とり・みき,唐沢なをき「とりから往復書簡 1」リュウコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-19-950091-6,¥933
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 それにしてもまぁ,とり・みきほど漫画家同士のコラボレーションが好きな漫画家は珍しい。一本立ちしている他の漫画家とコラボした作品集はこれで3冊目になるのだから。
 最初は原田知世ファン続きの畏友・ゆうきまさみとの共著,「土曜ワイド殺人事件」,「新・土曜ワイド殺人事件」である。これは,とりがコンテを起こし,ゆうきがそれを土台に下書きを入れ,とりがペン入れをして原稿を完成させるという,原稿を持って往復する編集者泣かせの手順で作成されたギャグシリーズである。後述するが,とりの絵に現れてきたシャープな線と抑揚は,本作でゆうきから影響を受けて形成されたモノではないか?
 次は,とりと同じく秋田書店で活躍していた,おおひなたごうとの共著,「エキサイトな事件」(秋田書店)である。今では弱小に落ちてしまったポータルサイトExciteで細々と連載されていた四コマ(?)マンガを,西原理恵子担当者として名を挙げた,新保信長が編集し,コラムを追加して一冊にまとめ上げたものである。
 そして今回,3冊目,唐沢なをきとの往復書簡,というより,受と攻の形式で原稿をお互いキャッチアップしながらコミックリュウに連載を続けている異色作が単行本として出版されたのである。それがこの「とりから往復書簡」である。
 唐沢なをきがメジャーになって来た頃,等身の短いキャラクターといい,サインペンによる抑揚のない描線といい,無機質なギャグといい,その作品はとり・みきのものとよく見間違えられたものである。それも当然,唐沢なをきは,とり・みきの臨時アシスタントを務め,強く影響を受けているのである。本書に収められている対談でも触れられているが,その詳細は「マンガ家のひみつ」(徳間書店)で唐沢自身が語っている。ちょっとその部分を引用しておこう(P.138)。

唐沢なをき「それでとりさんのマンガを読むようになって,初めて感動したのが『ポリタン』と『ときめきブレーン』。このふたつは本当に泣けるほど感動しました。ああ,こういうのを許されている人がいると(笑)。しかもそういう人にネームを見せたら,すごい褒めてもらったじゃないですか。スゲェうれしかったですよ。なんだ,やっぱりこれでいいじゃん,という。」
とり・みき「悪いほうへ導いた(笑)。」
唐沢「それまで編集者にはケチョンケチョンだったのが,あ,これ面白いよ唐沢君って言ってくれたんですよ。あのひと言はなんかすごい支えになったなぁ。」

ということで,自信を失いかけていた唐沢を復活させたのはとり・みきだったのである。美談である。
 しかし,一見すると作風が似ている両者だが,こうして一冊にまとめられたものを読むと,今ではかなり絵にもギャグにも違いが出てきていることが分かる。唐沢の絵は,とりが流行らせたサインペン調を保っているのに対し,師匠・とりの絵は,一度解体した抑揚のあるペンタッチが復活しており,デジタル処理を使いこなせるようになったことでシャープさがより増している。印象を一言で言うと,唐沢の絵には温かみがあり,とりの絵には冷たさを感じるのである。本書が心地よいハーモニーを奏でているのはそれが理由の一つなのだろう。
 もう一つ,心地よいハーモニーの理由として,とり単独作品に比べてギャグの「毒」も「中和」されていることが挙げられる。この「毒」に関してはとり自身が自覚しているようで,おおひなたとの共著における対談でも「人が悪い」(P.134)ということを述べている。そう,とりのギャグにはかなり奥深いところを抉る鋭いものが秘められているのである。ちょっとこれは言わない方が・・・と思った所をズバッと言ってのけるところがあるのだ。
 一番印象深いのは「愛のさかあがり」で使っていた

「いきなり自由落下がオッシャレーになってしまった」

というものである。これ,某人気アイドルが飛び降り自殺した事件を受けてのギャグなのだ。ワシはこれを最初に大判の単行本で読んだとき,ヒドイ,と思うと同時に,スゲェ,と驚嘆したものである。この辺のDNAはDr.モローにも共通しているようで,さっき買ってきた同人誌「フデコ伝説 XII」を読んでいたら,コミケ前代表・米澤嘉博の急死を受けて

「ヨネザワさんはアタシたちに身をもって教えてくれたのよ」
「やっぱりタバコは体に悪い」

というギャグをカマしていて,ひっくり返ったところである。これ,コミケカタログに掲載されていた漫画なんだが・・・。
 そんな訳で,久々に集った師弟が共作した本書,とりの「冷たさ」と「毒」が程良い具合に唐沢によって中和された,万人にお勧めできる漫画エッセイになっているのである。連載はまだまだ終わりそうにないので,次の2巻が出るのも確実である。楽しみに待つことにしたい。

