羽崎やすみ「リリカル・メディカル」ウンポココミックス(新書館)

[ Amazon ] ISBN 978-4-403-61880-2, \530
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 細く長くしぶとく生き残るマンガ家という存在は貴重だ。
 何故か? 理由は二つある。
 一つは,何百万部も売れる大ヒット作を出し,高額所得者にならなければマンガ家に非ず,という1970年代から80年代,いや90年代半ばまで続いてきた庶民幻想を打ち砕いてくれるからである。「儲からないしヒット作もないけれど,プロのマンガ家は続けられる」という証明をしてくれるのだ。
 二つ目は,生き残った理由だ。一言で言うと,個性,格好良く言うと「作家性の高さ」というものがそれなのだが,この場合の個性というのは様々なバリエーションを持っている。脂ぎっている個性もあれば,脂ぎっていると見せかけている努力が個性になっていることもある。概してアクの強いのが個性,ということが多いのだが,羽崎やすみの場合はそうではない。むしろアクのなさこそが個性というべきもので,彼女の場合は大衆演劇の持つ「ベタさ加減プラス大衆性」というものに近いもののようだ。これについては後で再び触れる。
 この二つの理由によって,羽崎やすみの十数年のマイナー商業誌キャリアは貴重なものと言えるのである。
 羽崎やすみは,代表作というものを持たずにデビュー以来十数年,マイナー雑誌を転々として来た作家である。もしかすると,いまでも同人活動(羽柴シスターズ)の方が,盆と年末に東京ビッグサイトに集う数十万人の間では著名かもしれない。ワシは大手サークルの行列が嫌いなので,同人誌の方でどのような活動をしているかはよく知らないのだが,昔読んだ,どこかのアンソロジーに収められた作品(サムライトルーパーのパロディだったかな?)を読む限り,羽崎の作品は同人誌でも商業誌作品同様,全く同じテイストの大衆演劇的コメディであったと記憶している。シリアス作品もあったと思うが,面白かったのはやはりコメディの方である。しかもやおい(現・BL)臭は皆無であった。
 従って,ワシが羽崎作品を熱心ではないが折に触れては読むようになったのは,1991年のコミックスデビューからである。
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 写真でも分かる通り,このコミックスでは羽崎「安実」名義となっているが,間違いなく今の羽崎やすみのデビュー作(更級日記の方が先)である。余談だがこの「NHKまんがで読む古典」シリーズは,1990年代当時の腕っこき同人作家に執筆させた,担当者のシュミ全開(?)の貴重な作品集になっている。くそぅ,鳥羽笙子の源氏物語は買っておくべきだったと今でも後悔している程である。
 羽崎の画力は決して高くはない。普通の美形を描かせると,少女漫画テイストではあるが,かなり地味な顔になってしまう。絵も決してきらびやかではなく,かなり地味。ファッションには全く自信がないということは本人も自覚しているようで,どこかのコミックスのあとがきマンガでそれを嘆いていたぐらいである。しかもコメディ作品内のギャグは相当な「こてこて」である。自分を追いつめるほどの突き詰めたものではなく,吉本新喜劇のパターン化されたそれに近い。まさに見かけはおっさん臭い大衆演劇マンガを十数年に渡って描いてきたのが羽崎やすみなのである。
 しかし,大衆演劇というものがダサいだの芸術性がないだのと批判,というよりは半ば軽蔑されつつも,その伝統は今も途切れることなく続いている。これはつまり,ワシも含めた頭の悪い大衆にとって,高度な芸術的表現などというものよりも,分かりやすい手あかにまみれたユーモアの方がずっと親しみやすいものであることを示している。立川談志がどれほど芸術的に優れた話芸を披露しようと,人気の点では親しみやすい志の輔の芸に敵わないのと同じだ。つまり,羽崎やすみは,どこまで悩んだ結果なのかは不明なれど,同人作品で育んできたバカ大衆向けコメディテイストを延々と維持する道を選んだのである。ワシは,これが羽崎の細く長い活動を可能にした源泉であり,根底には三宅裕司やチャーリー浜の持つ職人的生真面目さがあると考えている。
 最新作「リリカル・メディカル」も,ワシにとっては「いつもの羽崎やすみコメディ」の一つでしかないし,多分,読めばそこそこの満足が得られることも分かっているが,すぐに買って読まなければいけないと言う程の切迫感はなかったのである。しかし,どーも「お馴染みさんのいつもの味」が出されてしまうと気になってしまい,今回出張の合間に大書店を散策中にこれを見つけ,買って読んでしまったのである。で,やっぱりそこには「いつもの・・・」があり,ワシは「そこそこの満足」を得,何だかほんわかな気分を味わってしまったのである。こっ・・・これは,凡人感だっっ!
 そう,予定調和的な大衆演劇を見た後の,何とも言えない「凡人感」,それをワシはしっかりと自覚してしまったのだ。高度な芸術を理解できず,破壊的なギャグに魅力は感じつつも,その先にある破滅の美学に恐れおののいて後退する,それが平凡人の持つ凡人感だ。齢四十を迎える直前のワシは,そんな自分の平凡さを,羽崎やすみと共に,今,噛みしめているのである。