4/11(土) 掛川・?

 ふひぃ~,英文ドキュメント,後は校正するだけとなった・・・が,英文を読むと途端に睡魔に襲われる病気に蝕まれているワシは,疲労困憊した後でそれを行う気力は残っていなかったのである。つーことで,完成は明日に持ち越し・・・ってもう今日ですがな。
 本日はガイダンス後の成績配布処理・面談をこなしつつ,二代目PCクラスタにCentOS 5.3を突っ込む作業を行っていた。まずクライアントの4台分は終了。6台に突っ込んで,最後にNIS/NFSサーバに仕込めば終了。来週末には何とかって感じっすかね。
 実験室の方には,昨年度末でお払い箱となったEPSON LP-8600FXに代わり,Canon LBP9100Cがやってきた。
canon_lbp9100c.JPG
 まーでかいことでかいこと。A3まで印刷できて,両面印刷もできるカラーレーザープリンタとなれば,仕方のないことではあるけど。
 EPSONのプリンタも検討したのだが,Canonの方には標準搭載の機能(両面印刷,Ethernet)が全部オプションとなり,合計するとおんなじぐらいの価格になる。それなら最初っからついているCanonにしようということになったのである。
 お試しでジャカジャカ印刷してみたが,さすがレーザーだけあって,カラー印刷が超きれい。トナー代が馬鹿にならなさそうなところが難点だが,まあ卒研用にバカスカ刷れば,元は取れるであろう。LP-8600FXは導入以来約9年間踏ん張ってくれたが,さてLBP9100Cは何年持ってくれるかしらん?
 家に帰ってきたら,お国から12000円配ってくれと依頼があったので書類を書け,というお達しが市役所から届いていた。早速書いて投函予定。神戸のような百万都市では事務処理がパンクしてしまったようだが(朝日新聞),掛川ならそんなこともあるまい。それでも実際の給付はもうちっと先なんだろうな。どーせ貯金しちゃうからいつでもいいんだけどさ。
 らき☆すたブームによる鷲宮神社盛況の分析を北大の先生がやったという記事(読売新聞)。論文集はこちらこの論文の時系列表を読むと,アニメ本篇終了後に地元が角川書店にイベント共催を働き掛けたという流れになるのだな。ビジネス側主導でないところがミソって感じかしらん?
 背中がギシギシ悲鳴を上げているので,もう風呂入って寝ます。

4/9(木) 掛川・晴

 新入生ガイダンスに続いての合宿研修終了。日中はいい天気で汗ばむほどの陽気である。
starting_freshmen_wemen_camp2009.jpg
 出発時には上記のような状態の桜が,もう帰ってきたら葉桜状態になりつつあった。花の盛りは短くて~って何の歌詞だっけか? 春の移ろいまことに早い。
 二重に間抜けな試合をやらかしたことを報じた記事(読売新聞)があった。教育的にまずいことをやらかしたというのはその通りではあるんだけど,戦略として負けることを見越して試合をするってのは正しいこともある。問題は負け方。最終的には決勝で勝つための試合が先にあるんだから,その試合での戦略や選手起用を試すための負けを目指す必要があったのだ。あからさまなオウンゴールを決めるってのは愚の骨頂。教育的によろしくないのはこっちの方だよね。
 は~,東欧方面から依頼があったワシのMPIBNCpack(つーかMPIGMPを使いたいらしい)のめちゃくちゃな英文が内職の成果でようやっと上がった。先方には”strange and poor English draft”と断った上で送信。明日は初代,三代目,四代目のPC clusterでベンチマークやって結果集計をする予定。これからとりかかる計算の土台となるものだから,ちゃんとやろっと。
 昨年のOY数理学会懇親会で酔っぱらってS先生に絡んだ際に約束してしまった某UGの件,先方はしっかり覚えていはったようで,「早く作れ」というご指示が飛んできた。「とりあえずこんなもんでどっすか~」というメールを送って時間稼ぎをしているが,来週にはちょろっとでも進めとかないとダメな気配。あ~,今月下旬までにアルゴリズムの勉強をせにゃならんというのに,間に合うのかよぉ~。今月はもう死にそうであります。
 死にそうな上に,O先生が「八割方ダメだね」と言っていた翻訳プロジェクトがひそかに生き残っていたことが判明。来月中旬には結果が出るらしい。もし始まっちゃったら夏休みにサバティカルでも取って作業に勤しまねばならぬ。まあそんなことにはなるまいが・・・嫌な予感がしてきたぞ・・・。死ぬかも。ホントに胃に穴が開いて死んじゃうかもぉ~。
 今月を乗り切るべく,土日も返上で頑張らなきゃぁ。つーことでもう寝ます。

4/6(月) 掛川・?

