江戸川乱歩(原作)・丸尾末広(脚色・作画)「芋虫」ビームコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-04-726085-6, \1200
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 丸尾末広と言えば,本年(2009年),第13回手塚治虫文化賞新生賞を取った「パノラマ島綺譚」の方を推薦すべきなのかもしれない。しかし,江戸川乱歩の小説作品の骨絡みのファンとしては,本作こそ,江戸川乱歩のコミカライズ作品としては現時点における最高傑作としてお薦めしたい。
 以前にも書いたが,今,ポプラ社から刊行されている「怪人二十面相」とはじめとする少年物シリーズを,ワシは乱歩作品とは認めたくない。まぁ,面白くないとは言わないが,あれは一番乱歩らしい部分が抜けちゃった抜け殻みたいなものであって,昭和初期,主として「新青年」に掲載された短編がワシにとっては最高の乱歩作品である。
 評判の高いものとしては,「蟲」(あ,書いているだけでサブいぼが・・・),「踊る一寸法師」(長編の「一寸法師」はあんまし面白くない),「押絵と旅する男」(ファンタジーの傑作),「白昼夢」(夏の暑い日に読んだら目眩を起こしそう),「屋根裏の散歩者」(推理小説としてよりは「屋根裏」趣味が横溢)・・・なんてのがあるけど,概して,つーか,全部,子供に読ませてイイものとは思えない。こーゆー「悪趣味」な物は不健全な大人が密かに楽しむ小説である。有意義に過ごすべき休日を部屋に篭ってクスクスと微笑みながら,閉じこもって楽しむものなのである。
 その傑作短編の中でも「芋虫」は図抜けて面白い作品である。ワシがこれを読んだ解説(中島河太郎だったか高木彬だったか)は,映画「西部戦線異状なし」とその原作「ジョニーは戦場へ行った」を取り上げ,シチュエーションの類似性を指摘していたが,描いている「主題」が全く異なることも述べていたと記憶する。ワシは「西部戦線」も「ジョニー」も未見なので何とも言えないが,本作「芋虫」が,少なくとも戦争の悲惨さを告発する目的で描かれたものでは全くない,ということは誰しも納得するはずだ。乱歩は主人公「須永中尉」の境遇を創りだすために戦争を口実に使っているだけである。「火垂るの墓」において,兄妹が悲惨な境遇に陥る理由も戦争であるが,それはきっかけに過ぎず,あの作品の主題はあくまで兄妹の生き様であるのとよく似ている。この世の悲惨さの多くが戦争によってもたらされることは確かだが,乱歩が「芋虫」を執筆した時代にはそれが今よりずっと身近な悲惨の種であったというだけのこと。現代においても「芋虫」と同じシチュエーションは,交通事故でも爆発事故でも,十分ありえるものなのである。太平洋戦争中,この作品は発禁となったが,乱歩は戦意高揚の妨げになるので処分を「当然」としながらも,何か解せないという感覚を持っていたのではないか。そもそも実際の戦争とは全く関係の無い主題の作品なのに・・・,と。
 丸尾末広は「芋虫」を漫画化するにあたり,大正から昭和にかけての戦争にまつわる風俗を大量に画面の装飾として利用した。「英雄」として賞賛されつつも一歩も自力では動けない須永中尉を「世話」する妻・時子,二人だけの閉じた離れでの生活は次第に平衡感覚を失い,読者に目眩を起こさせるような世界が展開されるのだ。しかしそこには戦争を批判する意図は全く感じない。いや,深謀遠慮的にそうなのかもしれないが,あくまで丸尾・乱歩ワールドのデコラティブな世界を構築する具材の役割としか,ワシには思えなかった。
 乱歩は自分の作品を「眼高手低」と評していたが,ストーリーテラーとしては絶対の自信を持っていたという。「芋虫」も,確かにおぞましい世界を描いてはいるが,基本的にはエンターテイメント作品であり,グイグイとワシら読者を引き込んでいき,読了後は何とも言えない不思議な感覚に導いてくれる。ネタバレになるからこれ以上の詳細は述べないけれど,本作でも丸尾は乱歩同様グイグイと読者を引き込んでくれるストーリー運びを心がけているということは保証しよう。「パノラマ島綺譚」の方は,雰囲気よりはストーリーの運び方に忙殺されてしまってイマイチ乱歩らしい異常感性が少ないように感じられたが,本作は短編ということもあって,絵による雰囲気作りに重点がおかれている。その意味では,「パノラマ島」よりは本作の方がずっと丸尾作品として優れているように思えて仕方がない。本作は前作とその受賞ががあって生まれたものであろうけれど,ひょっとしたら丸尾は前作で物足りなかった「描き込み」を本作にぶつけたのではなかろうか。
 そうであればこそ,「パノラマ島」に続けてこの「芋虫」を連続して読むと,丸尾が乱歩を理解し,その世界を二次元世界に再現する力量の冴えがより鋭く感じられるのも当然という気がしてくるのである。
 ちなみに,本作を読んでしばらく「バナナ」が食えなくなったら,アナタは正常人である。逆に大好きになったら・・・「与謝野鉄幹」と呼んで差し上げたい。
[ 2009-12-22 追記 ] え~っ,若松孝二が「芋虫」を映画化ぁ~? それはいいのだが

「戦争はいろいろな人を不幸にする、ということを伝えたいし撮りたいのです」と訴えていた。

・・・そっ,そんな反戦映画,乱歩作品じゃないやいっ!

