何だか蒸し暑くて目が覚めてしまった。9月に入ったというのに,残暑は根強く残っているようである。
今日は防災の日。駿河湾で大地震が発生,という想定で防災訓練が行われるようだ。全く当事者としては胃に良くない設定である。緊急時連絡カードなるものも常時携帯するように配布されており,わしがどっかで何かの下敷きになったりしていなければ,いざその時には職場に駆けつけ,カードに書いてある連絡先に電話をし,生存が確認できるようにしておかねばいけないらしい。自身はもういつきてもおかしくない状況だそうだが,具体的な日時の予測は難しいから,全く待たされる方はもどかしい。早く来ないかな(違う?)。
今日は雑用に追われる一日であった。午後からは企業の方が来訪されて,研究話。SCOの訴訟があってから,Linuxがらみのビジネスからは一端手を引いたということであった。それなりに効果はある訳ね。ヤクザのミカジメ料みたいなもんを請求しているらしいが,はてさて判決はいかばかりか。
注文していた”Revolution OS”が届いたので,作業をしながら流してみる。音楽のセンスがイイし,インタビューしている人選もナイスである。詳細はちゃんと見てからここに書くことにしよう。
で,それを見つつ思いついたのだ。Open Sourceのビジネスってのは技術的には高いレベルを要求されるのだなあってね。
結城浩さんが書かれた固有IDのシンプルシナリオ流に単純化して,例を示してみる。
(1) 企業Aはプログラマaにあるシステムを発注する。
(2) プログラマaは,Open Sourceのパッケージαにコードを付け加えて改良し,パッケージα’として完成させて,企業Aに納品する。
(3) プログラマaはパッケージα’をOpen Source Communityにて公開する。
(4) Open Source Communityから別のプログラマbがパッケージα’を入手する。
(5) プログラマbは「私はプログラマbより安い費用でパッケージα’をメンテナンスできる」と,企業Aに自らを売り込む。
まあ実際には人が作ったものをその人以上に理解して改良できるかと言えば難しいことが多いだろうし,そんなズーズーしいことを平気で実行できる厚顔無恥な輩は少ないだろうから,(5)のようなことはあまりないと言える。んでも
(5)’ パッケージα’をサポートしてくれるプログラマを捜している企業Bが,ツテを辿ってプログラマbに依頼する。
もしくは
(5)’’ プログラマBが,パッケージα’をサポートできる旨,それを求めていた企業Bに自らを売り込む。
ことは枚挙に暇がないし,そーゆー繋がりを通じて,Open Sourceが広がったという側面は見逃せない。
ソースが公開されているってことは,それをサポートする上で,言い逃れが出来ないってことにもなる。勿論土台となるパッケージの出来が悪ければ改良にも限界はあるが,そうでなければ,不具合が直せないのはソースを読み解く力がないか,サボっているためにそれを回避する手段を見いだしていない,ということになる。しかも,ユーザ数は多いから,モタモタしていては自分以外の人間がさらなる改良を施してしまう可能性が高い。Proprietaryであれば,バイナリだけをユーザに渡し,自分の能力の及ぶ限りにおいて,差分パッチをリリースしていけばいい。勿論,あまりにヒドイ不具合があればそのうちライバルが出現して来る可能性は出てくるけど。
してみれば,Open Sourceのビジネスモデルでは,技術スキルが不可欠要素となり,言い訳の効かない世界であると言える。うーん・・・。
8/31(日) 掛川・?
疲れが出たのか,一日中,自宅でぼーっとして過ごす。「凡宰伝」を読んだ以外は,知的活動を全く行わず,洗濯したり自炊したりと生活臭漂う行動で時間を潰す。ちぇーっ,今日で一気に紀要原稿を上げる予定だったのに。ま,時間を取ってボチボチ仕上げましょう。
さーって,今週はFIT2003用の資料作りと,査読論文のデータ作成に邁進するぞー。暫く論文書いてなかったからなあ,ここで一気に二本目が掲載されれば,昨年,本年と二年分の空白を埋めることが出来る。昔,「年に一本はコンスタントに査読論文が出来ないとねぇ」とY博士に言われたことがずーっと頭の隅に引っかかっていて,それが自分の仕事量の目標になっているのである。で,この目標が達成できていないと,どーにも気持ちが悪いのである。その状態がここ二年ほど続いていたから,鬱積するものがあって今一気に解消しようとしているのである。・・・ま,掲載されるかどーかはワカランけどね,まずは書かないと話にならない。頑張りまっしょう。
本日で8月も終わり。今年の夏はどこへ行ってしまったのか。外からは鈴虫の声が聞こえてくる。
岡田斗司夫「恋愛自由市場宣言!」ぶんか社
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-8211-0842-9, \1500
「オンリーユーフォーエバー症候群」から脱却し,「恋愛自由市場」に目覚めた人向けのケーススタディ(第一部 江川達也・大槻ケンジ・森永卓郎・倉田真由美との対談),理論とQ&A(第二部)を語り下ろしたオタキングの新刊。晦渋な記述もなく,200ページを越える分量がありながらあっさり読めた。
・・・んが,しかし,どーもなあ,ホントに著者はマジメに本気で「恋愛自由市場」を信じているのかどうか,かなり疑問に感じてしまうのである。
