天野郁夫「教育と選抜の社会史」ちくま学芸文庫

[ Amazon ] ISBN 4-480-08966-7, \1200
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 怒りたぎっている人,嘲笑が止まらない人,悲嘆の底に沈んでいる人が,この世界には必ずいて,行政官・政治家・研究者・教育者・ジャーナリストという役割を担った人間たちは,好むと好まざるとに関わらず,そのような感情に走っている人たちに冷静さを取り戻させるため,「頭を冷やせ」(by 内田樹)と言わねばならない時が必ずある。その際,重要なのは言うまでもなく人間的な蓄積,東洋的な価値観で言うところの「徳」という奴であるが,それ以外の道具立ても必要である。特に役に立つのは客観的なデータの提示であり,ことに感情をを高ぶらせるに至った「歴史的経緯」,そして現状の「統計的分析」である。徳だけの丸腰で立ち向かうより,この「二つ道具」を携帯しておくことで相手に相対的な視点を注入するとともに,自分も冷静さを保つことができ,相手のペースに巻き込まれる危険を減らすことができる。
 ワシ自身は間違いなく感情を高ぶらせるタイプの人間なのであるけれど,さすがに四十路を迎えるようになった今では,少なくとも昔よりは冷静さを保つための「二つ道具」の蓄積はある。そのせいか,安倍内閣時代に頂点に達した「学力低下論争」に対しては,多数を占めたゆとり教育批判派にも,少数派に転落した賛成派にも是々非々の態度を貫くことができた・・・と自分では思っている。徳は全然備わってないけどな。
 あの議論,焚きつけたのは大学生の数学力調査を行った数学者(だけじゃないけど)グループだった。出発点の調査結果の意義は認めるとしても,その後は,ハッキリ言って理系科目を担当する教員の利権を確保する運動にすり替わっていったというイメージがぬぐえないのである。ワシ自身はその「利権」の恩恵を受ける側にいるのだが,生徒・学生の「幸せ」を本当に考えて言っているのかと疑問を呈する意見が教育学者から出てきた時には,残念ながらその意見に賛成せざるを得なかった。そして,苅谷剛彦をはじめとする,歴史的経緯と統計的調査結果に基づいて意見を述べる教育学者の仕事に興味を持つようになったのである。
 と言っても,本書を手に取ったのは,著者・天野郁夫が苅谷剛彦の恩師であるということを知っていたからではない。単純に書名に興味を持ったからである。とはいえ,かっちりした学術書である本書をきちんと通読するのは時間を要した。結局発売から3年を経てようやく完読できたのである。ふー,長かった。そして解説に取りかかってようやく,「あれ?,苅谷先生が書いてるんだ」と気がついた。馬鹿にも程があろうというものである。そうか,この天野の仕事を引き継ぐ形で苅谷の仕事が出てきたんだ・・・と,意外なつながりに驚かされてしまった。
 本書は明治から戦前(イラク戦争前のことではなく,第2次世界大戦前のこと)までの,日本の教育の変遷をつづったものであるが,教育「体制」だけではなく,それに伴って日本における「学歴」の成立と,それに対する社会意識の移り変わりまで,豊富な参考文献を参照・引用しながら誠実に語っているものである。そして明治時代に確立された教育体制の源泉であるヨーロッパ(ドイツ・フランス・イギリス)の公教育の歴史に2章(第3章,第4章)を割き,更にさかのぼって中国の科挙制度がヨーロッパや日本に与えた影響にまで第2章で言及している。この非常に長大な歴史の厚みをもってして,教育が持つ機能である「選抜」の歴史と「学歴」の機能を語っているのである。そりゃぁねぇ,門外漢の数学者がおいそれとタコツボ的個人体験論だけで太刀打ちできるもんじゃぁありませんぜ。以下,ワシが理解した範囲で,本書の内容をまとめてみよう。
 教育の目的は学力による選抜ではない。「一定の知識・技術,あるいはより広く一定の文化の伝達」を行うことが教育本来の目的であることは異論はなかろう。しかし,学ぶ側を集団にして互いに比較することでしか個々人の持つ個性の判断はできず,伝達の結果を客観的に評価することもできない。学習の結果を「試験」の結果に基づいて評価することで個性の判断を行う。これが「選抜」である。そしてその選抜を,学習の促進剤として利用しつつ(「加熱」と呼ぶらしい),学習者の今後の人生に指針を与える材料として用いる(「冷却」と呼ぶらしい)。これが教育機関の持つ機能である。この「選抜」機能が社会的資源の分捕り合いのための有利な材料,即ち「学歴」として重要視されるようになってきたのは産業革命が始まって以降のヨーロッパにおいてであった。特にドイツ(プロイセン)では国の統一が遅れたため,近代化を強力な官僚制を敷くことで熱心に推し進めた。その官僚の育成機関として大学が作られ,大学の下に公教育制度が整えられていく。革命によって社会が激変したフランス,階級社会は続いていたものの中間層が厚くなってきたイギリスでも,制度の差異はあれ「選抜」に基づく,ことに厳格な卒業試験を伴う教育制度に変化していき,社会的上昇を果たすための手段として「学歴」が重要視されるようになってきた。
