福満しげゆき「僕の小規模な生活 1巻」講談社

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-375417-9, \743
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 ガロの流れをくむ異端マンガ雑誌・アックスに掲載されていた福満のマンガを最初に知ったのは,多分,フリースタイル Vol.3掲載のいしかわじゅん×南信長対談だったと思う。その後,吾妻ひでおの日記でも好意的に取り上げられていたのを読んで興味を持ち,そろそろ購入すべきか,と考えていた矢先に出たのが本書である。しかもメジャー出版社。でも装丁はまるっきり青林工藝舎。普通のA5サイズコミックスに比べて価格も高めだし,つまりは,そーゆースタイルで売り出した方が得策だと講談社サイドは考えたということらしい。うーん,最近は小学館でもIKKIなんてマンガ雑誌が出るぐらいだし,飽和したマンガ市場で利益を上げるにはニッチなマーケットも確保しておかねば,と,大手出版も考えを変えたってことなんだろうか。この辺の動向はぜひ中野晴行さんに分析していただきたいところである。
 そのニッチなマーケットにあって,それなりに利益が上がりそうだ,と目をつけられたのが福満しげゆきという存在だった,と勝手に断定することにして,さてこのマンガのどこが良かったのか? そこんところをつらつらと自分勝手に考えることにする。
 2007年12月現在,福満のマンガはWeb上でも読むことが出来る。本書でも語られているが,ご本人のWebサイトも存在している(奥さんが作ってくれたものらしい)。福満を知らない方は,まずそれをご覧頂きたい。
 読んだ? では,話を続けよう。
 本書は青林工藝舎「僕の小規模な失敗」の続編・・・というか,現在進行形でこの日本の首都・東京に住む福満自身とその奥さんを中心とした生活を語る,エッセイマンガの体裁を取っている。いつも目の下にクマをはやし,自意識過剰気味な性格がもたらす額の脂汗を流しつつ,少し猫背気味の姿勢で漫画を書き,妻との間合いを取りながら時にはバイト生活を送っていた福満自身が主人公だ。が,双葉社と講談社から同時に連載の依頼を受け,メジャーの道を走り出したところが本書の後半で描かれているので,そろそろマンガだけで食える状況になってきたようである。なんか,水木しげるの自伝を読んでいるような気分になってくる。ガロ→講談社(少年マガジン)というルートを辿った水木と,アックス→講談社(モーニング)&双葉社(アクション)というルートを確保した福満,将来が楽しみである。
 それはともかく,本書はエッセイマンガの形態を取っているし,福満自身もここで描かれているような惨めったらしい存在だと認識しているのだろうけど,それを額面通りに受け取るのは果たしてどうか,という気がする。実際,いしかわ×南対談においても

いしかわ「(略)とにかくこの粘着質はすごい。手紙を書きまくって,携帯書きまくって,通話料金が十二万だっけ。(笑)」
南「毎日手紙書きまくったあげく,「お願いだから控えてください」って言われる。敵に回したくないタイプです(笑)。でもこのひとはものすごく極端だけど,ある部分はわかるなぁ,というところがありますよね。十七,八歳で将来に不安を持つというのは誰にでもあることだし,もっとダメな人って世の中にいっぱいいる。無気力でダラダラしててなにもやらない人とか。それに比べたらこの主人公はものすごくアクティブ。マンガを書くこともそうなんですけど,向上心がある。」
いしかわ「前向きだよね。でも暗〜い前向き。粘着質で暗い前向きなんだよ(笑)。」

