[ Amazon ] ISBN 978-4-584-12249-5, \686
作家(という肩書きでイイかな?)・小谷野敦の激烈な「禁煙ファシズム闘争」は,氏のblogを愛読している人間にはよく知られていることだろう。本書は日本パイプクラブ連盟などの媒体や自身のblogに綴ってきたその主張をまとめた約200ページの新書である。大変読みやすく,一日も掛からずにあっさり読み通せたから,現在では少数派になりつつある喫煙者の主張を保存しておくにはもってこいだろう。ま,「最後の喫煙者」の主張,とまでは今の時点では至ってないけど,小谷野が言うところの「禁煙ファシズム」が行き着くところまで行けば,こうしてその主張が出版されることもなくなるかもしれない。ことにこういう激烈な反撃文はますます出版されづらくなるかもしれないのだ。
本書にも小谷野の「文章作法」の激烈さを非難するAmazonレビューが引用されていたりする。ま,それは確かにそうかもしれない。しかし,ここは一つ冷静になって小谷野の主張するところだけを整理してみようではないか。
・駅のフォームや道路・公園など,外気に対して完全に開放されている公共の場所での完全禁煙は行き過ぎ。喫煙所を設けろ。
・健康増進法は「分煙」を勧めているのであって,「完全禁煙」推進のための法律ではない。
・マナーを守らない喫煙車の行いには怒りを覚える。車からの吸い殻のポイ捨てなど言語道断である。
・タバコが健康に悪影響を与えないなどとは言っていない。肺がんとの因果関係は完全に証明されたわけではないが,肺気腫や喉頭癌などタバコが原因の呼吸器系の病気は確かにある。
・・・とまぁ,「言い方」を変えると,至極穏当な中庸的な意見を述べているに過ぎないことがわかる。そう,反論が口汚くなったりすることはあるが,言っていることは「タバコの煙は直ちに健康を悪化させるような毒物ではないのだから,喫煙の場所を適当な所に設けてくれ」と言っているだけなのである。それをかさに掛かったように喫煙者を追いかけ回してとがめたり罰金を取ろうなんてことは止めて欲しい,ということに過ぎないのだ。
ただ,難しいなぁ・・・と思うのは,この問題,かなり根が深く,歴史も長いということがあって,解決できるとすれば,ただ一つの方法しかない。つまり,この「禁煙ファシズム」という「空気」を,「禁煙ファシズムなんてかっこわるいぜ」という空気に変えていくほかなく,それも小谷野のような突撃兵を先頭に,ある程度の数の賛同者と共に「分煙」の主張を声高に行い続けるより方法がないのである。
その結果どうなるか? 適度なところで落ち着けばいいのだが,またぞろ我が物顔のマナーの悪い喫煙者が問題を起こして嫌煙者の悪感情を引き起こして更に強硬な「完全禁煙ファシズム」を引き起こし・・・という,いつ果てるともしれない「空気の波」として引きずることになる可能性が高いとワシは想像しているのである。実際,小谷野も本書で指摘しているように,かつては,ことに昭和50年代ぐらいまでは列車も会社も学校の職員室も煙でモウモウとしていたと記憶している。その頃でも嫌煙権を主張する頑固な少数派はいたのだが,「へっ,小うるさいこといいやがる」と,多数を占める喫煙派からは侮蔑されていた。
それが今では立場が完全に逆転しており,喫煙派に相当不利な「空気」が作られてしまっている。それを称して「禁煙ファシズム」というのは正しいのだが,かつては「喫煙ファシズム」がはびこっていたことを考えると,結局,適度な「分煙」を境として喫煙派と禁煙派が綱引きを続けていく以外の解決策はなく,揺れ戻しは常に引き起こされるだろうという,甚だ疲れる結論しか出ないのである。
