あとり硅子「ばらいろすみれいろ」ウィングスコミックス

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-403-61766-2, \520
 出版社(新書館)によれば,著者が亡くなったのは本年(2004年)7月6日(火)であるらしい。享年34歳というから,ワシより一歳下となる。間違いなく,現代では夭折の部類だろう。
 で,著者が亡くなるとその著作は「最期の」とか「追悼」という文字の入った腰巻を伴って販売されるのが通例である。ワシが直接目撃したところでは,浜松と神保町の大型書店で,店員のポップも飾られて販売されていた。
 そーゆー,人の死を利用した販売戦略を蛇蝎のごとく忌み嫌う人がかつては多くいたように思う。大塚英次もかがみ♪あきらが急死した後,遺稿集の発行を言い出す出版社に対してはカチンときたらしい。ワシも若いころは,書店で平積みの遺稿集を見る度に何だかイヤな気分を味わったものである。
 しかしモノは考えようで,あまりにも露骨な売らんかな的態度ならともかく,それなりに節度を保ったものならば,遺作となった著作の営業もそれほど悪くないと,今は思っている。それは鶴見俊輔が自身の新刊について「これは僕の葬式饅頭本だ」と述べているのを読み,ああそういう考え方もあるのか,と目から鱗が落ちてからのことである。すべからく,その手の営業は「死亡広告」,著作の売り上げは「香典」と考えればいいのであった。
 今回,出版された「香典」は2冊ある。一冊は「あとり硅子イラスト集」(\2000),もう一冊は短編集「ばらいろすみれいろ」(\520)である。・・・2520円の香典は安すぎますかそうですか。でもしゃーない。それ以外の単行本「夏待ち」「ドッペルゲンガー」「光の庭」「これらすべて不確かなもの」「黒男」「四谷渋谷入谷雑司が谷!!(1)」(これだけ第4刷)「同(2)」は殆ど初版で持っているのだから。もう買うものがないのである。すいません。今のうちにもう一セット購入しておくべきかしら・・・。
 というのも,出版社の規模,現在の出版状況からして,また,著作の少なさ,作品自体のインパクトのなさ(後述するが,これは悪口ではない為念)からして,遠からず新刊書店からあとり硅子作品が消え去ると思われるからである。で,悔しいから,ここで弔詞代わりに,彼女の作品に見られる「哲学」をがなり立てておく次第である。
 彼女の作品はどーも人には勧めづらい。とっても乱暴な言い方をすれば,ヌルい癒し系に分類されるであろう。であるから,「ああそーゆーのは間に合っているわ」と言われてしまいそうで,それがイヤさに黙って単行本が出るたびに買って読んで自分一人で「この良さが分かるのはワシだけさ」と自己満足に浸っていたのである。
 確かに,カタルシスを感じさせてくれるような作品を,彼女は一切書かなかった。しかし,一定数の読者を捕まえていたのは確かで,寡作ながらもある一貫した姿勢を貫き通した作品群を残して,この世を去ったのである。
 それを示す言葉を,つい最近,内田樹の「街場の現代思想」に見つけた。

 「愛において自由であろうと望むのなら,私たちがなすべきことはとりあえず一つしかない。それは愛する人の「よく分からない言動」に安易な解釈をあてはめないことである。
 「私にはこの人がよく分からない(でも好き)」という涼しい諦念のうちに踏みとどまることのできる人だけが愛の主体になりうるのである。」

 あとり硅子はこの「涼しい諦念」を持って,「愛」を描き続けた作家なのである。これが一番分かりやすく描かれた作品は,松尾おばさんも取り上げていた「これらすべて不確かなもの」であろう。この作品は,息子たちには「愛していない」とヌケヌケと抜かすものの,どうやら息子たちに対する「愛」らしきものは持っているらしい父親が登場する。長男は父親のこの態度に怒り狂い,次男と三男はこの二人の行動に振り回された挙句,「諦念」を持って「愛じゃなくても・・・・・・なんかよくわかんないもんがあんだろ きっと」と納得する。
 人間,性別はともかく,共同で生きていく限りにおいてはどこかで「涼しい諦念」を持つことが望ましい。その結果が愛と呼ぶものであるらしい・・・という哲学が彼女の作品を貫いているのである。
 遺作となったこの短編集に収められた作品についても例外ではない。「クピト」は正体不明の叔父から送られた,いたずら者の石膏像とそれに振り回される大学生の物語である。「オムレツの月」では,口が悪く出来も悪い召使ロボットを慕う少年が,「シンプルデイズ」では犬猿の仲である友人二人の諍いを楽しみつつ仲裁してとばっちりを受ける青年が,「ひとさらい」ではさびしい物語を記述されたさびしい本が,結果として「涼しい諦念」と引き換えに愛を知る物語と言えてしまうのである。表題作「ばらいろすみれいろ」では,主人公の青年が,中身の伴わない愛情を他人から寄せられて困惑する様が描かれており,ある意味,示唆的である。
 熱血ではない,低血圧マンガ(by 岡田斗志夫@BSマンガ夜話)の定義にバッチリはまる作品群でありながら,人には人が必要で,人同士が一緒に生きていくためには相手の訳のわからない言動も許容することが肝心,という哲学を提示し続けた彼女が夭折したのは真に残念である。しかしまあ,この哲学は一種の悟りであるから,悟った人物は早めに天上へ招聘されるものなのであろう,と一人納得しているのである。
 彼女の生前発行された単行本のあとがきは,必ず次の文句で始まっていた。

 「読もうという強い意志をもって読んで下さっているかたも,そうでないかたもこんにちは!!」

 ワシは最初,「そうでないかた」であったが,そのうち「強い意志をもって読むかた」になった。冊数の少ない彼女の単行本は,あまり書店の棚を占める政治力のない新書館から発行されているため,恐らく,今が一番入手しやすいと思われる。皮肉なことだが,この機会に「そうでない」多数の方に読んで頂き,「強い意志」を持つ方になることを,愛読者として願っている。