遠藤浩輝「遠藤浩輝短編集1」「同2」アフタヌーンKC

「遠藤浩輝短編集1」 [ Amazon ] ISBN 4-06-314175-6, \505
「同2」 [ Amazon ] ISBN 4-06-314275-2, \514
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 物質的な豊かさの頂点にいる人類が,これほどの空しさを抱える存在になるとは,過去の誰しも予想し得なかったに違いない。「衣食足りて礼節を知る」のは飢餓と戦乱に苦しんだ時代の話。「衣食足り」たその先にかくも巨大な空疎,即ち,「虚無感」が控えているとは,孔子も今頃あの世で自分の無知を恥じているに違いないのである。
 とはいえ,この虚無感をマンガの表現として受け止めるには条件がいる。正確な客観描写,俯瞰から全てを見通す神の視点,突き放した冷めた観察眼が不可欠だ。最初これを提示したのは卓抜な画力を誇る大友克洋だった。そしてそのフォロアーも虚無感をマンガに導入し始めた。遠藤浩輝がどの程度,大友フォロアーだったのかはよく分からないが(本人はコメント饒舌のくせに肝心なことを語らないヘタレなのだ),遠藤のこの2冊短編集に収められている作品はほぼ例外なく虚無感に満ちている。その意味では,遠藤浩輝はまごうことなき大友克洋の落とし子の一人である。
 遠藤の作品に共通する要素はもう一つ,人間の感情は欲望がいかにデタラメで制御不能の代物なのか,ということを織り込んでいることである。笑いも悲しみも怒りも,実はどうしようもなく湧き出し溢れてくるものであって,それは仕方の無いことなのだ,と言っているようでもある。そのくせ,感情や欲望を放出した後に残るのはやるせない虚無感のみ。まるでワシら人類は,宇宙空間の虚空に誰が聞くわけもない,かすかな雑音を発するだけの存在だと言いたいがためにマンガを描いているかのようである。よく空しくならないものである。あ,それを覆い隠すためのコメント饒舌だったのかも。
 2巻に収められている「Hang」は,同じシチュエーションの短編「Hang II」がComicリュウ創刊号と創刊2号に掲載されている。未だこれが収録された単行本が出ていないので,今年(2011年)の2月と3月に相次いで増刷されたこの単行本を買ってきたという次第である。日本列島が,天空の果てから伸びてきたぶっといワイヤーロープによって吊されており,常時どこかしらの陸地がワイヤー切れによって落っこちてしまう,という誠に不安定な世界を描いている。今から読むと,まるで3・11東日本大震災後の日本の心理状態を言い当てているような設定である。
 そんな危なっかしい世界でも,若者はSEXして子供を作り,とりあえず当座の水を確保するためにダムを造ってますます宙ぶらりんの大地の重量を増す。即ち日本人は自ら落下の危険を増やしているのである。合理的知見に基づいて人類は蠢いていない,ということをやけくそのように,ギターをかき鳴らしながら遠藤浩輝は叫んでいるのである。
 ギャグ短編も含めて,「虚無感」としかいいようのない感覚をワシら読者に残す名短編集,何がきっかけかは不明なれど,久しぶりに増刷されて間もないこの時期に,そんなマンガを読んでみるのもある種のセラピーにはなりそうな気がする。1巻の最後は「神様なんて信じていない僕らのために」という出来過ぎた感のある,演劇をセラピーにしてしまった学生演出家の物語。きっと,虚無感を描くこと,それ自体に「セラピー程度の効果がある」と,遠藤自身に言い聞かせているかのようである。
 それはきっと,ワシら読者にも効果のあるものなのだ。