・・・と指摘されている通り,実はこの福満という男,サイバラや得能史子と共通するまっとうな夫婦生活を送るための常識,相当の根性,プロ的視点,の持ち主とお見受けする。
 まず,マンガだけで食えない状況にあっても,きちんと結婚している,ということが挙げられる。この時点で萌える中年ひとりものとしてはジェラ心に火が付いてしまうのだが,それはこの際置いておくことにしよう(でないと話が進まない)。まあ,結婚までの経緯は色々あったとしても,本書で描かれている夫婦生活は相当まっとうなものである。稼ぎのない時は奥さんが働いて食い扶持を確保し,そろそろダンナにメジャーからお声が掛かるようになった頃を見計らったように奥さんは専業主婦化していく。働いている間はダンナを穀潰しとして叱咤し(激励の意味もあろう),福満もぶつぶつ言いつつもそれなりにバイトに精を出す。ビンボー夫婦生活を描いたエッセイマンガは,例えばここでも取り上げた「まんねん貧乏」「同2」があるが,稼ぎの範囲で生活をする,稼ぎに不足があれば自分が動く,という原則に忠実なところは福満も得能も共通している。高々数万程度の急な出費を補う貯金も出来ずにサラ金に走るバカどもは,福満や得能の爪の垢でも煎じて飲むがいい。ついでにサイバラから罵倒されてみろ,と言いたくなる。その意味で,福満の夫婦生活は理想的なあり方と言える。
 次にいしかわ×南対談で挙げられていた「根性」についてだが,当然,メジャーからお呼びが掛かるまで地道にマンガを書き続けたことを挙げなければならない。その前に,原稿料が出ないアックス(やっぱり本当だったのか・・・)に「普通に読める」マンガを描き,単行本まで出していた,というステップを踏んでいたことがジャンプのきっかけとなったことは疑いない。それにしても,この陰気を地でいくようなねちっこい画風で,自意識過剰としか言いようのない鬱々した世界を書き続けたことは相当な根性とお見受けする。本書ではミュージシャンを目指しながらライブの一つもしようとしない知人を尻目に,福満自身が見事バンドを組んでライブを敢行してしまうエピソードも描かれているが,これも根性の証左である。そして,自分でどれほど意識しているのかは不明だが,ちゃんとメジャーどこからの要求に応えて何度もネームを書き直し,画風も段々軽やかになっていくのはたいしたものだと思う。それでいて奥さんは可愛く描いているし,エロいし(ああっ,太もも太もも!),ワシみたいなメジャーどころしか読まない普通の読者のツボも刺激してくれる。それもこれも根性の賜物,と言うほかないのである。
 そして最後は,福満のプロ的視点だ。客観性,といった方がいいかな。自分が他人からどう見られているか,その上で,自分はどう行動すべきか,という悩み,それ自体が本書が一番エンターテインメントしているところなのだが,答えの出ないこの問題を,福満はねちっこく根性で乗り切ると同時に,相当考えた上で行動しているのである。そしてそれを本作に描くことで読者を喜ばせることができる,ということも福満はちゃんと意識しているはずである。自分の自意識が過剰であり,しかしそれこそが自分の持つ一番の「ウリ」であり,それを丁寧な絵と端正なコマ割に載せることで,読者を満足させることが出来るという確信が,福満にはある筈なのだ。そこにワシはプロ的視点,客観性を感じてしまうのである。笑われることは恥と考えるだけではなく,むしろそれを利用して,「どう笑われているのか」と意識し分析することで表現のステージを駆け上ることができる,ということを,福満は都営団地の一室でペンを走らせつつ確信しているのである。
 本書を単なる「ダメ人間」のエッセイマンガ,として楽しむことは可能であるし,世間ではむしろそちらが多数派なのかもしれない。しかし,ワシにはとてもそうは思えない。少数派かもしれないが,福満に嵌る読者のある一群は,間違いなく「共感」しているのだ。共感する読者は,「ああ,ここにも同じ自意識に悩む人間がいる」と安心する。しかし,その上には福満がしっかりと監視の目を光らせ,「・・・よし(ニヤリ)」とほくそ笑んでいるのである。
 恐るべし福満。メジャー二社を巻き込んで取り合いになる騒動を,悩みつつもネタにするねちっこい政治力とプロ意識,大いに見習うべきである。

