[ Amazon ] ISBN 978-4-06-375628-9, \838
へー,あの大河連載漫画「クッキングパパ」も単行本で100巻越えかぁ,すごいなぁ~・・・と,ぶらり立ち寄った書店で本書を見つけ,ワシは感心することしきりであった。そーいや,以前もクッキングパパをblogで取り上げたよなぁ,と気がついて探してみたらありましたよ,79巻が出た時に書いた奴が。もう3年以上前のもので,しかもあれから21冊も出ちゃっているってんだから,サスガと言う他ないのである。「こち亀」に続いての単行本100巻越え,次には「パタリロ」が控えているわけだが,さてそうなると次はどの作品が最初に終了するか,ということに世間の関心が移行する・・・のかな?
さて本書である。ワシも今更クッキングパパのつまみ食い的寄せ集め本を読んでもしゃーないかなぁとは思っていたのだが,これは帯にもあるように,うえやまとち本人によるセレクションなのである。全部で1000のエピソードが100巻に納まっているわけだが,そのうち20作品を選び,その一つ一つにうえやまが短いコメントを付けている。これがなければ本書の価値は半分以下に下がっていたに違いない。連載開始間もない頃,最初に「手応えを感じ,作品の方向性が定まった」作品「子供が喜ぶスイートアップル」から始まって,幼児虐待の兆しを描いた珍しい作品「ミモザケーキ」,田中が結婚する過程を描いた作品群「グータラ作れるグータラおでん」→「かごんまの味 酒寿司」→「ふたりのカツそば」→「みんなで作ったウエディング”ドラ”ケーキ」,その他,うえやまが思い入れを持つエピソードが本書には詰まっている。「クッキングパパなんていつもおんなじじゃーん?」と舐めていた人にこそ,本書を通読して頂きたいものである。何せ定価838円でバラエティに富んだものが読めるのだから。
全くクリスマスイブだというのに一人でこんなものをシコシコ書いているワシみたいな奴は,忘れつつある「ファミリー」という,煩わしいけど人間社会には不可欠の要素を,うえやまとちに再認識させてもらう必要があるのだ。本書で紹介されているレシピのうち,ワシが作れそうなものはおでんぐらいなもんだが,せいぜいうまそうな料理の描写とファミリーの持つ幸福感に癒されつつ,この年末の時期をしみじみと過ごしたいものである。
とり・みき「冷食捜査官1」モーニングKC
[ Amazon ] ISBN 978-4-06-372756-2, \619
金で金を動かしていた連中の化けの皮がはがれる前から,この国の出版界は沈滞気味になっていた。竹熊健太郎という日の本一の饒舌な男は既に死んでいる状態であると主張していたが,そのいくぶん楽しんでいるような高いトーンのおしゃべりの内容を頭で理解するより先に,敏感なこの国の連中は差し込むような懐の痛みを感じるようになっていた。
自分を支える地面がカズフサ共々ゴゴゴゴゴという地響きを立てて沈んでいく気分が蔓延してたのは間違いない。しかし,沈むものがあれば浮かぶものもある,ということを,抜け目のない奴らは察知していた。日本が海に沈んだら奈良の大仏は浮かぶだろう,ということを指摘していたトニーたけざきは折角の慧眼をギャグにしか生かさなかったが,講談社には沈む漫画界においても決して沈まないコアなファンの付いているマンガ家を商売に結びつけようとした編集者が,少なくとも一人は在籍しているらしい。ミステリー雑誌「メフィスト」にとり・みきの作品が登場したのも驚かされたが,旧作も含めて「猫田一金五郎の冒険」として一冊にまとまったのを掛川の本屋で見た時には,枯れた涙腺に刺激を感じた程だ。そして看板青年雑誌「モーニング」に登場した時にはあのジャーナリスト・武田徹も日記で言及(2008-09-21)するほどの事件となり,今回遂に講談社モーニングコミックスの一冊として本書が上梓された。
