吉田武「オイラーの贈物」ちくま学芸文庫

[ Amazon ] ISBN 4-480-08675-7, \1500
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 一体全体,何でこんな本がもてはやされるのかなぁ,というのが本書を一読しての第一印象であった。京大の数理工学専攻出の著者なら,結構なレベルの解析学や数値計算,応用事例を学部でも勉強させられるはずだから,そこで学んだ知識を総動員してぶち込んだらこの程度の本は書けて当然。しかも数値計算の話が多少入っているぐらいで,内容はかなりオーソドックスな初歩の解析学(微分積分)に,関数空間の初歩を混ぜ込んだ程度のもので,解説が計算例をまじえて丁寧なのは美点ではあるけれど,もっと新機軸を入れられなかったのかなぁ・・・と,思っていたのだ。
 で,この度,複素解析の講義を持つことになり,あっちこっちの文献を調べまくった中で,本書も再読することになったのだが,その際やっともてはやされる理由が分かったのである。
 そうか,新しい視点を導入しなかったのが美点なんだ,と。手垢にまみれたネタを,より丁寧に具体的な計算例を交えて解説することに徹した,それが支持される理由だったのだ,と合点がいったのである。
 数学は難しい。論理的思考は確かに人間の一部ではあるが,全てではない。本能とか感情とか,人間を人間たらしめる要素があってこそ,まともな社会生活が送れるのだ。それを数学は全否定する。定義から外れた用語の使用を認めないし,全ての定理はコード化可能な論理展開に乗っ取った証明が必要とされ,直感的な説明を排除する。書店の数学書コーナーでは「直感的な数学」みたいな本が出ているが,あれは数学ではない。数学の「あらずじ」みたいなモンである。もちろん,ワシら教師が講義するのも「あらずじ」に過ぎず,本式にやろうとするなら,「定義→定義→定理→証明→定理→証明→定義・・・」という,知らない人にしてみれば無味乾燥な繰り返しにならざるを得ない。記述にアクセントを付けるために,比喩や演繹に基づく「説明」や「具体例」が入ることはあるが,それは本来不要なものである。発想の原点としては大いに役立つとしても,数学の骨組みとは無関係なものとして扱われるのが普通である。
 つまり,数学は,人間の脳の活動の多くを「論理」に向かわせようとする,かなり不自然な頭の使い方を強要するものなのである。それを楽しみながら出来る人間もいるが,まあ少数派である。大多数にとっては大なり小なり強制されてようやく身に付くものであり,しかも情緒力なんてものと違って,能力の個人差が大きく開いてしまう。中学,高校と進むにつれて,「自分は数学に向いてないや」と諦めてしまう人が増えるのも当然のことなのである。大学の理工系に進んだところで,いきなり「本式の無味乾燥論理体系」にぶち当たって挫折しない人間もまた少ない。今では専門課程の方から圧力がかかるため,「本式」で講義を行う数学教師は殆ど絶滅したと思われるが,個人的には「無味乾燥論理体系」の「無味乾燥」にもそれなりに存在意義があるので,少しは粉振りかけてもいいからきちんと教えて欲しいものだと思う。が,次々と受講生が減っていく事実を前にしてそれを貫き通すのはナカナカ困難である。
 それでも何故か「計算」という部分に関しては,未だ世間の支持が高い。これだって「無味乾燥論理体系」の一部ではあるんだけれど,
 ○予備知識があまり必要ない
 ○計算に使われる論理体系はストレートなものが殆どなので,覚えるのが楽
 ○計算を進めることで,自力で解けた,という感動を味わえる率が高い
というあたりが数学における「計算」が広く支持される理由だとワシは思っている。この辺をうまく商売に結びつけたのが公文式で,ドリル方式の自学自習が可能だったのも,殆どの学習内容を「計算」練習に絞ったからである。
 しかし,これを逆に考えると,世の中に必要とされる数学は「計算」しかない,ということになってしまう。これだけコンピュータがカジュアルにとけ込んだ現状を考えると,計算を人間が行う必要は殆どなく,もっとドラスティックな思考,近似的な概算とか,大規模な計算処理の効率的なやり方などを人間は担当すべきで,任天堂DSでチマチマ計算ドリルを解くのが数学教育の結果だとすれば,この先の日本の科学技術は非常に危ういと言わざるを得ない。
 吉田のこの本は,大学理工系の線型代数・微分積分を本式に習った人間ならば,一度は聞いたことがあるテーマばかり扱っている。でも扱い方は非常に丁寧で具体的だ。「計算」の範囲で可能な説明を具体例を交えて行っているので,もしこれでその節の解説が分からないようなら,大学の基礎数学を学ぶための基礎教養に欠けていると言わざるを得ない。もう一度,高校までの教科書をひっくり返して勉強し直すように。
 逆に言えば,本書の解説は「計算」が及ぶ範囲の「数学」,いや基礎解析学に留まってしまっているのである。「え,こんなに分厚い(文庫本500ページ超)のに?」と訝しげに思われる方もおられようが,そうなのである。線型代数+微分積分学+(初歩の)複素解析,これに数値解析のフレーバーを効かせたのが本書の内容の全てなのだ。それが悪いというのではない。いや,それこそが本書を数学書としては異例の売れ行き(って具体的な発行部数はシランけど)に繋がった理由なのである。計算が届く範囲の内容と解説に徹底して絞った自学自習書という狙いを持ったからこそ世間のレベルと要求にジャストフィットし,見事なマーケティング的成功を収めたのである。
 だが・・・ワシはやっぱり言いたくなる。「これじゃ,『現代の』数学に繋がりませんよ」と。何故なら,今の数学は様々な「視点移動」によって組み立てられた論理体系なのであり,古典的な計算の単純な延長上には作られていないのだ。むしろ,そこからいかに浮遊するか,もう一つ別の位相を加えるかということに腐心してきた結果が今日の数学なのである。今更言っても詮無いことだけど,吉田には是非とも「本書の解説の限界」を示して欲しかったのだ。チルンハウス変換の先にも5次以上の代数方程式の代数的解法が存在しないことを解説して欲しかったのである。
 無い物ねだり? いや,まさしくそうだ。世間の支持を得た書物に対してグダグダ文句を言うのは単なる嫉妬と片づけられてしまうだろう。だからこそ,ワシは唾棄されるだけのこのblogのエントリに,こう書き付けて置かなければならない。
 是非とも,同じちくま学芸文庫から出ている「角の三等分」も読んでみて下さい。吉田の書には書いていない,視点の移動が主要テーマとなっているから,と。