宮崎駿・企画&脚本,宮崎吾朗・監督「コクリコ坂から」

[ 公式サイト ]
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 いやまぁ,「ゲド戦記」の時から,宮崎駿の二代目,宮崎吾朗のアニメ映画監督としての「才能」についてはあれこれ言われ続けてきたわけであるが,本作を見て・・・なるほど,当たっているところがあるな,と思うと同時に,実は映画そのものより世間が注目している「物語」が進行中であり,世間はそちらをおもしろがっているのではないか,と気がついたのである。なるほど,そう考えると,本作の「できばえ」や「面白さ」についても納得できる。「この程度」であり,なおかつ,「ゲド戦記よりマシ」というレベル,それを達成するために父親である宮崎駿が企画と脚本で支えたのが本作なのだ。そして本作が「この程度」であることは絶対に必要なことだったのである。
 映画そのものの感想については,語りまくるラッパー・宇多丸の「ウィークエンドシャッフル」におけるこの感想(Podcast)と余り違いはない。「どこかで見たことのある過去のジブリ作品のカットが多数」とか,「脚本が余りにご都合主義(の部分がある)」とか,「動きが悪い」とか,「キャラクターに精彩を欠く」とか・・・。しかしそれでも結構面白かったのは事実である。至る所で宮崎駿の才能が生かされ,おっと目を引くカットは大体宮崎駿の助言が生かされているようなのだ。
 それは既に放送されたNHKのドキュメンタリー「ふたり」,「コクリコ坂・父と子の300日戦争」(2011年8月9日放送)でたっぷり語られていた。
 吾朗監督の提出する企画がダメになり,宮崎駿の企画が採用されるも,吾朗監督の最初の絵コンテが精彩を欠き,鈴木敏夫プロデューサーから公開取りやめもあり得ると警告される出来。そこで,宮崎駿は要所要所でアドバイスを行う。まずヒロイン・海(うみ)の性格付けを決定づける,陸橋の上を大股で歩く俯瞰のカットを提供。これで暗いだけのヒロインから,凛とした芯が通った魅力あるキャラクターに変身する。そうして絵コンテはドンドン進み出し,最終的には映画公開のゴーサインが鈴木プロデューサーから出る・・・そんなドラマを映画公開前から喧伝し,観客動員を増やすべくこの時期を狙ってNHKとジブリは放映したのである。殆ど,受信料を使っての映画宣伝番組である。
 しかし,これが映画以上に重要な「物語」をワシらに提供してくれているのである。前作の「ゲド戦記」でもNHKはジブリで密着取材を行っているが,そこでは今回の「物語」に繋がる伏線がしっかり敷かれていたのだ。そしてワシらはNHKとジブリ,というより鈴木敏夫プロデューサーという天下一の興行師の手の中で踊らされていたのだ。

 「映画もさることながら,宮崎駿と宮崎吾朗の葛藤,そして吾朗がどう成長しているか,見物ですよ,大変面白い「物語」ですよ」・・・と。

 その意味では,本作は少なくとも前作よりはマシな作品でなければならない。成長していなければ「物語」は停滞する。更に父と子の葛藤の末に幾ばくかの和解も加えて「物語」の盛り上げに一役買っている。
 「コクリコ坂から」はダシであったのだ。いや,もっと大きな父と子の「物語」に比較すれば,サイドストーリーでありさえすれば良かったのだ。声優キャスティングに配役名が付されていないのも,スタッフリストがありきたりであっても,登場人物に「メロドラマみたい」と言わせるご都合主義的展開があっても,ラストがとってつけの,アクションを見せつけるためだけのシチュエーションであっても,要所要所で父と子の「物語」が垣間見える光が見えさえすれば良かったのだ。観客を退屈させずに91分座席に縛り付ける程度の「面白さ」であれば十分だったのである。
 映画を見に行ったらもっとでかい「物語」に巻き込まれてしまった,という体験をするためにも,ぜひ本作は観に行くべきである。宮崎吾朗監督作品は,それを制作することが既に父と子の「物語」を紡ぐための重要なパーツなのだから。