俺は予言というものを信じないが,蓋然性の高い合理的な論というものには一定の信頼を置いている。この東洋の片隅の国には「とり・みき」という5文字に反応する輩が,少なく見積もっても数万単位で存在していて,そいつらはこの先こぞってUTF-8やShift JISで記述された検索可能な本書に関する電子情報を砂漠のデータセンターへ送り出すことになる,というのは予言ではなく後者に該当するものだ。コアなファンが存在することは,1979年の週刊少年チャンピオンに「ぼくの宇宙人」が掲載されて以来実証され続けてきたのだから。
ハードボイルドという形式に,俺は全く親しんでこなかった。谷口ジロー&関川夏央の「事件屋稼業」がそれだというなら,それしか知らない,という程度だ。この冷食捜査官シリーズがハードボイルドのパロディであるという言説には,肯定も否定もする資格が俺にはない。パロディではないオマージュだ,いや,とり・みきにとってのハードボイルドそのものが本作なのだ,と言われても同じだ。
もう一度言っておく。本作と「ハードボイルド」という表現形式との関連について,判断をする資格が俺にはない。関心もない。そんなものを議論して欲しがる奴らの気持ちが,俺には分からない。
本作は面白い。俺にとってはそれだけで十分だ。遺影のように黒縁で塗りつぶされたA6版の一ページ一ページは重苦しい雰囲気を漂わせると同時に,この黒縁の中だけに俺たちの視線を釘付けにする。コマの一つ一つに詰め込まれた細かい物言わぬギャグの読みとりにマニアを熱中させて止まない。マニアではない俺でも,しょうゆ豚弁当のパッケージ(P.170 2コマ目)を見つけて心が浮き立つのを抑えることが出来なかった程だ。この弁当については吉田戦車が言及してたのをたまたま知っていたからだ。恐らく,他にも俺が気づかないギミックが本書には大量に詰め込まれているのだろう。あと2,3回は再読して未発見のそれを見つけていくつもりだ。
とり・みきのマンガ家としての活動が少なかったミレニアム前後の時代,彼はSF作家クラブで事務局長を務め,歯槽膿漏のタコ(イカ?)を各種のマンガに登場させる手伝いをし,吉田保や江口寿史とクラブで円盤を回して若い男女を恍惚とさせつつ,吉田戦車と伊藤理佐を山登りに連行して結婚させてしまった。いわば,マンガ・SF業界における黒幕として暗躍してきたのだ。黒幕というには目立ち過ぎだと思うが。
その一方で,「遠くへ行きたい」をひっさげてフランスに殴り込みをかけ,国際的にもこのサイレントな笑いを届ける努力を惜しんでいない。「わしズム」には重苦しい不安だけを抜き出した作品を掲載させ,気が付くとどこかに「遠くへ行きたい」の9コマが載っていたりする。国内的にも寡作ではあるが静かにマンガ家としての営みを続けていたのを時折目にし,デビュー作以来ストーカーのように後を付けていた俺もそのしぶとさには感心させられた。それもこれも,俺のようなとり・みきストーカーが万単位で存在していたからこそ可能な活動だったことは,とり・みき自身も自著で言及している。
その結果として,沈滞するこの国の漫画界においてその沈まぬ存在がクローズアップされてきたのも当然のことだ。俺としては逆にモーニングのようなメジャー青年誌までもが,とり・みきという碇にすがってきたことに驚きを感じる。ファンとしてはめでたいことだが,冷食捜査官が農林水産省の事務次官に昇進しても,一流新聞の三面記事になることは期待できない。初芝ホールディングスの新社長のような大衆的人気を得るとは思えない。とり・みきは,秋田書店から出ると決意した時から,そのような路線を自分から忌避してきたマンガ家だからだ。そんなマンガ家にまですがらざるを得なくなったこの日本の漫画業界の行く末が,俺としては少し心配になる。
しかし,業界がどうなろうと,とり・みきは変わらずマンガ家を組織し,バツイチカップルを誕生させつつ,サイレントな笑いを書き続けるに違いない。
俺はもう業界の心配するのを止めて,冷食捜査官の旧作が収録された「犬家の一族」(徳間書店)との比較対照作業に入った。そして,本書P.73のセリフ(4コマ目)にある誤植が取り除かれた次の増刷本が刊行されるのを静かに待つことにした。