 ふ~,昨日は入学式。桜は満開の盛りをちょっと過ぎたあたりで,まあいい頃合いである。ワシにとっては全然保養にならなかった春休みが終わってしまって,少々メランコリックな気分で一日過ごした。
 春のぷちめれ祭りはこれにて終了。あんまし書けなかったけど,まあこの辺が限度。この先は月に2~3本ぐらい書ければ御の字であろう。何せ6月の研究会に申し込んでしまったので,4月いっぱいはガシガシ計算せねばならぬ。できればGW前に一応の結論までたどり着きたいところ。さてどーなりますやら。
 その下準備も兼ねて,ようやっと安定してきたCentOS 5.3 x86_64環境でCore i7マシン2台をMPIクラスタにしてみた。使ったのはDistribution標準のOpenMPI 1.2.7。i386版とx86_64版が両方入ってしまうのだが,mpi-selectorというコマンドで使い分けができるようだ。
 問題はセッティング。x86_64版は/usr/lib64/openmpi/1.2.7-gcc/以下にインストールされるのだが,どこに設定ファイルがあるのかよー分らん。どうやら*/etc/openmpi-default-hostfileにlamと同じ書式で使用ホストを書き込み,*/etc/openmpi-mca-params.confに使用IFの指定を書き込むらしい。
 ハマったのは後者の方。使用ホストの名前指定をどう変更してもGbEの方を使ってくれない。なんで~,どうして~,とわめいても仕方ないのでググってみたら,ここに使用IFの指定をせねばならんということが午後10時過ぎに判明したのであった。openibとかuDAPLとかワシみたいな貧乏人には関係のないものも取っ払っておかないとmpirun時に警告が出まくるので,これを抑制する指定も追加して

btl=^openib,udapl
btl_tcp_if_include=eth0

を追加。openib, uDAPLをoffにし,通信IFはeth0を使用という意味になるようだ。
 やーれやれ,これで初代クラスタ(Pentium III, 9PEs),三代目クラスタ(Pentium D, x86_64, 2*10=20PEs)と共に四代目クラスタ(Core i7 920, x86_64, 4*2=8PEs)として使えそうだわい。ちなみに二代目(Pentium IV, 11PEs)は現在別の用事で使われる予定である。もーこんなにマシンを揃えたりしないようにしようと決意する。
 早速ちょろっとベンチマークをしてみると,MPFR/GMP演算単体では数%程度の速度向上しか見られないが,でかい線型計算を並列実行してみると倍ぐらい速くなったりする。ふーん,伊達に金取ってないんだなぁ・・・。何はともあれ,これからガシガシ計算せねば。
 風呂入ったら寝ます。

