釣巻和「童話迷宮 上」「同 下」新潮社

上巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-10-771490-9, \543
下巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-10-771491-6, \543

 本書は「原案:小川未明」となっているが,未明の童話のコミカライズ作品だと思って購入すると裏切られる。その代わり,今の日本の漫画家の中では抜群のファンタジー表現を持った新人マンガ家・釣巻和という存在を本書でじっくり堪能できるので,損したと残念がる必要はない。当然,あなたが現在Comicリュウ紙上で「くおんの森」(ホントは「木」が「本」になっている)という連載を持っているかの漫画家のファンであるなら,ファンタジー作家としての力量を知る意味でも本書はお勧めの2冊セットである。
 2006年秋のアフタヌーン四季賞で準入選してから,釣巻はあまり大活躍したという印象はない。ただ,デビュー後にアフタヌーンに載ったマンガは「おっ?」と思わせる端正で透明感にあふれた高い画力のファンタジーだったから,一読すれば印象に残りやすい個性の持ち主であったことは確かだ。高い完成度を求めるようなところも見受けられたので,量産するのは難しいのかな・・・と思っていたら,いつの間にか新潮社が目をつけて約1年の連載を持たせていたのだ。うーん,リュウ・大野編集長が引っ張ってくる前にこんな仕事をさせるなんて,いい編集者もいたもんである。
 釣巻の特徴は,別の漫画家と対比させてみるとよくわかる。たとえば,須藤真澄。現在の須藤の漫画は平面的な装飾がなされている。「ツー・テン」と本人が言う特徴的な線で描かれた丸っこいキャラクターは,しかし釣巻並みとは言わないけれど,結構リアルな画風の進化形なのだ。
 釣巻の場合,デビューからまだ間もないこともあるけれど,キャラクター自身はデッサンがしっかりしているリアルな立体的な造形である。その立体感が画面装飾に奥行きを与え,3DCG映画のような煌びやかさをもたらしている。今のところ須藤とは異なり,3次元的な深みを追及している方向を釣巻は目指しているようだ。
 本書に収められている作品はすべて小川未明の作品タイトルが冠せられているが,内容は全く別物である。正確に言うなら,未明の作品からインスパイアされて釣巻オリジナルの世界を構築してみたのがこの作品集なのだ。作品の舞台は全部現代の日本だし,未明の代表作「赤いろうそくと人魚」でも「人魚」は出てこない。「人魚」と思しき浮世離れした美人の女子高生が出てくるだけだ。「千代紙の春」では女性向け恋愛シミュレーションゲームが主題だし,「野ばら」に至っては造花がカギになってたりして・・・未明としては「自分の作品はどこ?」と文句の一つも言いたいかもしれない。しかしだからこそ,文学に暗いワシでも面白いマンガに仕上がっているのだ。未明には,この釣巻の作品をきっかけにして原作にも興味を持ってもらえるかもしれません・・・と宥めておくのがよろしかろう。
 この手の「インスパイアもの」は,かつて角川書店で宮沢賢治を題材にして漫画家に作品を描かせていたから,今に始まったものではない。「迷宮」仕立ての構成も,独立した短編を一つにまとめ上げる手法としてはごくスタンダードなものである。本書の内容「だけ」を見る限り,オリジナリティに欠けるきらいがあるのはまぁ当然だ。しかし,その手の文句は,演歌がみな同じだ,というのに似ていて,演歌嫌いの人にその良さを伝えるのが難しいのと同様,ファンタジー嫌いの人にその「様式美」の素晴らしさは分かってもらえないと割り切るべきだろう。
 そう,釣巻の作品を一言で言い表すなら,「様式美」,なのだ。本書の中で唯一,アンハッピーな物語である「野ばら」は,その様式美ゆえに,ハッピーエンドな物語と同様の霧散霧消的すっきり感を与えてくれる。「そーゆーこともあるよな・・・」という妙な説得力をもたらす釣巻作品の個性を知るには,未明を加工して華麗な自分の物語に仕立て上げた本書がお勧めである。
 とゆーことで,2009年を締めくくる,というよりは,正月のゆったりした空気の中で読むにふさわしい作品として,本書を呈示する次第である。

