鹿島茂「ナポレオン フーシェ タレイラン 情念戦争1789-1815」講談社学芸文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-291959-3, \1650
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 日本で本格的な政権交代が起こってから早3ヶ月が過ぎた。叩く人あり,暫く様子見を決め込む人あり,小泉改革憎しでとにかく反対党だからと称揚する人ありと,ひとそれぞれ,メディアそれぞれの立場で意見表明を盛んに行っている。ま,不況だの少子化だの高齢化だのと言われながらも表現の自由が保証されていることは真に結構なことである。結構なことであるが,さて,批判する側も称揚する側も様子見する側も,みな揃って政権与党が行う政策を「眺める」だけで,積極的に協力してやろうとか足を引っ張ってやろうとか,参加しようという様子は全く見えない。様子見する人はまだそういう意味では発言も控えて「何も手出しをしない」のだから「無言不実行」は当然と思えるのに対し,批判側も称揚側も「有言」の癖に「不実行」なのはどうも解せない。批判するならみんなの党でも自民党でも積極的に活動して持ち上げればイイものを,どうも盛りあがりに欠ける。称揚する側は称揚するだけで自分のサイフを広げて寄付するとかCO2の削減行動に精出すとかすればいいものを,ただ「何かいいことはないものか」と待っているだけだ。かくいうワシも「様子見組」の一員なので大きな口を叩く資格は無いのかもしれないが,どうもこれだけ「行動しない」ようになってしまった国の有様を見ていると,滅びの時は近いと思わざるをえない。民主党でも自民党でも共産党でもみんなの党でも国民新党でも社民党でも,どこの政党が政権を担ったところで政府の末端,政府の根本たる国民が何もしないでは,先行き何が起ころうこともなく,衰微していくというのが世界史の常識である。
 結局のところ,国家の活力ってのは,ドガチャカな大騒ぎに内包されるエネルギーの総量なのだろう。完全な無秩序では経済活動どころではないけれど,国家権力の中枢がしっかり機能した上で,権力だの金だの愛情だののやりとりが活発に行われているならば,不幸な人間と同数の幸福な人間がいて,それが時間の推移とともに入れ替わっているという面白い状態であるはずだ。革命が勃発してナポレオンがセントヘレナに流されるまでの時代,フランスは,絶対零度の沈黙の世界に移行しつつある今の日本とは全く別のベクトルを持った,活力あるドガチャカな時代だったのだ。ギロチンの露と消えた王侯貴族・政治家も多数,リヨンではフーシェの指示によって虐殺も起こったし,ナポレオンはヨーロッパ中を戦争の渦の中に叩き込んだ挙句に極寒のロシアで何十万ものフランス兵を凍死させた。もう一度あの時代を繰り返せと言われてOuiというフランス人は皆無だろうが,悲劇の熱量が国家の活力を最大化させた時代であったことは間違いない。
 本書はそんな時代を生き抜き,引っ掻き回した3人,フーシェ,ナポレオン,タレイランを描いた傑作評伝である。単行本で出版された時は評判が高かったので,文庫化するにしても一般書と同じ扱いになるかと思ったらさにアラず,この度講談社学芸文庫に収められることになった。まぁ,確かに大量の資料を土台に積み上げた本書が学術的に優れているのは確かだが,600ページもの本書を一気呵成に読ませてしまう鹿島茂のエンタメ的筆力を考えると,もっと定価を安くして講談社文庫に収めた方が日本の歴史的知性を高めるには良かったのではないかと思うと残念である。ま,講談社的には文庫になっても高い定価のものが売れた方がイイのかもしれないけどさぁ。
 以前,フーシェをモデルにした倉多江美の傑作歴史マンガ「静粛に、天才只今勉強中!」を此処で紹介したが,本書を読みながら,倉多の描き方が優れていることを改めて確認できた。フーシェの最期は別として,そこに到るまでの歴史的経緯,リヨンの虐殺,総裁政府での復活,ナポレオン政権での重用と失脚まで,重要なところはきちんと押さえて描いているのだ。本宮ひろ志とは正反対の冷徹な政治的振る舞いに焦点を当てた描き方は,もう少し日本の政治漫画も見習って欲しいと思う。政治漫画がみんな小林よしりんのようになっては困るのである。
 その倉多のマンガでも,「熱狂情念」に駆られたナポレオン,「陰謀情念」に一生を捧げたフーシェに対して,「移り気情念」を持つと鹿島に宣言されたタレイランは,一等図抜けた存在として描かれている。平民出身の二人に対して,貴族階級出身のタレイランは,一種世界史を俯瞰する知性に優れていたのだろう。ま,女たらしで銭稼ぎに熱心という精力家であることも手伝って,精神的にも肉体的にも余裕を持って人生を過ごせたってことも大きいようだが,やっぱりナポレオン没落後のヨーロッパ秩序を回復するだけの政治的構想力は,生まれついての貴族的インテリ知性がなければあり得なかったろう。現代のEUの原型が,フーシェが内政的に支えたナポレオンがヨーロッパ中を引っ掻き回した後の,タレイランが混乱を収拾するウィーン会議から出発しているということを考えると,フランスがもたらした大混乱は,今のヨーロッパの活力の源泉になっているとも言えるのだ。してみれば,この3人が同時代に生きていなければ,そして3人それぞれが異なる「情念」に駆られて積極的な活動ができなければ,つまりそんな活動ができるフランス革命の混乱がなければ,現代の欧州も存在していなかったと言えるのである。
 普通,学術的な記述をしようとすれば,なるべく合理的な説明で埋めていくのだろうが,鹿島の語り口では「情念」という言葉がバンバン出てくる。政治的な動きは合理的な説明のつく部分と,権力者の「性癖」による部分から成り立っていて,どうやら鹿島はこの性癖部分を強烈な個性,すなわち「情念」という言葉で置き換えているようなのだ。その点,ちょっとそこに寄りかかりすぎではないかと思わなくもないのだが,その分妙にすっきりしたストーリーになっているのが不思議である。
 してみれば,人間社会のドラスティックな動きというものは後天的にすべて合理的に説明の付く部分より,その動きを主導した極少数の個人の性癖に依存している部分が多いということなのかもしれない。
 年末から正月にかけての長い休み期間中に本書を読めば,この凍りつきそうな日本とは対極のエネルギーを読み取って個人レベルでエントロピーを高めることができるであろう。つまり本書の現代的意義は,フランス革命時代に発生した,この3人が抱えた恐るべき量の「情念」を個人に注ぎ込むことにあるといえるのである。

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