[ Amazon ] ISBN 978-4-87310-002-9, \341
多倍長計算に手を染めるようになって,10年経つ。一応査読論文も何本か書いてきたから,ボチボチこの分野に関しては言いたいことを言っても罰は当たらんだろうと思うので,ここらで本音をぶちまけておく。
そもそもワシがGMPやMPFRを使ってライブラリを作ってシコシコ計算してきたのは,たーくさんの数字の羅列を眺めるのが好きだからである。まあ元は誤差誤差した計算を解析するのに飽きて,「だーっと桁をたくさん取って計算すりゃいいんだろ!」とヤケクソのように始めたのがきっかけなのであるが,元々数字フェチの気があったのが運の尽きで,以来,100桁,1000桁の数値データをみなければ満足しない体となり,中毒の様相を呈するようになってしまったのである。もちろん,「たくさん数字が並んでると楽しいでしょ?」では論文にならんので,それなりに実用的な意義のある悪条件問題やら多倍長計算の分散・並列化やらを対象としてもっともらしい理屈をつけてまとめるのであるけど,根源的には「数字の羅列が好き」という以上の動機が見あたらないのだ。
だから,本書のような,ホントにπを百万桁並べただけの潔い本は,もうそれこそベッドに引きずり込んでホンホン(by 唐沢なをき)したいぐらい大好きなのである。もちろん数字の一個一個を丹念に読むなんてことはしない。適当にぱらぱらめくって一ページあたり一万桁並んでいる数字を眺めて悦に入るのである。これで一時間はイケる。
・・・ええ,変態だよヘンタイッ! いいじゃないか,誰にも迷惑かけてないんだからさ,ほっといてちょうだい!,とワシは声を大にして言いたいのである。
変態の告白だけで終わっちゃうと,ワシの学者人生も共に終わっちゃいそうだから,もう少し真面目な話をしておく。
そもそもπを含む実数は,無限桁小数でなければ正確な表現ができないようになっている。有限桁小数(=有理数)による数列の極限値は有限桁に収まらないのが普通なので,極限計算を土台とする微分積分を行うためにはどうしても無限桁小数を扱わねばならない。とはいえ,それは理論上のことであって,実際に扱う数値が無限桁ではどんなスーパーコンピュータを持ってしてもπの値の出力だって終了しやしない。だから実用的には適当な桁数で打ち切って(丸めと呼ぶ),単精度(約7桁),倍精度(約15強桁)とかでコンピュータでは計算することになっている。ここに理論との齟齬(=誤差)が生まれる。誤差をどーにかする方法は難しいのと簡単なのがあるが,とりあえず桁数をどんどん増やして計算しておけばそんなにおかしな結果にはならないんじゃないの~,とバカの一つ覚え的解決をするのが多倍長計算という奴である。頭の良い方策は,誤差の影響が少ない計算方法を問題ごとに考えるという奴であるが,これは数学的かつ数値計算的素養が必須なので,誰にでもできるというものではないし,やっぱり有限桁計算である以上,限界はあるのだ。
とゆーことで多倍長計算をしておけば誤差の影響は減るのでめでたしめでたし・・・とはいかない。すぐに分かることだが,10桁の小数同士のかけ算をやるのと,100桁小数同士のかけ算をやるのとでは計算の手間(=計算量)がモンのすごく違ってくる。つまり,桁数が大きくなると計算量が増え,それに比例して計算時間も増えてしまう。なるべく大きな桁数でも計算時間を余り増やさないようなアルゴリズムを考えると・・・やっぱりここでも頭を使う必要が出てしまうのだ。
ワシはバカなので,頭を使うより定評のある多倍長計算ライブラリ(GMP,MPFRはこれの一種)を使うだけという安易な方法を取ったけど,ここんとこを自力で解決しようとすると,アルゴリズムとコンピュータの内部構造に通じる必要が出て,相当の馬力を必要とする仕事になる。手計算をそのままなぞる計算方法では桁が増えると非効率になるので,計算量を減らす複雑なアルゴリズム(たとえばGMPのマニュアル参照)を使い,しかもそれを高速に実行できるようチューニングを行うという作業になるからだ。