12/23(日) 東京->掛川・雨後晴

 ふー疲れた〜。久々に都内をぐるぐる回ってしんどいのなんの。だもんで,本日の足跡だけを簡潔に記す。
1.朝8時過ぎに蒲田のホテル出発。東京駅にてコインロッカーを悠々確保,昨日の戦利品を格納して身軽になる。休日の東京駅地下のコインロッカーは,午前10時過ぎになると殆ど空きがない状態になるからね。
2.東京ミッドタウンをウロウロして,新国立美術館へ。公募展という奴の招待券を貰ったので行ってみた。黒川紀章の設計の建物だが趣味にあらず。公募展も素人の寄せ集めという感じで,まあ面白いものも散見されたが,隣でやっていた書道の公募展の方が楽しめた。しかし老後の趣味としてはこーゆーものに出展するというのも悪くない。一種の同人サークルみたいなもんか。これだけガラガラなら,コミケより体が楽である。
3.六本木から神保町へ移動。やっとこさっとこ「このマンガを読め!2008」と,書泉ブックマートにて遭遇出来た。その後,三省堂書店では平積みになっていたのを発見。神保町にしか配本しないつもりか吉田保・・・。三省堂では翻訳本が目立つところに縦置きされていて満足。もし目立たない扱いになっていたら「やさしい微分方程式」の上に載せてやろうかと思っていたが,テロを敢行せずに済んだのは幸いであった。
4.神保町から市ヶ谷へ移動。日本大学本部前を通過して私学会館にて情報科教育学会発足式に出るも,会場に冷房が入っていて寒かったのと,メンツが情報教育の常連さんばっかりだったのでさっさと出てきた。一応正会員の手続きは取ったので,今年度と次年度は会員でいるつもり。どーせもう一つの方は止める方向だしな。
5.市ヶ谷から秋葉原へ。夕飯をかっ込んで御徒町で下車,鈴本演芸場へ。本日の夜席は若手メインの興業で,喬太郎・歌武蔵・菊志ん・ロケット団・白酒を目当てにしていたのだが,この5人(組)にハズレなし。津軽三味線の太田家元九郎,アサダ二世も良かった。一番は喬太郎の「時そば」で,最初は本寸法でやるのかと思っていたら・・・という次第(何がだよ)。柳家一門のお家芸だけのことはあるね。
6.夜席が8時ではねたので,ダッシュで東京駅へ。午後8時23分名古屋行きこだまに間に合った。ふーしんど。
 疲れたので今日はもう寝ます。明日からエロ特集,かなりこじつけも混じりますけど,乞うご期待(しなくていいです)。

12/22(土) 掛川->東京・曇時々雨

 どよんとした空の下,東京へ向かう。出発時にグズグズしたせいで10時5分掛川発のこだまに乗ることになってしまった。グズグズの理由は,炊いてあった飯の始末。ちょうど買い置きの海苔を切らしており,海苔なし・梅干しembeddedな白い飯玉を作って昼飯用に持って行くことになった。その決断に手間取り(海苔なしの飯玉をおにぎりと称するのは日本人としていかがなものか,そもそも海苔なしで神聖な飯を握って良いものかどうか,等),予定より2時間遅れで出発したのであった。
 
 車中,伊丹映画の駄作について思いの丈を書いてみたら,随分長くなってしまった。これぐらいでいいか,と気がついたらもう東京駅である。人生は短い。
 まずは翻訳本の営業のため,某大・某教室へ向かう。以前の建物は内装工事のため,某(某ばっかりや)大手電機メーカの元本社ビルに移転していた。エレベーターが10機もあって壮観。移転前の建物はあれだけの学生が出入りしているにも関わらず,一機のエレベータでやりくりしていたことを思えば隔世の感がある。ま,いずれは元の一機ビルに戻ってしまうのだが。
 お留守だったので,翻訳盆の宣伝メモのみ残して去る。後でメールを頂き,すれ違いだったことが判明。2巻お揃いで常備しておくとよろしいですぜダンナ!(女性だけど),とお返事を宿で書く。ま,ワシがプッシュしなくても一揃いは買ってくれるとは思うが。
 営業の後,御茶ノ水及び東京丸の内の丸善で本を漁る。久々の大量買い。相変わらず,フリースタイルの「このマンガを読め!2008」と遭遇出来ずに泣く。