疲れるけど,しかし,人間社会のダイナミズムは大なり小なりこの手の「ファシズム」的な「空気」によって生まれているのだから,ある程度の揺れ動きは仕方ないと諦めるしかない。今,ちまたではタバコ以上にもっと依存性の高い薬物が蔓延りつつあるという状況だから,ひょっとすると,麻薬に嵌るよりタバコでも吸ってれば?という風潮にならないとも限らない。ワシ自身は喫煙者ではなく,小谷野同様,潔癖すぎる空気は望ましくないと思っているので,適度な分煙には賛成である。けれど,そーゆー禁煙と喫煙(分煙)の間にいるワシのような付和雷同的な輩が,現在の禁煙ファシズムを形成し,ひょっとすると次にまた来るかもしれない喫煙ファシズムを作り上げるかもしれないのだ。そんくらいの「自覚」をワシみたいな禁煙ファシストどもも持つべきで,それを認識する為にも本書は有益な書であると,ワシは確信しているのである。
「月刊Comic リュウ 2009年11月号(Vol.37)」徳間書店
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安永航一郎から「3号雑誌」などと揶揄されながら,とうとう3周年を迎えたComicリュウ。安永先生の連載「青空にとおく酒浸り」もいい加減,単行本化してくれないんですかね? まさか3年も続くなんて思ってなかったとか? いや,まったくあの行き当たりばったりとしか思えない,女の裸を描くのが目的としか思えないストーリー展開はワシ,大好きなんで,是非まとめて欲しいんですが・・・。しかし安永先生,原稿料だけでメシ食っていけるとも思えないんだけど,どうやって生活しているのか知らん?
それはともかく,2周年記念に続いて,3周年もこうして無事迎えられて嬉しい。まぁ,購買層が「SF」という言葉に反応する三十路後半から四十代まで,主としてオタク崩れのオッサン連中に限られているらしいっていう,将来性に関する暗雲は垂れ込めてますが,ね。とりあえずは潰れずに続いていることを喜んでおきたいのである。でないと4年目は・・・いや,イヤな連想はよそう。確かに,Comicリュウ独自ドメインのサイト(comicryu.com)が消滅して徳間書店サイトに移行しちゃったことは経費節減の一環とも取れるし,雑誌本体の価格が580円→780円→630円と高止まりしていることに,愛読者としては一抹の不安を覚えるのだが,龍神賞からは有望な新人も育っているし,単行本もボチボチ書店の書棚に少しだが定位置を確保したようだし,も少し長い目で見ていけばそのうち大ヒットも・・・あると期待したいのである。
とりあえず,目先の楽しみは,あさりよしとお「アステロイド・マイナーズ」が単行本にまとまること。「宇宙」と言えども貧富や能力による「格差」がある身も蓋もない現実味のありすぎる世界を描いているのだが,さりとてSF魂というか純粋な情熱が失われたわけではない,どころか,そんな世界だからこそわき上がってくる「生きる力」ってものを真っ正面から取り上げている力作である。出版の暁には是非ここでも取り上げたいものである。
だからさ,大野編集長,いろいろうるさいことを言われているんでしょうけど,これがまとまるまで,くたばらないで下さいよ! ・・・と,何だか甚だ意気の上がらないエールではあるけど,ここ静岡の片隅から遅らせて頂く次第であります。
[ 2009-10-20 追記 ] 10/26(月) 「アステロイド・マイナーズ」1巻発売だそうで・・・いや,まだくたばってもらっては困りますぜ。
栗原俊雄「シベリア抑留 未完の悲劇」岩波新書
[ Amazon ] ISBN 978-4-00-431207-9, \700
事実関係を調べるにはまずググってみる,というのが今のワシのデフォルト動作である。つまり,「検索バカ」になっちゃっているわけだが,少し有名なものであれば,たいがいWikipediaの記事がトップに引っかかってくる。で,じっくり読んだりちらりと一瞥を食らわせたりするのだが,最近はほとんど必要なところだけピックアップしておしまいになる。ことに長めの記事は全文読んでいると頭がくらくらしてくる。ワシの貧弱な日本語解読能力が更に破壊されそうになるのである。