円周率πの計算も事情は一緒で,桁数を長くすればするほど計算時間は格段に増える。ちなみに世界記録を作った研究室出身の方は,計算時間を極力抑えるアルゴリズムを極めて,その方面では世界的に有名なライブラリを作り上げている。純粋数学の方々にはπの計算なんて,と軽視する雰囲気もあったようだが,コンピュータ屋にとってはかなりいい仕事(の目標)を与えたと言えるのである。もっともその後,BBP公式なんて理論的にもおもしろい結果が出たりするから,みんなが面白がって群がっている研究テーマからはいろんなものが発生するものだと感心する。
最近はパソコンも高速になったので,本書に載っている百万桁計算はかなり軽い計算になっている。試しにSuper πというベンチマークソフトを使ってみたら,Athlon64 X2 3800+マシンで53秒(104万桁)だった。最新のQuad core CPUならこの1/4,さらにSIMD命令を使ったりすればもっと高速化されるので,本気になってあれこれ高速化のためのチューニングをやれば,10秒を軽く切るんじゃないのかな。
本書に掲載されているπの百万桁は自作のプログラムで計算したとのことであるが,だからまあ多大な計算時間を要するというものではないし,計算の仕方はそれこそググってもらえば山ほど出てくるから,真にオリジナリティのある仕事とは言えない。著者としてはプログラムを作る方もさることながら,数字をかっちり並べてTeXで製版する方もおもしろかったのかなぁと想像する。本書は暗黒通信団というサークルが発行した同人誌ではあるが,ちゃんとISBNコードも取得して一般書店に流通させたりしているあたり,しかも314円という,あらかじめ決められていたようなやっすい頒価をつけちゃうあたり,ワシみたいな数字フェチを喜ばせるというやり方で日本文化に貢献しようというあたりの,心意気は見事である。つーか,心意気しか褒めようのない本を出したこと(eの本もあるらしいがワシは未見)が素晴らしい,とワシは,これはイヤミではなく,素直に感心しているのである。
漫画家デビュー物語:吾妻ひでお「地を這う魚 ひでおの青春日記」角川書店,小林まこと「青春少年マガジン1978~1983」講談社,久世番子「わたしの血はインクでできているのよ」講談社
吾妻ひでお 「地を這う魚」 [ Amazon ] ISBN 978-4-04-854144-2, \980
小林まこと 「青春少年マガジン] [ Amazon ] ISBN 978-4-06-375618-0, \933
久世番子 「私の血はインクでできているのよ」 [ Amazon ] ISBN 978-4-06-337661-6, \667
青春は光り輝く時代,なんて嘘っぱちを流しやがったのはどこのどいつだ。少なくともワシが見聞した限り,高校から大学を経て社会人になり数年過ごすあたりまでの時代をもう一度繰り返したいと願う人間は皆無であった。曰く,「体力・気力はあったけど思い返すだに恥ずかしいことばかり」「思い通りにならないことばかりで嫌気がさした」「四畳半の下宿で引きこもり生活になってしまって十二指腸潰瘍を発症して病院に担ぎ込まれた」・・・などなど,まーロクでもない思い出したくもないことばかり。知識経験不足のバカで貧乏だったにも関わらず,鼻息だけは荒いクソガキだったワシなぞは,あの当時のことを思い出すと身悶えしたくなるほどである。少なくとも人並みの世間体ってものを身に付けるまでの,そーだなー,三十路前半までの人生はなかったことにしておきたいと思っているのである。
だがしかし,だ。今の自分があるのは,穴掘って埋めてコンクリ詰めにした数多のみっともない経験が土台となっているからであって,今更隠したところでしゃーないではないか,とも理性では思うのである。自分にどんな才能があり,どんだけの力量が発揮できるかは,それが試されるような出来事がなければ一生分からないまま。BSマンガ夜話で夢枕獏が「才能ってのは汲んでみなければ分からない。もう滅茶苦茶な状況になって汲み出し続けて『これまでかぁ』と精も根も尽き果ててようやく分かる」と言っていたが,よほど幸運な人間でない限り,一定の地位を社会に築くまでは「めちゃくちゃな状況になって汲み出し続ける」作業を若い時分に経験するものなのであろう。それ故に,そんなきつい経験は二度とゴメンだ,と思うのが普通の人間の青春の有様なのだ。