 本年は大変お世話になりました。
 来年もよろしくお願い致します。

吉村昭「私の文学漂流」ちくま文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-480-42560-7, \600
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 本年(2009年)はなかなか大学生の就職が決まらない。就職先がない,というわけでもなく,企業の新卒者採用の意思はそこそこあるのだが,採用目標数に届かなくても学生の質には妥協しないという「厳選化」と早期に締め切ってしまうという「早期化」,そして学生自身の「質」の問題が引っ絡まって,変な言い方だが「内定が取れない学生は取れないまま」となってしまうようである。
 「厳選化」と「早期化」は企業側の都合だから仕方ないとしても,「質」の問題となれば,ワシも含めた教育機関側にも大いに責任がある。学生自身を甘やかしたという気はあまりないのだが,考えさせる機会をことごとく奪ってきた,という忸怩たる思いはある。もちろん「あまり考えさせないでくれ」というのは学生側の「(かなり)切実な」要求ではあるのだが,それにハイハイと応じてしまうワシらの側に一義的な責任があると言わざるを得ない。但し,たたきのめす様なことを今更やったところで脱落者が増えるだけで良いことはあまりない。サポート体制はとりながら,チクチクと「考えさせる」ことを意識的にやらせるようにしなければダメだろう。そういう意味では,小中高を通じて,どれだけ勉強してきたか,というよりは,その勉強を通じてどのように「主体的にモノを考える習慣をつけたか」ということが,知識量そよりも何倍も重要なことである。ハッキリ言って,就職活動を始めてからそのことに気がつくのでは完全に手遅れなのだ。どこまで通じるか分からねど,せめて「これから自分の人生をどう歩んで入ったらいいのか真剣に考えろ!」と,ネチネチと言い続る必要があるのだろう・・・が,それで彼らの胃の腑に届くのかは甚だ疑問だ。
 本書は,2006年にガン闘病中,カテーテルを引きぬいて逝った吉村昭の,デビューまでの悪戦苦闘ぶりをいつもの静謐な文体で綴った自伝である。これを読むと,確かに日垣隆が嫌味を言うように,事業を営む兄弟の援助を受けることができる恵まれた環境にいたことで,長い助走期間を何とか脱落することなく乗り切れたということが分かる。
 しかし,途中,妻の津村節子が先に芥川賞を取る一方,自分の作品は再三候補になりながら,一度は受賞決定の知らせを受けて会場にたどり着いてから間違いだったと告げられるという仕打ちを受けた挙句に結局取れずに終わって挫折しかけるという経験を読まされると,結構辛い助走期間だったなぁと同情してしまう。結局,自分のポリシーを曲げて筑摩書房に投稿し,やっと太宰治賞を取ることができたあたりから反転,新潮社から「戦艦武蔵」を出して10万部を越えるヒットを飛ばしてなんとか作家として離陸できたという事情が,本書の最後あたりで明らかとなる。
 この助走期間において,吉村は同人誌で批評合戦を行いつつ,作家修業を積んでいたことが本書の半ばあたりで詳細に語られている。当時の純文学雑誌は同人誌の中からめぼしい作品に目をつけてスカウトするというシステムだったようで,段々と吉村にも声がかかって来ると,芥川賞にも手がとどくところまで到達するのだ。
 教師をしていて思うのは,学生への訴求力は,学生同士の関係から生まれてくるもののようだ。結局のところ,読書会とかゼミのように,自主的に学びを経験し,ロールモデルを教師にではなく,自分より優れた学生に見つける,というのが一番学生の成長が見込める学習形態である。作家・吉村を育んだ土壌もそこにあった。
 内定が取れる学生とそうでない学生との差異は,仲間内から自然発生的に優れた部分を見出そうと意識し,自分の開発に生かそうとする学習能力が発揮できるかどうか,そこが大きいように思える。具体的な行動を起こさず,他者との現実的なコミュニケーションも怠り,何年も夢想だけしているというのでは,採用する側が躊躇するのも当然だろう。実績のない若手は,体力にモノを言わせて短期間で実績作りに死に物狂いになって取り組まねばならない。何故なら,自己プレゼンはそこに基づいて行うしかないからだ。「何でも好きなことをやりなさい」とはワシらの常套句であるが,それは好きなことなら主体的に「学習」できるだろうという期待に基づくものであって,怠けさせるための口実ではないのである。
 吉村のデビューまでの経緯には,終戦当時としては経済環境は恵まれている方とはいえ,作家としての実績作りに真剣に取り組み続けた跡がくっきりと残っている。今の学生さんも,社会環境が厳しくなっているとはいえ,まだその多くは学費を払ってもらって飯も食わせてもらってという,吉村以上に良い経済環境に浸っているはずなのだ。だから,彼らは口先三寸の面接だけで企業に入れてもらおうなどというさもしい魂胆はさっさと捨てて,せめて吉村並の必死さを見習って,何でもいいから「実績」を作って示して欲しいと,ワシは願っているのである。