半藤一利「決定版 日本のいちばん長い日」文春文庫,同「それからの海舟」ちくま文庫

[ Amazon ] ISBN 4-16-748315-7, \590「決定版 日本のいちばん長い日」
[ Amazon ] ISBN 978-4-480-42443-3, \780
[ Amazon ] DVD 岡本喜八監督作品「日本のいちばん長い日」(1967年)
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 敗戦記念日につき,敗戦処理をトピックとして取り上げることにしたい。
 ・・・と方針は決まったが,さていざ取り上げるとなると,結構難しい。今更,ウヨクやサヨクの意見開陳本を取り上げるのは退屈だし(ワシはどちらにもすっかり飽きてしまった),かといって,まじめくさった評論・学術書を読むのは,加藤典洋の「敗戦後論」を挫折して以来,なるべく忌避するようにしている。さりとて,右だの左だののプロパガンダっぽいものに引っかかるのはイヤだなぁ・・・と言う時に重宝するのが信用できるジャーナリストによるドキュメンタリーである。ワシのようなめんどくさがりの読者の代わりに綿密な資料の解析と取材を敢行し,事実をキッチリ押さえ,その上でエンターテインメント的なストーリーテリングを行ってくれる,そーゆー人の書いたものなら万人にお勧めできるというモノである。
 とゆーことで,それが出来る数少ないジャーナリスト,半藤一利の著作をもって,日本の反省の夏の一日を振り返ってみたい。
 最初の出会いは昨年日記にも書いた通り,半藤の本を原作とした映画だったのである。NHK BSの敗戦記念日特集の一環として,この日本映画の大作「日本のいちばん長い日」が放映されたのを見て大興奮したのであった。
 何が興奮したかって,まず出演俳優陣の豪華さだ。制作が1967年というから,40年以上前のものだが,制作の2年後に生まれたワシですら名前がスラスラと出てくる俳優ばかり登場する。鈴木貫太郎役・笠智衆や,阿南惟幾役・三船敏郎はいうに及ばず,ナレーターの仲代達矢,佐々木大尉役・天本英世,以下役名は略すが,加東大介,加山雄三,黒沢年男,志村喬,小林圭樹,加藤武,北村和夫・・・,いやー,凄いですね。しかも今と違って,アイドル的な客引きメンバーは加山を除いてゼロ,演技力で圧しまくる実力派ばかりである。つまり,芝居については文句なしの出来にならないほうがおかしい。実際,この中で鬼気迫る演技を見せる黒沢年男と天本英世,対照的に飄々として敗戦処理を決断し実行する笠智衆が一番見応えがある。その辺は実際に映画を見て堪能して頂きたい。ワシは既に5回以上は眺めてしまっている。難点は台詞がある女優が一人しかいないという所か。暑苦しく色気のない映画としてもNo.1であろう。
 しかし何と言っても,一番スリリングなのはストーリーだ。しかもこれは実際に,1945年(昭和20年)8月14日正午から翌15日正午まで,つまり,ポツダム宣言受諾を国民に知らせる玉音放送までの24時間を描いた史実に基づく物語だ,というから二重に面白い。いや,面白いと言っては不謹慎かもしれない。しかし,戦後60年以上経過した今のワシらから見れば,殆どスラップスティックかという程,お粗末な小型の二二六事件を描写しているのであるから,呆れると共に,やっぱり無責任に面白いと思ってしまうのである。