鹿島茂「ナポレオン フーシェ タレイラン 情念戦争1789-1815」講談社学芸文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-291959-3, \1650
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 日本で本格的な政権交代が起こってから早3ヶ月が過ぎた。叩く人あり,暫く様子見を決め込む人あり,小泉改革憎しでとにかく反対党だからと称揚する人ありと,ひとそれぞれ,メディアそれぞれの立場で意見表明を盛んに行っている。ま,不況だの少子化だの高齢化だのと言われながらも表現の自由が保証されていることは真に結構なことである。結構なことであるが,さて,批判する側も称揚する側も様子見する側も,みな揃って政権与党が行う政策を「眺める」だけで,積極的に協力してやろうとか足を引っ張ってやろうとか,参加しようという様子は全く見えない。様子見する人はまだそういう意味では発言も控えて「何も手出しをしない」のだから「無言不実行」は当然と思えるのに対し,批判側も称揚側も「有言」の癖に「不実行」なのはどうも解せない。批判するならみんなの党でも自民党でも積極的に活動して持ち上げればイイものを,どうも盛りあがりに欠ける。称揚する側は称揚するだけで自分のサイフを広げて寄付するとかCO2の削減行動に精出すとかすればいいものを,ただ「何かいいことはないものか」と待っているだけだ。かくいうワシも「様子見組」の一員なので大きな口を叩く資格は無いのかもしれないが,どうもこれだけ「行動しない」ようになってしまった国の有様を見ていると,滅びの時は近いと思わざるをえない。民主党でも自民党でも共産党でもみんなの党でも国民新党でも社民党でも,どこの政党が政権を担ったところで政府の末端,政府の根本たる国民が何もしないでは,先行き何が起ころうこともなく,衰微していくというのが世界史の常識である。
 結局のところ,国家の活力ってのは,ドガチャカな大騒ぎに内包されるエネルギーの総量なのだろう。完全な無秩序では経済活動どころではないけれど,国家権力の中枢がしっかり機能した上で,権力だの金だの愛情だののやりとりが活発に行われているならば,不幸な人間と同数の幸福な人間がいて,それが時間の推移とともに入れ替わっているという面白い状態であるはずだ。革命が勃発してナポレオンがセントヘレナに流されるまでの時代,フランスは,絶対零度の沈黙の世界に移行しつつある今の日本とは全く別のベクトルを持った,活力あるドガチャカな時代だったのだ。ギロチンの露と消えた王侯貴族・政治家も多数,リヨンではフーシェの指示によって虐殺も起こったし,ナポレオンはヨーロッパ中を戦争の渦の中に叩き込んだ挙句に極寒のロシアで何十万ものフランス兵を凍死させた。もう一度あの時代を繰り返せと言われてOuiというフランス人は皆無だろうが,悲劇の熱量が国家の活力を最大化させた時代であったことは間違いない。
 本書はそんな時代を生き抜き,引っ掻き回した3人,フーシェ,ナポレオン,タレイランを描いた傑作評伝である。単行本で出版された時は評判が高かったので,文庫化するにしても一般書と同じ扱いになるかと思ったらさにアラず,この度講談社学芸文庫に収められることになった。まぁ,確かに大量の資料を土台に積み上げた本書が学術的に優れているのは確かだが,600ページもの本書を一気呵成に読ませてしまう鹿島茂のエンタメ的筆力を考えると,もっと定価を安くして講談社文庫に収めた方が日本の歴史的知性を高めるには良かったのではないかと思うと残念である。ま,講談社的には文庫になっても高い定価のものが売れた方がイイのかもしれないけどさぁ。
 以前,フーシェをモデルにした倉多江美の傑作歴史マンガ「静粛に、天才只今勉強中!」を此処で紹介したが,本書を読みながら,倉多の描き方が優れていることを改めて確認できた。フーシェの最期は別として,そこに到るまでの歴史的経緯,リヨンの虐殺,総裁政府での復活,ナポレオン政権での重用と失脚まで,重要なところはきちんと押さえて描いているのだ。本宮ひろ志とは正反対の冷徹な政治的振る舞いに焦点を当てた描き方は,もう少し日本の政治漫画も見習って欲しいと思う。政治漫画がみんな小林よしりんのようになっては困るのである。
