[ Amazon ] 「土門拳の昭和」, \2100
[ Amazon ] 「きみのかみさま」, ISBN 978-4-04-874091-3, \1300
土門拳,という名前を最初に意識したのは,やはり水島新司「ドカベン」の登場人物として「土門」なるイカつい投手が現れた時だろう。デカイ体から繰り出される球はひたすら重く,ヒットを飛ばすのが至難の業,という設定だった。それ以来,「土門」=「重量感」という公式が頭にこびりついてしまい,後に,同姓の写真家がいると知ってからも,「きっと重たい写真を撮っている人なんだろう」という思い込みが定着してしまったのも,無理からぬことなのである。
でまぁ,この度,土門拳の写真展を拝見する機会があって,デカイキャンバスサイズに引き延ばされた作品をじっくり眺めることが出来たのだが・・・いやぁ,重たいどころじゃないな,この人,とワシはつくづく本物の凄みを思い知らされることになったのである。で,会場で販売していたこの「土門拳の昭和」を購入してきたのである。
思い知ったのはワシだけじゃないようで,かの大御所マンガ家・西原理恵子も,「でも土門拳の『筑豊のこどもたち』を見たときは,「こりゃ,負けたわ」って思ったけど。」(「ユリイカ」2006年7月号,P.128)とシャッポを脱いでいる。
写真展でもこの筑豊地区の炭鉱街における子供たちを撮った写真が掲示されていた。本書ではP.83~89に納められているものがそれで,腐ってボコボコになった畳のくぼみに座る女の子,両眼両鼻から液体を瀧のように垂らしてして泣く子,ボタ山の急勾配で使える石炭を拾う男の子・・・いやまぁ,ここに掲載されている作品だけでも圧倒させられる力業であることが分かる。景色の「切り取り方」が写真家の世界を形成しているわけだが,土門の目には子供たちの,仏像の,焼き物の,植物のエネルギーが迸るシャッターチャンスだけが写っていたのであろう。いや,確かにサイバラが感服するだけのことはある。
さて,そのサイバラの目にとまった「筑豊のこどもたち」が住んでいた極貧の炭鉱街ができあがった理由を,先のサイバラの発言に続いて対談相手の大月隆寛が次のように説明している(同,P.128~P.129)。
筑豊=ヤバいところ,ってのは最近また若い衆中心にいろいろ言われているようだけど,あれも実は戦後に増幅されたところあるんだけどな。明治になって炭鉱ができて流れ者の炭鉱夫が集まってきて,でも景気は良かったわけでさ。気質的には漁師と同じで「宵越しのゼニは持たん」だからバンバンカネ使うし。そんなのがわずか10年,20年で一気に廃れていったら,そりゃあ,まわりからは異様な眼で見られるよな。(中略)
業田義家の『自虐の詩』ってマンガがあるだろ。知る人ぞ知る名作。業田自身も九州の人間みたいだけど,あそこに出てくる「熊本さん」なんか,キャラとしてもディテールとしてもかなりヤバい。さっきから出てくる高知や筑豊や,なんでもいいんだけど,そういう西南日本の土地がらみ,風土がらみの「貧しさ」とそれにまつわる歴史が凝縮されてるようなところがあって,なんかもう切ないんだよね。でも,そういう「感じ」がいろいろ理屈つけなくても,ピン,とわかるのは,やっぱり西の人間なんだよなぁ。
人類全体として,20世紀に入ってからは,地域にばらつきはあるとは言え,飢餓の発生率は減っているようだし,全体として「豊か」になっていることは余り異論がなさそうだ。しかし,減ったのは絶対的貧困であって,相対的貧困はますます根を深く,全世界的に広まりつつある。
サイバラの最新絵本「きみのかみさま」は,全世界,特にアジア方面の自然風土をバックに,相対的貧困と区分されるであろう子供たちのモノローグで構成されている「絵本」である。この第3話は,フィリピンあたりの都市郊外にあるゴミの山で使えるものを探す少年が主人公だ。まさに,ボタ山を歩き回っていた筑豊の少年と同じシチュエーションである。
そう,このサイバラの最新絵本は,土門拳がかつて撮り歩いた戦後の「筑豊=ヤバいところ」と地続きの貧しさを主題とするものなのである。
前作の「いけちゃんとぼく」は正直余り感心しなかった。少女趣味がサイバラの根底にあることはいいとして,それが地に足のついていない,よくあるファンタジーに留まってしまっていると感じ,映画化したと聞いても見に行こうという気も起きなかったのである。
その反省なのかどうなのかは知らないが,本作は逆に,故・鴨志田譲と歩き回った世界各地の紛争地帯,東南アジアのディープな所に今も存在する「世界」を描いた。そこに根ざした風景に溶け込む子供たちのモノローグが,良い具合に現実とファンタジーの茫漠とした境界面を表現していて,面白く読むことが出来た。貧しい生活をしていても,現代日本で普通に豊かな生活をしていても,子供が成長する過程で必ず抱く哲学的疑問を「かみさま」に託して虚空に溶け込む様を,サイバラブルーを駆使して表現している本作は,たぶん,年寄りの方が読んでいてしっくり来るのではないだろうか。
次の日がくるように
人は生まれたり
死んだりする。
そうして
あの花のさく
向こうへ帰る。
第14話はこうして締めくくられる。
何度か倒れながらも精力的に作品を撮り続けた土門拳は,1979年に脳血栓で意識不明となり,二度と目を覚ますことなく,1989年に亡くなった。
「あの花のさく」「向こうへ帰」った土門は,サイバラにこの「きみのかみさま」を残して逝ったように,ワシには思える。この2冊を並べて紹介したのは,地続きの「世界」を表現していると,ワシは確信しているからである。