 第二次世界大戦の枢軸国側において,戦争責任(ここでは「敗戦の」責任者という意味で用いる)を追求するのが一番ヤヤコシイのは日本である。ドイツやイタリアのように独裁権力を持ったヒトラーやムッソリーニという「個人」が不在だったからである。強いて言えば,二二六,五一五事件を引き起こし,中国東北部から権益を拡大しようとした日本陸軍の将校クラスにその責任を帰す,というのが今の日本における一般的な認識と言うことになる。更にそこから個人としての責任者を持ち出そうとすると・・・ま,東京裁判で処刑されたあの方々,ということになるのだろうが,石原莞爾はどうなんだ,いや,もっと上に統帥権を持った天皇という存在があっただろう・・・という議論は未だ絶えることはないけれど,こういうゴタゴタが未だ収束しないと言うことは,やっぱり陸軍というコアグループが日本の世論と政治を引っ張って戦争に突入していった,という他ないってことなんだろう。そしてそれを証明する事実は山ほど上がっている。その事実の一つが,「日本のいちばん長い日」,つまり八一五宮城事件なのである。
 事件を一言で言うと,ポツダム宣言受諾に反対する日本陸軍の若い将校達が近衛師団長を殺害し,玉音放送を阻止するため皇居やNHKを一時的に占領,しかし関東を統括していた東部軍首脳にあっさりと事件は鎮圧されてしまうというものである。14日深夜から15日午前中に起こったことなので,とても短い出来事であるが,二二六や五一五事件とは異なり,皇居及び天皇の居住地(御文庫)まで取り囲んでしまったのだから,これが長引いていれば原爆の数個は追加投下されていた可能性もある,歴史的にもないがしろに出来ない事件である。
 しかし,それが鎮圧された後で振り返ってみると,この事件,かなりクーデターとしては出来が悪い。陸軍全体が「承詔必勤(意訳:天皇がポツダム宣言受諾を決断したのだから,黙ってそれに従え)」でまとまっていたにも関わらず,その雰囲気を理解せずに一部の青年将校が激高して暴れた,という感が拭えない。しかしそれを実行してしまう「雰囲気」が,日本陸軍内部では充満していたということは確かだろう。そしてその雰囲気熟成が昭和に入ってからなされており,その最後の小爆発がこの宮城事件である,と解釈できる。そう考えると,やっぱり「戦争責任」を個人単位で考えるのは相当難しいんじゃないかなぁ,となってしまうのである。
 映画の原作となった半藤の「決定版」は,映画では演出の都合上端折られていた事実も含めて綿密に事件の推移が描かれており,イケイケドンドン日本男子が死滅するまで(「二〇〇〇万(人)の特攻(隊)を出せ」だもんなぁ),という雰囲気の日本陸軍を押さえ込むのがどれほど大変だったことか,イヤと言うほど知らしめてくれる。映画の方も,事実を曲げず,象徴的な「絵」,例えば畑中少佐の狂気じみた情熱,計画が失敗した時の椎崎中佐の激高ぶりなどをうまくストーリーに組み込んでいるので,映画だけを見て宮城事件を勉強した気分になっても,何ら問題ない。どちらもノンフィクションとして,映画として優れた作品になっているのである。
 さて,敗戦処理,ということでは,日本では幕末期に幕府側の実質的な責任者として活躍した勝海舟という人物を忘れることは出来ない。半藤が1965年にまとめあげた本書は最初,営業上の理由もあって大宅壮一の名前で出版されたが,そこで大宅はこんな序文(P.3 – 5)を寄せている。

