主婦感覚って奴は・・・

 2007年年末,チャンネル数減の圧力を逃れたNHKは,2年ぶりにBSマンガ夜話を復活させると共に,伊丹十三の映画特集を組んだ。既に民放・地上波では宮本信子主演の映画は大概放映されているのだが,腐っても国営放送,コマーシャルによる中断がないとあれば,録画用としては最適なのである。とゆーことで,我が家のDVD+HDD録画装置は2008年の正月を迎える時には「伊丹ボックス」と化す予定である。・・・その前にもうちっとHDDの空き容量を増やしておく必要があるのだが。
 ワシが見た伊丹映画を好きな順に並べると,次のようになる。
1.タンポポ
2.マルサの女2
3.マルサの女
4.お葬式
5.マルタイの女
6.大病人
未視聴なのは「静かな生活」「あげまん」「ミンボーの女」なのだが,今回の特集は「〜の女」シリーズに限られているので,ワシにとって初体験となるのは「ミンボー」だけである。
 あれ? もう一本足りないんじゃないの? とお思いの方は,結構な伊丹映画通の方に限られるのではないか。そう,ワシは確かに「スーパーの女」を映画館で公開早々に見ている。しかし・・・ハッキリ言って,この映画,伊丹十三にあるまじき「超駄作」であって,順位付けすれば7番目に位置するのは確かだが,ワシにとっては,ランク外,という扱いをすべきものなのである。
 この映画は,とある住宅地でスーパーを営む男(津川雅彦)と,その幼なじみのバツイチ女(宮本信子)が主人公で,この二人が,最近の食品偽装問題の主役になりそうな悪徳スーパー(伊東四朗が経営者役)に対抗すべく,「主婦感覚」と誠実さを売り物として対抗していく,という物語である。
 当時,まだ20代のワシが見ていて思ったのは,演出とストーリーがグズグズに生ぬるいということだった。「マルサの女」「同2」で期待していた緊迫感は皆無,「タンポポ」における大時代的なケレン味と文人趣味も抜けており,まるで炭酸と果汁を抜いた,甘味料だけの清涼飲料水を飲まされているような映画だった。ま,今見ればそこそこ楽しめるかも知れないが,少なくとも公開当時のワシの率直な感想は,そのようなものだったのである。そして特にワシをいらつかせたのは,宮本信子が連呼する「主婦感覚」という単語だったのだ。「そのナンとか感覚とやらは,「それだけ」のものなのか?」と。
 学校出てから15年(これは「マルサの女2」に出てきた歌の文句),そろそろメタボ体型を支えきれなくなった腰骨が悲鳴を上げるお年頃になったワシは,同じ年数をひとりものとして過ごしてきた。ズボラな男が大抵そうであるように,ワシも最初は外食とコンビニ弁当中心の生活を送ってきたのだが,カロリー量と味付けが気になるようになってからは,少なくとも朝食はかならず自炊したものを食するようになっている。
 そうすると自然,冷蔵庫にある食材を中心とした生活を送ることになり,毎週末には近所のスーパーで大量の食材確保を行う必要が出てくる。そうすると必然的にそこで購入するものの値段・新鮮さには敏感になってくる。ワシの近所には3つの民間資本のスーパー(もう一つ農協Coopがあるが,ワシは生協アレルギー持ちなのでパス)があるのだが,このうち地元資本のKスーパーは価格面で一番お得ではあるものの,生鮮食料品の質に難があり,残り二つの鉄道系資本のチェーン店は,価格面で少し高めだが質はよい,という特徴を持つ。こうした特徴付けが出来るようになったのはスーパー通いの結果,身についた感覚のおかげだが,これを単純に「主婦感覚」と言ってのけてしまうのは,何か違う,という気が,「スーパーの女」を見た当時のワシも,今のメタボ中年のワシも,している(た)のである。スーパー通いによって身についた感覚全体を「主婦感覚」と定義するとすれば,この主婦感覚,もっと複雑なものを内包しているものであり,正確に言うなら,ビンボーしみったれな人間が自然と身につけざるを得ない,傲慢さと諦めとバカさ加減をない交ぜにした知識体系というべきものなのである。
