,若者が理系離れするのも当然であろう。一部の技術屋さん達が退職後に会社に報奨金を要求するという動きに出ているのも,金が目的と言うよりは,昔年の恨み辛みが積もっての行動なのではないか,とワシには思えてしまうのである。
そんな状況をほったらかして,「ゆとり教育」を批判するだけで理系離れが止まるはずもなかろう。学力低下の論拠を示した教育学者の精密な調査を深く理解もせず,単純に文科省の学習指導要領の改訂だけで自分らの飯の種が確保できると焦って行動した方々の頭脳こそ,学力低下しちゃってるんじゃないでしょーかねぇ。
では行ってきます。
おせっかいなサーチエンジン
私は大学で数学とコンピュータを教えて日々の糧を得ている者であるが,趣味と実益を兼ねて,自分のWebサイトを借り物のサーバマシン上で運営している。アクセス数でいうと一日1500〜2000程度の小規模なものであるが,しかしその内容を分析してみると,直接人間が読んでいるな,と思われるものより,Webロボット,つまり自動的にWeb情報を収集するプログラムによるものが過半を占めていることが分かる。今や,Webページは人間が直接アクセスするものではなく,Webロボットのようなプログラムが集めたデータを仲介役としてアクセスするものになっているのである。
Webという仕組みが発明され公開されたのは1990年であるが,普通のパソコンでWebにアクセスできるようなソフトウェアが提供されるようになったのは1995年である。いわゆる1990年代後半のインターネットブームはここから始まった訳であるが,まだ20世紀が終了するまではWebページの数も少なく,せいぜい個々のWebページに作られたリンク集というものを通じて情報収集をする程度で済んでいた。1996年にサービスが始まった商用サーチエンジンYahoo! Japanでも,検索機能よりは,人手によってカテゴリに分類されたリンク集の方が利用率が高かったようで,その頃に始めた私の個人ページも,Yahoo! Japanに登録された途端にアクセス数が千単位で上がって驚いた記憶がある。
しかし,21世紀に入っても全世界的にはWebページの数は増えるばかりで,しかもblogサービスのように,Webページを自力で作成する知識がなくても手軽に記事が書け,更新や削除もたやすい仕組みが整ってくると,Webが提供する情報はうなぎ上りに増えていく。こうなってくると,のどかにリンク集を辿っているだけでは,知りたい情報を探すことが困難になる。そこでプログラムによるWeb情報の自動収集が導入されることになるのだが,人手と違って,信頼性のチェックの機構も作り込まなければならない。
ここでGoogleが登場する。もともと研究者の世界では,論文引用数による業績評価という尺度があり,彼らはこれを膨大なWeb情報が張り巡らせているリンクの網の目に適用したのである。この評価方式はいろいろあるが,彼らが最初に導入したのは,「社会的に高い評価を得ている論文からの引用を高く評価する」というものである。逆にいえば,低い評価しかされていない論文から引用されても評価値は低く抑えられる,というシビアな,しかし現実的な方式である。Googleはこの評価方式,即ちPageRank(TM)によって,全てWebページを10段階にランク付けし,このランク順に検索結果を表示するようにしたのである。
これによって,例えば私が書いたblog記事より,大手マスコミの掲示した記事の方が上位に表示されるようになった訳である。「社会的に評価の高い」人(企業)が書いたWebページが見つけやすくなった結果,Googleは利用者の高い評価を得ることになったのである。そのせいもあってか,Google本社のWebページ(http://www.google.com/)は最高のランク10を取得している(2007年10月23日現在,以下同様)。ちなみに,ホワイトハウス(http://www.whitehouse.gov/)も10, 日本の首相官邸(http://www.kantei.go.jp/)は8,私のWebサイトのトップページはランク5である。精進する必要がありますねぇ。