例えば,男性に対するQ&Aの中で,ギャルゲー好きの童貞オタク男性が,女性に縁がないことを嘆いているものがあるが,それに対する著者の答えは,「同世代の女子大生たちの間では,たしかに価値が低い」が「平均年齢45歳の熟女軍団のなかに行けば,23歳というだけで,あなたの市場価値は急上昇」するというものである。・・・まあ事実と言えば事実かも知れないが,同世代の女性に相手にされない悩みに対するマジメな回答とは言い難い。それならいっそ「救いようがないから諦めなさい」といってくれた方がまだすっきりする。私なら「数は少ないが,貴方のようなキモイオタクでも相手にしてくれる,美人ではないかもしれないが同じくオタクな女性をしかるべき場所で見つけ,恋愛のスキルを高めなさい」ぐらいのアドバイスはする。
第一部の対談は,著名人の恋愛観が読めるので価値はある。が,それ以降の記述には,人生を左右しかねない「恋愛自由市場」という大命題を扱っていながら軽薄さが感じられ,「あんた一体どこまで本気で語っているの?」という疑念が晴れなかった。大体著者自身,形式上は離婚していながら,実質的には普通の家庭をきちんと営んでおり,ラブ度もセックス度もそれほど高くなさそうである。そーゆー「普通の人」が「恋愛自由市場」を語るってのは,どーも,自身の経験が薄い分,軽くなっちゃうのではないか。それを埋め合わせるため,第一部でどちらの度数の高そうな著名人を引っ張り出しているのだろう。しかしこれも,実際は江川達也を除いてそれ程でもないようで,成功しているとは言い難い。
・・・とまあ,徹頭徹尾批判的なことを書いちゃっているが,それは多分,わし自身が恋愛なるものに興味がない,ということが原因だろう。わしはそれ程ワーカホリックではないが,それでも女性から「仕事と私とどっちが大事?」と迫られれば,迷わず「仕事」と答える(つーか,そう答えてしまったのだ,実際(笑))。まあねぇ,著者のように「恋愛」でメシが食えるなら兎も角,わしみたいな一市民は「仕事」しなければ日干しになってしまい,恋愛どころではないのである。勿論,その代償として,ある日アパートの一室で腐乱死体となって発見される末路を辿るぐらいのことは覚悟している。それがイヤで,ツマやコドモに看取られて安らかに死にたいと念願し,そのために「恋愛」に走ろうという向きには・・・まあ,本書はまるっきり向いていないな。むしろ,そーゆー人が努力して結婚した結果,うまくいかずに別れてしまった,その原因は何だろう・・・と考える時の手引きとして読むべきものである。
中島らもは恋愛を,避けようのない病に例えていたが,わしの見る限り,恋愛をするにも才能が必要で,それがある者だけが病にかかることができる。そして罹患した者が純愛至上主義に毒されたあげくの果てに「恋愛自由市場」・・・ですか。わしみたいな恋愛不自由者にとっては,「楽しいこともあるんだろうけど,しんどそうな世界ですなあ」と嘆息するしかない。さて,仕事でもしますか。
8/30(土) 掛川->東京->掛川
朝方は寒くて目が覚めた。扇風機を付けっぱなしにしていたためである。もう秋の風が吹いているのを忘れて油断してしまった。
いつも通り,八重洲ブックセンター本店と書泉ブックタワーを回って福澤さんが一名行方知れずとなり,捜索むなしく諦めて泣きながら大師匠を訪ね,慰めてもらう。
用事が済んで,大師匠と一緒に喫茶店に入ったら,一つテーブルを置いて座っていた老夫婦が口げんかをしているところであった。ダンナの方は90歳を越えているようで,こちらも80は優に超えていると思われるツマが,自分の留守中に勝手に銀座に出かけたことを口汚く非難していた。ダンナを「ボケジジイ」呼ばわりするツマも大したものだが,それを黙って聞いていないダンナの反論も素晴らしく,最後はツマからハンドバックでぶったたかれていた。こういう商店街の喫茶店という公の場でぶつかり合う夫婦はDVとは無縁である。
DVとは,加害者が精神的もしくは肉体的にものすごく優位にあることが原因で被害者が一方的に痛めつけられる現象を指す。加害者の外面が完璧で,被害者も自らの醜態を人前に晒すことを厭うようなら,それが表沙汰にならないことも多いだろう。全く陰険極まりないことであるが,バブル期に朝シャンなるオシャレ信仰が蔓延して以来,「見栄えの良さ」を至上命題とする風潮が一般的になったことで,必要以上に家庭内のみっともなさを隠すようになってしまったことも影響しているのではないか。
公務員も教師も建前上,誰よりも身綺麗であることが世間的に要求される商売であるが,それ故に自らのみっともなさをさらけ出せなくなっているように見える。そこを,クビにならない程度にうまく小出しにすることは,自分の精神を正常に保つ上でも,公にサービスする上でも必要なことであり,とんでもない不祥事を起こしたりするのはそこがうまくいっていないのが原因ではないか。
この夫婦がどうなるのかと観察していたら,ツマが5分ほどダンナを置いて買い物に出かけた。で,戻ってきたツマがダンナのために買ってきたものを見せた途端に仲の良い夫婦になってしまい,ダンナは妻の手を握らんばかりにしてありがとうを連発していた。その感情の起伏の激しさに,わたしゃ,やけに乳臭いカフェオレをすすりつつ,内心拍手を送っていたのであります。
帰りの新幹線では小谷野敦大先生の単行本を貪り読んでいた。いつもながらのコヤノ節は,やっぱり新書の薄さでは発揮しづらいのかしらん?
8/29(金) 恵那->掛川・晴
ワークショップ二日目になって,少しは晩夏らしくなってきた。マジメに勉強し,帰りは岩村城趾を見学して帰宅。
帰宅途中に職場によって,runさせていた結果を見る。よしよし。ちゃんと出ている。安心安心・・・と思っていたら,clusterのうち一台が止まっていた。電源がダメになってしまったようなので,切り離して,もっとでかい次数の問題をrunして帰宅。ガンバりゃなんとかなりそうね。
疲れたので今日はこのぐらい。明日は東京なんだよぉ~。