これは,普段からまともな日本語を読み書きしていない学生の長文を読むよりたちが悪い。何故なら,学生の文章はダメなりにダメさが一貫しているのに対し,Wikipediaの文章は様々な人間が手を入れたせいだろう,文章の流れが一貫していないことが多いのだ。エディタが介在しているから,文の一つ一つはそこそこマトモなのだが,文同士の繋がりが微妙に噛み合っていないことが多く,じっくり読んでいると船酔いになったような気持ち悪さに見舞われてしまうのである。
この「気持ち悪さ」は,ワシが本を読んで知識を得て育ってきたという経験から来るものなんだろう。最初から断片的な知識をつまみ食いするように育ってきたのであれば,Wikipediaのぶっち切れ文体はかえって吸収が早いのかもしれない。その意味ではワシは完全にオールドスタイルの人間なのだ。ま,四十路ですからもう若くないですけどねぇ~だ。
そんなロートルであるから,今でもやっぱりまとまった知識を得たいときには,新書だの文庫だの単行本だのといった,旧態依然とした「本」に頼ってしまう。もちろん,対談本のようなものは別として,読みやすさでは単著がベストである。文章の「流れ具合」は一貫していることが望ましいからである。
つーことで,おざわゆきのシベリア抑留マンガの感想を書いてから,そもそも何故そんなことが起こったのか,という疑問に答えてくれる本を探していた時に見つけたのが本書である。もちろん,過去には様々な本が出版されていて,おざわの同人誌にも参考文献リストが載っているぐらいだから,そんなかからピックアップしてよさげなものを読めばいいのだが,何せほら,根がズボラだから,なるべく薄くてコンパクトで読みやすいものがいいな~,できれば抑留体験者の書いたものより,第三者の視点からまとめたものがいいな~・・・なとどわがままぶっこいていたところに本書がグッドタイミングで出版されたのである。本文が211ページしかなく,新聞記者の著者が書いたものだから,大変読みやすい。ワシとほぼ同年配の著者であるから,怨念でドロドロになった記述は皆無で,抑留の発端から,抑留体験と引き上げ後の悲劇,そして現在まだ日本国相手の裁判が続行中であることまで,時系列的に事実が淡々と述べられている。「岩波ぃ~? ど~せ左翼的偏向しているんでしょ?」という人にもお勧めできる中立的な内容である。
ワシが知りたかったのは,シベリア抑留の「そもそも論」である。ことにソビエト連邦側の言い分が知りたかったのだ。
まず,日本との中立条約を破って対戦末期に満州に攻め込んできたことは,まぁ日本側としては卑怯千万と批判することは当然だが,ナチスドイツ・ファシストイタリアと三国同盟を組んでいて,ドイツが降伏しても中立を守ってくれるなどと期待すること自体が間違いであろう。それ以前に,ソビエト革命の際には日本によるシベリア出兵があったことをソ連は忘れていなかった,どころか,「ソ連にとってもっとも苦しい時期に干渉戦争をいどんだ日本への恨みは,深く残っていた」(P.28)と栗原は指摘している。
更に,第2次大戦において最も死者数が多かったのがソ連であったことが,シベリア抑留の直接的な原因となったことも述べられている。失った3千万人もの労働力を補う目的で,日本人64万人も含めて24カ国,417万人もの戦争捕虜を「活用」したのである。これはポツダム会談でチャーチルに対し,スターリンが捕虜を活用して生産を上げればいいと言い放った(P.35)ことで裏付けられている。まぁ独裁者なら考えそうなことだ。しかしドイツ人は238万人も捕虜になってたんだなぁ・・・そう考えると,日本で声高に被害を述べ立てるだけでなく,ドイツも含めた被害国との連携も必要なんじゃないかと思えてならない。
本書では,国際法も持ち出して堂々としていたドイツ人捕虜に比べて日本人捕虜は従順だったということも,使い勝手のいい労働力としてこき使われた原因ではないかと指摘している。全く,東条英機の「戦場訓」なんぞ,負けてしまえば何の役にも立たないばかりか,害悪にしかなっていないことがよく分ろうというものである。東海村の臨界事故でもそうだけど,末端の兵隊だから知識が不要ってことはなく,むしろ自分の身を守るための手段として,今自分がどういう立場にいて何をさせられているのかを正確に認識し,無体なことは異議申し立てをしたり反抗したりするための知識は絶対に必要なんだよなぁ。