ここで取り上げる3冊のマンガのうち,「地を這う魚」と「私の血はインクでできているのよ」(長ぇよ)は吾妻ひでおと久世番子がデビューするまでの「みっともなさ」の軌跡を描き,「青春少年マガジン」はデビュー後の過酷な週刊誌連載を闘ってきた小林まことが,早世した同期漫画家・小野新二と大和田夏希らとのさまざまな思い出を切々と描いている。3冊に共通しているのは,デビュー前後の時代は誰しも精神的・肉体的にきっつい思いをするものだ,ということを隠さずに語っていることだ。この度めでたく(?)四十路の仲間入りをしたワシは,漫画としての面白さと共に,彼らの誠実さに感銘を受けたのである。以下,それぞれのマンガ作品について,面白さと感銘のポイントを語っていこう。
○吾妻ひでお「地を這う魚 ひでおの青春日記」
失踪直前に描いていた「夜の魚」シリーズは,広くて暗い昭和40年代を彷彿とさせる街中を主人公・吾妻ひでおとその仲間たちが徘徊する,独特の雰囲気を持った作品だった。大塚英志・責任編集のComic新現実の著者インタビューを読んで,それが実際に吾妻ひでおが北海道の仲間たちと上京してデビューに至るまでの出来事をファンタジー風味にした作品と知った。そのインタビュー中に大塚が吾妻に直接依頼をして始まった新たな「魚シリーズ」が,Comic新現実→新現実→コミックチャージ(休刊が決定)と場所を移しつつ,この度ようやく一冊にまとまった。それがこの「地を這う魚」である。
吾妻ひでおは,「うつうつひでお日記」(P.183)でこの新シリーズ作品を次のように評している。
今回の「地を這う魚」は
以前描いた「魚シリーズ」
のような狂気や迫力
恐怖感を出せませんでした
今の自分には
あの続きを描くのは
無理のようです
吾妻自身は,何故あのような「キ○チガイ漫画を描けたのか分からない」としているが,やはり失踪直前の精神状態と,恐ろしいほどの画力と色気のブローアップ時期にあったことの両方が作用して,あのような傑作が描けたとワシは推察している。こんなことを言うとまた吾妻が傷つくかもしれないので言いづらいが,ええい言ってしまおう。ワシは今でも失踪直前,1980年代後半の吾妻ひでおの絵・作品が最高だと思っているのである。
その時代を知っているワシから本作を見る限り,少なくとも最初の,Comic新現実に描いていたいた自分の作品は,若干の狂気の香りは感じられるものの,まだ本調子ではないな,と感じてしまうのである。作品のコンセプトも変わっており,キャラクターは同じであるが,オムニバス的にファンタジーとして描かれていた旧「魚シリーズ」とは異なり,時系列的に,秋田書店でデビューが決まるまでの出来事が並べられている。まさに大塚が名づけたキャッチフレーズ「吾妻ひでおの青春」が描かれているのだ。
本調子ではない,と思っていたワシであるが,今回こうしてまとまったものを読むと,どんどん「リハビリ」が進み,荒っぽかった線が精緻になり,文字通り「地を這う魚」の数は画面いっぱいを埋め尽くすほどに増殖していることが分かり,吾妻ひでおのクリエーターとしてのプライドの凄みを思い知ることになった。
コマの隅から隅までうぞうぞしている魚以外の生物も多様だ。タコ,イカ,イモリ,ヤモリ(区別がつかんが),昆虫やロボットまでが,社会の構成員としてみっしりと詰まっている。仲間以外の他人は,その存在以外は無意味であるから,何も人間の形をしている必要がない,ということを本作を読んで深く納得した。日々の食いブチにすら事欠く毎日を,仲間と戯れつつ描く本作は,旧シリーズとは別物ではあるけれど,普通に暗い東京における青春を描いた良作であることは間違いない。
○小林まこと「青春少年マガジン 1978~1983」
目は口ほどにものを言う,という格言は,この小林まことの漫画には当てはまらない。逆だ。小林作品ほど,口が目以上に生き生きと表情を作り出しているマンガは,今の日本には見当たらない。への字に曲がった口,たばこの煙を吐き出す河童のような口,キュビズム作品の如くパースが狂った半開きの口,固い意志を表わす左下から右上に伸びる直線上に固く結ばれた口,「びぎえぇえええええん」と咆哮する鉄アレイ口・・・まー,小林作品のキャラクターの口はホントに見ていて飽きない。つーか,口が刻むリズムで読まされているように思えるんだが・・・錯覚だろうか?