今日の日本および日本人にとって,いちばん大切なものは”平衡感覚”によって復元力を身につけることではないかと思う。内外情勢の変化によって,右に左に,大きくゆれるということは,やむをえない。ただ,適当な時期に平衡を取り戻すことができるか,できないかによって,民族の,あるいは個人の運命がきまるのではあるまいか。

 そしてこの宮城事件が「平衡感覚」を試される時期の一つであったとし,本書の意義をこう述べている。

敗戦という形で,建国以来初めてといっていい大きな変化に直面したとき,全日本がいかに大きくゆれたかを,当時日本の中枢にあった人々の動きを中心に調べたら,幕末期のそれと比較して面白い結果が出るのではないか。

 結果として逆転しちゃっているけど,半藤は宮城事件と比較対照となる「幕末期のそれ」を2003年に上梓し,2008年に文庫化した。それが「それからの海舟」である。
 西郷隆盛率いる官軍に対し,幕府側の責任者として江戸城引き渡し(1868年3月14日)を決断して実行した勝海舟の存在を知らない日本人がいたら,それこそ非国民のそしりを免れ得ない。しかし,それ以降の「敗戦処理」に勤しむ海舟を面白く描いた読み物はかなり少ない。司馬遼太郎に至っては,明治期の海舟は大言壮語や韜晦が酷く信用ならない,と一言の元で切り捨てているぐらいである。古くは福沢諭吉が政府高官になっていた海舟を「痩我慢の説」で非難しているところから発するようで,半藤はこの福沢の批判をかなり詳細に取り上げ,分析している(第11章)。全編これ「海っつぁんびいき」の威勢の良い半藤の啖呵で満ちている本書であるが,歴史的事実と,海舟非難論を書いた福沢の個人的,社会的問題意識も併せて論じているから,単なる卑俗な海舟擁護論になっていないところが半藤の,ジャーナリストとしての「平衡感覚」なのであろう。
 そんな訳で,維新後の海舟の評判はおおよそよろしくないのだが,戦後になると,その大言壮語の中にきらりと光るモノを見いだして再評価する動きも出てくる。例えば古山寛・谷口ジロー「柳生秘帖 風の抄」は,海舟の談話における一言がヒントになってシナリオの骨格が出来上がったものである。
 それ以上に,思想的な影響を受けていると思われる作品が,安彦良和「王道の狗」である。Comic新現実Vol.1でこの第37話が抜粋されているが,そこでは晩年の海舟が,同じ島国のイギリスが帝国主義に走っている現状をふまえた上で,日本はそれを真似するのではいかん,と釘を刺し,こんなことを言う。