南Q太「ぼくの家族」YOUコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-08-782261-8, \838
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 本書読了後,ふ~,「レディース」もついに大変化の時を迎えているのか・・・と,感嘆せずにはいられない。欲を言えば,優れた中間小説並の「大人の物語」まであと一歩・・・と思わなくもないのだが,しかし,岡崎京子らが巻き起こした少女漫画から女性漫画への,ストーリーと絵柄の革命は,とうとう中高年女性も巻き込んでレディースまで変えようとしている・・・そんな大潮流が巻起こっていることを南Q太は本書で示したのだ。
 世の「妙齢」な女性であれば,未だに結婚生活における家事の担い手のデフォルトは妻であり,夫ではない,という「常識」にカチンと来た経験はあるはずだ。ワシが知る限り,よしながふみ「愛すべき娘たち」でも,かなり協力的な夫ですら食事は妻としか作らないし,掃除は汚れに根負けした妻がやれやれとため息をつきながらやらざるをえないものという場面が描かれるし,勝間和代&西原理恵子の対談でも,家事を「手伝う」と発言した毎日新聞男性記者に,手伝うとは何事だ,てめぇの仕事なんだゴラァ,当事者意識がねぇぞぉ~・・・と二人して説教しまくっていた。世の男性の意識は昔に比べれば大分変わったというのは確かだが,それでもまだ「良妻賢母」幻想は根深くワシら日本人の,主として高齢者と男どもに食い込んでいるのである。かくいうワシだって,妻がいれば家事は「やってもらいたい」という願望が拭えないのだ。それゆえに,家事負担の平等を恐れて未だにひとりもの生活を続けている・・・というのは単なる言い訳だ。すまん。
 本書では,ともにバツイチ・子供(娘)一人のイラストレーターの女性と会社員の男性が再婚したあとの,困難であることは火を見ることが明らかなステップファミリー生活が描かれているのだが,主として妻となる側の忍耐が前半の主要テーマとなっている。第一話から「つらくない結婚などないのだ」(P.31)・・・だからなぁ。いや,全く,(結婚してないけど)男性として,申し訳ないな~・・・と感じ入ってしまう。またこのモノローグの被った,まるで小学生のように膝抱えて泣いている女性の絵がいいんだなぁ。いや,ワシも四十路になってわかったんだけど,精神構造って全然進歩してないのね。メンドクサイとか疲れたとか世間体とかが邪魔して感情表現が表に出づらくなっているだけで,喜怒哀楽の発火点はそんなに変わってないのである。昔より成熟年齢が上がっているという話はあるけど,それを差し引いても,辛いもんは辛いよね~。特に「妻」はさ。
 ま,「夫」もそれなりに辛さは抱えて毎年3万人超の自殺者の過半を占めてしまったりするけど,死ねば終わりってのも一種の責任放棄っぽく感じられて,あまり同情できないところもある。辛さに耐える,のではなく,辛さを受け入れてアウフヘーベンするってのは,業田良家「自虐の詩」のテーマだけど,結局,宗教家が古来語ってきたことをワシら俗人も寿命が尽きるまで追求しなきゃいかんのだろう。
 本作の最後は正直,ハッピーエンドにしようとしすぎてご都合主義的なものが感じられて,う~ん,どうかなぁと思うところもある。それでも,本作の半ばの「羊と筏」の疾風怒涛な展開を経て,次第に他人同士だった家族が「融合」していく様は,南の実体験から来ている部分も多いのだろうが,説得力を持ってワシを和ませてくれた。怒りも悲しみも笑いも涙も全部取り込んでコミュニケーションを図り,多少いびつでも社会を形成する一つの結晶として関係性を固定化していくのが家族というものの基本的な姿なのだろう。これで最後にもう一歩,単なるハッピーエンドではないビターテイストがいい具合に入ってくると,田辺聖子とか佐藤愛子の中間小説のような,類型的でない上質なエンターテイメントになる・・・と,思うのだけれど,さてどうでしょう?
 そういえば,レディースって,昔から家族がテーマだったよなぁ,と今更ながら思い出した。その意味では金子節子とか風間宏子あたりから,夢路行やこの南Q太まで,本作も含めて「レディース」の王道は踏まえているわけだ。「嫁姑」関係が蒸発してしまった家族の形態や,「ヘタウマ」的な絵のセンスといった,表現形式はずいぶん変化しつつあるが,本作は間違いなく「レディース」の王道を踏まえている。この先も,新規参入者が増えるにつれてレディースといえども間断なく変化していくのだろうが,多分,「家族」という軸がブレることはないんだろうなぁ。