(注)誤植は他にもあるようだ・・・みんな細かいよな。
コンプティーク・編「らき☆すたコミックアラカルト ~ラッキーたーん♪~」角川書店
[ Amazon ] ISBN 978-4-04-854164-0, \760
昔,アニパロ(アニメーションのパロディ作品)に嵌っていた若かりし頃のワシがいたと思いねぇ。原作もロクに知らないのにアニパロのマンガ(同人誌や商業アンソロジー)を貪っていたのだ。何が面白くてその手のものを読んでいたのか,今になってつらつらと考えてみるに,結局,マンガ作品としての「ゆるさ加減」に惹かれたのだと思う。
細野不二彦の「ギャラリーフェイク」に,偽物の美術品(フェイク)ばっかり収集している男が主人公の短編があったのを思い出す。その主人公がフェイクを好むのは,本物の一級品が持つ厳しさよりフェイクが持つ弛緩した雰囲気が好きだから,ということだった。間が抜けている,とも語っていたように思う。ヒドイいい草だが,当たっていると言わざるを得ない。そしてワシがアニパロ作品に感じた「ゆるさ」は多分,このフェイクフェチ男が好んだものと同じタチのものなのだ。長年に渡って競争の激しい一流少年誌・青年誌で活躍してきた細野にしてみれば,コミケなどの同人誌即売会に群れ集う数多のアニパロ作品は皆フェイクに見えるのかもしれない。いや実際フェイクなんですけどね。
実際,アニパロの多くはキャラクターの動かし方から崩し方,やおいや百合といった性的表現,ストーリーのたわいなさに至るまで,かなり類型的なものであり,いわゆる「萌え系」の表現と同質の「ゆるさ」を持つ。厳しい編集者のチェックを経て,何が何でも読者の目を惹きつけ,読者に雑誌をレジに持っていかせるだけの念が籠もった一流どこの商業作品に比して,自分と仲間内での満足を得るだけの内輪の表現で済んでしまう同人作品とでは,どうしても後者の表現が緩くなるのはやむを得ない。ましてや書き手の多くは二十歳程度の若者だ。「近頃の若いモンはこんなユルユルのものを書きやがって」と年寄りがギリシャ時代から繰り返されてきた文句を言いたくなるのは分かるが,そんな年寄りだって若い時代があったはずで,ワシから言わせりゃ全共闘時代の学生の社会と親への甘えっぷりだって相当のモンだったのだ。てめぇら自分のやってきたことを忘れて何言ってやがる,とイマドキの若者を弁護したくなろうというものである。
久々にアニメ「らき☆すた」に嵌ったこともあり,このアニパロアンソロジーが幾つか出ていたのは知っていたのだが,どうも食指が動かなかったのは,収められている作品が「ゆるい」ことを経験的に知っていたからだろう。昔は楽しめたその緩さを,今も楽しめるかどうか,自信がなかったのである。
が,今回意を決して一番表紙が自分にとって萌えているものを選び,購入して読んでみたのだ。ちょっと怖かったが・・・読んでみたら,昔取った杵柄が役に立ったと見えて,結構楽しめたのである。ま,11人(コンビ)(+イラストのみ5人)のらき☆すたアニパロ作品が収められている訳であるから,おのずと作品の巧拙には差が出てしまうのは仕方がない。巻頭と巻末の2作品を寄稿している「杜講一郎×さくらあかみ」コンビのものが一番絵とストーリーのバランスが取れているが,それでもマンガ表現は相当ユルいと言わざるを得ない。意味のない無駄ゴマはあるし,寝ているこなたの髪の毛を指に絡ませて言うかがみん一番決めのセリフが「・・・あまい」である。いや,あまいのはこのセリフが乗っかっているシチュエーションだろう,とマンガにウルサイおっさんとしてはつい前言を翻して突っ込んでしまうのである。どうせなら髪の毛を口に含んで唾液と絡ませつつ恍惚とした表情で言って欲しい・・・というのは頭が腐ってますかそうですか。