小林作品に共通する大衆的ユーモラスさに乗って読み進んでいくと,少年マガジンの賞を獲り,同時期にデビューした小野新二や大和田夏希と「新人3バカトリオ」を結成する所までは,過酷な連載をこなす様も面白く眺めていられる。しかし・・・,あまり書いちゃうとネタばれになるので詳細は省略するが,メジャー週刊誌の連載ほど人気と自己評価の狭間で苦しむ世界はないな,ということをジワジワと読者に伝えてくるあたりから・・・となってくるのである。ま,その辺を知りたければ本作を買って読んで下され。
最終的には小野も大和田も1990年代中盤に逝去してしまうのであるが,これらの死を単純に「過酷な人気商売の故」としてしまうのは,ちょっと違うような気がする。大なり小なり他人との比較による評価を受けるのは現代社会では当たり前のことで,漫画ビジネスの世界ではそれが極端に変動する収入や人気として跳ね返ってくるというだけのことだ。それを自分が受け入れて飼い慣らしていくことができれば,ホントにそれ「だけ」のことなのである。他人による自分という人間の評価に対してどのように精神の安定を保つか,あるいはそれをバネにしてモチベーションを高めるか。現代人であれば,引退するまで悩み続けなければならない宿命なのである。
小林まことが生き残ってきたのは,締め切りをぶっ飛ばしたり,授賞式を大遅刻したりする,確信犯的ズボラさがあったればこそだろう。本書を読む限り,とことん真面目な他の二人は悩みをストレートに抱え込んでしまったり,酒で発散させてしまっているために,早く天に召喚されてしまったと感じられる。もちろん,小林まことの作品が広く支持されているからこそズボラが可能であるとも言えるが,ワシは逆だと思っているのである。
何故なら,川崎のぼるを源流としてその延長上に表情を獲得した小林まことキャラの口は,明確な意思の現れであるからだ。呆けたり歯を食いしばったりナナメ一文字に結んだりするためには,描きながら作者自身が同じことをしなければならないのだ。つまりは作者の意思があってこそのものなのである。ズボラ決め込むことができるのも,まずは「どーでもいーや」と投げ出す意思があってのことなのだ。
まさに,小林まことの漫画家人生は,「口」の作る表情がすべてを物語っているのである。
○久世番子「私の血はインクでできているのよ」
シリアスな匂いのする2作に比べ,本作はあの暴れん坊本屋さんこと久世番子が軽やかな語り口のエッセイ漫画に仕立てたものであるから,気楽に笑って読める・・・のは一般人の証。一度,漫画家に憧れてめったやたらに漫画を書きまくった経験のあるオタクであれば,本書が暴露する,久世番子の画風が確立されるまでの恥さらし的な絵の変遷を笑うことはできないはずだ。「ああ私もそうだったなぁ・・・」とため息交じりにしみじみと昔を思い出すであろう。
そう,本書は久世番子の「まんが道」なのである。いやー,昔はこんなのを描いていたよな~というようなこっぱずかしい絵を次々に見せていくのである。もちろんそんなものを晒す作者自身が一番恥ずかしい思いをしているのであるが,それをうまくユーモアに昇華しているところが久世番子エッセイ漫画のテンションの高さ維持に貢献しているのである。
・・・とまぁ,デビュー直前までのところまでは,お気楽ないつもの久世漫画なのであるが,新書館デビュー時のエピソードは,漫画家志望の方なら一読しておく必要があろう。ネタばれにならない程度にそのエッセンスを言っちゃうと
とうことになる。重要なのは,編集部とコンタクトを取ることなのだ。
個人的には,久世番子はストーリー物よりエッセイ物の方が,現時点では断然面白いと思っている。エッセイ物が最後どこに着地するのか分からないというハラハラドキドキ感を持たせてくれるのに対し,ストーリー物だと,うまくまとめ過ぎているように思えるのだ。たぶん,久世はインテリジェンスあふれる人なので,エッセイ漫画のように「はっちゃける場」がないとかしこまってしまう傾向があるのだろう。悪い意味で,ストーリー物の場合は少女マンガの典型的ストーリーを追いかけてしまい,独自性が発揮されづらいきらいがあるように思える。デビュー時にもたついたのも,そのあたりのパンチ力の無さが原因かも知れない。
