永坂秀子先生の思い出

卒業生の遺稿集を出すそうなので,その下書きとして書いた文章を以下に掲載しておく。

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 忘れもしない1991年,大学院生の受け入れはしないという方針の研究室にて数値解析の面白さに目覚めた学部4年生の私は,どうにかこうにか他大学の大学院へ行きたいと,手当たり次第に国内の数値解析系の研究室をリストアップし,電話(E-mailが普及するのは1990年代終盤)をかけて大学院生として受け入れて頂けるかどうか面談を申し入れまくっていた。リストアップした二番目が山梨大学の田中正次先生で,タイミングの悪いことに電話が繋がらず,三番目に挙がっていた日本大学の永坂秀子先生に電話をかけるとご本人在室で直接お話しでき,面談の快諾を得た。以来亡くなる前年の2019年まで,三十年近いお付き合いの始まりになるとは思いもしなかったことである。日本大学理工学部数学教室の研究室でお目にかかった先生は,一面識もない他大学の学部4年生に親しくお話しして頂き,「興味があるようなら6月の数値解析シンポジウムにいらっしゃい」とお誘い下さって,これもまた今も続く研究集会・数値解析シンポジウムとの長いお付き合いが始まるのである。

 そうして何とか潜り込んだ日本大学大学院理工学研究科博士前期課程(いわゆる修士課程)において,私は永坂研究室に泊まり込んだりしつつ,TeXやPC-9801や日立の汎用マシンや,SUN Sparcマシンと戯れつつ2年間を過ごしたのである。研究は面白く,計算にのめり込んだ私は,当然博士後期課程に進みたかったものの,金銭的な問題もあり,兄弟子の室伏誠先生のつてで雇用促進事業団に雇ってもらい,遠く能登半島の真ん中辺,穴水町の石川職業能力開発短期大学校にて,給料をもらいつつ理解のある校長の許可も得て社会人博士課程大学院生として3年間を穴水と東京を行ったり来たりしながら過ごし,永坂先生と戸川隼人教授のご指導のもと査読論文を三本執筆し,晴れて博士号を取得することができたのである。ちなみに,この時の副査のお一人は,戸川教授のツテで,二番目にお会いできなかった田中正次先生にお願いすることになったというのも何かの縁を感じざるを得ない。

 博士号を取得後も,私が静岡理工科大学に職を得て異動してからも,果ては永坂先生が日本大学を引退されてからも,先生のご自宅へ定期的に通うという習慣は続き,取り止めのない世間話や数値解析の研究についての楽しくお話しするという至福の時間を過ごすことができた。最近はもっぱら永坂家に伝わる古文書に関する話が多かったが,私の結婚後は妻共々親しくおつきあいさせて頂き,2019年12月まで,武蔵小山近辺の中華料理屋やイタリアンの店で会食させて頂いたのは良い思い出である。

 その他にも様々なことが思い出されるが,近年一番印象深い出来事は,2018年,常微分方程式の数値解法の世界的権威であるAuckland大学のJohe Butcher教授主催のセミナーで,永坂先生が五十嵐正夫先生や室伏先生らと精力的に取り組まれた捕外法の歴史をテーマとするマレーシアの研究者の講演で,かのNIM法(Nagasaka-Igarashi-Murofushi)の論文が取り上げられていたことである。このセミナーでは私も捕外法を例とする研究発表を行ったのだが,そこでもNIM法を取り上げており,この偶然の一致にいたく感動したことを今でも鮮明に覚えている。

 考えてみれば,はた迷惑な押しかけ弟子として出発した私は,学位取得もその後の精神衛生的支柱としても,永坂秀子先生の人徳に寄りかかりっぱなしの研究者人生であった。先生なくして今の私はここにはいない。ここに次の追悼の辞をお送りして締め括ることにする。

 日大の学部生でもないのに突然押しかけてきた私を暖かく迎えて頂き,大学院5年間のご指導を通じて修士号・博士号を取得することができました。以来,本年まで30年近くお付き合いさせて頂き,誠にありがとうございました。妻と共に静岡の地より御礼と共に,ご冥福をお祈り致します。