 明治維新後の日本が,特に手本にしたのがドイツの制度であった。日本のキャリア官僚に占める東大卒の割合が高いのはよく知られたことだが,もともと東京(帝国)大学は,官僚養成のために作られたものだったのだ。近代産業を起こす土台がゼロだった日本に西洋列強並みの経済力をつけるためには官立の教育機関が排出する人材だけでは到底足りず,その補充のために私立の学校が続々と誕生するが,私立出身の若者が官僚になるためには,東大卒には免除されていた高等試験を受験する必要があった。
 こうして無条件に社会的ステータスの高い官僚になりやすい学歴と,そうでない学歴が生まれたことで,日本の教育には「正系」と「傍系」の分岐が発生する。単純化すれば,東大.vs.その他,細かく見ると,帝国大学 vs. 官立専門学校 vs.私立専門学校(大学)という,高等教育におけるヒエラルキーが形成されてくるのだ。さらにこの構造を細かく見ると「多元的な構造をもってい」て,「私立専門学校が底辺部を占めた」のは確かだが,「その私学のなかでも,質的に充実した慶応義塾や早稲田のような学校は,早くから官立の諸学校と肩を並べ,時にはそれを凌ぐ威信をもっ」ていたのである。その他の専門学校の体系では,今よりもっと複雑な構造もあったとはいえ,戦後の学歴ヒエラルキーの源泉がここに完成したのは間違いなかろう。しかし手本となったヨーロッパにあった社会階層構造を明治維新で潰し,急速に近代化を進めてしまった「後進国効果」によって,お手本以上に学歴主義化,いや「学校歴」重視化が進んでしまったのは皮肉と言うほかない。
 天野は,本書が最初に執筆された1982年までの文献に基づいて,「学校歴」化が進んだ現状の問題点を第12章でまとめているが,これは四半世紀を経過した今でも有効なものばかりである。ワシが重要だと思った2点を引用して紹介しよう。
 一つは,学歴主義が「非教育的」であるという批判を肯定する意見だ。天野は教育の持つ根源的な機能である「一定の知識・技術,あるいはより広く一定の文化の伝達」をもう一度説きおこし,伝達のために学力試験が必要であることは認めつつ,それが単なる「選抜」としての機能としてしか使われず,「卒業証書の取得は実際に教育を通じて何を習得するかとかかわりなく,それ自体が自己目的化している」ことを指摘している。最近では大学生の学力全般が下がっていることを受けて「学士力の向上」なんてことを政府内部で言い出し始めたようだが,その根拠になっている意見がこれなんだろうなぁ,きっと。
 もう一つは学歴による社会階級の固定化の構造を解説している部分である。「学歴によって形成されたわが国の新しい中産階級は,学校教育や学歴のもつ社会的な価値をもっともよく知っている階級である」ために,「子どもたちを学校教育に向けて動機づけ,より高い成績,より高い学歴・学校歴をめざして努力するよう」焚きつけるわけである。なーんだ,親の学歴と子供の学歴の相関の高さを指摘した苅谷先生の主張の源泉はここにあったのかぁ,と,ワシは腑に落ちたのであった。
 しかしまぁ,ここに挙げられている学歴社会の「病理」・・・とカッコつきで述べられていることにワシは天野の主張の奥深さを感じる。本書の「教育と選抜」の歴史を読んだ人間は,果たしてこれが「病理」なのか,そう言い切っちゃっていいのか,こういう疑問を持つはずだ。構造の違いはあれ,どこの国でも学歴社会が進む合理的な理由があり,それがもたらす利益は,利益の配分に預かれなかった人間が持つ「ルサンチマン」を産むものではないのか。
 ぶっちゃけて言えば,産業革命がもたらした資本主義が人間の欲望をドライブさせる機構を解放した結果,社会的利益とがっちり結びついた学歴主義化は歴史的必然だったのだ。程度の差はあれ,これからも若年者ほど学校歴が重視される傾向は続くだろうし,逆に,学校歴がまるっきり無視されるような能力無視の封建社会の再来は避けるべきなのだ。
 近年ニセ学位を発行していたDegree Millが問題視されたのは,学歴主義が肯定される現代では当然である。そしてDM側が広報の一環として行っていた,学歴社会における弱者を救済するという主張も,実は学歴主義にワルノリして後押ししているに過ぎないのだ。
 もし第12章で述べられている「病理」が問題だというのであれば,DMにジャカスカ学位を発行させるのではなく,それを緩和するような機構を教育機関以外の組織や個人が,学歴主義とは別の観点でもって社会的に担保するしかない。複雑化した現代社会の諸問題に対応するためにはどうしてもレベルの高い高等教育が不可欠であるが,全ての人間がそのような教育を受けとめることができる訳でもない。エリート小学校に包丁男が乱入するような馬鹿げた感情の爆発を抑えるためにも,日本社会の停滞をもたらすような行き過ぎた階級化が起こらぬよう適度に階層をシャッフルする手段を講じるためにも,長いスパンの歴史的「学歴主義化」の経緯を語った本書は,苅谷剛彦の統計的データに基づいた主張とともに非常に有用な「二つ道具」を構成するに違いないのである。

