[ BK1 | Amazon ] ISBN 978-4-309-40834-7, \560
先日,浜松で開催された立川流家元・立川談志の独演会に行ってきた。チケットは数ヶ月前に入手していたが,独演会当日まで,実は少し不安であった。
家元はまだ元気だとはいえ,御年70を越えている。家元の落語を最後に聞いたのは2002年3月だったが,その時は「五人回し」を一通りやった後で,自分の落語の講評を始めたのに面食らったものだ。最近の家元の落語は抽象絵画のようだ,というのは唐沢俊一の評だが,この独特のスタイルは確かに「芸術」の域に達していると言えると同時に,ワシのような素朴かつ保守的な,ふつうのスタイルの落語を聞きたい客にとっては難解な「抽象絵画」のようなものになっているとも言えるのである。
今回聞いた家元の落語は,更に抽象絵画に近づいていた・・・いや,もうこれは「抽象」そのものである。中入りを挟んで二席やったのだが,一席目は先頃引退を表明した圓楽の批評をした後で,世界のジョーク,それもかなりキツイのからハイブロウなものまでをマシンガンのように乱射する。二席目は少し短めの「らくだ」だったが,割とふつうに演じているな・・・と安心していたら,下げの後,また落語の批評が始まったのである。それはいいのだが,家元が尊敬する志ん生のイリュージョン的くすぐり,「へびが何でへびって言うかというと,なんてこたぁない,あれは昔,「へ」といったんですな。「へ」ですから,「びっ」ていう・・・だから「へび」」,で大爆笑を取ったかと思う間もなく,切々とした人情を語り出す。笑いの天井から悲しみの谷底へ突き落とされるような感覚に陥って戸惑い,自分の反応の鈍さをつくづく思い知らされた。「俺は年寄りの慰み者みたいな芸人とは違うからな」という言の通り,確かに「今」を感じさせるものになってはいるものの,家元が褒めちぎる弟子・志の輔のオーソドックスな感情表現とは正反対の難解さは,ワシにとってはちょっと縁遠いものかな・・・と,独演会開催前に抱いていた不安の一部が的中し,複雑な思いで独演会の会場を後にしたのであった。
何故長々と落語の話をしたのかというと,本職イラストレータ,たまーに漫画家の本秀康の傑作を集めたこの「アーノルド」を読了し,家元の落語を聞いた後と似た感想を持ってしまったからなのである。
本(もと)のマンガ,特に本書に収められた短編は,いずれも同じ特徴を持っている。
まず,作品の舞台やキャラクターは,乱暴に言うと「ガロ系」,これは杉浦茂のキッチュさと共通するものがある。脳が6個ある六頭博士や,金星人の金子君や伝吉,50人の息子がいる岡田幸介・・・等々。奇妙奇天烈な奴らばかりが登場する。
しかし,ストーリーで展開されるのは,とてもベタな感情表現だ。自分が作ったロボット・アーノルドに愛情を抱く六頭博士と,とてもいい奴なアーノルドとの心の交流の切なさ,岡田幸介が50人の息子を持つに至った経緯,山田ハカセの作ったロボット・R-1号がスクラップにされるまでの心の揺れ・・・,キッチュなキャラクターたちがいるために誤魔化されるが,一昔前のストーリーマンガには当たり前にあった「感動」がそこにあるのだ。
じゃあ,感動ものとして読むことが出来る作品なのかというとさにあらず。最後のどんでん返しは見事であり,シニカルでもある。杉浦茂をもっと緩くしたような可愛い素朴な絵柄であっても,大人の鑑賞に十分堪えうるものに仕上っているのだ。
しかし,やはりマンガに対しても保守的なワシは,笑うべきキッチュさと,感動すべき表現とが混在したこれらの作品に対して,どのような感情を抱くべきなのかがよく分からないのである。面白いのは確かだし,ストーリーや場面作りは今風だから,間違いなく「今」の作品なのである。なのであるが,もしかすると先を行きすぎているのかも知れないのだ。そう,この方向で進化していくと,家元落語に通じる「抽象」性が強まってしまうのである。今でもワシにはその香りが感じられるが,本書レベルであれば,まだ純粋に感動マンガとして,当方が幾分か努力すれば,楽しめるのである。
うーん,ワシも年だな,と思うと同時に,本のようなマンガが広まっていくことで,日本のマンガも変わっていくのだろうな,と少しセンチメンタルになってしまうのであった。