・・・以上,漫画家がデビューするまで,あるいはデビュー後にどんな目に合うのかを端的に知ることのできる3作品,資料的価値もあるし,漫画好きならどれか一冊ぐらいは目を通しておきたいものである。そして,ドタバタしまくった昔をシミジミを思い返すまで時が過ぎた時に,「ああワシもそうだったなぁ」と共感しながら読むのがよろしかろう・・・と,四十路を迎えたワシはシミジミしながらそう思っているのである。
若松孝二・制作・監督「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」DVD
[ Amazon ] \4935(初回特別版), \3665(通常版)
若松孝二という人の映画を,このDVDを見る前に触れたことはない。Wikipediaとか公式サイトのフィルモグラフィーをつらつら眺めていたら,何本かタイトルのみ知っているものがあった程度で,本作を除いて積極的に見てやろうという気になるものは,今のところ皆無である。ロマンポルノ時代の作品が多いようだがかなり芸術性が高そうで,ワシみたいに,男の幻想丸出しのぬるいAVが好みの奴にはちと「実用」になりそうもない。連合赤軍事件を,犯人側から描いた本作がなければ,ワシにとっては一生縁のない映画監督だったろう。本作だって,監督本人がかなり赤軍派の思想に入れ込んでいたと知ってからは,「きっと青臭くて赤軍のプロパガンダみたいなもんなんだろう」という先入観を持ってしまったので,現実逃避がてらに鑑賞するときも「左翼の洗脳には負けないぞ!」と気合いを入れてから再生ボタンを押したものである。
しかし,それは完全な杞憂であった。クソ真面目な左翼青年達から成る連合赤軍が警察によって追いつめられ,幹部が逮捕された後,残党があさま山荘に逃げ込み,絶望的な立て籠りの末に逮捕されるまでの,あまりに痛々しい青年たちの有り様をユーモア抜きにストレートに描いており,右翼・左翼のプロパガンダ映像としては全く使い物にならない。しかもエンターテインメントとしても優れており,ワシは坂井真紀演じる遠山美枝子の死に様や,最年少のメンバー・加藤元久を演じるタモト清嵐の叫びに内蔵を鷲づかみにされてしまったのだ。
現実の連合赤軍事件は全く青臭さの極みのようなものだったが,それを若松孝二のキャリアと「反省」の念をフィルターにして濾過した本作は,上質な映画に仕上がっていた。ワシは自分の先入観の不確かさを恥じると共に,「日本のいちばん長い日」が描いたものと同じ,思想の純粋さが招く非合理的行動をどうやったら防げるのか,考え込んでしまったのである。
ちょっと気になったのは,「死へのイデオロギー」において,永山洋子を裁いた裁判長の指摘する「嫉妬心」の存在を,若松自身は本作において否定していないところである。これについてはこの文庫本に解説を書いている鶴見俊輔は徹底的に批判しているのだが,ワシは疑問を持っていた。押井守の言を借りるまでもなく,革命だの愛国心だのという「正義」を振りかざしてものを言う人間がトンでもない行動に出ることは歴史が証明している。しかし純粋な精神的理由だけでそうした行動がとられたのかどうかは,かなり怪しいのではないかとワシは疑っている。どっちかってぇと,正義の名のついでに指導者自身の欲求を満足させる行為をやらかしていることが多いのではないか・・・と,純粋な精神を持たない一般ピーポーなワシは考えてしまうのである。
故に,この映画における永山洋子の描き方は,ワシにとっては腑に落ちるものであった。もちろん,エンターテナー映画を多数撮ってきた若松は,あえて一般ピーポーに分かりやすい解釈を取っただけとも言えるが,若松の心情を左翼的に養護するのは徒労であろう。
本作は,方向性の定まらない現代の行く末ににとまどう我々一般ピーポーの胃の腑に落ちる映画である・・・確かなことはそれだけであり,それで本作の存在意義は十分満たされていると言えるのである。
三井斌友・小藤俊幸「常微分方程式の解法」共立出版
[ Amazon ] ISBN 4-320-01608-4, \2600(現在は\2835)