 その倉多のマンガでも,「熱狂情念」に駆られたナポレオン,「陰謀情念」に一生を捧げたフーシェに対して,「移り気情念」を持つと鹿島に宣言されたタレイランは,一等図抜けた存在として描かれている。平民出身の二人に対して,貴族階級出身のタレイランは,一種世界史を俯瞰する知性に優れていたのだろう。ま,女たらしで銭稼ぎに熱心という精力家であることも手伝って,精神的にも肉体的にも余裕を持って人生を過ごせたってことも大きいようだが,やっぱりナポレオン没落後のヨーロッパ秩序を回復するだけの政治的構想力は,生まれついての貴族的インテリ知性がなければあり得なかったろう。現代のEUの原型が,フーシェが内政的に支えたナポレオンがヨーロッパ中を引っ掻き回した後の,タレイランが混乱を収拾するウィーン会議から出発しているということを考えると,フランスがもたらした大混乱は,今のヨーロッパの活力の源泉になっているとも言えるのだ。してみれば,この3人が同時代に生きていなければ,そして3人それぞれが異なる「情念」に駆られて積極的な活動ができなければ,つまりそんな活動ができるフランス革命の混乱がなければ,現代の欧州も存在していなかったと言えるのである。
 普通,学術的な記述をしようとすれば,なるべく合理的な説明で埋めていくのだろうが,鹿島の語り口では「情念」という言葉がバンバン出てくる。政治的な動きは合理的な説明のつく部分と,権力者の「性癖」による部分から成り立っていて,どうやら鹿島はこの性癖部分を強烈な個性,すなわち「情念」という言葉で置き換えているようなのだ。その点,ちょっとそこに寄りかかりすぎではないかと思わなくもないのだが,その分妙にすっきりしたストーリーになっているのが不思議である。
 してみれば,人間社会のドラスティックな動きというものは後天的にすべて合理的に説明の付く部分より,その動きを主導した極少数の個人の性癖に依存している部分が多いということなのかもしれない。
 年末から正月にかけての長い休み期間中に本書を読めば,この凍りつきそうな日本とは対極のエネルギーを読み取って個人レベルでエントロピーを高めることができるであろう。つまり本書の現代的意義は,フランス革命時代に発生した,この3人が抱えた恐るべき量の「情念」を個人に注ぎ込むことにあるといえるのである。

おざわゆき・渡邊博光「築地あるき」飛鳥新社

[ Amazon ] ISBN 978-4-87031-964-6, \1048
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 ワシはグルメではない・・・つもりだが,割と食い物にはうるさい方かもしれない。ことに自炊生活をするようになってからは自分好みの食い物ばかり作るようになっている。特に魚料理。凝ったものを作るわけではないが,朝に焼き魚がないと一日胃の調子が良くないように感じるし,秋には秋刀魚の塩焼き,冬には三平汁やブリ大根を食わないとなんだか落ち着かない。
 さすがに生魚となると,スーパーで買ってきた物をそうそう食す気分にはならず,外食が主となる。大きい仕事が終わった夜にはちょっと高めの回転寿司チェーンに飛び込むし,遠出したときには山よりも海の近いところを喜ぶようになってしまっている。
 そんな伝統的日本人の食嗜好を備えるに至ったワシなので,「東京築地市場」と聞けば,マグロをゴロゴロとコンクリートの床に並べて威勢のいいセリを行っている風景とか,中売・小売の小さな店がテラテラと生きの良さを勝ち誇る海の幸を並べている風景とかが脳内に浮かんできて,条件反射的にヨダレが出てきてしまう。
 しかしこのたび「おざわゆき渡邊博光」夫妻が上梓した本書によれば,そんなステレオタイプな築地のイメージは相当狭いものであるらしいことがわかる。市場を中心として,築地の界隈にはうまい食い物屋が林立しており,それを食べ歩くことで市場を見学するのと同等以上の楽しい観光ができるようなのだ。う~む,知らなかった・・・。本書にはそんなおいしい食い物屋が28店,オールカラーかつ手塗りのアナログな温かみのある「おざわゆき」のエッセイコミック形式で紹介されている。加えて「渡邊博光」による「なべMEMO」でその店の追加情報が文章で添えられ,食い物のジャンルごとに漫画では紹介しきれなかった店が「なべコラム」で約150近くも言及されている。いや,仕事とはいえこの情熱には頭が下がる。