藤子・F・不二雄「未来の想い出」小学館,坂田靖子「クリスマス・キャロル」光文社

未来の想い出 [ Amazon ] ISBN 4-09-181891-9, \825
クリスマス・キャロル [ Amazon ] ISBN 978-4-334-90162-2, \1200
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 後悔のない人生なんてあり得ない。さりとて,もう一度同じ人生を歩んだとしても現状以上に満足できるかどうかは甚だ怪しい,とワシは確信している。「人生が二度あれば」と願う心性は理解できるが,不可能である以上に,本当にすべての人間が現時点で保持している経験を踏まえて若返ったとしても,果たして素晴らしい人生を遅れるかどうかは疑問だ。何故なら,同じシチュエーションであればあるほど,最適解の選択はより困難になるからだ。失敗の経験があればなおさら慎重になるだろう。更に言えば,たとえ確信を持って次の一歩を踏み出したとしても,踏み出した途端にそこから先に起きる出来事はすべて未知のものとなる。分岐したパラレルワールドのその先を歩むことは,すなわち,選択できない未来を歩むしかない現実と何ら違いはないのだ。
 ・・・などと常識論をぶったところで,やっぱり人間はリセットボタンを押してやり直しを図りたいと考えてしまう動物なのだ。ワシが今でも「一冊だけ挙げろ」と言われたら迷わず選ぶのが,藤子・F・不二雄最晩年の長編SF「未来の想い出」なのだが,そこにでも主題であるところの「若返り」について,主人公・納戸理人と友人との会話でこう語らせている。

 「若返りね。」「古いね。」「ファウスト以来,手あかのついた題材じゃないか。」
 「題材なんて光のあてようで新しく装えるさ。」「それよりそんな夢みたいなことを願うきみの切実な気持ち。」「その切実さをテーマにすれば・・・きっと読者にも通じると思うがね。」(P.17)

 この作品の優れているところは,構成に無駄がなく,「手あかのついた題材」ということを熟知しているが故に,どうやって「新しく装」うべきなのか,よく練られていることである。何度繰り返したか分からない納戸理人の人生のやり直しの一部をパチンと切り取って,そこから納戸自身がどう「脱出」しようとするのかをワシら読者の腑に落ちやすいように提示してくれているのだ。SF作品としての斬新性がどの程度かは特にSF者でないワシには分からねど,「うまいな~」と感心させる物語の妙は,今読み返しても鮮やかである。
 ・・・と, まぁ,納戸のように爽やかなやり直しができるに越したことはないのだが,現実的には不可能である。であればこそ,人々は過去の他人の行動の蓄積,すなわち,歴史から学ぶことで,仮想的なパラレルワールドを脳内に刻み込み,断続的に訪れる選択の時にそれを参照しながら最適と思える行動を取るのである。結局,生まれ変りを本気で願うなら,生きているときに意識的に少しずつ「生まれ変わる」しかないのだ。それを人は「学習」と呼び,愚者が自身の経験というごく僅かなサンプルからしか学べないことの埋め合わせを学習を通じて行うのである。
 ワシはこの坂田靖子によるディケンズの代表作「クリスマス・キャロル」はあいにく読んだことがないのだが,完全な坂田ワールドと化した本作を読む限り,スクルージという守銭奴が「生まれ変わる」物語であるようだ。ワシはまだこの「改心」の動機づけがイマイチすっきり理解できていないのだが,スクルージが他者への贈与という人間の本能に根ざした行動に目覚めた最大の理由を胃の腑に落とすには,ワシがもう少し老いる必要があるのだろう。
 120ページと短い作品だが,生命感にあふれたダイナミックな画面構成は坂田靖子健在なりということを見せつけてくれた。緻密な構成に基づいた「未来の思い出」とは対照的に,漫画表現の自在さを武器とする坂田版「クリスマス・キャロル」は,古典的だが今にも通じる現実的な「生まれ変わり」の方法を提示していると言えよう。
 今日はクリスマスイブ。ワシにとっては相変わらず仕事に詰まってヒーコラいうだけで終わってしまう一日に過ぎないが,世界中の多くの人々が今の自分を肯定するために,他者へ贈り物をする日である。何も贈らないワシみたいな輩は,せめてその事実だけは一日の終わりまでには認識しておきたいものである。ひょっとしたらそのうち贈与の相手も見つかるかもしれないし,ね。