 食品偽装問題が騒がれるようになる前から,小売りスーパーで扱われている肉や魚,野菜類に関してはかなりの「偽装」が行われているという報道があった。ワシが知っているところでは,TBSの報道特集で扱われていた「タラバガニ」の問題がある。「タラバガニ」として売られているもののうち,かなりの割合で「アブラガニ」という別の種類のカニが混じっているようだ,という報道であった。他にも産地の偽りは肉にも魚にもあるという指摘がある。また,ワシの職場で遺伝子解析の専門家の方の話を聞くと,魚でも野菜でも,遺伝子レベルで解析すると本物ではないものが結構混じっているらしいのである。
 もちろん,偽装をしてはいけないことは当然であるけれど,翻って,じゃあ,毎日の食い物をスーパーで購入するほかないワシらビンボー人どもに,「本物」を見分ける五感が身についているかというと,それははなはだ心許ないのは確かだ。つーか,DNA解析しなけりゃ分からんような代物をどーやって見分けるのさ,とワシらとしては口をとがらせてぶー垂れるほかないではないか。内部告発やInternetの普及によって,不正に対しては昔より厳しい監視の目が及ぶようにはなっているのだろうし,トレーサビリティの重要性は今後も増すであろうが,しかしラベルの張り替えぐらいで利益を増やせるという誘惑に対して超然としていられる人間がそれほどいるのか? と考えると,この手の偽装を皆無にすることはできないだろうと思うのである。
 それに,仮に偽装が皆無になり,全ての食い物の値段がコストに応じたものになっていたとして,ワシらがそれに基づいて「高いブランド品」を買うようになるわけではないのだ。自らの懐具合と,ブランド品が持つ「魔術」を勘案して,高級品と低級品を買い分けるのが普通だ。衛生や健康に即時的な問題が生じるという事態でもない限り,財布の中身と精神的な満足度を秤にかけて日々必要な物を得る,というのが庶民であり,「こんな値段で本物のタラバが買えるわけないよなぁ,どーせアブラガニだろうけど,アブラだって結構うまいし,今日の所はこれにしておくか」というよーな諦観を伴った合理性に基づいて培われるのが「主婦感覚」というものの正体なのである。
 ワシが「スーパーの女」で連呼されていた「主婦感覚」は,それが内包する一部の正義感を強調するためだけに使用されており,それを聞いていたワシは「何か嘘くせー」とカチンときていたのであろう。映画を成立させるためにはそーゆー狭義性も「アリ」とは思うが,それを「アリ」と思わせるにはもう少し演出やシナリオ上の工夫が必要だったのだ。インテリだった伊丹にそれが理解出来ていなかったとはとうてい思えず,恐らくはマーケティング上の戦略として,甘ったるい娯楽映画は主婦向けには行けると考えての映画だったのだろう。
 しかしそれは「主婦感覚」を舐めていた,と言わざるを得ない。そこには「騙されていることを意識しつつもそれを楽しむ」という重要なファクターが抜けていたのだ。エンターテインメントと銘打っているのだから,むしろそちらを重視すべきであり,お気楽な専業主婦が「私向けの映画かな〜?」と見に行ったらトンでもなかった,というものを作るべきだったのである。そして,もしその専業主婦が本物の「主婦感覚」を身につけていたならば,絶対に「面白かったな〜」とウキウキして映画館を出,家でダンナに「こんな映画をみちゃったのよ〜」と報告したはずなのである。興行的には不人気だったというのもむべなるかな,なのである。
 主婦感覚を舐めてはいけない。伊丹十三の不幸は,このことを見誤ったあたりから始まったのではないか,と思えて仕方がないのである。