PAW Laboratory (HMOとかの中の人×くぅ) 「HMO AND WORKS」同人CD

[ 本家 | とらのあな通販(絶賛品切れ中) ] \2000 (イベント頒布価格\1400)
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 多くの演歌歌手が公演を行ってきた新宿コマ劇場が2008年12月31日をもって閉館した。施設の老朽化による建て替えの必要性,地域の再開発によるものだが,二千人のキャパを持つ観客席を,演歌歌手の公演で埋めるのは難しくなってきたことも閉館の理由であるらしい。年末のNHKラジオ番組を聞いていたら,たまたま劇場関係者が証言をしているところに出くわしたのだが,「若い人も年を取ったら演歌を聴くようになると思っていた」と語っていたのが印象的だった。つまりは,演歌を聴くファン層が固定化し,そのまま高齢化していったことが集客に苦しんだ一番の要因だったのだ。実際,還暦を迎えつつある団塊の世代ですら,演歌よりはフォーク,GS,ビートルズ,演歌でない歌謡曲を今でも主として聞いている訳で,演歌は一部のヒット曲を除けば,彼らの好む音楽カテゴリにはついに食い込めなかったのである。多分,音楽的センスは団塊の世代と今のワシら中年世代とではそう変わらないのではないか。まあ1980年代アイドルとかはさておき,沢田研二,小田和正(オフコース時代も含む),サザン,大瀧詠一等のアーティストの曲は普通に咀嚼してきた最初の世代ではないかと思うのである。
 もし今の60代と40代の境に断絶があるとすれば,シンセサイザーの音に対する感性の違いではないか。コンピュータが曲がりなりにも市井の人々の目に触れるようになったのは1970年代以降で,パーソナルコンピュータが16bit化して普及するのは1980年代後半である。シンセサイザーが音楽業界で使われ出すのも,このコンピュータの普及と軌を一にしており,それ故に1970年代の終わりに最初のコンピュータミュージックのメガヒットがYMOによって生み出されたのだ。以降,コンピュータの指令によって奏でられる音楽は大なり小なりYMOの影響下にあり,小室哲哉,電気グルーヴを好む奴らは正確無比な打ち込みリズムをYMOによって骨の髄まで叩き込まれたが故に,そうなってしまったのである。あなおそろしやYMO,キリンビールがCMに還暦を迎えてもなおカッコイイ3人を据えてアンビエント化したRydeenを演奏させたのも,広告代理店の中核メンバーがワシら電子音楽ジャンキー世代に占領されてしまった証左であろう。
 そのようなジャンキー世代は,とうとうシンセに細かくサンプリングした人間の声を取り込み,滑らかに歌わせる新たな「楽器」を作り上げた。それがVocaloidと呼ばれる一連のソフトウェアであり,初音ミクはその中で最も商業的に成功したものである。どーせシンセの一種なんだから,みくみくしてあげたりIevan Polkkaに合わせてネギ振らせるだけでなく,電子音楽の中に埋め込んでしまえ!・・・と思ったかどうかは定かでないが,HMOとかの中の人たち(言いづらいなこれ)は初音ミクのルーツであるYMOの楽曲を選択したのである。しかも,原曲を親しみやすいテンポと打ち込み音によって再編し,元々備わっていたアーティスト臭を一掃,ライトに楽しめる大衆的なものに仕上げたのである。21世紀のYMOが到達した精密な音作りとは逆方向のベクトルを持つ,(電子音楽ジャンキー世代にとっては)大衆的な音楽を,ニコ動やコミケ,とらのあなを通じて広めたHMOとかの中の人らの功績に,ワシらオッサンは深く首を垂れるのみである。初音ミクから「どうもありがと」と言われても,「どうも結構なものを聞かせて頂きまして」と敬服するだけなのである。