もっと増刷して平積みを目指さんかい,吉田保のバカぁ〜

 リベンジは明日,神保町にて果たすことにする。・・・高岡書店に置いてなかったら,下北沢まで殴り込んでやろうかしらん。
 とりあえず,本日購入分のご紹介をしておこう。
 ・福満しげゆき「僕の小規模な生活」1巻,講談社(青林工藝舎刊行のものの続き)
 ・大槻ケンジ×西炯子「女王様ナナカ」徳間書店
 ・木村紺「巨娘」1巻,講談社
 ・内田麻里香「恋する天才科学者」講談社(一部はほぼ日で読める)
 ・鹿島茂「神田村通信」清流出版
 ハズレなし,というラインナップ。講談社に思いっきり貢いでいるような気がするが,まあ刊行物の割合からいって仕方がないか。このうち鹿島茂を除けば全部エロ特集に組み込めそうな・・・こじつけだけど。つーことでぷちめれは後ほど。
 本漁りの後は大師匠の所へ。星新一とか夏目房之介とかを愛読している身としては,このあたりに近しいものを感じてしまう。
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 そーいや,この文字書いたのって・・・
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やっぱ,あのお方,だよね? ・・・ところでMSって,松尾スズキか?
 この通りの先に,星新一の自宅があったんだよなあ(今はない)。
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 翻訳本をお渡しした後は,例によって大師匠と世間話。ま,殆どはワシの愚痴なのだが。どうもお邪魔致しました。
 宿に帰って温泉に浸かって,人心地着いたのでこれを書いている。さて,これを書いたらもう寝ます。明日は東京駅コインロッカー争奪戦に参戦しなければならないのだから。