原作・太宰治,作画・山本おさむ「津軽 太宰治短編集」小学館

[ Amazon ] ISBN 978-4-09-182698-5, \1238
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 ワシにとって,太宰治と山本おさむは,永らく敬して遠ざけるべき存在だった。太宰の「走れメロス」は教科書で誇らしげに友情の大切さを見せつけていたし,山本おさむは「遙かなる甲子園」という,文句の一つもたれようものなら障碍者団体から総スカンを食いそうなマンガを描いていたから,批評の対象外にしていた。つまり読まなかったのである。
 そう,ワシはいわゆる「文部省(現・文科省)特選作品」というものが大嫌いなのである。触れたくないのである。ワシにとっては,税金を食いつぶして作ったわりには面白くない,押しつけがましい「正しい思想」をまき散らす害悪でしかないのである。太宰治も山本おさむも,その意味ではまごうことなく「文部省特選作品」・・・だと思っていたのである。
 しかし本作は,そうして遠ざけてきた二人が,とても上質なエンターテインメントを作り上げてきたことをワシに教えてくれたのである。読まなかったのは思い込みが激しすぎたせいであるが,それにしてもちともったいなかったな・・・と,この「津軽」を読んで反省したのである。
 優れた原作であっても,マンガにした途端に駄作に落ちる,ということはよくある。いや,かつては良くあった,というべきか。力量のない漫画家は単に原作をなぞるだけで済ませようとして,一番光る玉をダメにする。その意味では,中央公論新社が企画した「マンガで読む古典シリーズ」は図抜けたベテラン漫画家ラインナップの古典原作モノであった。ま,スカもあるが,おおむね,どの漫画家も,そのままなぞっては面白くない古典をどのようにエンターテインメントにアレンジするか,ということをよく練った作品が揃っていたのだ。
 もし今,その精神を受け継いだ「マンガで読む文学シリーズ」を企画するとすれば(昔,徳間書店でそーゆーものがあったと大塚英志が書いてたな),太宰治の愛読者である山本おさむが執筆陣に加わっていなければいけない。短編だけでもこれだけ芳醇な「面白い太宰治」という果実をワシらに運んできた力量がある漫画家とは,実は本作を読むまではよく分かっていなかったのだ。不明を恥じたい。
 山本おさむを見直すきっかけになったのは,今は見られないようだが,双葉社のサイトで連載していた漫画講座だった。高橋留美子の短編を題材にして,シナリオの優秀さを解説していた。「へぇ,山本おさむって理論派だったんだな」と,感心したのを覚えている。本書に収められた短編のうち,巻頭の「カチカチ山」はその理論的なシナリオ作りが功を奏した作品である。原作が,落語でいうところの地噺,つまり,作者による語りがメインになっているため,そのまま漫画化するには,背景となる「絵」が地味では盛り上がりに欠ける。そこで,原作が空襲の最中であるというシチュエーションを生かし,クライマックスを燃えさかる東京の風景に重ねている。具体的にどう「重ねて」いるのかは本書を読んで確認して欲しいが,これは見事な「シナリオ」である。
 本書の見所はもう一つ,巧まざる(?)ユーモアと,真っ正面から感動を描き出す誠実さのハーモニーが醸し出す物語の豊かさであろう。旅先で求めた鯛を5枚におろされたぐらいで大仰に騒ぐ太宰と,乳母と久しぶりに再会する太宰,両方包んで芳醇な文学を巧みに描き出した表題作「津軽」を読んで,ワシはうなってしまったのである。ま,くどくど書くのも野暮だから(既に遅いが),まずは読んで頂きたい。
 文科省が特選するかどうかは知らねど,本作はメディア大賞にはノミネートして欲しい作品である。日本のマンガ文化を誇るなら,骨太のシナリオに支えられた,真正面から感情を描いた本作が一つの核であることを示す必要がある。本作はその「核」を代表する最新作なのである。

安田まさえ「数学女子2」竹書房

[ Amazon ] ISBN 978-4-8124-7582-9, \648
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 著者自ら「②巻です,びっくりです。」と書いているが,ワシも2巻が出たのを知って驚いた。結構人気あるんだなぁ,と感心しきり。今時,商業雑誌連載マンガだからといって必ずしも単行本にまとまるとは限らない,という状況であるので,真面目に数学を専攻する学生を主人公にしたマンガが2巻分出版されるだけでも言祝がねばならない。イヤめでたい。目次はないし,数学者名言録って程の分量もない杜撰な単行本の作りは相変わらずだが,妙ちきりんな数学記号を使った意匠はなくなっているし,女の子が可愛らしいので許すことにする。
 本書の魅力については既に語っているので,今回は感心したポイントだけ語ることにする。
 主人公の数学女子達が3年生になり,ゼミ配属される,というのが本書後半の設定であるが,そのうち内山まなは「線形代数ゼミ」に配属される。「線形代数~?」とワシは一瞬違和感を覚えたが,ちゃんとゼミ主宰のA教授が「線形代数を復習して代数を深めたいなと・・・」(P.92)とそのゼミ名の由来をきちんと説明していることに感心したのである。
 本書では専門に深入りした数学そのものの説明は殆どないのだが,ツボをおさえた描写がきちんとなされている。著者はちゃんと数学を履修してきた人なんだろうな,と思えるのはそのためだが,特にこのA教授の言葉はアルティン流の線形代数→代数的構造→ガロア理論という学問体系を抑えていないと出てこないものなのである。それがどーゆーものかって説明は,アルティンの本とか,上野健爾の本とか,アルティンの弟子のラングの線形代数テキスト(特に下巻の方)を参照して欲しい。
 つーことで,次の3巻では華々しくガロア理論のコア部分の解説をお願いしたい,と無茶な願望を書き付けておく。