・・・とまぁ,コンパクトな新書であるが,読むとワシの知らない「事実」がいっぱい出てきて,目から鱗が落ちること落ちること。あ~,やっぱりこういうものはWikipediaには分量からして全部の掲載は無理だし,何より流れるように腑に落ちる文章は「みんなのWikipedia」には所詮無理だよなぁ・・・ということを再確認させられる。ロートル親父なワシではあるが,まだ当分は,「ちゃんと勉強したいなら本を読め!」と主張していかねばならんのだなぁ・・・と再確認させられた次第である。
佐野眞一「完本 カリスマ 中内㓛とダイエーの「戦後」」上巻・下巻・ちくま文庫
上巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-480-42630-7, \1000
下巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-480-42631-4, \1000
分厚い2冊の文庫本によって,ワシの貴重な三日間の連休は完全に潰れてしまった。
やたらに重複の多いしつこい記述,空想が飛びすぎる部分など,平易かつ簡潔な文体が好みのワシとしてはかなり気になる箇所の多いノンフィクションなのであるが,やっぱりこの著者による「読ませる文体」と,「中内㓛(いさお)」という栄光と挫折を併せ持つカリスマ経営者の魅力に引っ張られて一気に読んでしまったのである。おかげで家事がおろそかになってしまったが,掃除洗濯をほったらかしても読むべき価値があることは間違いないのである。
1969年生まれのワシにとっては1980年代の「ダイエー」という店は取り立てて特徴のあるショッピングセンターではなかった。こぎれいだし,品揃えはそこそこだし,近場にあれば立ち寄るぐらいはする,という程度の存在であった。本書の上巻で述べられている破竹の勢いで,松下電器や花王という大メーカーと喧嘩しながら,当時日本一の売上高だった三越を抜くまでに成長した栄光なぞ知るはずもなく,「垢抜けない小売店」という程度の印象しかない。しかも,その後のダイエーは転落の一途を辿り,2004年10月13日,産業再生機構による支援を仰ぐに至る訳だが,その過程では「サンデープロジェクト」に再建を託された経営陣が登場して田原総一朗をはじめとする出演者から励まされたりしていたのを見物させられ,特段愛着もない小売店の行く末にさして興味もないワシは心底うんざりしていたのである。
「一体全体何が問題なんだ? あの中内って言うだみ声の親父のワンマン拡大路線が原因だってんなら,親父ごと葬っちゃえばいいじゃねーか」というのが,ダイエー再建問題についてのワシの感想であった。だもんで,当時のダイエー社長が報道陣にもみくちゃにされながら経済産業省で産業再生機構入りを表明しているニュース映像を見ても,「やっと決着したか,やれやれ」と思っただけなのである。
実際,本書で語られているダイエー末期の状態は相当ひどかったようだ。粉飾とまではいかないが,グループ企業内で株のやりとりを頻繁に行うことで目くらましをして何とかしのいでいたものの,ちゃんと計量してみれば,ピーク時には2兆6千億円もの借金を抱えていたという。破綻した夕張市の借金が約600億円であることを考えると,途方もない金額である。1980年代半ばから改革の努力を行っていたとはいえ,そんな借金を抱えつつ,産業再生機構入りするまで十数年間もよく持ったモンである。
これだけの借金を抱えたのはひとえにダイエー創業者・中内㓛の「ワンマン体制」そして「拡大路線」が原因である。
