小谷野敦「リチャード三世は悪人か」NTT出版

[ Amazon ] ISBN 978-4-4167-4, ¥1600
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 日記にも書いたが,「日本の有名一族」「日本売春史」「リチャード三世は悪人か」と,今年の秋は小谷野敦出版ラッシュである。まあ本人は「内田樹ジュ程ではない」と言うかもしれない。しかし,内田先生の方は対談本・エッセイ・講義録が殆どであるから,呼吸するようにblogを書き続け,講義をこなし,気の合う相手と喋っていれば,優秀な編集者の助力の元,次々と本が出るのも不思議ではない。それに対して小谷野先生の本は,資料を自力で集めて読み込んで分析してまとめる,というものであるから,手数が掛かっているという点では内田先生の比ではないだろう。ワシは両先生の書いたもののファンであるが,内田先生はタレント性で売っているのに対し,小谷野先生は,学術論文を執筆するという古典的な意味での学者としての態度を捨てていない,という違いがあり,その両方に魅了を感じているのだが,ワシも一応学者の端くれのつもりでいるので,その職業意識としては,この出版ラッシュの勝負,小谷野敦に軍配を上げたいのである。
 で早速この3冊のぷちめれを,と思ったのだが,正直言って「有名一族」の方はWebにも類似のものがあり,感心しなかったのでパス,「売春史」は年末のエロ特集に取っておく必要があるので先送り。従って,今回は残った一冊,「リチャード三世は悪人か」を取り上げることにする。
 ワシがシェークスピアの戯曲「リチャード三世」を初めて見たのは,仲代達矢率いる「無名塾」の公演である。確か,仲代の妻・隆巴(宮崎恭子)が逝去する前の・・・とパンフレットを確認したら違った。追悼公演でした↓。
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 この公演の演出をしている途中で宮崎は亡くなったらしい。しかし作品の方は,悪逆非道なリチャード三世に臆病さと悲哀を盛り込んだ仲代の演技力と,宮崎の分かりやすい演出によって,演劇素人のワシでも楽しく観劇できるものであった。
 で,このパンフレットには,小谷野も参照している森護「英国王室史話」からの文章が掲載されている。それによると,リチャード三世は取り立てて容貌が悪かった訳でもなく,悪逆という評判は,プランタジネット王朝最後の王を打ち倒してテューダー王朝を創始したヘンリー七世の意向によって定着した,と述べている。まあ,ドラマはドラマ,事実はそんなモンだろうとワシは納得していた。
 しかし,リチャード三世についての論争はイギリスにおいて延々と続き,20世紀に入ってからはミステリーの題材として取り上げられる程だったという。この議論の概略を小谷野は様々な参考文献を渉猟し,引用しながら本書において解説している。ワシはここんとこを読みながら,「邪馬台国論争みたいだな」と思ったものだ。
 さて「リチャード三世は悪人だったのか?」という疑問に対する結論は,本書を読んで確認して頂くのが一番だが,「中庸」を重んじる小谷野の導いたそれは,至極穏当なものである。大体,大虐殺とか大圧政を行った場合を除いて,権力者というものは大概似たり寄ったりの悪辣さを持っているものだろう。そもそもその程度の普通の権力者の「善悪」を議論すること自体,無意味なことなのではないかとワシなんかは思う。政治を司る人間に対する評価は,その後の歴史の中で,善悪とは別の結果論としてしか意味を持たないのではないか。
 本書ではリチャード三世以外のシェークスピア劇「マクベス」「リア王」「オセロウ」についての論考も納められており,これらは全て「元ネタ」があることを,これもまた文献からの引用を交えて述べられている。まあ学問的には常識に属することなのかもしれないが,文学に暗いワシには感心するところが多かった。
 帯にも取り上げられている「シェークスピアさん,盗作です!」という文句は,これらの元ネタの存在を明らかにしている部分のものだが,だからといって,シェークスピアのドラマ作家としての力量が疑われる,ということにはならないだろう。今だって,テレビや映画・演劇には「原作」があるのが普通だし,シェークスピアの時代はそれをクレジットしないのが普通だったというだけのことだ。原作に比して面白くない作品はゴマンと存在する訳だから,今でも盛んに上演されているシェークスピア作品は総じて優れている,ということは疑いないことなのである。そして,優れているからこそ,「リチャード三世」は論争の的となり得たのである,と小谷野は書いている。
 そういう意味では,本書の一番の目的は,シェークスピアの偉大さを改めて喧伝するというものだったのかなぁ,と思えてならないのである。

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