 ワシがYouTube,ニコ動にハマって最初にやったことは,古き良き懐かし音楽ビデオを漁ることであった。当然,YMO関連の動画も集め,散開コンサート,ことに最後のTokioとRydeenなぞはPower Playしまくっていた。そんなジャンキーにふさわしい生活に明け暮れるなかで,HMOとかの中の人(言いづらいよやっぱこれ)の作品を知り,ハマってしまったのである。その彼らがコミケで,未公開の曲も含めてCDに収録し販売すると知ったワシは居ても立ってもいられなかったのだが,金がなくてあえなく参加は断念。しかしとらのあなで通販すると告知されたのを知ったワシは発売開始と同時に購入ボタンをポチっとなしたのである。販売後,間もなくCDは評判となりすぐに売り切れとなってしまった。まあCDに収められたYMOの曲はたいがいこっちで聴けるので,買えなかった人はしばらくこれで我慢してほしい。
 彼らの作るYMOの曲は当然全てCD購入前からPower Playしまくり,特に「希望の河」は原曲より早めたテンポがツボにはまって心地よかった(これ書いているちょうど今,かかっているぞ)。CDにはニコ動未公開の「東風」がおまけとして入っているが,これも好みである。しかし,今回のCDの中で一番気に入っているのはオリジナル曲の「Aschel Overdrive」(未公開曲)である。流行に疎いオッサンなのでよく知らないのですが,この曲名,何か意味があるんでしょうね? それはともかく,この曲はアンニュイな低音が響く北欧的サウンド(ワシの世代ではa-haの”Hunting High and Low”に通じるものを感じるのでは?)みたいで,ワシ好みなのである。うーん,この時代に生きててよかった,と感じているのである。
 学力低下論争(実際には学力2分化論争というべきものだが)の過程で,既存の科目を学ぶ意欲は下がっているが,その分他に学ぶエネルギーは回っているはずだ,という意見があった。実際,マンガ・アニメ・音楽・デザインといったアーティスティックな分野には人材が集中していて,挫折する割合も多かろうが,育つ人材も確かにいて,しかも平均値は断然上がっていると感じる。マンガの新人賞を見ると,「ホントにこれ新人か?」と思うこと多々。オリジナリティはともかく,クオリティは恐ろしいほど上がっていることを実感するのである。
 音楽においても同じことが言える。投稿サイトが充実したこともあって,技巧の切磋琢磨も盛んに行われているから,普通にうまい,というレベルは格段に上がっている。初音ミクという楽器を使うことで,ヴォーカルも含めた楽曲が作れるようになった今,「君に胸キュン」はYMOのおっさん3人が「キュン」と歌うよりミクたんが「キュン」する方が断然相応しい,などということだけではなく,電子音にマッチする若干舌足らずな音声を使って何を奏でさせるべきか,その判断のセンスが問われているのだ。それこそ,技術的な障壁を乗り越えてしまった日本の音楽の世界が,もう一段高いステップに上った証なのである。