主婦感覚って奴は・・・

 2007年年末,チャンネル数減の圧力を逃れたNHKは,2年ぶりにBSマンガ夜話を復活させると共に,伊丹十三の映画特集を組んだ。既に民放・地上波では宮本信子主演の映画は大概放映されているのだが,腐っても国営放送,コマーシャルによる中断がないとあれば,録画用としては最適なのである。とゆーことで,我が家のDVD+HDD録画装置は2008年の正月を迎える時には「伊丹ボックス」と化す予定である。・・・その前にもうちっとHDDの空き容量を増やしておく必要があるのだが。
 ワシが見た伊丹映画を好きな順に並べると,次のようになる。
1.タンポポ
2.マルサの女2
3.マルサの女
4.お葬式
5.マルタイの女
6.大病人
未視聴なのは「静かな生活」「あげまん」「ミンボーの女」なのだが,今回の特集は「〜の女」シリーズに限られているので,ワシにとって初体験となるのは「ミンボー」だけである。
 あれ? もう一本足りないんじゃないの? とお思いの方は,結構な伊丹映画通の方に限られるのではないか。そう,ワシは確かに「スーパーの女」を映画館で公開早々に見ている。しかし・・・ハッキリ言って,この映画,伊丹十三にあるまじき「超駄作」であって,順位付けすれば7番目に位置するのは確かだが,ワシにとっては,ランク外,という扱いをすべきものなのである。
 この映画は,とある住宅地でスーパーを営む男(津川雅彦)と,その幼なじみのバツイチ女(宮本信子)が主人公で,この二人が,最近の食品偽装問題の主役になりそうな悪徳スーパー(伊東四朗が経営者役)に対抗すべく,「主婦感覚」と誠実さを売り物として対抗していく,という物語である。
 当時,まだ20代のワシが見ていて思ったのは,演出とストーリーがグズグズに生ぬるいということだった。「マルサの女」「同2」で期待していた緊迫感は皆無,「タンポポ」における大時代的なケレン味と文人趣味も抜けており,まるで炭酸と果汁を抜いた,甘味料だけの清涼飲料水を飲まされているような映画だった。ま,今見ればそこそこ楽しめるかも知れないが,少なくとも公開当時のワシの率直な感想は,そのようなものだったのである。そして特にワシをいらつかせたのは,宮本信子が連呼する「主婦感覚」という単語だったのだ。「そのナンとか感覚とやらは,「それだけ」のものなのか?」と。
 学校出てから15年(これは「マルサの女2」に出てきた歌の文句),そろそろメタボ体型を支えきれなくなった腰骨が悲鳴を上げるお年頃になったワシは,同じ年数をひとりものとして過ごしてきた。ズボラな男が大抵そうであるように,ワシも最初は外食とコンビニ弁当中心の生活を送ってきたのだが,カロリー量と味付けが気になるようになってからは,少なくとも朝食はかならず自炊したものを食するようになっている。
 そうすると自然,冷蔵庫にある食材を中心とした生活を送ることになり,毎週末には近所のスーパーで大量の食材確保を行う必要が出てくる。そうすると必然的にそこで購入するものの値段・新鮮さには敏感になってくる。ワシの近所には3つの民間資本のスーパー(もう一つ農協Coopがあるが,ワシは生協アレルギー持ちなのでパス)があるのだが,このうち地元資本のKスーパーは価格面で一番お得ではあるものの,生鮮食料品の質に難があり,残り二つの鉄道系資本のチェーン店は,価格面で少し高めだが質はよい,という特徴を持つ。こうした特徴付けが出来るようになったのはスーパー通いの結果,身についた感覚のおかげだが,これを単純に「主婦感覚」と言ってのけてしまうのは,何か違う,という気が,「スーパーの女」を見た当時のワシも,今のメタボ中年のワシも,している(た)のである。スーパー通いによって身についた感覚全体を「主婦感覚」と定義するとすれば,この主婦感覚,もっと複雑なものを内包しているものであり,正確に言うなら,ビンボーしみったれな人間が自然と身につけざるを得ない,傲慢さと諦めとバカさ加減をない交ぜにした知識体系というべきものなのである。
 食品偽装問題が騒がれるようになる前から,小売りスーパーで扱われている肉や魚,野菜類に関してはかなりの「偽装」が行われているという報道があった。ワシが知っているところでは,TBSの報道特集で扱われていた「タラバガニ」の問題がある。「タラバガニ」として売られているもののうち,かなりの割合で「アブラガニ」という別の種類のカニが混じっているようだ,という報道であった。他にも産地の偽りは肉にも魚にもあるという指摘がある。また,ワシの職場で遺伝子解析の専門家の方の話を聞くと,魚でも野菜でも,遺伝子レベルで解析すると本物ではないものが結構混じっているらしいのである。
 もちろん,偽装をしてはいけないことは当然であるけれど,翻って,じゃあ,毎日の食い物をスーパーで購入するほかないワシらビンボー人どもに,「本物」を見分ける五感が身についているかというと,それははなはだ心許ないのは確かだ。つーか,DNA解析しなけりゃ分からんような代物をどーやって見分けるのさ,とワシらとしては口をとがらせてぶー垂れるほかないではないか。内部告発やInternetの普及によって,不正に対しては昔より厳しい監視の目が及ぶようにはなっているのだろうし,トレーサビリティの重要性は今後も増すであろうが,しかしラベルの張り替えぐらいで利益を増やせるという誘惑に対して超然としていられる人間がそれほどいるのか? と考えると,この手の偽装を皆無にすることはできないだろうと思うのである。
 それに,仮に偽装が皆無になり,全ての食い物の値段がコストに応じたものになっていたとして,ワシらがそれに基づいて「高いブランド品」を買うようになるわけではないのだ。自らの懐具合と,ブランド品が持つ「魔術」を勘案して,高級品と低級品を買い分けるのが普通だ。衛生や健康に即時的な問題が生じるという事態でもない限り,財布の中身と精神的な満足度を秤にかけて日々必要な物を得る,というのが庶民であり,「こんな値段で本物のタラバが買えるわけないよなぁ,どーせアブラガニだろうけど,アブラだって結構うまいし,今日の所はこれにしておくか」というよーな諦観を伴った合理性に基づいて培われるのが「主婦感覚」というものの正体なのである。
 ワシが「スーパーの女」で連呼されていた「主婦感覚」は,それが内包する一部の正義感を強調するためだけに使用されており,それを聞いていたワシは「何か嘘くせー」とカチンときていたのであろう。映画を成立させるためにはそーゆー狭義性も「アリ」とは思うが,それを「アリ」と思わせるにはもう少し演出やシナリオ上の工夫が必要だったのだ。インテリだった伊丹にそれが理解出来ていなかったとはとうてい思えず,恐らくはマーケティング上の戦略として,甘ったるい娯楽映画は主婦向けには行けると考えての映画だったのだろう。
 しかしそれは「主婦感覚」を舐めていた,と言わざるを得ない。そこには「騙されていることを意識しつつもそれを楽しむ」という重要なファクターが抜けていたのだ。エンターテインメントと銘打っているのだから,むしろそちらを重視すべきであり,お気楽な専業主婦が「私向けの映画かな〜?」と見に行ったらトンでもなかった,というものを作るべきだったのである。そして,もしその専業主婦が本物の「主婦感覚」を身につけていたならば,絶対に「面白かったな〜」とウキウキして映画館を出,家でダンナに「こんな映画をみちゃったのよ〜」と報告したはずなのである。興行的には不人気だったというのもむべなるかな,なのである。
 主婦感覚を舐めてはいけない。伊丹十三の不幸は,このことを見誤ったあたりから始まったのではないか,と思えて仕方がないのである。