ワンマン体制は徹底している。自分の後継者にと息子や女婿を取締役に配置し,周囲を全てイエスマンで固め,自分のプライベートカンパニーを次々に作っては潰したり合併したりしてダイエーの株式持ち分をしっかり保持する。80年代にV時回復を果たしたスカウト社長は放り出すようにして遠ざけ,次に連れてきた社長にはインサイダー疑惑をおっかぶせて放逐する。結局,再生機構入りするまで,CEOは辞任しても「ファウンダー(創業者)」という地位を維持してにらみをきかし続けるのである。うっとうしいことこの上ない。確か,「サンデープロジェクト」でも,中内の影響力が残ったままで再建は可能なのか?という質問が出ていたが,その疑問を裏付けるうように,最後は国家が中内を追放し,彼の私有財産を根こそぎ取り上げる形で再建を目指すことになってしまったのである。
拡大路線については,ワシら中年以上の世代にはかなり明瞭な記憶が残っているはずだ。リクルート,ヤオハンジャパン(の静岡地区の店舗)を買収し,とうとう南海電鉄からプロ野球球団まで引き受け,ホテルやドーム球場までセットにして福岡ダイエーホークスを設立する。たしか先頃引退した「あぶさん」にも,ホークスのジャンパーを着込んだ中内が登場していたと記憶するが,本書によれば,実際,あのようなジャンパーを好奇心からか喜んで着ていたらしい。
ってなわけで,ワンマン創業社長の転落の表層的な原因は火を見るより明らかである。しかし,この転落の根本には,そもそも破竹の勢いでダイエーを日本一の小売店にした原動力も絡んでいる。良くも悪くも,ワンマン体質を生んだ人間不信と,拡大路線を突っ走る情熱を中内に受け付けたのは,第2次世界大戦中,中内がフィリピンで体験した飢餓線上での敗走にあるという。食料が尽き,死んだ兵隊から靴を奪っては履き替え,自分の靴を食って飢えを凌いだというほどの凄惨なものだったらしい。そのせいで中内は総入れ歯になってしまうのだが,そんなことはたいしたことではない。問題は,仲間に殺されて「食われる」危険を感じながらの敗走を経験したことにより,極度の人間不信と,生き残ったことで戦死した仲間に対する抜きがたい罪悪感を抱えてしまったことにある。復員した中内は,級友の記憶に残らないほどおとなしかった戦前とは打って変わって,エネルギッシュに戦後のヤミ市をかけずり回って商いに励むようになったものの,ダイエーが大きくなるにつれて兄弟間の確執が増し,ついには自分を支えてくれた弟も放逐,前述したように,自分の失敗をフォローしてくれるようになった近習も,三越・岡田社長のように寝首をかかれるかと恐れてドンドン外部に出してしまうようになる。信頼できるのは自分の子供だけ。それも,ビジネスにかまけてろくにかまってやれなかったという負い目から思いっきり甘やかしてしまい,ハイパーマートのような大失敗を引き起こしてしまうのである。
そんな中内だが,著者の佐野眞一は,取材するうちにその光と影を抱えた巨大な人物の魅力,いや,魔力に惹かれたかのように,中内周辺の取材を綿密に重ねていく。決して紋切り型の断罪はしない,中内の成功も失敗も丸ごと納得できる論証を突き詰めてやろう,そんな意気込みが感じられる本作は,佐野が生きてきた「戦後」を噛みしめ,理解するためのライフワークの一環として編まれたものなのである。
とり・みき&唐沢なをき「とりから往復書簡2」リュウコミックス,坂田靖子「サカタ荘221号室」PHP研究所
「とりから往復書簡2」 [ Amazon ] ISBN 978-4-19-950145-6, \933
「サカタ荘221号室」 [ Amazon ] ISBN 4-569-61991-6, \1350
NHK BSの番組「マンガノゲンバ」で唐沢なをき先生を取り上げる予定だったのが取材中のトラブルで中止になった,という記事(産経新聞)が出たのが本日2009年9月14日。それを見た現実逃避中のワシは慌ててからまんBlogにアクセスし,奥様の唐沢よしこさんがその顛末を細かく報告した記事を読んでみた。
うーん・・・デジャブ・・・デジャブだ。そうだ,あれは坂田靖子先生の本だった。っつーことで本日「マスコミの横暴」じゃない「(一部の)横暴なマスコミ関係者」にからめてまとめて2冊ご紹介してみたい。
