鹿島茂「乳房とサルトル」光文社知恵の森文庫,同「神田村通信」清流出版

「乳房とサルトル」[ Amazon ] ISBN 978-4-334-78496-6, ¥619
「神田村通信」[ Amazon ] ISBN 978-4-86029-218-8, ¥1600
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 この年末から正月にかけては鹿島茂の本を楽しませて貰った。日本では希有な体力と人気を誇る書き手についてワシが今更あれこれ言う必要はないのだが,自分用のメモとしてこの2冊を読んで感心したところをワシなりにまとめておかねばと思ったので,このエントリを立てた次第である。鹿島茂の読者である方にとっては役に立たない文章になるのは間違いないので,ま,適当に読み流して頂きたい。
 一応,大学教員という世界に身を置いてぼちぼち10年になろうかという経験から言うと,学者として優れている教員は,教育者としても優れているし,学内の雑用(と呼ばれているが,組織としては不可欠な手続きが大部分)においても手腕を発揮することが多い。逆に言えば,学生から総スカンを食らうような講義しかできない教員は,学者としても疑問符を付けられることが多く,組織人としての仕事もろくすっぽ出来ない,ということである。ワシ自身はもちろん後者に属するダメ教員であるが,鹿島茂は間違いなく前者の代表格なんだろうと思える。ま,こんだけ各種媒体に文章を発表していてどこに組織人としての仕事をする暇があるのかな,とは思うが,そういう仕事をやらねばならないとなれば,馬車馬のように片付けてしまう筈である。
 これはつまり,体力の違いという奴である。古谷三敏の傑作漫画「寄席芸人伝」では,体力のない落語家がマラソンに勤しんで芸を立て直すという話が出てくるが,これを基礎付けるものとして,ベテラン落語家がある日本の小説家(誰かは不明)から「ロシアの小説に長ぇのが多いのは,体力が違うからだ」という話を聞いた,ということが紹介されている。人間の脳は他の哺乳類と比較してもダントツにエネルギーを費やす部位になっているために,それを下支えする他の器官が丈夫でないと旺盛な頭脳活動を維持できない,ということは,言われてみれば当たり前のことである。そして,活発な頭脳活動が出来れば体力もあり,体力があれば他の肉体活動もこなすことが出来る訳である。
 「乳房とサルトル」は文藝春秋の「オール読物」に連載されていたエッセイをまとめたものだが,これは単なる雑学エッセイではなく,知識の正しい使い方を踏まえたプチ論文集になっている。よくもまぁこんだけ大量の本を読み,その内容を正しく把握した上で,既存の知識をくみ上げて一つの仮説を惜しみなく開陳できるものだと感心する。
 例えばタイトルに挙げられている「乳房」は巻頭のエッセイ「巨乳 vs. 小乳」から来ているが,このエッセイでは,現在日本の巨乳ブームというものを長い歴史的スパンから俯瞰してみると,これも一つの文化現象として位置づけられるという事実を知らしめてくれるし,「サルトル」については,「マロニエの木の根っこの会」(P.196〜204)において,有名な「嘔吐」というものがサルトルの植物嫌悪に由来するものではないか,という仮説を多くの事実を踏まえて論証している。トンデモに流れず,具体的な事実を踏まえて確実な論証の道を教えてくれるというエッセイは,優れた学者が持つ凄みを教えてくれるという意味で貴重なものであるが,それを長年続けているのだから呆れてしまう。一体全体どっからその活動を支える「体力」が出てくるのか,不思議というほかない。
 恐らく体力以外の秘訣があるんだろう,と思っていたら,その内実の一端が明かさせるエッセイ集が昨年末に刊行されたのであった。それが「神田村通信」である。
 この「神田村」とは,もちろん,世界にもまれな本の町・神田神保町のことである。鹿島茂の知的活動はこの神保町が支えていたのである。
 まず,職場が共立女子大という,学士会館のすぐ近く,神保町まで歩いて数分という立地であることが大きかったようだ。欲しい資料があれば,普段から目星を付けた古本屋へ飛んで行けるというのは,本好きのワシとしても羨ましい。ワシもかつては駿河台の日大・理工学部に通っていたから,ちょっと研究に疲れると坂を下って靖国通りをウロウロしたものである。鹿島茂の活動は,神保町という知の源泉抜きには存在し得ないものだったのだ。
 しかも現在は神保町に個人事務所を構え,自宅も神保町のマンションに移してしまったと言うではないか。これはもう末期症状という他なく,羨ましいを通り越して呆れてしまう。
 ま,都心に衣食住の拠点を移してしまったことで,副作用というものもあるようだ。それは本書で確認していただくとして,良いことも悪いことも余すところなく書いていて恬淡として諦めていないところは素敵である。出来の悪い学者と言えど口は立つから,ダメ大学教員でも批評だけはいっぱしのことが言えるものである。人をくさすのは簡単なことなのだ(ここでワシもやっているし)。しかし,経済を含めた社会活動を続けて行くには,他人の批判をすることよりも,批判される側に立つ,つまり,自ら飛び込んでいくしかないのだ。
 ワシは,世間の注視や非難を浴びつつも泳ぎ続ける姿に対して感動するタイプである。小林よしりんもそうだし,小谷野敦内田樹もそうだ。他にも無名ながら「泳ぎ続ける」人たちが沢山いて,この先ワシの短い人生ではそういう人間だけを見ていきたいな,と念願しているのである。この2冊の著作を読み,どうやら鹿島茂もその一人としてカウントしていいことが分かったので,これからのご活躍を眺めていきたいと,ワシは正月早々決意した次第である。