つげ義春「つげ義春コレクション 近所の景色/無能の人」ちくま文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-480-42544-7, \760
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 次年度からの収入減少に備えて貧窮シフト体制に入ってからつげ義春を読むと身に染みて理解できるようになる。おまけにこれから先もいいことがあまりなさそな予感がしている能ナシの中年の男になってみると,なおさら理解が深まるというものである。
 つげ義春を,パロディではなくオリジナル作品で知ったのは,本書の最後に収められている「蒸発」,特に井上井月のエピソードに感動したのが最初である。確か新潮文庫を立ち読みしたんだったっけか。まだ若い時だったので,「無能の人」のシリーズなぞは,見てはいけない人生の深淵を見せつけられるように感じてコワゴワ眺めていたものだが,今となっては味わい深い,そしてユーモラスにも感じられる作品である。多分,自分なりに「底」を見知ってしまったと自覚したためであろう。落ちてしまえば井戸の底の蛙となるのもそれほど悪いものではない。「落栗の座を定めるや窪溜り」(井月, P.312)である。
 ちくま文庫から「つげ義春コレクション」が2008年後半から刊行されるようになり,ワシはせっせと買い込んでいる。安くてコンパクトなのもさることながら,つげ義春は筑摩書房という,一度潰れた出版社から出るのが相応しいと思っているからでもある。
 つげ本人は,若い時分はともかく,再評価されて以降はそれなりに安定した生活を送っているのだろうと思うが,作品の方はむしろ陰々滅滅さが際立ってきて,本書に収められている1979~1986年に執筆された作品群では,そこから迫力やユーモア,時には「まーるいみどりの山手線」(P.289)のようなギャグまで飛び出すようになっている。それを芸術的と一言でまとめてしまうと,ちょっと違うような気がする。むしろ,馬齢を重ねたオッサン・オバサンのための,リアルに腑に落ちるエンターテインメントとして世間に定着する力を得た,というべきだろう。中古カメラの商売に熱を上げ,多摩川の石を拾って売ろうとする助川助三は一言で言うとダメ男であるけれど,そんなダメ男を罵倒しつつも別れようとしない妻,そして陰気で将来有望でもなさそうな息子。この3人を嘲笑できる奴がいたら,それこそ人非人のレッテルを張ってやりたい。大方,しょうがねぇなぁと思いつつ,自分の至らなさと世間とのズレがもたらす痛みを彼らと共有する筈である。この「痛みの共有力」が,つげ義春を現代に突き刺している力の源泉なのであろう。
 世界的な不況が回復しようとしまいと,この先の日本は少子高齢化と人口減少の進展により,斜陽の時代が続いていくことは間違いない。しかし隣近所で人間がバタバタ死んでいくような戦前戦後の非人道的なまでに悲惨な状況に陥ることも考えづらい。懐さみしいなぁ,家族はいるし健康ではあるが先行き明るそうでもないなぁ,でも死ぬのもイヤだから成り行きで適度に頑張りつつ生きていこう・・・そんな,合理的だけど希望に満ち溢れてもいないちょっと下り坂の生活をありのままに送っていくためのバイブルとして,つげ義春コレクション,特にこの巻はその価値をますます高めていくに違いないのである。