久々にこーゆーまともな常微分方程式の教科書を通読した。卒研テーマのネタとして本書がちょうど良さそうだったので,解説用にと一気にまとめのメモを作ったのだが,さーて,ワシが学部生だったときの本書があれば良かった・・・のかどうか,ふと考え込んでしまった。そのあたりのことも思い出しながら,つらつらと長めのぷちめれを書いてみることにする。
本書は未だに完結の目処が立たない工系数学講座シリーズの一冊として,当初の締め切り予定を大幅に超過した上に著者が一人増殖して出版されたものである。なぜそんなに締め切りにこだわるかというと,ワシはこのシリーズを能登半島に左遷中,行きつけの本屋に予約を入れていたのである。1990年代後半に結構華々しくシリーズ刊行をぶちあげ,編集委員はさることながら,その著者のラインナップを見てワシは薄給を叩いてでも全部揃えてみせると意気込んで予約を入れたものである。・・・でまぁ,学術書にはよくあることだが,最初の何冊かは順調に出たものの,あれから十年以上経つというのに未だ出版されていないものがあったりするのである。そりゃあねぇ,いくら執筆者が学界の重鎮揃いとはいえ,身銭切っている読者としてはイヤミの一つも言う権利があろうというものである。いい機会だがら一度言っておくが,ワシは一冊残らず刊行されるまで,執念深く待つ。だからもっと著者をせっつけよっ!>共立出版
まあしかし遅れるのも無理はないのである。何せ指名された方々は皆,過労死しそうなほど忙しい人ばかりである上に,完璧主義者が多いんじゃないかと想像する。いい加減な内容を書くとすぐさま編集委員のH先生のつっこみが入ってしまう(妄想です)ことを恐れてのことではなく,せっかく書くなら新機軸も少し入れてわかりやすい解説を付けて・・・などとやっていると,完成が長引いてしまうのであろう。その証拠に刊行されたものは,時間をかけただけのことはあるよな,と思えるものが多い。本書みたいに,ずぅううっとワシの座右においてあるものもある(「工学における特殊関数」とか)。もっとも偏微分方程式関係のあの本は肩すかしにあったとかってものもないではないが,この辺は好みが分かれるところであるから,著者の両K先生におかれましては決して気分を害されることがないようにお願いしたいものである。
さて本書である。一昔前までは,教養系の微分方程式の教科書と言えばヤノケン(矢野健太郎)のアレであろうが,記号処理的計算に満ちていて,コンピュータシミュレーション全盛の今日向きではない。大体,原始関数が代数的有限表現で完結するってのは限られるのだから,その手の計算は程々にして,とっとと「力学系」つまり,常微分方程式全体が形作る「場」,局所的な振る舞いと大域的な振る舞いを知る理論を勉強した方が得策である。何せ計算ならコンピュータがやっちまうんだし,それほど複雑ではない方程式なら3次元までのベクトル場ぐらい,フリーなソフトウェア(Scilabとか)ですぐに描けてしまう。数式からだけでは難しい幾何学的イメージ作りがコンピュータの手助けでできるのだから,今は本当に力学系の勉強にはいい時代になったものである。本書はポントリャーギン以来(でいいのか?)の伝統である,線型常微分方程式の解析解を導出する手順を丁寧に解説し(第2章~第4章),それを元に一般の常微分方程式の安定性の解説を行う(第5章)。著者らの専門性が生かされるのは第6章以下で,数値解法としてはポピュラーな一段法であるRunge-Kutta法の解説と,数値解法の安定性(A安定性という奴)の解説が初学者向けになされている。もっともこの辺をきっちり勉強したければ,同じ著者らによる「微分方程式による計算科学入門」の第1章(陰的解法については第2章も)だけ読んだ方がいいかも。百科事典みたいな訳本もあるけど,ちょっと厚すぎるし,肝心なところは前書にコンパクトにまとまっているから,とっかかりとしてはこれで十分だと思う。
今ワシの手元には本書の他に2冊の力学系の教科書,スメール・ハーシュ「力学系入門」(岩波書店)と大橋常道「微分方程式・差分方程式入門」(コロナ社)があるので,これらと比較しながら本書の特徴をもう少し詳細に述べてみたい。
