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須原一秀「自死という生き方 覚悟して逝った哲学者」双葉新書

[ Amazon ] ISBN 978-4-575-15351-4, \876

 本書の存在,というより,「須原一秀」という哲学者の存在を知ったのは,今は無きWebTV 「ミランカ」の番組中で,宮崎哲哉がこの名前を出していたからである。その時は,ふうん,珍しい人間もいるもんだというぐらいしか意識しなかったから,よもやワシがその須原の書いた遺書がわりの本書を読むなんて思いもしなかった。
 で,本書の親本が単行本として出版されたとき,「須原一秀」という名前が脳にインプットされていたワシは,店頭で確かにそれを手にとってパラパラめくってみたのだが,そん時には怖くてレジに持っていけなかったと記憶する。ちょうど自殺者3万人突破という時代が続いている上に,ワシ自身も「自殺」という自体を深刻に受け止めなくてはならない立場になったこともあって,本書が縄に首を通してビクついているワシの脚を引っ張りかねないと,ホントに恐ろしく感じたからである。
 本書の冒頭で浅羽通明が解説を書いているのだが,その中で筒井康隆の小説「銀齢の果て」の登場人物に言及しているところがある。ワシはこの作品を読んでいたので,浅羽とは別の人物,小説の冒頭,老人ホームでの殺戮戦において,生き残った老人に哲学的アドバイスを講じてさっさと縊死した「哲学者」を思い出した。単なる偶然かもしれないが,何かこの哲学者の「死に様」は須原に通じるものがあって,正直,あまり共感できないなと感じたものだ。共感できるとすれば,同じく筒井康隆の作品,「」の主人公の方がまだ理解出来る余地がある。この主人公は文学を専門とする元・大学教員で,今は妻とも死別して一人でひっそり暮らしている。とはいえ,生活水準を落とすことをよしとせず,さほど多くない蓄えを食いつぶし続けているので,この暮らしが維持できなくなったら「自裁」(「自殺」とは言っていない)すると決めている頑固老人である。老い先短い人生で,家族もなく金もなくなったらそこでチョン・・・という気分,ワシもそのうちそうなるかもしれない。
 しかし,「銀齢の果て」の「哲学者」や須原一秀は,イマイチ自分勝手過ぎて(これは浅羽も指摘している),それはどうだろうと思わずにはいられない。単行本が新書として編み直されて,ちょうど風邪気味な時にそれを手にとってこの機会にと反射神経的に購入し,38度の熱にうなされながら断続的に読みつつ須原に共感したら死んでしまうかもしれないとビクビクしていたワシは,「ダメだこりゃ」と,途中で呆れると同時にホッとしたのである。この須原の主張する「死の能動的ないし積極的受容の理論」には感心したものの,安楽死を大幅に健康時に前倒しした「新葉隠」的自死には正直,「何を勝手なことを!」と憤ってしまったのである。今のところ,ワシが須原と同じ65歳で十分健康であっても,安楽死前倒しをしようとは考えないだろう。須原同様の円満な家庭を持っていれば,なおさら死への未練断ちがたく,死の前倒しをしようなどとは露ほども思わないに違いない。ワシはきっと徹頭徹尾,本書がいう処の,キューブラー・ロスによる定義「死の受動的ないし消極的受容」しかできない,普通の人間なのである。
 須原の主張は明快だ。本書は浅羽の解説と須原のご子息のあとがきを含めて307ページの新書だが,その主張の核は前述した通り,「死の能動的ないし積極的受容」(P.126~128)と,葉隠で主張されていた武士の「自死」を,現代の老人の「自死」と同じ意義を持つものにしようということだけ。それを自ら証明するために,須原は2006年4月に頚動脈を掻き切った上で縊死したのである。「自分には「自死」する資格がある」との主張を本書にまとめ,ワシら普通人にもホントにわかりやすい,哲学者とは思えないほど日常的な言葉使いで,主張の核を真綿でくるんで渡してくれたのだ。それについては本書の記述に直接触れて頂きたい。いや,この須原という人,多分「哲学者」という肩書きがなかったら,普通の気の良い元気なオジイサンだったんじゃないのってぐらい,いい文章なんだからさ~。