(原作)内田百閒・(漫画)一條裕子「阿房列車 1号」IKKIコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-09-179036-1, \1000
comicalized_witty_essays_on_private_train_travels.jpgのサムネール画像
 内田百閒のこましゃくれたエッセイ口調と,一條裕子のひねたユーモアが醸し出す独特の雰囲気がこれほどマッチするとは思わなかった。百閒と一條に両者に共通するのは「上品さ」であるけれど,本書を読むと,一條裕子のオリジナル作品と見まごうばかりの自然なコマ運びで,下手くそな原作ものにありがちの引っかかりが全くない。それでいて,百閒エッセイの全体の方向性は踏襲しているように思えるのである。これは両者のセンスだけでなく,やはり根底に流れる「上品さ」,つまりは百閒と一條が共に持つ,上質なインテリジェンスと心優しさがあったればこそなのであろう。一條に百閒作品を描かせるというアイディアをもたらした編集者(かどうかは定かでないけど)の慧眼に,ワシは唸ってしまったのである。
 一條裕子の作品はこの上なく上品だ。「ギャグマンガ」とは言いたくない。キザな言い方だが,「エスプリの効いたユーモア漫画」なのである。本人の意識はどうか知らないが,頭で構築したギャグではなく,本人の体質からにじみ出たユーモア感覚で作品を描いているように思えるのだ。頭を使っているのは作品の構成であって,ページ数にかっちり納める無駄のないコマ運びは,とり・みきに並ぶ「理数系」作家と呼ぶべき見事さである。両人がさすらいの編集人・吉田保(フリースタイル)のお気に入りリストに入れられ,雑誌(実際はムック扱いだが)で競演しているのも必然的な成り行きだったのだろう。
 一條作品のもう一つの特徴は,余白と白さを生かしたセンスあふれる画面構成であろう。書き込まれた絵やアップは少なく,リズムと空白で読ませる。遠景から描かれた極めて客観的な視点の絵は,デッサンがきっちりした「うまい絵」に分類されるものであるが,空白とのバランスも見事で,こんだけ高度なことをやらかした漫画がしょうもない(褒めてます)ことを延々と語っているのだから,うーん,追随するのは難しい作家であることは間違いない。
 内田百閒の作品を読んだことはないので,ワシが抱くイメージは,黒澤明の映画「まあだだよ」で得たものしかない。まあそれほど間違いはないだろうと勝手に結論づけるとして,その印象を一言で言うと,「心底善人のくせに,それをストレートに表現することに含羞を覚えるインテリ」というものである。本書巻末には「特別阿房列車」の冒頭部分が抜粋されているが,それだけ読んでいても,論理的な文章でありながら,感情の発露がありつつ,訳の分からん理屈でたたみ込むという芸当が見て取れる。師匠・漱石譲りのところが大きいように思えるが,ワシは文芸評論家ではないのでその辺の推理は得意な人にお任せするとして,この抜粋部分と一條のコミカライズ部分とを比較すると,一條の構成力の見事さが読み取れるのだ。それを紹介しよう。
 文章,特にエッセイは,全体の方向性さえ示されれば(場合によっては「方向なんぞ定めない」という方向性(?)でも可),枝葉部分はどうとでもできる。デコラティブにもできるし,極力シンプルにすることもできるし,全体の方向性に棹さしてもいい。百閒の文章は感情の発露で飾り付けを行っているように思え,そこの部分が上質なユーモアを醸し出す手助けをしている。
 しかし,一條は枝葉部分をすべてそぎ落としているのである。たとえば「阿房列車」の意味を述べた文章,戦後になって一等車が復活したことを述べた段落,大阪駅内に無駄遣いをしそうな店が連なっていることを述べた文章をカットし,大阪行きの列車を決めるまでのグタグタした思考行きつ戻りつする様子に絞って描写を行っている。全体の方向性とは関係のない飾り付けをスパスパと枝払いし,漫画としての分かりやすさを重視した構成にしているのである。それで十分,というか,そうすることで,一條裕子の持つユーモアセンスが生かせているのだから,名人芸としか言いようがない。
 本書で指摘しておかねばいけないのは,もう一つある。それは一條裕子のチャレンジだ。見開きにドンと据えられた「見せ場」。ごった返す東京駅のホーム,驟雨に煙る富士岡駅の風景,友釣りで引き上げられた鮎が空中を舞う夏の球磨川・・・,一條裕子の卓抜な画力と画面構成力が光るシンプルだが感動的な絵が,読者の目を釘付けにする見せ場を作っている。今までのユーモアものにはなかった,ベタだがワシら大衆に分かりやく感動できる見開きページは,間違いなく,一條のチャレンジ精神が生み出したものだ。紀行エッセイを紀行マンガに変換する「意味」を,一條はこの見開きを描くことで見いだしたのであろう。
 ワシは鉄っちゃんではないので,本書に掲載されている,百閒乗車の列車編成表は全く分からないのだが,見る人が見れば,凝った本だなぁと感動するものなのであろう。編成表といい,箱入りの古風な装丁といい,チャレンジングな見開きページといい,分りやすく面白いマンガ構成といい,本書全体が懲りまくっているのは間違いない。掲載誌はメジャー版元・小学館にはあるまじき低部数なんだそうであるが,個性が際立つ作家を集めた雑誌をまとめて読むのは難しく,むしろこうして単行本という形でばら売りしてもらった方が,コアなマンガ読みでない読者にはありがたい。実際,本書は普通のマンガ読みな人にも楽しんでもらえる,「普通に面白い」ように一條が百閒を「翻訳」してくれているのだから,ちょっと高めの定価ではあるけれど,それだけの価値があると断言できる。マニアックなのは本の作りだけであって,内容は決してそうでないだけに,もうちっと一條裕子をたくさんの方々の手にとってもらいやすいよう,凝らない体裁のコスト安な本ににしても良かったのではないか,と,その点だけはちょっと残念に思っているのである。