最近はGoogleとau(KDDI)が提携して,ケータイからもWeb情報を検索できるようになっており,この検索結果の順位によって商品の売上が劇的に作用するといった現象も現れているようだ。私もたまにWebページのランクアップ手法(Search Engine Optimization, SEO)等を聞かれることがあるが,このPageRankの仕組みから考えれば,やるべきことは一つしかない筈である。つまり,他の企業,ニュース媒体,blog等で取り上げられる機会を増やすこと,そのためにはその人の本職,その企業の本業において,どれだけ他人の信頼度を上げることができるか,ということに尽きるのである。Webページは費用対効果の高い本業の宣伝としか考えていない方には逆説的な言い方に聞こえるかも知れないが,ランクアップの「王道」はこれしかないのである。
ただ,サーチエンジンを通じてのWebページへのアクセスをきちんと把握する手段があれば(ログ解析等),SEM(Search Engine Marketing)の一環として,その結果からある程度,アクセス数を向上させることはできるだろう。そのささやかな実践例として,私のWebサイトで実際に行ったことをお話ししたい。
最初に述べたように,私のWebページはあまり人気のないものであるが,その理由としては,blogを除いては私の専門に関する記事や論文ばかりで,一般受けしない内容である,ということがあげられる。逆にいえば,その専門分野に絞ってみれば,ランク5というそれなりの評価は得ている訳で,そうなるとそのなかで意外なものが支持されたりすることもある。それが,あるフリーソフトの使い方に関する,たった一ページの短い紹介記事であった。特に深い内容を書いた訳でもないし,他に類似のページがないわけでもない。しかし,私のWebサイト内では常にアクセス数の上位に位置している。なぜここにアクセスが多いのかな,とGoogleでそのフリーソフトの略称で検索してみたら,驚くなかれ,第一ページのトップに私の記事が表示されていたのである。確かに,Google経由で検索されたキーワードにはこの略称が多かったのだ。
そこで,数年ほったらかしていたこのページのテコ入れを図ることにした。目次をつけ,使い方のサンプルも増やし,古かった情報を最新のものに入れ替えた。そうすると,早速効果が表われた。まあランクアップという程ではないが,昨年比で1.5倍のアクセス数になったのである。おかげで,現状で支持されている内容は大事にメンテナンスすべきである,という教訓を得たのは収穫であった。これだけ即効的に効果が出たのも,定期的に巡回してくるWebロボットのおかげであろう。
現在のWebの世界は,良くも悪くもプログラムによって高度に自動化されたサーチエンジンがなくては存在し得ないものとなっている。しかし,その背後には,その仕組みを支持する人間がいて,サーチエンジンを殺すも生かすも,最終決定権はあくまで人間の側にある。コンピュータ技術というと,どうしても非人間的なものと捉えられがちだが,内容を知れば,そこには人間の意思が見えてくるはずである。私にはどうにも近年のGoogleのようなサーチエンジンは,近年絶滅してしまった近所のお節介おばさんのように思えて仕方がない。先に述べた,フリーソフト紹介ページのテコ入れ策も,「ほらほらみんな期待しているんだから,さっさとテコ入れしなさいよ」とケツを叩かれてやらされたような気がしてならないのだ。
小うるさいが,恐ろしく物知りのインターネット界のご近所さん,としてサーチエンジンを付き合っていくのはそんなに悪いことではない,と私は考えている。
インターネット老人
私はコンピュータを使っての計算を専門に研究している37歳の男性大学教員である。37歳と言えば,人間ドックに補助金が出る年であるので,肉体的には中高年の仲間入りをする年齢ということになるらしい。バカにするんじゃねぇ,私はもっと若いんだ,と主張したいのは山々であるが,ズボンのウェストサイズは年々増えているし,目が霞んでディスプレイの文字が判別しづらくなってきているし,何よりプログラミングに没頭して徹夜なんぞしようもんなら,その後数日は疲労が抜けず,かえってその後の仕事の能率が落ちてしまうのだ。やっぱり老けたなぁ,ということを痛感させられる主観的事実が増えていることは残念ながら否定できない。くそ。