 本書の前身は同人誌「築地あるき」「築地あるき2」である。
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 最初はおざわによるエッセイマンガだったものが,好評だったらしく,渡邊による追加情報も載っけた「2」が出てさらにブレイクし,築地市場内の墨田書房でも扱うようになってさらに人口に膾炙してこのたび,全面書き下ろし・オールカラーの豪華本(の割には定価が安っ!)となって出版されたものであるらしい。ワシは同人誌は読んでいたが,商業出版されたのはコミティアblogで知った程度なので,詳しい経緯はよく分からないのだが,本書のあとがきによるとそーゆー経緯で出たものということだ。
 同人誌であれ商業出版本であれ,一定数以上の支持があるものには理由がある。本書の場合,やはり
 ・全部,おざわ・渡邊夫妻が自分の足と銭と舌で体験した情報だけで編まれている
 ・おざわの描く絵の持つ豊かさと手塗りカラーの鮮やかさ(イクラ丼とナポリタンが美しい)
 ・大人気店から一見様お断りみたいな店まで,手広く訪問している探究心の広さ
ってのが大きいように思う。ワシみたいな偏狭な人間は「あれはマズい」「これはキライ」という排除の論理で物事を語ってしまいがちなのだが,ご両人の語り口からは「あれはウマい」「これはスキ」という包摂的な表現しか出てこないのだ。「高いからダメ」,「安いからイイ」という貧乏人に媚びた表現もない。つまり無理をしていないのだ。腹を空かして築地界隈を楽しみながらほっつき回って飲み食いし,素直に喜べたものを描く,このストレートな幸せ感が本書が支持された一番の理由だろう。
 しかし,ワシ個人が最も羨ましいと思ったのは「夫婦」でこの楽しみの共有しているということだ。ああ全く羨ましいったらありゃしない。してみれば,本書で一番「ウマそう」だったのは,この仲睦まじそうな「おざわ・渡邊」夫婦の連携プレーそのもの,なんだろうな。ちえっ。

須原一秀「自死という生き方 覚悟して逝った哲学者」双葉新書

[ Amazon ] ISBN 978-4-575-15351-4, \876
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 本書の存在,というより,「須原一秀」という哲学者の存在を知ったのは,今は無きWebTV 「ミランカ」の番組中で,宮崎哲哉がこの名前を出していたからである。その時は,ふうん,珍しい人間もいるもんだというぐらいしか意識しなかったから,よもやワシがその須原の書いた遺書がわりの本書を読むなんて思いもしなかった。
 で,本書の親本が単行本として出版されたとき,「須原一秀」という名前が脳にインプットされていたワシは,店頭で確かにそれを手にとってパラパラめくってみたのだが,そん時には怖くてレジに持っていけなかったと記憶する。ちょうど自殺者3万人突破という時代が続いている上に,ワシ自身も「自殺」という自体を深刻に受け止めなくてはならない立場になったこともあって,本書が縄に首を通してビクついているワシの脚を引っ張りかねないと,ホントに恐ろしく感じたからである。
 本書の冒頭で浅羽通明が解説を書いているのだが,その中で筒井康隆の小説「銀齢の果て」の登場人物に言及しているところがある。ワシはこの作品を読んでいたので,浅羽とは別の人物,小説の冒頭,老人ホームでの殺戮戦において,生き残った老人に哲学的アドバイスを講じてさっさと縊死した「哲学者」を思い出した。単なる偶然かもしれないが,何かこの哲学者の「死に様」は須原に通じるものがあって,正直,あまり共感できないなと感じたものだ。共感できるとすれば,同じく筒井康隆の作品,「」の主人公の方がまだ理解出来る余地がある。この主人公は文学を専門とする元・大学教員で,今は妻とも死別して一人でひっそり暮らしている。とはいえ,生活水準を落とすことをよしとせず,さほど多くない蓄えを食いつぶし続けているので,この暮らしが維持できなくなったら「自裁」(「自殺」とは言っていない)すると決めている頑固老人である。老い先短い人生で,家族もなく金もなくなったらそこでチョン・・・という気分,ワシもそのうちそうなるかもしれない。