 「アジアの海は下町の横町だよ!」
 「支那も朝鮮も古い御近所だ」
 「つき合いってもんがあるだろ」
 「これからは今まで以上にそれを大切にしなくちゃいけねえ!」

 出典は多分「氷川清話」あたりかと思うが,あいにく手元にそれがないので(職場に死蔵されているはず),半藤の書から孫引きさせてもらおう。

「日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって,兄弟喧嘩だもの犬も食わないじゃないか。(中略)
 おれなどは維新前から日清韓三国合従の策を主唱して,支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものサ。」(P.276)

 漫画の台詞と,この主張を両方読んで,ああなるほど,サヨクというか平和主義者を代弁して,安彦良和は勝海舟の口を借りているのだな,と会得したモノである。半藤の著作はこの戦後の風潮とは無関係に著されたものであるけれど,太平洋戦争を主導した「雰囲気」への嫌悪感を持っているという点は間違いなく共通している。
 1945年8月15日と1868年3月14日を繋ぐ,半藤の大仕事は世紀をまたいでここに一応の完結を見た。鈴木貫太郎と勝海舟,共に敗戦処理を主導した人物とそれを取り巻く環境,そしてそれに対する論評をマゼコゼにして優れた読み物にした労作は,日本の戦後の民主主義がきちんと機能してきた証として誇っていいものだと思う。こういう言い方はある種の人々の憤激を誘うかもしれないけど,ワシ個人は「負けて良かったのだな」と思うのである。そして,「良かったな」と後世のワシらに思わせるだけの仕事を成し遂げた両人に対して,加えてこの両人を取り上げてくれた半藤にも,心からの謝意を表したいと思うのである。

8/13(水) 掛川・晴時々曇

 上空には雲が多く,時たま太陽が隠れる。ノンビリした真夏の一日である。
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 月亭可朝がストーカー行為で逮捕とのこと(報知朝日サンスポ)。自身の借金で首が回らなくなることはあっても堅気の衆に直接迷惑をかけることはなかった筈の師匠だが,いよいよ余命短くなってボケが来たか。まー,どういう末路を辿るかはワカランが,死ぬ前に一度,まともな落語を聞いてみたいモンである。
 そーいや,六代目圓楽は楽太郎師匠になるんだっけか(読売)。人気と言うことを考えると順当なところか。
 何かひろゆき本の画像へのアクセスが異常に多いな,と思ったら,こっから写真だけリンクしている模様。まあいいんだけどさ,写真をザッピングする人たちって多いんだなぁ。
 そーいや,先月は東海村JCO事故本へのアクセスが多かった。どこの影響かシランけど,ほんと,こういう極小サイトってのは世間の反応にはwavelet程度でも敏感になるよね。
 今日もダラダラ過ごします。

8/12(火) 掛川・曇時々晴

 本日から本当の夏休み。学内閉鎖期間につき,次週水曜日までは自宅待機状態となる。もっとも,月曜日からは出勤可能となるので,ワシは火曜日からは出ますけどね。クーラー代がもったいないし。
 クーラーで思い出したが,先月の電気代は1.1万円となった。けっこうガンガン使っていたのだが,案外少ないと感じる。おそらく今月がMAX電気代となるはずだが,2万円に届くかどうかってところじゃないのかなぁ。それを見極めるためにも,この夏休みはクーラーをつけっぱなしにしてだらだらと過ごすつもり。
 しかし,室温28度の設定でも新品のエアコンだと結構涼しくなるもので,黙って座っていると足もとが寒く感じる。なので,家の中では長ズボンが手放せない。外は30度越えだってのに,いいのかしらん。ま,きちんと電気代が払えている現状に感謝して,今はせいぜい快楽に身をゆだねることにする。
 そろそろ軽くて使いやすいデジカメが欲しいな,と思ったので,3年使ってきたケータイを買い換えることにした。料金体系と割引制度がおろろしいほど複雑になっていて,ワシは店員の言うがままにうなずくのみ。基本料金が月1千円ほど安くなるよう契約を変更し,ワンセグ付き,500万画素デジカメの2008年春モデルの奴(カシオ製)に買い替える。今度は2年間使い続けないと罰金が発生するとのこと。まあワシのことだから,紛失とか故障でもしない限り,だらだらと使い続けることは確実である。何だかんだで7000円近くの支払いが発生し,次週まで8千円で生活する計画がパーになってしまった。うう,この休みは節約せねば。
 で,さっそく試し撮り。
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 重力センサーが内蔵されているようで,普通のデジカメ同様,本体を横にしても撮れる優れもの。デジカメで何が面倒かって,データの移動である。ワシみたいにblog素材として使いたい向きには,記事を書くたびにケーブルをつなげなければならないってのは耐えがたいのである。ポチッと撮ったらすぐメールで自分宛に送っておく,これが今のところ,PC人間のワシには一番使いやすい。ふぅ,これで次週の東京行の取材も支障がなくなるな。ありがたい。
 今週中にやらねばならないこと。
 1.デモ用オンラインショップのスクリプト
 2.投稿用論文の英語翻訳(たぶんヤラナイ, because of lack of my interest)
 3.固有値計算プログラム作成
 4.うんこ収集(月曜日に人間ドック入りなので)
 たくさん食って,たくさん脱糞します。