「老け」を感じるのは,それだけではなく,客観的な事実によることもある。
例えば携帯電話。既に「ケータイ」という正しいイントネーションを伴うカタカナ単語を操れない時点でジジイなのであるが,私はあれを正しく使えている自信が全くないのだ。
職業柄,18歳から22歳までの若者とお付き合いをすることが多いのだが,彼らのケータイの使い方を見ていると,恐らく財布の次に重要なアイテムになっていると思えて仕方がない。暇が出来ればメールを打っているか,漫画や小説をケータイのあの狭い画面で読んでいたりするし,ゼミで飲み会の日程を決めたりすると,すかさずケータイのスケジューラを取り出してメモを取るのである。たまにでかい声で通話している迷惑な人がいるなぁ,と思ったら同僚の教員だったりする。つまり,ケータイを電話として多用するのは年寄りの証拠で,若い世代は私にとっての(通話機能付き)パソコンのような存在になっているのである。で,私はと言えば,最近やっとメールの文章を片手で打てるようになった,というレベルであって,とてもスピードでは学生達には敵わないのである。
インターネット白書2005(インプレス)によれば,日本のインターネット利用者数は,2005年2月時点で約7007万人であり,そのうち携帯電話・PHSからのみ利用している数は約943万人,パソコンと併用してしているのは約4669万人にも上るらしい。つまり,インターネット利用者の約13%がケータイからのみインターネットを使っており,約66%はケータイからも利用している,ということになる。私個人としては,この約13%のうちどれほどの層が,「インターネット」を意識して使っているのか,かなり怪しいと思っている。パソコン上で見ることのできる「ホームページ」と,ケータイ画面で見ることのできる各種の情報検索サービスが,同じ技術で出来上がっているものだ,ということを大学の情報リテラシ教育では必ず教員が解説していると思うが,どれほどその知識が浸透しているのか,となるとかなり怪しい。
科学技術を,お仕着せのマニュアルに沿って「使う」ことはそれほど難しいことではないし,ましてやIT(情報技術)の世界では,普通の人がたやすく使えることが重要視されているので,ソフトウェアも「さあ使ってください,簡単ですよ」というメッセージを発する外見を纏っていることが多い。もちろんデザインは重要であるし,それがソフトウェアの目的の本質に敵うものであれば,使いやすさを第一に考えることは当然であるが,そうでなければ,まずはどのような仕事をさせたかったのか,それがどのような「原理」でなされているのかを知る必要がある。そしてそれは多くの場合,とても簡単な言葉と常識的な体験から説明できるものであり,英単語のカタカナ発音をそのまま使っているIT用語の羅列が必要なものではないのだ。
例えば,インターネットがこれだけ多くの利用者を抱え,しかも大規模な破綻も起こさずに運用が継続できている「原理」は単純明快で,使用されているパソコンの多くが,通信回線の速度を調節する機構を内蔵しているからである。もちろん,悪意のある利用者が増えればその影響は受けるが,多数の利用者が回線を共有しつつ,遅くても途切れない通信を可能にしているのはこの機構のおかげであり,それ故に,インターネット全体では大規模な破綻を起こさずに済んでいるのである。
だから,単なる利用方法の習得ではなく,原理原則も併せて知ることで,難しげなITの世界も感覚的に理解できるようになり,よりIT技術の利用に対しての認識も深まるんだ・・・と学生諸子の前で力説するのだが,いかんせん「ケータイ」の使いこなしに難儀している自分を振り返ると,「使えない」ことの言い訳めいて解釈されそうであり,そのような意識が全く働いていないとは断言できない部分もあるのだ。こうなると,原理原則論は単なる「インターネット老人の繰言」であって,つまりはこれも老けたという客観的証拠の一つでしかないことになる。あ〜あ,年は取りたくないもんだなぁと嘆息しつつ,ケータイの使いこなしにも精を出す諦めの悪い私なのであった。