いしいひさいち(漫画)・峯正澄(文)「大問題’09」創元ライブラリ

[ Amazon ] ISBN 978-4-488-07063-2, \640
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 いしいひさいちがしばらく休業するというニュースが2009年11月に飛び込んできた。本作を最後に,しばらくは「大問題」シリーズが出ることも期待出来そうにない。デビュー以来,日本の4コマ漫画の世界に革命を起こし,多数のフォロワーを排出しながらも自らは革命の志を絶やさず,休業直前まで自己変革を続けてきた稀有な漫画家がおやすみモードに入ってしまうのは残念であるが,仕方のないことである。長谷川町子が休業を繰り返しながら,晩年まで仕事は断続的ながらも続けていたことを考えると,ぶっ続けで還暦を越えるまで続けてきたいしいの仕事量はちょっと多すぎたのかもしれない。ここはゆっくり静養し,再登場されることを期待したいものである。
 この「大問題」シリーズは峯との共著であるけれど,まぁ,間違いなくいしい抜きではここまで続いてこなかったものであろうから,峯の文章は抜きにしていしいの作品だけを論じてみたい。
 いしいひさいちの漫画は,現代日本の4コマ漫画の中でも特筆すべき鮮鋭さ,斬新さを持っている。いしいフォロワーの一人,やくみつるが,まだマイルドだった頃のいしい作品のテイストを保ちながら文春漫画賞を取ってしまったのは,それだけいしい作品が優れていたからに他ならない。かつて本宮ひろ志は「優秀な漫画家の後ろに何十人もの平凡な漫画家が連なっている」と言っていたが,いしいの場合それでは足りない程,いしい以外の漫画家に多大な影響を与えてきた。しかし今のいしい作品を真似ることができるフォロワーはもはやいない。あの風刺の鋭さ,あの「言う事をためらうことこそ描くべき」という,とり・みき並の非情さに加えて,人口に膾炙した政治家・著名人のキャラ付けの妙は,そうそう真似できるものではない。せいぜいいしいが作り出したキャラをそのままパクるのが関の山だ。いしい作品を作るための方法論を会得した漫画家は,今の日本には存在しない。アル中で辞任した中川昭一が,父親同様の末路を辿るかも,というワシらの腹黒い予想を見透かしたような作品(P.58-59)を描けるのは,たぶんいしいととり・みきぐらいであろう。
 ただちょっと気になるのは,「自己責任」という鉢巻をした小泉純一郎が,アキバ事件の加藤の種をばら撒く漫画(P.168)を描いていることだ。これは今までのいしいとはちょっと違う。自己変革の一歩ともいえるが,ワシはここにいしいの「老い」を感じてしまった。いしいの描く優れた風刺はいつも中庸のスタンスを崩さず,左右に大きく触れた振る舞いを察知してネタにするというものだ。それがちょっと左翼的プロパガンダ的なストレートさを本作品では感じさせている。まぁ,ちょっとドキッとさせるだけの冴えはあるのだが,それでも直裁的過ぎないかなーと思ってしまうのである。もちっとひねって欲しかったな~。
 来年に「大問題’10」が出版されるかどうかは微妙なところであるが,峯の文章が増えても,休載時点まで書きためた物だけを使って何とか出して欲しいと思う。今年は政権交代があって,風刺にはもってこいの題材がいっぱいある。ワシとしてはどうしてもその変革(の期待)を,いしい流に風刺して見せて欲しのだ。そしてこの先も,この日本がどういう状況になっても,それを冷静に眺めてクスッと笑う,笑いどころを見つける修練をさせて欲しいと念願している。そんな大仕事が出来る漫画家,いや日本人は,いしい以外に見当たらないからである。