8/18(月) 東京->掛川・晴後曇

 脱糞の成果を見せるべく,朝一で丸の内オアゾに駆けつける。久々に東京の通勤ラッシュというものに巻き込まれてちょっと弱る。何せ,昨日の戦果が肩に食い込むからね。
 お盆明けというのは人間ドックに入るにはいい時期なのかどうか知らないが,今まで経験した中で一番込み合っていた。特に一番手間がかかる胃カメラは希望者が多く,これだけで30分以上待たされることに。検査の結果は3週間後に届くそうだが,軽い胃炎になっている以外は特に問題なさそう。午前11時前にはすべて終了した。
 品川駅のSUICAロッカーに昨日の戦利品を預け,神保町をブラブラ。昨日と違って夏の暑さがぶり返しており,予定の品を購入した後は喫茶店に逃避する。
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 神保町も,来るたびに靖国通り沿いの古本屋さんが減っていくなぁ,と思う。三省堂本店を出て九段下へ向かう角に何件かあった店はチェーンの食いもの屋になっているし,老朽化したビルを建て直す工事が始まっている一角もあった。背後には再開発によって生まれた巨大なビルがそびえるようになっているし。
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 ワシの足腰が立つうちは,まだまだ古本屋さんにはたくさん残っていてほしいものである。
 大師匠のところへ立ち寄ったのち,新幹線で帰宅。ふー,疲れた~。ぷちめれをアップしたら,今日はもう寝ます。明日から日常業務に復帰だだだ!

8/17(日) 掛川->東京・晴後雨

 決戦は日曜日~。というほど大げさなものではないが,先週は完全にヒッキー状態で運動不足ここに極まれり,だったのでちょと中年オヤジとしては体力に不安があったのである。
 帰省ラッシュの最中なので,掛川を朝一に出発するはずが寝坊。仕方がないので,掃除洗濯を済ませて8時30分のこだまで東京へ。空を見上げるとうろこ雲が出ていた。もう秋の気配が漂っている。
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指定席はいっぱいということだったが,自由席は最後まで7割ぐらいの乗車率だった。みんなこだまが嫌いなの?
 両国の定宿についた頃には小雨がぱらついていた。
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 今日一日,もってくれるかしらん?しかし涼しいな。後でニュースを見たら,最高気温は都心でも25℃だったらしい。運動不足の身には助かったぁ。
 で,伯爵のお住まい((c)伊藤伸平)の下をくぐって戦場へ向かう。
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 荷物検査・・・気配もないな。まあ実際にやらかしていたら,午前11時に入場制限解除なんて無理だわなぁ。
 西ホール→東ホール(片方のみ)を流したところで約一時間。東ホールの野郎流体に流されて,一本木蛮さんのところにたどり着くのに泳ぐようにしたのがご本人には受けた模様。やでうでしや。・・・などと言っているバヤイではない。この時点でもう疲れがピーク。西ホールに戻ってゆっくり探索を・・・と思ったが,半分ほどで流したところでもう限界に達し,午後一時前には新宿方面に脱出した。宿で戦利品を見たら・・・
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げげ,高さ15センチはあるぜ・・・どーりで重かったよなぁ。しかもエッチ本は一冊もなし。ワシも枯れたものよ(ウソ)。
 新宿では紀伊国屋書店で「レッド1」「同2」を購入し(1を買いそびれていたのでこの機会にまとめ買い),崩壊寸前のデイバッグの代替品を東急ハンズでゲットし,晩飯用にと高島屋のデパ地下で焼きサバ弁当を入手した。短時間でこのすべての買い物が済んでしまうのは,これだけの規模の店が一か所に固まっているから。やっぱ,南口って便利。名古屋駅もこの組み合わせ(書店は三省堂だけど)なんだが,やっぱり新宿の成功があったからなのかなぁ。
 つーことで,今この記事を両国の宿で書いてます。はー,買い物は楽しー。が,明日は人間ドック。今までの脱糞の成果を見せる時だ。気合いを入れて丸の内オアゾに出撃するぞ~。
 戦利品を読みながら寝ます。