さてくだんの事件だが,制作会社側の言い分が全く聞こえてこないので,今の時点ではよしこさんの記事でしか判断できないのだが,それを読む限り,まぁ何というか,やらせ問題があれだけ騒がれたのも忘れたのかという程の,ワシに言わせりゃ完全に横暴極まりないディレクターの指示(先方にしてみればお願い程度の認識だったのかもしれないが)には呆れかえってしまう。強引な先方のストーリーに載っかったインタビューもさることながら,漫画作品にまで手を突っ込んでこの材料を使えなどという要請(?)は,20年以上もプロとして食ってきたベテラン漫画家に対する敬意のかけらも感じられない。そりゃぁ,継続取材を断るのも当然だよなぁという内容である。
で,よしこさんも言及している新刊「とりから往復書簡2」に納められている「愛の18通目」には,とり・みきからの「思いっきりやらせっぽいTVや雑誌の取材を受けたことはありますか?」という問いに対して「えーっもーいっぱいありますよいーーーっぱい!!」となをき先生が力説されている。で,「こっちが見下されてなければ」「実はけっこう好きなんですよ ヤラセの入った取材とかそーゆーの」(P.25)と言っている。しかし今回の取材では事前に説明もなく,あーしろこーしろという一方的な指示が来るだけだったので,さすがにこれは・・・ということでお引き取りを願ったということのようだ。多分,完全に「見下された」ような取材だったのだろうと想像する。
「とりから往復書簡1」の感想でワシは,「とりの「冷たさ」と「毒」が程良い具合に唐沢によって中和された,万人にお勧めできる漫画エッセイ」と述べた。暖かみの残る絵もさることながら,内容もマイルドであるのが唐沢漫画の特徴であるから,とり・みきの逆ベクトルの味わいと混じり合ってちょうどよいハーモニーを醸し出しているのがこのエッセイ漫画なのだが,この取材の件では,そのマイルドさ故に,多少強引な注文をしても乗ってくれそうな人の良さというものを勝手にディレクターがでっち上げてしまったのかなぁ・・・とも感じてしまう。一条ゆかりにも同じ態度で取材していたとすればイヤな強引さだが一貫性があって,それはそれであっぱれとも言えるが,そうでないなら単なる悪のりとして糾弾されても仕方なかろう。
しかし,どうしても作品がマイルドで,かつ,大変なビッグネームという程ではない,という漫画家さんは,往々にしてそーゆー横暴なマスコミ関係者がもたらす災難に遭ってしまうものなのかぁ・・・と感じてしまう。その一例が「サカタ荘221号室」に納められている坂田先生のエッセイ「ヨワいものの話」(P.48~52)に現れているように,ワシには思えてならないのである。
本書は2002年発行だからもう7年前のものだが,今でも多分,漫画よりエッセイの分量がずっと多い著者唯一の単行本であろう。漫画同様,生き生きとした躍動感溢れる表現は文章でも変わらず,読んでいて楽しくなるものばかりである。ただ,この「ヨワいものの話」だけは,ちょっと引っかかるものがあってワシは良く覚えていたのである。
このエッセイは,坂田先生が在住している金沢まで出張ってきた編集者2名+カメラマン1名の「抱腹絶倒な同人誌仲間とのエピソードを語れ」という無茶な要求に坂田先生が焦らされた,という話である。まぁ,文章は坂田先生らしく朗らかに締めているのだが,ワシが同じことをされたら逆上してちゃぶ台をひっくり返しているところである。「いきなり事前説明もなく面白い話をしろったってなぁ~(怒)」と怒鳴り散らしていること間違いないのである。
最後は大人の態度で寛容にフォローをする坂田先生なのであるが,作品と人柄の良さにつけ込まれたなぁ・・・というのが,このエッセイを読んだワシの偽らざる感想であった。
この手の「横暴なマスコミ関係者」ってのは絶えることなさそうだ・・・という予感,つーより,確固たる事実は,かつて坂田靖子を襲い,この度また唐沢なをき夫妻に一つのイヤな思い出と「まんが極道」のネタを一本提供して,その実在を世に知らしめたのである。