 その仕事の成果に,風邪ひきの頭ではあるが,ワシは大いに「励まされた」のである。本書の記述の一つ一つにワシは同意し,「人生の高」を知ったソクラテスや三島由紀夫や伊丹十三のような人間が老境に差し掛かった時にふと陥る不安,いや,確かな死の影を察して早めの安楽死をすべく身を引くことの「正当性」の主張も理解した。しかしどうしてもワシの頭は納得しなかったのだ。
 それは多分,ワシが大学生の頃,十二指腸潰瘍をこじらせて極度の貧血になり,ICUに担ぎ込まれた経験があるからだろう。あの時ワシは病院に行かねばとタクシーに乗って何とか隣駅の民間病院にたどり着き,医者と面談して間髪入れずにICU行きを命じられたのだが,その後,一般病棟に移るまで,隣のベッドには生きているんだか死んでいるんだか(死んでいたらICUにはいないか)分からない人もいる中で,なにやらぼーっと過ごしていたという印象しかないのだ。だから,たとえ癌になってモルヒネ中毒になってほぼ昏睡状態になってしまえば,まぁ,自分の意思があるんだかないんだか分からないまま死んでいけるに違いないと踏んでいるのである。須原に言わせれば,そんな都合よくいかねーよということになるのだろうし,聖女といわれたキューブラー・ロスですら,自分の死に際しては不機嫌極まりない死に様だったのだから,いわんや凡人たるわしみたいな輩が精神的にも肉体的にも安らかな死を望むなぞ,宝くじに当たるより低い確率でしかあり得ないというのは正しい認識なのだろう・・・しかし・・・。
 須原に言わせると「癒し」とは,集中させれば人生の極みを得られる快楽を薄めてダラダラと生を長らえるためだけの効能にしたもの,ということだが,そういう癒しで長らえる「凡人」的人生ってのは,多数の人間の人生がそうであるならそうであるだけの「理由」があるんじゃないかと,ワシは思ってしまうのである。須原は科学を「異様」といい,数学や物理の「わけのわからなさ」(P.233)を難じて「普通主義」を定義しているが,このような凡人的常識を備えている哲学者が,武士道のエリートを極めたような葉隠的自死を唱えているのはどうにも解せない部分が残る。「科学」が異様であると感じられたのは,自死を妨げる合理性が,「多数の論理」によって成立してしまうのではないかという反骨精神の表現なのだろうか? 結局,須原の「自死」は,本書に縷々述べられた哲学的思索の「結果」ではなく,「前提」に過ぎなかったのではないのか?
 ワシ自身は,死を積極的にも能動的にも受け入れる気など毛頭なく,最後の最後までネチネチと抵抗しながら,最後は「しゃーねーか」と観念するという精神構造しか持ち合わせていない凡人である。だから低い確率でしかなくとも,死ぬんだったら安らかであることを願うしかないし,さりとて元気なうちに首をくくって死ぬほどの度胸も思い切りもない。前述したように,65になって自死を選択することは絶対ないとは言い切れないが,たぶんそれはないだろうし,ワシ以外の多数の人間にとってもそれは同じだろう。たとえ本書に影響されて「自死」を選択する人間が増えたとて,多数派になることは多分ない。
 ワシは須原が感じた「異様な」「科学」をかじった人間なので,多分「多数派」には何らかの理があると信じている。人生の高を知ることなく,癒しだけで生き延びる「受動的ないし消極的」な人間が多数であることの意味を,須原は真正面から取り上げることなく逝ってしまった。その議論の続きは,生きている人間が生きている限り続けるしかない。そして,多分,いや,そこにこそ多数の「受動的ないし消極的」人間の存在意義が見いだされるハズであると,凡人たるワシは一縷の望みを持っているのであるが・・・・ダメっすかね?須原先生。

T.Kouya

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