常微分方程式とはどんな現象を記述するものでどんな種類があるのかといった概論を語っている第1章と数値解法の解説にあたる第6章以降を除き,無駄な解説が一切ないなぁ,というのが第2章~第5章まで流して読んだ感想である。しかも説明が簡潔でHartman・Grobmanの定理等の大物を除き,証明が一切省略されていない上に,必ず手計算できる例題が付いている。他の2冊にもこれらの特徴が当てはまるが,本書はそれが完璧すぎるきらいがある。隙がないので手を抜けない,抜いた途端に次の例題で躓く(前の例題を解いていないとその結果が使えない)のである。
これはワシみたいな怠け者学生(だった奴)にはつらい。まあ元々数学ってのはサポったら置いてきぼりを食らう非情な学問なのであるけど,普通の教科書はもう少し「この辺は勘弁しておいてやらぁ」という手抜きポイント(著者が説明をめんどくさがっているだけか?)があったりするんだが,本書には一切ない。少なくとも2章から4章までには見あたらなかった。反面,それなりに知識が身に付いて(いた)人間が読むとまことに分かりやすい,スムーズに知識の整理が付く感じで,線型常微分方程式の解析解を得る2種類の手続きをまとめるメモはすんなり出来上がった。従って,手計算部分の習得に足を取られそうなバカ初学者には根性が必要で,きっちり2章から5章まではまとめノートをとりつつ計算しながら順序通りに進むしかない。「まえがき」に記してある各章の関係図を真に受けて3章をとばして読み進んだりすると後で少し困ったりしそうである。ま,著者も「詰め込み」であることは承知の上で書いているから,そーゆー本だと諦めてつき合うのが吉でありましょう。それ故に,読み通したときには結構な高みに登っているということは保証付きである。
そう断言できる理由は,本書の例題の解説がねっちり書いてあるためでもある。手計算で無理なく進められるよう2ないし3次の例題でとどめてあり,計算過程もしっかりこれでもかというぐらい丁寧に書いてある。他の2冊に比べて一番特徴的なのはこの点で,純粋な数学屋さんなら計算そのものは手を抜くものである。現に,これだけ執拗に行列の固有値と固有ベクトルを求めさせている「常微分方程式の」教科書は他にないんではないか。それ故に,それなりの計算力があれば躓くことは少ないと思われる。
・・・という貶しどころのない本書なのであるが,ワシにとっては理想的な本とは呼べないところが幾つかはあるのだ。以降はワシの好みとはこの辺がズレている,というポイントを列挙してみたい。
一つ目は,先に書いた「例題の解説がねっちり書いてある」点である。講義の演習を思えば当然の措置ではあるが,これをやりすぎると妙な誤解を初学者に与えてしまう可能性がある。ワシが受けてきた線型代数の講義では,固有値と固有ベクトルの計算は3次以上の例題で,それも程々に打ち切って,さっさと固有空間の話に切り替えていた。固有値の計算は,手計算レベルだと固有多項式の係数を陽的に導出して(本書ではLeverrier-Faddeev法を紹介している)代数的に求めるが,これは一般には標準的な解法とは呼べない。5次以上の行列の時にも使える「一般理論」に繋げるにはこの「ねっちり」さが仇とならないのかなぁ・・・という不安がある。現に,行列式は3次までしか計算できない輩が結構な率でいたりするし。・・・ということで,著者にとっては言いがかりに近い文句ではあろうけど,も少し一般理論に触れさせ得る,手計算は無理だけどこういう大次元でも形式的な行列(Frankとか)では固有値と固有ベクトルがこんな形で与えられていて,この場合の一般解はこうなる・・・というようなものがほしかったなー,と思っているのである。
二つ目は,線型数値計算に対しての解説が少ない(ほぼ皆無)こと。「そこまで書いていられるかいっ!」と言われそうだし,無理もないんだけど,著者が数値解析の専門家であることを思うと,うーん・・・少なくとも前述したように固有多項式をモロに作ることを標準として扱うのは勘弁してほしいよなぁと思うのである。モロに出すにしても,計算量の点ではDanilevski法の方が少ないし,もう少し吟味して出してほしかったなぁ(計算手順はLeverrier法の方が分かりやすいけどね)・・・ってやっぱ贅沢ですかね?