 しかし,「銀齢の果て」の「哲学者」や須原一秀は,イマイチ自分勝手過ぎて(これは浅羽も指摘している),それはどうだろうと思わずにはいられない。単行本が新書として編み直されて,ちょうど風邪気味な時にそれを手にとってこの機会にと反射神経的に購入し,38度の熱にうなされながら断続的に読みつつ須原に共感したら死んでしまうかもしれないとビクビクしていたワシは,「ダメだこりゃ」と,途中で呆れると同時にホッとしたのである。この須原の主張する「死の能動的ないし積極的受容の理論」には感心したものの,安楽死を大幅に健康時に前倒しした「新葉隠」的自死には正直,「何を勝手なことを!」と憤ってしまったのである。今のところ,ワシが須原と同じ65歳で十分健康であっても,安楽死前倒しをしようとは考えないだろう。須原同様の円満な家庭を持っていれば,なおさら死への未練断ちがたく,死の前倒しをしようなどとは露ほども思わないに違いない。ワシはきっと徹頭徹尾,本書がいう処の,キューブラー・ロスによる定義「死の受動的ないし消極的受容」しかできない,普通の人間なのである。
 須原の主張は明快だ。本書は浅羽の解説と須原のご子息のあとがきを含めて307ページの新書だが,その主張の核は前述した通り,「死の能動的ないし積極的受容」(P.126~128)と,葉隠で主張されていた武士の「自死」を,現代の老人の「自死」と同じ意義を持つものにしようということだけ。それを自ら証明するために,須原は2006年4月に頚動脈を掻き切った上で縊死したのである。「自分には「自死」する資格がある」との主張を本書にまとめ,ワシら普通人にもホントにわかりやすい,哲学者とは思えないほど日常的な言葉使いで,主張の核を真綿でくるんで渡してくれたのだ。それについては本書の記述に直接触れて頂きたい。いや,この須原という人,多分「哲学者」という肩書きがなかったら,普通の気の良い元気なオジイサンだったんじゃないのってぐらい,いい文章なんだからさ~。
 その仕事の成果に,風邪ひきの頭ではあるが,ワシは大いに「励まされた」のである。本書の記述の一つ一つにワシは同意し,「人生の高」を知ったソクラテスや三島由紀夫や伊丹十三のような人間が老境に差し掛かった時にふと陥る不安,いや,確かな死の影を察して早めの安楽死をすべく身を引くことの「正当性」の主張も理解した。しかしどうしてもワシの頭は納得しなかったのだ。
 それは多分,ワシが大学生の頃,十二指腸潰瘍をこじらせて極度の貧血になり,ICUに担ぎ込まれた経験があるからだろう。あの時ワシは病院に行かねばとタクシーに乗って何とか隣駅の民間病院にたどり着き,医者と面談して間髪入れずにICU行きを命じられたのだが,その後,一般病棟に移るまで,隣のベッドには生きているんだか死んでいるんだか(死んでいたらICUにはいないか)分からない人もいる中で,なにやらぼーっと過ごしていたという印象しかないのだ。だから,たとえ癌になってモルヒネ中毒になってほぼ昏睡状態になってしまえば,まぁ,自分の意思があるんだかないんだか分からないまま死んでいけるに違いないと踏んでいるのである。須原に言わせれば,そんな都合よくいかねーよということになるのだろうし,聖女といわれたキューブラー・ロスですら,自分の死に際しては不機嫌極まりない死に様だったのだから,いわんや凡人たるわしみたいな輩が精神的にも肉体的にも安らかな死を望むなぞ,宝くじに当たるより低い確率でしかあり得ないというのは正しい認識なのだろう・・・しかし・・・。
 須原に言わせると「癒し」とは,集中させれば人生の極みを得られる快楽を薄めてダラダラと生を長らえるためだけの効能にしたもの,ということだが,そういう癒しで長らえる「凡人」的人生ってのは,多数の人間の人生がそうであるならそうであるだけの「理由」があるんじゃないかと,ワシは思ってしまうのである。須原は科学を「異様」といい,数学や物理の「わけのわからなさ」(P.233)を難じて「普通主義」を定義しているが,このような凡人的常識を備えている哲学者が,武士道のエリートを極めたような葉隠的自死を唱えているのはどうにも解せない部分が残る。「科学」が異様であると感じられたのは,自死を妨げる合理性が,「多数の論理」によって成立してしまうのではないかという反骨精神の表現なのだろうか? 結局,須原の「自死」は,本書に縷々述べられた哲学的思索の「結果」ではなく,「前提」に過ぎなかったのではないのか?