8/10(日) 掛川・曇

 オープンキャンパス二日目。ワシんとこは4年生が頑張って説明してくれているので非常に助かります。今日もよろしゅーに。埋め合わせはどっかでするので~。
 昨日は昨年以上に来場者が多かったけど,今日はどうかなぁ。マイナー私大,特に文系ではとんでもない状況になっているところもあるようだけど(内田先生のblogにその例が報告されてた・・・多分あそこだ),ウチの場合,就職率がいいってところは県内の高校の先生方からは評価して貰っているのが救いか。今日も頑張りましょう・・・いや,よろしくお願いします~>うちの研究室・4年生の方々
 鬱対策のため,今年は久々にコミケ三日目に遊びに行こうと計画している(もちろん午後からまったりと参加予定)。このクソ暑い中,更に欲望で渦巻くあの巨大なビッグサイト内をうろつくのは自殺行為に等しいのだが,鬱を払うにはそのぐらいの荒療治が必要と判断したため(うそつけ)。
 そしたらこんな緊急告知が出ていたのを知る。ふーん,あっちこっちで妨害デンパ野郎が出没しているから,警察としても持ち物検査ぐらいきちんとやれ,と言わざるを得ないってことか。まーしゃーないかな。ワンフェスでエスカレーターの事故があったばかりだし,動線の移動はやむを得まい。事故原因がハッキリしない以上,乗らない・動かさないってのが吉ってこってすな。
 初等関数(IEEE754の範囲内)はどうやって計算しているのか,というお問い合わせがあったので,x86系CPUに限ってだが,ちょっと調べてみた。こう言う時に大変重宝するのが,Mullerの本とIFスペシャル「数値演算プロセッサ」(20年以上前のムック,書誌情報はこっちを見てね),そしてIntelの巨大なリファレンス。最新のIA-32の解説はこっち,歴史的な話はこちらのAppendix Gが使える。
 結論から言えば,i80386(7)以来,IA-32 CPUでは四則演算の他,

平方根: FSQRT(sqrt(x))
三角関数: FSIN(sin(x)), FCOS(cos(x)), FSINCOS(sin(x)&cos(x)), FPTAN (tan(x)), FPATAN(arctan(x))
指数・対数関数: F2XM1(2^x – 1), FYL2X(y * log_2(x)), FYL2XP1(y * log_2(x + 1))

が基本命令としてサポートされており,より複雑な関数を計算するためにはこれらを組み合わせてプログラムを作る必要がある。
 で,これらの基本命令ではIntel CPUの場合,8087 – 80487まではCORDIC(+有理近似),Pentium以降は(有理)多項式近似 + 区間数表法(Table-based method)を使ってCPU内部のMicrocodeで計算を行っているらしい。CORDICだとMicrocode(8087では500行以内とか)が小さくて済むので,古いCPUでは普通に使われていた模様。最近のものは区間縮小の手間を省くために,区間毎に近似式を変えて計算する方式が主流とのことである。CORDICについてはMullerの本が一番詳しい(Mapleコードつき)のでそっちを参考にしてくれたまへ。
 そんでは今日も出撃します。