西原理恵子「この世でいちばん大事な「カネ」の話」理論社

[ Amazon ] ISBN 978-4-652-07840-2, \1300
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 我ながらよくもまぁこれだけ西原りえぞうに金つぎ込むよなぁ,と呆れてしまう。恐らく我が家で一番銭をかけて収集しているのが奴の出版物ということになるだろう。最近は出す本出す本殆どベストセラーになるし(本書も2008-01-04現在,Amazonで第8位だよ),本人はNHKに出まくっているしで今更ここで紹介する必要もないだろうと思い,あまり取り上げないようにしているのだ。しかし・・・,本日朝ぼらけの中,これを読み始めたら止まらず一気読み。最後は感動してホロっときてしまったのだ。ああまたやられちまった,と内心舌打ちしたものの,時すでに遅し。よって新年一発目はりえぞう先生から行くことにしたのである。この後,しばらく辛気臭いもの(筑摩書房がいろいろ文庫で出しやがるもんだから・・・)が続きそうだしね。
 さて,「カネ」の話,なのにワシが感動したのはなぜなのか?
 いや,サイバラの稼ぎの凄さにジェラ心を抱いたからではない。そんなものは「できるかな?」で税務署にガチしかけた時から知っている。
 実は本書,サイバラの語り下ろし自伝なのである。
 「カネ」の話がついて回るのは,「貧乏」からの脱却ツールとして,「自立」維持のための必要不可欠な要素として,そして人間が「堕落」する原因として,一番重要なものだからだ。西原理恵子がムサビに入学するまでの経緯は「上京ものがたり」や「女の子ものがたり」にも描かれているが,ここまで不安定な家庭だっとは意外だった。それをこうして力強い断言口調で語られると黙って拝聴せざるを得ない迫力が生まれるのである。
 そしてその迫力ある言葉によって,サイバラの真っ当な精神がどこから来たのかが明らかとなる。ユリイカのサイバラ特集でも複数の書き手がその真っ当さをを指摘していたが,その源泉は,ひどい家庭環境でも子供を育て上げた母親の踏ん張りによるものであることが明らかとなるのだ。
 感動のポイントはそれだけではない。予備校からムサビ入学後,西原は自身の絵画能力のなさに劣等感を覚え続けるが,絵を書いて生活していくという希望は捨てなかった。その諦めの悪さによって,「「自分はどうやって稼ぐのか?」を本気で考え出したら,やりたいことが現実に,どんどん,近づいてきた」(P.94)ことを知る。教員の一人としては,大学という教育機関が一種の選別機能を担っている社会的意義を,この一文で再認識させられた。
 そしてもう一つ,とても気持ちのいいセリフを引用しておこう(P.176)。

 カネのハナシは下品だという「教え」が生んだもので「ちょっと待て,いい加減にしろ!」って言いたくなることは,まだ,ある。
 「人間はお金がすべてじゃない」「しあわせは,お金なんかでは買えないんだ」っていう,アレ。
 そう言う人は,いったい何を根拠にして,そう言い切れるんだろう?

 うーん,カッコいい。そっか,ホリエモンが登場した時にワシが感じた清々しさはこれだったんだなぁと,思い出した。イマドキ粉飾決算で上げ足とられてヒルズからブタ箱へ放り込まれようとしている奴を取り上げるのも恥ずかしいし,サイバラも「一緒にするなぁ!」と怒るかもしらんが,普段御大層なことを言っているくせにイザとなったら高々数万程度の金でケチケチする大学教授を見てきたワシにとっては,こっちのセリフの方に真実味を感じるのである。
 とはいえ西原母さん,金の重要性を言いつのるだけではなく,最後は母親としての矜持も見せている。そのあたりは本書の後半部にとっぷり書いてあるので,是非とも買って読んで頂きたい。
 カネの話といえば,一昔前は邱永漢だった。本書P.172のカットのセリフ

お金はさびしがりやです。友達の多い方にすぐ行ってしまいます。

ってのも,彼の文章である。ワシはちくまプリマーブックスの一冊「お金持ちになれる人」を読み,金持ちであり続けるためには「徳」が必要,という主張に大いに頷いたが,サイバラの主張もよく似ている。両者とも,少数の成功と多大な失敗の果てに得た経験則を土台にしているからだろう。その意味では,どちらを読んでも地に足のついたカネの話が身に付くこと間違いない。そーいやこの二人,日本だけでなく,世界的視野で物事を見る目を持っているところも共通しているよなぁ。
 従って,本書は
 ・西原理恵子の愛読者
 ・大金じゃなく小金を稼いで維持することの社会的・実存的意味を知りたい人
 ・世界的見地から日本の豊かさとそこから生じる日本独自の社会問題を認識したい人
にお勧めということになる。全部に当てはまる人は勿論,どれか一つでも当てはまるようなら,とりあえず1300円支払ってサイバラの被ったFXのロスカット分を補填してあげてもいいんじゃないか,とワシは思うのである。