寺島令子「墜落日誌 社会見学編」エンターブレイン

[ Amazon ] ISBN 978-4-7577-4397-7, \780
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 ページ数の割に,読了するまでに時間がかかる漫画,は存在する((c)須賀原洋行)。例えば小田空。例えば西原理恵子。読みにくいわけでは決してないが,一コマ当たりの情報量が多く,それをきちんと読み取って次のコマへ移動するまでの時間がかかってしまうのである。但し,小田はチマチマと書き込む派(以下,チマ派と略記),サイバラは芸術的なギミックを詰め込む派(以下,芸術派と略記)であり,タイプは完全に異なっている。しかしどちらもエッセイ漫画であるという点は共通している。
 かつてのアスキー,今のエンターブレインが出版していた漫画にも二系統が存在している。芸術派の代表は桜玉吉(今どうしているのやら~)だ。そして,小田空タイプ,つまりチマ派には,水玉蛍之丞,そして寺島令子がいる。この二人のチマ派が描く作品は,かのいしかわじゅんより「濃いマンガ」として認定されているぐらい,情報量が豊富なのである。それが水玉の「こんなもんいかがっすかぁ」(1994年)であり
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今回めでたく新刊が6年ぶりに出た,寺島の「墜落日誌」
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なのである。ちなみに墜落日誌は4巻目「ネットゲーム編」があるはずなのだが,ワシは買いそびれてしまった。ごめんなさい。
 このチマ派の2シリーズは,長期に渡って連載されたということもあって,すっかりGUIにインターネットが当たり前になった昨今では,日本のITの歴史を語る貴重な資料となっている。水玉のものは1994年までのPC通信(インターネットじゃないのよ,ええ)について,寺島のものは1989年から2008年現在までのゲームの進化を知らしめてくれるのだ。特に後者は作者自身の体験日記(それを「墜落」と称しているらしい)となっているので,何とゆーか,エンタメにはついぞ縁遠かったワシとしてはそのバイタリティに感心させられてしまう。
 この夏(2008年7月)出版された「墜落日記 社会見学編」は2002年から2008年まで,掲載紙のログインが休刊するまでの作品が,著者の注釈や編集者との対談記事と共に収められている。前作4巻と異なり,版型が細長くなっているため,タダでさえチマ派な見開き2ページのコママンガが更に縮小されており,そろそろ老眼になりかけている中年オヤジには写植文字がちと読みづらい。だもんで,最初の方はナカナカ内容に入れず,グズグズと枕頭に置いて少しずつ読み進めていたのだが,次第に慣れてくると一気に読了できた。つまりそれだけハマる作品なのである。そして一度このチマ派のマンガに慣れてしまうと,もう普通のスカスカエッセイ漫画なぞ,生ぬるく感じてしまうのである。恐るべし,チマ派の洗礼!
 内容はというと,
 ・ネットゲームをやりつつ
 ・PCの不調に悩み,パーツをとっかえひっかえしつつ
 ・うどん会と称する編集者らとのパーティを定期的に催して料理や山登りを楽しみつつ
 ・e-Taxに挑戦しながらついぞ電子申告を果たせず
 ・様々な博物館を探訪する
というものになっている。これを毎回2ページに詰め込むんですぜ,ダンナ。チマ派の技巧ここに極まれり,となるのも無理はないのだ。
 それにしても楽しそうな日常で,羨ましい限りである。バツイチになっても健全な社会生活が維持されているのは,本人のバイタリティもさることながら,うどん会を初めとする友人知人関係とのコミュニケーションの賜ですな。一人でシコシコ作業せざるを得ないマンガ家という職業なのに,あくまで創作態度はオープンに保ち続けている。そこが,20年近い連載を維持できている秘訣なんだろうな,きっと。