 ワシ自身は,死を積極的にも能動的にも受け入れる気など毛頭なく,最後の最後までネチネチと抵抗しながら,最後は「しゃーねーか」と観念するという精神構造しか持ち合わせていない凡人である。だから低い確率でしかなくとも,死ぬんだったら安らかであることを願うしかないし,さりとて元気なうちに首をくくって死ぬほどの度胸も思い切りもない。前述したように,65になって自死を選択することは絶対ないとは言い切れないが,たぶんそれはないだろうし,ワシ以外の多数の人間にとってもそれは同じだろう。たとえ本書に影響されて「自死」を選択する人間が増えたとて,多数派になることは多分ない。
 ワシは須原が感じた「異様な」「科学」をかじった人間なので,多分「多数派」には何らかの理があると信じている。人生の高を知ることなく,癒しだけで生き延びる「受動的ないし消極的」な人間が多数であることの意味を,須原は真正面から取り上げることなく逝ってしまった。その議論の続きは,生きている人間が生きている限り続けるしかない。そして,多分,いや,そこにこそ多数の「受動的ないし消極的」人間の存在意義が見いだされるハズであると,凡人たるワシは一縷の望みを持っているのであるが・・・・ダメっすかね?須原先生。

しらいさりい「ぼくは無職だけど働きたいと思ってる。」朝日新聞出版

[ Amazon ] ISBN 978-4-02-250642-9, \940
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 エッセイマンガが増えたな~,とツクヅク思う。映画でもドキュメンタリーが増えてきたが,日本全体,いや先進国全体で高齢化が進展していることもあって,読者層・視聴者層の一番分厚い部分がフィクションというものに飽きているという理由も手伝っているのだろう。絵空事ではない,リアルな物語を希求するという状況は暫く止むことはなさそうだ。
 エッセイマンガが増えてきたのも,そんな「リアルな物語」を求めるという状況に加えて,マンガの表現力と読者のリテラシーが格段に上がり,複雑なコマ割が敬遠されるというよりは,シンプルで白い絵でも十分面白さが伝わる・読み取れるようになっているというマンガの21世紀的進化の結果でもある。表現がシンプルであればあるほど絵やコマ割にはセンスが求められるので,誰にでも描けそうでいて,そう簡単には読者に届く表現力が得られるわけでもない。実際,ストーリーマンガでは一線級の作家でも,エッセイマンガとなると途端に精彩を欠く,ってなことは普通にある。逆に,ド新人でもセンスさえあればWebや同人誌を通じてドンドン読者を獲得していく,ってなこともすっかり当たり前になった。このblogでも幾つか紹介しているが,「ヘタリア」のようにWeb経由で世界的な評判を得たものも現れるようになり,「時代だなぁ~」とすっかりオッサンの感傷に浸ってしまう昨今である。雑誌が駄目になったと思ったら,今度はWebか,いや,Webのせいで雑誌が駄目になったのか。ともかく,漫画家と読者が直に繋がりやすい状況になったことは良いことだとワシは思う。
 本書も,そんなWeb経由で評判になり,プロデビューに至ったマンガであるらしい・・・というのも,本書を読むまでは著者の「ニートな僕」の存在を全く知らなかったのである。どーしてもバブリーな1980年代に青春を過ごしたオッサンなワシは,Web上のマンガってのにまだ抵抗があるらしいのだ。だもんで,積極的にディスプレイでまんがを読もうという気にならないのである。多分,本書を手に取らなければ,著者のblogを読むことはなかったであろう。