内澤旬子「おやじがき 絶滅危惧種 中年男性図鑑」にんげん出版

[ Amazon ] ISBN 978-4-931344-22-8, \1300
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 毎週風呂掃除するたびに,人間というのはよくもまあこれだけ「だし」が出るもんだなぁと,バスタブ壁面のザラザラをふき取りながら思うのである。純然たる一人暮らしのワシんちですらこれだから,4人家族できれい好き,なんてご家庭はさぞかし大量の皮脂が垂れ流されているんだろうなぁ。
 加えて,よくもまぁこれだけ毛が抜けるもんだと,シャワーでバスタブの底に沈殿している体毛のなれの果てを洗い落としながら呆れてしまう。純然たる一人暮らしのワシんちですらこれだから,4人家族できれい好き,年頃の娘さんなぞいようもんなら,「パパ,きったな~い」とゴキブリの如く嫌われること間違いないであろう。加えて髪の毛が喪失する分,顎だの腋だの胸だの脛だの,あってもなくてもどーでもいいところのヘアばっかり増えて,バスタブの底に沈殿したり,湯面に浮いたりして衛生的によろしくない事態を招来している。まことに肉体の老化というものは「こ汚い」ものばかり排出するものである。
 しかしそのこ汚さには「個性」が宿る。清潔さという方向性は一点に集約させるものだが,汚れ方は千差万別だ。これだけ個人の個性がもてはやされるようになったのだからさぞかしこ汚い中高年はアイドルに・・・なるはずがない,と誰もが思っていたのだ。個性は大事,しかしそれは清潔なものでなければならないのだ。矛盾である。つまり個性個性とはやし立てていたものは,かなり限定されたものでしかなく,小ぎれいで流行に沿ったものであって・・・つまりは多数決的に望まれていたものでしかなかったのである。
 内澤旬子はこ汚いが故に真に個性的な物体,すなわち「おやじ」,を発見し,2008年末の日本に文化的な貢献を行った。それが本書である。一ページに一オヤジが基本で計71オヤジ。やけに生々しい内澤のイラストと的確な短いコメントが添えられている。
 おやじの特徴は,前述した二つの要素から成る。一つは皮脂,即ち,脂肪である。日本政府はおやじの腹周りを85cm未満に抑えようと躍起になっているが,なかなか脂肪は落ちないもので,例えば頬周りにくっついたり(P.12, 23),腹にくっついたまま(ほとんど全部)なのである。
 もう一つは毛だ。禿オヤジがすだれ頭を形成するに至るまでにはそれ相応の歴史というものがあり,大多数は若いころから流していた髪の毛を薄くなってもまだその方向に生やしている,というだけのことなのである。それがいつしか嘲笑の種になってしまうのはやむを得ない。もういちいちページ数は挙げないが,おやじの個性の源泉は薄くなった髪の毛と,それをフォローすべく無駄な努力を重ねられた工夫,そして濃くなった体毛に集約されるようなのである。
 本書は,編集した南陀楼綾繁氏の献身的な努力によって,すべての漢字にルビが振られており,父親のこ汚さに目覚めて毛嫌い始めた小学生の娘さんでも読めるようになっている。しかし,その努力は徒労に終わるであろう。なぜなら本書は,全82ページ1300円という,ほとんど同人誌並みにコストパフォーマンスの悪いものとなっており,ガキのこづかいではおいそれと買えないものになっている。本書をためらいなく買って読んで楽しんで,さてぷちめれでも書こうかという段階になって初めてこの定価を知ることになった,そんなボケているけどいいものは躊躇なく「大人買い」できる稼ぎを得たワシみたいなオヤジしか,気軽に購入できないのである。
 オヤジを描いたオヤジの娯楽のためのマスターベーションのような本をこの年の瀬に送り出すというのは,日本の出版界の度量の現れなのか苦しみの果てのヤケクソなのかは不明だが,少なくとも,オヤジの持つこ汚い「個性」が商品になるかどうかの試金石になっていることは確かだ。ワシは商品として大いに評価するのだが,さて,これを日本の人口の半分を占める,内澤旬子以外の「オバハン」はどう判断するのか,その結果を楽しみに待ちたい。
 つーことで,一年の最後を「オヤジ」で飾ってみました。ワシもますますオヤジ化して,髪の毛は白くなりつつあり,説教は長くなりつつあり,来年は四捨五入なし四十路突入でありますが,ますます嫌なオヤジになるよう,頑張ってこ汚くなる予定であります。

 本年頂いた皆様からのご愛顧に感謝しつつ,
 来年もよろしくお願い致します。