吉田武「オイラーの贈物」ちくま学芸文庫

[ Amazon ] ISBN 4-480-08675-7, \1500
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 一体全体,何でこんな本がもてはやされるのかなぁ,というのが本書を一読しての第一印象であった。京大の数理工学専攻出の著者なら,結構なレベルの解析学や数値計算,応用事例を学部でも勉強させられるはずだから,そこで学んだ知識を総動員してぶち込んだらこの程度の本は書けて当然。しかも数値計算の話が多少入っているぐらいで,内容はかなりオーソドックスな初歩の解析学(微分積分)に,関数空間の初歩を混ぜ込んだ程度のもので,解説が計算例をまじえて丁寧なのは美点ではあるけれど,もっと新機軸を入れられなかったのかなぁ・・・と,思っていたのだ。
 で,この度,複素解析の講義を持つことになり,あっちこっちの文献を調べまくった中で,本書も再読することになったのだが,その際やっともてはやされる理由が分かったのである。
 そうか,新しい視点を導入しなかったのが美点なんだ,と。手垢にまみれたネタを,より丁寧に具体的な計算例を交えて解説することに徹した,それが支持される理由だったのだ,と合点がいったのである。
 数学は難しい。論理的思考は確かに人間の一部ではあるが,全てではない。本能とか感情とか,人間を人間たらしめる要素があってこそ,まともな社会生活が送れるのだ。それを数学は全否定する。定義から外れた用語の使用を認めないし,全ての定理はコード化可能な論理展開に乗っ取った証明が必要とされ,直感的な説明を排除する。書店の数学書コーナーでは「直感的な数学」みたいな本が出ているが,あれは数学ではない。数学の「あらずじ」みたいなモンである。もちろん,ワシら教師が講義するのも「あらずじ」に過ぎず,本式にやろうとするなら,「定義→定義→定理→証明→定理→証明→定義・・・」という,知らない人にしてみれば無味乾燥な繰り返しにならざるを得ない。記述にアクセントを付けるために,比喩や演繹に基づく「説明」や「具体例」が入ることはあるが,それは本来不要なものである。発想の原点としては大いに役立つとしても,数学の骨組みとは無関係なものとして扱われるのが普通である。
 つまり,数学は,人間の脳の活動の多くを「論理」に向かわせようとする,かなり不自然な頭の使い方を強要するものなのである。それを楽しみながら出来る人間もいるが,まあ少数派である。大多数にとっては大なり小なり強制されてようやく身に付くものであり,しかも情緒力なんてものと違って,能力の個人差が大きく開いてしまう。中学,高校と進むにつれて,「自分は数学に向いてないや」と諦めてしまう人が増えるのも当然のことなのである。大学の理工系に進んだところで,いきなり「本式の無味乾燥論理体系」にぶち当たって挫折しない人間もまた少ない。今では専門課程の方から圧力がかかるため,「本式」で講義を行う数学教師は殆ど絶滅したと思われるが,個人的には「無味乾燥論理体系」の「無味乾燥」にもそれなりに存在意義があるので,少しは粉振りかけてもいいからきちんと教えて欲しいものだと思う。が,次々と受講生が減っていく事実を前にしてそれを貫き通すのはナカナカ困難である。
 それでも何故か「計算」という部分に関しては,未だ世間の支持が高い。これだって「無味乾燥論理体系」の一部ではあるんだけれど,
 ○予備知識があまり必要ない
 ○計算に使われる論理体系はストレートなものが殆どなので,覚えるのが楽
 ○計算を進めることで,自力で解けた,という感動を味わえる率が高い
というあたりが数学における「計算」が広く支持される理由だとワシは思っている。この辺をうまく商売に結びつけたのが公文式で,ドリル方式の自学自習が可能だったのも,殆どの学習内容を「計算」練習に絞ったからである。
 しかし,これを逆に考えると,世の中に必要とされる数学は「計算」しかない,ということになってしまう。これだけコンピュータがカジュアルにとけ込んだ現状を考えると,計算を人間が行う必要は殆どなく,もっとドラスティックな思考,近似的な概算とか,大規模な計算処理の効率的なやり方などを人間は担当すべきで,任天堂DSでチマチマ計算ドリルを解くのが数学教育の結果だとすれば,この先の日本の科学技術は非常に危ういと言わざるを得ない。
 吉田のこの本は,大学理工系の線型代数・微分積分を本式に習った人間ならば,一度は聞いたことがあるテーマばかり扱っている。でも扱い方は非常に丁寧で具体的だ。「計算」の範囲で可能な説明を具体例を交えて行っているので,もしこれでその節の解説が分からないようなら,大学の基礎数学を学ぶための基礎教養に欠けていると言わざるを得ない。もう一度,高校までの教科書をひっくり返して勉強し直すように。
 逆に言えば,本書の解説は「計算」が及ぶ範囲の「数学」,いや基礎解析学に留まってしまっているのである。「え,こんなに分厚い(文庫本500ページ超)のに?」と訝しげに思われる方もおられようが,そうなのである。線型代数+微分積分学+(初歩の)複素解析,これに数値解析のフレーバーを効かせたのが本書の内容の全てなのだ。それが悪いというのではない。いや,それこそが本書を数学書としては異例の売れ行き(って具体的な発行部数はシランけど)に繋がった理由なのである。計算が届く範囲の内容と解説に徹底して絞った自学自習書という狙いを持ったからこそ世間のレベルと要求にジャストフィットし,見事なマーケティング的成功を収めたのである。
 だが・・・ワシはやっぱり言いたくなる。「これじゃ,『現代の』数学に繋がりませんよ」と。何故なら,今の数学は様々な「視点移動」によって組み立てられた論理体系なのであり,古典的な計算の単純な延長上には作られていないのだ。むしろ,そこからいかに浮遊するか,もう一つ別の位相を加えるかということに腐心してきた結果が今日の数学なのである。今更言っても詮無いことだけど,吉田には是非とも「本書の解説の限界」を示して欲しかったのだ。チルンハウス変換の先にも5次以上の代数方程式の代数的解法が存在しないことを解説して欲しかったのである。
 無い物ねだり? いや,まさしくそうだ。世間の支持を得た書物に対してグダグダ文句を言うのは単なる嫉妬と片づけられてしまうだろう。だからこそ,ワシは唾棄されるだけのこのblogのエントリに,こう書き付けて置かなければならない。
 是非とも,同じちくま学芸文庫から出ている「角の三等分」も読んでみて下さい。吉田の書には書いていない,視点の移動が主要テーマとなっているから,と。