倉多江美「静粛に、天才只今勉強中!(全11巻)」希望コミックス

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 何せ絶版長編漫画であるから,今更ISBN番号を書いても,Amazonへのリンクを張っても仕方がないので,復刊.comへのリンクのみを示しておく。書誌データはこちらのページがよく整っているので参考にして頂きたい。ワシも一揃い持っているが,何だか人をおちょくったような表紙で,デザイン的には見事だが,フランス革命という激動の時代を活写している歴史漫画の力作として見てもらえないのではないかと一抹の不安を感じてしまう。まあその恬淡さ,ユーモラスさが倉多江美の持ち味なんだから,仕方ないか。
 フランス革命といえば,絶対王政を打ち倒したかと思うと,多数の王族・貴族・政治家を断頭台の露と消し,ナポレオンが皇帝に成り上がって没落した挙句に,またブルボン王朝が復活する,というややこしい経緯をたどった世界史上のターニングポイントとなった事件である。映画や文学の題材としてはもってこいで,本国フランスではいわずもがな,日本でもナポレオンやロベスピエールの評伝がいくつか出版されているし,漫画にもなっている。ワシは仕事柄,数学者に興味があるのだが,ラプラス,フーリエ,ダランベール・・・と今もその名が残る定理を多数残した数学者が多数輩出されたのもこの時代であり,自然とその時代状況にも興味を持つようになった。
 しかし,数学者の評伝を読むと,ラプラスとフーリエの評判はヒドく悪い。政治的立場をコロコロと変えて社会的地位を維持したことが悪評の原因(ラプラスは政治家としての能力がなかったことも原因)だが,しかし,これだけ激動した時代に,しかも学問の自立なんて概念のない当時,自身の研究活動に支障のない範囲の経済的生活を維持しなければならなかった彼らが,その時その時の権力者に擦り寄るのはやむを得なかったのではないか,とワシは同情してしまうのである。むしろ反抗し続けて生き抜く人間の方が少数派であったろう。阿諛追従こそ人の常,と思うのである。そして,どーせ権力にへつらうのなら,徹底してやった方がいいではないか,とワシは考えてしまうのである。
 で,その時代をそれを実行して,まんまと生き抜いた大物政治家が二人いた。一人はタレイラン,もう一人はフーシェ。片方はナポレオンの下で大臣を務めながら,ナポレオン没後のウィーン会議まで抜け抜けと出席し,片方はロベスピエールの片棒を担ぎながら彼を断頭台へ送り,ナポレオンをも恐れさせる秘密を握る警察大臣として活躍した。ま,最後は神様に懺悔しちゃうんだけど,それも神様という権力に擦り寄ったと言えなくもない。
 さて,倉多江美である。熱血とは正反対の白い絵を描く,独特の画風を持つベテランであるが,その彼女が今は亡き(もう復活することはないだろうーな)コミックトムから長編漫画の依頼があった時,フランス革命を描こうと思ったのである。で,自分は誰を主人公にしてこの激動の時代を描くべきか,悩んだはずである。ナポレオンは論外。貧乏子沢山のド田舎島出身者の努力家軍人なんて主人公にしたら暑苦しい。やっぱり恬淡と権力と付き合ってきた政治家がいい。でもタレイランは艶福家っぽいから脂ぎっていて合わないな。フーシェは痩せぎすで警察大臣,陰険で素敵,やっぱりこれにしよっと(想像で書いてます為念)。でも最後は駄目ね。政治家は最後まで風見鶏じゃなきゃ。引き際も大事,食えない古狸は最後も抜け抜けと引退して・・・と,フーシェをモデルにした「コティ」という人物を創造したのである。したがって,本書はコティさんという架空の政治家の周りに,フランス革命の主要を配置した大河歴史ロマン非熱血編,ということになる。
 コティさんは修道院のセンセーから,国民公会の議員となり,ロベスピエールの手伝いをしたかと思うとテルミドールの反動の首謀者となり,さらにその反動の余波で自分まで追いかけられる羽目になる。その後,身を隠してほとぼりの冷めるのを待ち,伝を頼ってナポレオンに取り入る。そこで警察大臣なり,時には臨時内務大臣まで勤めるまで信頼を勝ち得るのである。その間,お金持ちのお嬢さんを娶り娘を授かるが,ロベスピエールとの権力闘争の最中に,娘も夫人も病のため亡くしてしまうというエピソードも描かれる。善悪という基準を超えて,盛者必衰の世の中をあるがままの運命を受け入れつつ精一杯生きていく,というコティさんは,ワシにとってはかなり身近な人物に思えるのである。無論,頭は切れるし,風向きを読む感覚に優れているから,そういう生き方ができるわけで,誰もがコティさんになれるわけではない。倉多はその辺りもシビアに描いている。
 歴史は馬鹿と熱血が主導して活動することによって,彼らが意図しない形に結晶化したものである。熱血馬鹿になれない,なりようもない大多数の人間にとっては,ある種のパーツとしてその結晶の中に組み込まれるしかない。しかし,パーツにはパーツとしての自由意思というのが厳然としてあり,熱血馬鹿の愚かさも偉大さも,その自由意志によって唾棄されたり愛されたりするものである。コティさんは明らかに賢いパーツの一つであり,その活動が自由奔放であるが故にフランス革命の貴重な語り手たり得ている。その活動そのものがエンターテインメントとなっている本作品は,ワシにとって歴史漫画の,間違いなくベストワンなのである。