 そんなワシが本書を購入した理由は,内容が「・・・うっ,これは惹きつけられてしまう・・・」と直感したからに他ならない。得能史子に惹かれたのと同様,「ダメダメ光線」がビガビガと発せられており,本書を手にとって一瞥した途端,ワシのダメゴゴロの「共感」回路がショートしてしまったのだ。ワシは結構絵柄にはうるさいのだが,シンプルというだけではなく,相当センスのよさげなベクトル描画なデジタル絵にも好感を持った。
 ちょっと気弱な三十路の独身男,村田良男が主人公のフィクションマンガ・・・が本書の正確な紹介になるのだが,ワシはやっぱり本書を「エッセイマンガ」というジャンルにカテゴライズしたいと思う。なぜなら,ここで描かれている村田君のありように,フィクションを超えたリアリティを感じたからである。著者がこのような体験を経てきたかどうかは不明であるが,ワシも職場でしょっちゅう悩まされている「マンション営業」にいそしむ村田君がクビになる(自主退職という形態は取らされるが)経緯,ニート期間のやるせない鬱な日々,チャットと出会い系にハマって振られるという情けないエピソード,そして再就職(といえるのかなぁ,これ)に至るまでの七転び八起きな就職活動・・・,どれを取っても絵空事感がゼロ。多分本書をノンフィクションのドキュメントマンガだよ,と言って人に勧めたら完全に信用するだろう。そのぐらいリアル,っつーか,「あるよなぁ・・・こういうことも」「いるよなぁ・・・こーゆー奴」「ああっ,これワシだ,ワシのことを描いている~」ってな反応が続出するんじゃないかな。ワシの場合は,自分にも通じるし,今教えている学生さんとか,前の職場で接してきた能開セミナーの受講生さんにも思い当たる人がいる(た)ので,読みながら胃がキリキリしてきたのである。
 村田君は,慣れないマンション営業部門に回され,業績不振の責任を取らされる形で自主退職をする(させられる)。そして就職活動の日々を送るのだが,誰しも,ことに,対人関係では積極的になれない気弱な向きには,自分には向いていない仕事をさせられて苦しんだ体験はあるだろう。村田君が退職するのも,誰が悪いというよりは,時代と状況が悪いというより仕方のないところがあり,そして再就職活動も躓きながら休みながらだらだら~と過ごしてしまう,というのも,勝間和代あたりからは「バカしっかりしなさい!」と怒鳴りつけられるだろうが,カツマーとは縁遠いダメ人間たるワシは「無理もねぇなぁ~」とシミジミ共感してしまうのである。ちょうどワシも調子が良くない時期に当たっているので,多分,村田君のような状況であれば全く同じか,いやそれ以上に対人関係ゼロのヒッキーになるに決まっているのである。
 幸い村田君は,ネットを通じてとはいえ,交友関係を持とうという意欲は残っており,自分を心配してくれる家族もいた。三十路前半という年齢制限ギリギリの若さであったことも功を奏して,何とか世間と繋がることが出来た。この辺も結構リアルで,逆にこのような多少の社会性・関係性の有無が,職を得るかどうかの紙一重の違いに繋がってしまうのだろう。そう考えると,一歩間違えればアキバで暴れまくった加藤のような人生にもなり得る,ちょっと怖い状況を描いた作品であるとも言える。
 今の日本の雇用状況の悪さと,すぐに底辺に落ちてしまう耐性のなさは,結局の所,社会の分厚さがないせいだ,というのが宮台慎司の分析であるが,民主党政権を突き上げたところでそう簡単に復活するものでもない。とりあえず手近なところから,出来る範囲で各人が隣人知人をつなぎ止める努力をする他ないだろう。もちろん,最低限の本人の自助努力は必要であるけれど,せめて元気で就職の意志のある世代がヤケクソの捨て鉢にならない程度に,パンを分け与えるぐらいの節度を,まだパンを得ることが出来ているワシらが持つことが必要だ。そう,村田君が労働の意欲を復活させたぐらいの,ささやかだが重要な成功例を普遍化することができれば,ビンボーではあるがそこそこ良い社会が維持できるのではないか・・・ワシはこのマンガを読んで,そう確信したのである。