12/21(金) 掛川・?

 例によって研究進まず。うだうだと時間を費やすのみ。
 年末と言えばコミケであるが,今年は出かける暇も金もないので見送り。どーせワシみたいな中年は三日目しか用事がないのだが,今年は大晦日だもんなぁ。さすがに掛川くんだりから遠路はるばる出かけて,2007年最後の日を人いきれの中で過ごしたくはないのである。米澤死すともコミケは死なず。ま,予定が合えば出かければいいさ,という気分。年である。
 とゆー訳で,会場でワシに似た人物を見かけても,それはワシではないので,訳の分からん噂を流さないように>学生諸君
 最近,SIAM Reviewが面白い。学生の頃は,研究テーマなんてどうやって見つけるんだろう?と思っていたが,なるほどねー,ワシみたいなズボラ人間でもこういう雑誌を眺めているとネタらしきものと遭遇出来るって訳だ。
 それに比べると,日本の学術雑誌(情報処理とか応用数理とか数学とか)はあまり役に立たない。これは日本語を操れる人口と英語を使用する人口を比較すれば当然のことで,執筆者の層の厚みが違うのであるから,仕方のないことである。
 つーことで,SIAM Reviewの書評にあった,敬愛する(面識はないけど)Shampine先生が褒めていた本をAmazonで注文。正月中にやろうとしている仕事に使えるかな,と。その他,2本程使えそうな記事あり。勉強勉強。
 明日から一泊で東京行き。寄席は混んでそうだから今回はパス。翻訳本の営業と,大師匠へのご挨拶と,学会の発足式の見学,ぐらいか。真面目な旅行だなぁ〜,私費だってのにさ。ブラック師匠の落語ぐらい聞いてくるかな。ちとタイトだが。
 車検,17.4万で何とか収まりそうだとのこと。タイヤだのウィンドウの開閉スイッチだのダクトだのと,さすが13年目ともなるとアチコチにガタがくる。しかし新車を買う金もなし,これで2年乗り切れるかと思えば必要経費として割り切るほかなし。
 日曜には終わるそうなのだが,夜七時までに取りに帰るのも面倒なので(代車なし,チャリを漕いで行かねばならない),火曜日の朝まで預かってもらうことにする。車なしの休日というのもいいものかな,と。
 これから散髪して,少し仕事してから寝ます。