宮崎克(原作)・吉本浩二(漫画)「ブラックジャック創作秘話 ~手塚治虫の仕事場から~」秋田書店」

[ Amazon ] ISBN 978-4-253-13239-8, \648
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 いやぁ,最高最高。この表紙左上のギラギラした手塚治虫の姿もさることながら,右下の帯のカット「来週はがんばります」と笑顔で言う手塚治虫に至っては,「漫☆画太郎先生ありがとう!」と叫んでしまいそうになる。・・・いや,そんなことではない。本書の魅力はそんなところではないのだ。本書はちょうど手塚が落ち目の時代に起死回生のヒット作「ブラックジャック」を描き,又売れっ子第一人者に復活していく時期の脂ぎった「黒手塚」を描いた傑作ドキュメンタリー漫画なのである。
 「白手塚」「黒手塚」というタームは,もちろんBSマンガ夜話における造語である。ファンサービスには手を抜かず,対外的にはにこやかだったベレー帽姿の手塚治虫が「白手塚」とすれば,本書は,人一倍嫉妬深く,才能ある新人の登場には常に目を光らせ,自作の人気の上下に拘ったという,今となっては周知の事実になっている人間くさい姿が「黒手塚」ということになる。もちろん,「黒手塚」という言葉は,単なる人間の醜い裏面を表現しているだけではなく,その因ってきたるエネルギーや感情の坩堝,つまりは「情念」の煮えたぎる様を言い表したものなのである。そしてその「黒手塚」を知ることによって,「白手塚」まできちんと繋がって一人の図抜けた巨人・手塚治虫が立体的に理解できるようになるのだ。
 吉本浩二のマンガをじっくり読んだのは,実は今回が初めてである。Webで連載作品を読んだことはあるが,紙媒体では今回が初だ。改めてじっくり画風を眺めてみると,青木雄司を洗練させて構成力を与えるとこうなるのかな,という感じで,デッサンの狂った力業のキャラクターに細密な陰の描線が異様な迫力を添えている。ワシ個人は「デッサン狂いのヘタクソな絵の魅力」について常々考えているので,吉本の画風は良いサンプルなのである。しかし,人柄が人畜無害っぽいところは,う~ん,どうなんだろうな,と微妙な評価で,今一ワシの中ではあまり高く買ってはいなかった。今回この単行本を買っていなければ,当分はその評価を変えることはなかったと思われる。
 しかし,本書はすごいのだ。いや,凄いのは「黒手塚」の情念なのだ。黒手塚が吉本の人畜無害さを吹き飛ばし,土方のようにマンガ執筆という肉体労働に勤しむ巨匠の姿とエネルギーを吉本に描かせたのだ。それはもう漫☆画太郎なんてもんじゃない。自分以外のアシスタントや編集者に作品のネームを内容を確認させ,面白さに疑問を呈する評価を受け取るや,表面的な締め切りなんぞはすっとばして一から作品を書き直す。アメリカ旅行中に自分の頭の中だけで作品を構成し,アシスタントに電話でコマ割りと背景を指示する天才っぷりもさることながら,その帰りの飛行機内で,全ての乗客が寝入っている中,一人,インク壺を左手に持ち,一心不乱にキャラをペン入れしている様の描写は,目撃した永井豪の驚きを再現して余りある。
 エピソードの一つ一つは既に手塚プロのアシスタント経験者や関係者,同業の漫画家やTV番組などで伝わっているものが多く,ワシ自身が初めて知った事実,というのはごく少ない。しかし,知識として得たエピソードの「情景」には,吉本が描いた黒手塚の情念の炎が欠けていたのだ。本書によって,その重大な欠落要素がかちっと嵌まり,まるでアメリカから帰国した手塚が描いたキャラで原稿を埋めるように,「手塚治虫」という像がワシの頭に屹立したのである。なるほど~,漫画でドキュメンタリーを描く意味はここにあるのか,ということを,本作でイヤと言うほど知らされたのである。
 黒手塚が生み出した異常な執着心とエネルギーは,今後もグローバル化した資本主義社会において,重要な原動力となって我々を巻き込み,永久に「リテイク」要求を突きつけるに違いない。「ヒューマンな手塚作品」というレッテルは,表面的にも内面的にも哲学的にも間違っておらず,相当深い射程を持つものであることを,本作はワシら凡人に知らしめてくれるのである。