三つ目だが,これは著者には責任のない話である。本書は現在でも版を重ねている良書であるにも関わらず,印刷品質が劣化しているのである。どの刷からかは不明だが,ワシが昨年(2008年)入手したものは印刷会社が変わっており,明らかに版の質が悪くなっていた。文章が読み取れなくなるというほどひどいものではないけれど,図版のスクリーントーンの模様は潰れて汚くなっていたし,初刷をコピー機で読み取ったような代物だった。まあ出版不況と言われて久しい時代状況ではあるし,ましてや読者が限られる理工系のテキストだから,出版社がコスト削減に走る理由も分からないではない。しかし,間欠的とはいえ増刷するような商品を,一目で分かるレベルにまで劣化させるのは営業的に得策とは思えない。多少質を落としたところで売り上げと関係がないと高をくくっているのであれば,出版元&印刷会社に猛省を促したい。
ということで,線型常微分方程式ばかりか,数値解法の安定性解析にまで踏み込んだ,ネッチリ解説の本書は,印刷の質を除けば,きっちり勉強したい&シミュレーションもしたい向きには大いにお奨めしたいのである(ホントだよ)。
なお,先に挙げた内容に関する2点の「言いがかり」についてはワシ自身も気にかかっていて,それを自分なりに解決すべく,次年度の卒研テーマを設定したという経緯がある。そのために卒研生用にもう一冊本書を買って三つ目の文句が追加されてしまったのはともかくとして,ワシに新たな(でもないか)研究テーマを提供してくれたという点についてはここで感謝の意を表しておきたいのである。
特集・アルコール依存を理解するための本
中川(前)財務大臣が,G7後の醜態記者会見の責任を取って辞任した。本人の弁によればアルコールが入っていたせいではない,ということだったが,酒好きであることは確かであるらしい(J-CAST)。
このJ-CASTの記事にもある通り,今回の会見は別としても,これだけ酒による問題行動が傍目にも明らかで,しかも常態化しているとなれば,「アルコール依存(面倒なので,以下アル中とする)」と判断されても仕方なかろう。落語の枕じゃないけど,ろれつの回らぬ声で「おれはよってなぃい」と言うのが「酔っぱらい」の定義そのものだからだ。自分の判断ではない,他人から見てどうなのか,というのが重要なのである。
つーことで,アル中を理解するための本を三つばかり紹介してみたい。
まずは,医者の書いたものから。久里浜病院で長らくアル中患者と付き合ってきた,作家でもある,なだいなだの「アルコール問答」(岩波新書)。手始めとして読むには最適かと思う。仮想の患者(社会科の教師)が夫人に付き添われて来院するところから,医者と患者の問答形式で「アル中」というものがどういう病気かということを分かりやすく解説している。ワシはなだいなだの言説には信頼が置けないものがあると常々思っているが,ことアル中に関しては専門家として信頼しているのである。アル中から復帰した講談師・神田愛山との共著もあるそうな(その1,その2@お台場寄席)。
次はアル中の体験者のものを二つ。当然,中島らもは外せない。小説だが実体験に基づいたものとしては「今夜、すべてのバーで」(講談社文庫)がいいか。感動の押し付けみたいなところがあってワシはあまり好みではないけど,さすが(?)専門病院に入院しただけあって,久里浜式スクリーニングテストなんかも掲載されており,参考資料としてはいいんじゃないかと思う。
そして,これも当然だが,失踪から復帰してアル中になってしまってまた復帰した(こう書くとホントにすげぇな),吾妻ひでおの「失踪日記」(イーストプレス)も外せない。現在,月刊Comicリュウにて,中塚圭骸とのダラダラ対談記事「吾妻ひでおの失踪入門」が連載されているが,この中で中塚が吾妻の失踪はアル中寸前の状態からの遁走で,結果として「治療」になっていたという指摘をしている。これを読んで,なるほど,失踪から戻ってきた後にアル中になってしまったのは,「再飲酒」と呼ぶべきものだったのだなぁと,納得したものである。本書の中でも医者が解説している通り,アル中はHIV同様不治の病で,一度罹患してしまったら,一生アルコールとは縁を切るしか生きる道はない。再飲酒とは「再発」に他ならず,事態は悪化するのみである。
「アルコール問答」に登場する社会科教師は,酒を切らすことができない連続飲酒状態だった吾妻ひでおと違って,昼間は全く普通に生活しており,本人には全く病識がない。しかし夫人は,夜に飲んだ後は迷惑この上なく,しかも休肝日もなく毎日飲んでいるから,これはアル中に他ならないと主張する。両者の言い分を聞いた医者は,教師に対してこういう例えを使ってアル中という病気を解説する(正確な引用ではないので,間違っていたらごめんなさい)。
あなたは連続飲酒状態になったのをアル中と思っている。しかし奥さんは現在でもアル中だと主張される。
こう考えたらどうでしょう。
連続飲酒状態が大阪,全くの平常状態が東京とする。今のあなたは,東京から大阪に向かっている新幹線に乗っている状態なのです。確かに今はまだ小田原かもしれない,熱海かもしれない。しかし,現在の状態を続けていては,確実に大阪に辿り着いてしまいます。程度の差はあれ,治療を始めた方がいいことはお分かりでしょう?
ワシが一番感心した,アル中という病気の説明がこれである。正確なところは本で確認してくださいな。
で,中川前財務大臣だが・・・果たして彼はどの辺にいるのかしらん? 静岡? 掛川? それとも,もう既に米原を越えて京・・・。