[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-591-09509-6, \1000
このエッセイ漫画を発見したのは,いや,正確に言えば,発見「させられた」のは,先日訪れた札幌の,程なく閉店するという書店においてであった。
この書店は,2階が漫画専門フロアになっているのだが,ここの品揃えは全国的に見ても面白いものであった。今や落ち目になっている漫画家や,ほとんど無名と思われる漫画家の作品が妙に目立つ配置になっていたりして,高校生の頃からちょくちょくチェックさせてもらっていた。いや,勉強させて頂いていたのである。
本書もそこでドカンと平積みになっていたのである。特等席ではないものの,一番店の奥の台に,この白い,それでいて何か惹かれる絵の表紙のこれが積まれていたのであった。
不幸にしてその時ワシはあまり持ち合わせがなくてスルーしてしまったのだが,本日(11/18),紀伊國屋書店新宿南店にて本書と再び邂逅したため(平積みではなかった),無事ゲットして,帰りの新幹線車中で読了したという次第である。これは札幌の閉店書店がもたらした「縁」という他ない。
札幌で本書を手にとって気に入った理由は四つある。
一つは,著者の得能(とくのう,と読む)がワシとほぼ同年配の女性だったということである。大体,どーゆー訳か,自分の生年すら明らかにしない女性漫画家の何と多いことか。特にBL系は惨憺たるもので,そんなに三十路過ぎて男×男を描くのが恥ずかしいんだったら描くのを辞めたらどうか,というぐらい多い。それに引き替え得能のこの開けっぴろげな態度は素敵である。
二つ目は,最近結婚した相手がNew Zealerにも関わらず,それを一切ネタにしていない,ということである。こんなおいしいネタを持っていれば,ポプラ社の小栗左多里にもなれるというのに,何と慎ましいことか。・・・最も本書がそこそこ売れて,続編が執筆されるとなれば変わってくるのかもしれんが。
三つ目は,絵がうまいということである。今日日,女性のエッセイ漫画家は掃いて捨てるほど出版されており,絵の巧拙は,素人に毛が生えた程度から,西原理恵子,黒川あづさ級まで,天と地の差がある。もちろん,それと内容の面白さは別物であるが,読者だってそう安くない金を払って本を買うのであるから,絵がうまいに越したことはないのである。
得能の絵は,2~3頭身の丸くて簡素なものであるが,立体を立体としてキチンと捕らえており,それでいて適度な湿り気を感じさせる優れたタッチも備えている。本書が刊行されることになったのは,ポプラ社の編集者が偶然,Webページに掲載されていた得能の4コマ漫画を発見したことが切っ掛けとなったのであるが,編集者の「目に止まった」ということが,絵の魅力を物語っているとも言える(たぶん)。カラーページは皆無な愛想なしのエッセイ漫画であるが,多分それはこの描線の持つ魅力を最大限引き出すための仕掛けであって,決して得能がメンドクサがったわけではないと思いたいのだがどうなんだろう。
しかし,最大の理由は,何と言ってもタイトルにある通り,自分のビンボウ暮らしを描いている,ということである。
今日日,日本社会,いや先進諸国は「下流化」「二分化」が社会問題のパラダイムになって久しく,それを冠した書物は沢山出版されている。しかし,「下流」人間の当事者からの生の声を,2,3行のインタビューの抜粋ではなく,ごそっと固まりで差し出してくれるものを,ワシは見たことがなかった。本書は20代から30代を「フリーター」として,本人曰く「人生をなめてかかって」過ごしてきた下流人の生の声が詰まっている希有なものなのである。
多分,編集者も著者も,ライトなエッセイ漫画を描いて出版したつもりなんだろうし,概ねそのような記述が多いのだが,結構,ちくちくと胸を刺すエピソードがちりばめられていて,三十路過ぎのフリーターに対する世間の厳しさが伝わって来るのである。その結果,ワシにとってはとてもライトエッセイ漫画と呼べる代物ではなく,得能の丸い自画像の,欠けたラグビーボールのような目の奥に潜む,マリアナ海溝より深くて暗い何かを見てしまったような,そんな大仰な形容詞を使いたくなるような感想を抱いてしまうのである。
一番うるっときたエピソードは,小銭を貯めて美容院に行く話である。内容は本書を読んで確認して頂きたいが,ワシはこのユーモラスな記述の奥にある,悲しみの大きさに感動してしまったのであった。これって,勝海舟が貧乏だった幼少の頃,餅をもらいに行った帰りに落っことしてしまい,それを拾おうとして自分の惨めさに気が付き,餅を川に投げ捨てたっていうエピソードとよく似ているんだよなぁ。大金持ちでもない限り,誰しも似たような「惨めさ」は味わっているのではあるまいか。
貧乏とは,金がない苦しさではなく,将来に対する不安だ,というのは誰の言葉だったか。簡素な絵でそれを背後に感じさせてくれるこの作品は,一定レベル以上の画力があってこそのものである。得能の「だらしない私を笑って」というへりくだった態度は日本の強固な伝統に基づくものであるけれど,多分,「だらしない私」を一番いとおしく,悲しみをたたえた存在であると知っているのは,得能自身なのだ。そして,それに共感している同世代の中年たるワシも,収入の違いこそあれ,「だらしない私」を抱えていること間違いないのである。
ワシの考え過ぎなのだろうか? それは本書を御一読の上,各自で確認して頂きたい。
Posted by tkouya at November 18, 2006 10:52 PM