まあしかし若者が描くアニパロは今も昔もユルくて変わってないな~,ということを確認できただけでも収穫ではあった。そして原作の出版元,角川書店がこの手のアンソロジーを編んで出すようになった,というのも時代の移り変わりを感じる。メディアミックスの上に,ファンサービスの一環として公的に認められたアニパロをまとめて売り物にするんだから,骨までしゃぶってスープまで一滴残らず掠め取る,って感じですな。温泉場のでかい旅館が土産屋からカラオケボックスまで建物内に設置して客を完全に囲い込む,他の商売敵には一銭も渡さん!・・・って偏狭な態度そっくりである。それだけ商売としての出版業が厳しいってことなのかしらねぇ。世知辛いですなぁ。まあ角川の株主としては商売熱心なのはいいのだが,客を囲い込んだ結果,温泉街全体としては沈滞してしまった伊豆のどっかの温泉場のようなことになっちゃったら元も子もなくなるのでは・・・と一抹の不安を拭えないのである。
してみれば,版権なんぞクソ食らえ的に野放図な表現の場として成長してきたコミケは,さしずめ猥雑なカジノみたいなモンなんだろうなぁ。たとえ取引されているものの大部分が緩かろうと,その中からきっと緩さを脱した煌びやかなモノが生まれてくるのだろうから。
立川談志・吉川潮(聞き手)「人生、成り行き -談志一代記-」新潮社
[ Amazon ] ISBN 978-4-10-306941-6, \1400
ワシは談志にとってはいい客であった試しがない。ライブで本人の落語を聞く機会があったのは2回,一度目は「五人回し」,二度目は独演会にてジョーク集と「らくだ」・・・だったのだが,どちらも最後は本人による自作解説みたいなものがオマケについていて,容易に幕が下りなかった。噺が終わっても今の自分の落語についてあれこれと「批評」するのである。
正直言って興ざめした。噺自体は,さすが長年名人と言われてきただけあって面白いと思ったし,客席も湧いていたのだが,ワシにしてみれば「てめぇの落語を聞きに来たのであって,評論家の講釈を聞きに来たんじゃない!」という気分もあるのだ。もちろん,この「批評」も含めて談志の全てを愛して止まない熱烈なファンが多いことは承知している。しているが,まあワシみたいな普通の話芸を楽しみたい「二流の客」にとっては,芸術を目指そうというなら金取るな,黙って普通に楽しませろ,という気分にもなろうというものである。以来,ワシは談志の落語を聞きたいと思ったことはないし,多分,この先も自分から積極的に聞きに行くことはないだろう。高いチケットの割には外れが多い,と言われるのも頷ける。
しかし純粋に批評を批評として取り出してみれば,結構真っ当なことを言っているのだ。「落語は人間の業の肯定である」から「落語はイリュージョンである」,その他もろもろの社会時評,人物批評・・・ふん,なるほど,と思わせる箴言が七割ぐらいは入っているのだ。してみれば,落語より対談鼎談のたぐいの方が,今の談志の強みが生かせるのだろう。MXテレビで今年(二〇〇八年)の八月まで放映していた野末陳平との番組が中断しているのが惜しまれる。ま,ノドの調子が相当悪化していたのでやむを得まい。十分治療してから出直して欲しいものである。声があれだけしゃがれていると相当聞きづらい上に痛々しくて気の毒になってくる。「悪童」として名を馳せてきた談志にとって,人様の同情を買うってのは不名誉なことこの上ないだろうしなぁ。
そんな悪童・談志の人生が本人の語りによってコンパクトにまとめられたのが本書である。立川流顧問作家・吉川潮が語りをリードしているせいもあってか,人生の履歴が時系列に沿って並べられており,至極読みやすい。談志自身の文章だと,昔はともかく近年のモノは特に毀誉褒貶が激しくて落語同様,普通の平易な文章を好むワシみたいな「二流の読者」にとっては至極付き合いづらいものとなる。晦渋なところが全くない本書は,談志自身による「あとがき」を除いて,至極常識的な文章で綴られているのである。
しかし語られている人生そのものは波瀾万丈,とゆーか,本人自身が平穏無事でない道を突き進みたがるせいもあって,五代目・柳家小さんに入門してからの歩みは相当乱暴である。本業の落語のみならず,キャバレーの余興で天下を取り,勃興しはじめたテレビに進出し,余勢を駆って衆議院議員選挙に出て落選,次に出た参議委員選挙では何とか全国区で最下位当選を果たすも,沖縄開発庁政務次官を辞任するハメとなって国会議員は一期で廃業,落語に専念するかと思いきや,六代目・三遊亭圓生にくっついて落語協会を飛び出しすぐに出戻り。その後,真打昇進試験でのゴタゴタが起こると再び飛び出して立川流を創設,志の輔,志らく,談春を初めとする優秀な後継者を育て上げるに至るのだ。まあ乱暴という他ない人生である。
一貫していたのは,本職を噺家と規定し,国会議員の在任中も寄席に出続けていたことだ。普通なら廃業するか,徐々に落語界からフェードアウトしていくか,タレントに転業したりするのだろうが,小さん譲りの古典落語を語る仕事は絶対に手放さなかったのだ。しれみれば,かような波瀾万丈な歩みの全ては落語のための人生修行ということだったのか,と思えてくる。
そんなに落語を極めたいなら,余計な批評なぞ交えずにフツーに名人路線を目指せばいいのに・・・というのは,多分,立川談志の芸術指向を理解できない一般人の戯言に過ぎないのだ。記者会見を乗り切るためにアルコールに頼って政務次官をしくじるぐらい,実は胆力というか度胸のない臆病者の癖に(威勢はいいけど腕ずくの喧嘩も出来ないらしい),自分の野心に忠実に行動し,近視眼的にはバカみたいな失敗を繰り返すけど,大観すれば落語界のみならず日本の文化全体にかなりの良い影響を残してきたのだ。もし行動を起こしていなければ,今以上に鬱屈を抱えていた可能性も高い。やりたいようにやってきて,自分が育ててきた芸人としてのDNAも弟子に継承されているのだから,まあそんなに悪い人生ではなかったと言えるんじゃなかろうか。
落語はともかく,もう少しの間,この談志という人物の吐く言葉を聞いていたいような気分にさせてくれるのが本書なのである。まだ「談志が死んだ」となるまで時間はあるようだから,それまでに目を通しておいて損はない。落語は・・・ま,聞く人間を選ぶので,あまりお勧めはしないでおく。
栗原裕一郎「<盗作>の文学史 -市場・メディア・著作権-」新曜社
[ Amazon ] ISBN 978-4-7885-1109-5, \3800
いや~,久々に頭を抱えながら読まされてしまった。唐沢俊一さんの「新・UFO入門」における「盗用」事件,それに端を発した告発ページやblogの主張は,表層的な点はともかく法律的にはどうなんだろうと疑問に感じて本書を読み始めたのだが・・・読めば読むほどこの<盗作>問題というのはややこしいものだということを痛感するハメになってしまった。本書は500ページ近い大著であるけれど,それはこの「ややこしさ」を資料引用を含めて丁寧に解説しようとすればイヤでもこの分厚さになってしまう,という事実を知らしめているのだ。法律問題には全くの門外漢であるワシが新たに知ったり感心した事柄は後述するとして,何がややこしくさせているかを最初に端的にまとめておくと,次のような事情によるようだ。
1.そもそも,文学(広く書き物も含まれるが)における「盗作問題」と呼ばれる事件は,全く整理されてこなかった。つまり本書以前に体系的な先行文献というものは皆無であり,栗原は資料を一から収集せねばならなかった。従って「この事件の発端はこの類型Aに分類されるのだな」という荒っぽい常識的な判断も不可能な状態であった。
2.「盗作問題」の多くは当事者同士の示談によって収拾されたり,論争に終始したりすることが多く,法廷で争われたケースは案外少ない。結果として法律論としての集積があまりなされず,法律家でも明快な判断が下しづらいようだ。
3.2のような事情も絡んでか,何が「盗作」なのか,どこからどこまでが著作権法で規定されている正当な「引用」なのか,盗用あるいは剽窃になってしまうのか,判断が極めて曖昧である。ほとんど引き写しの文章であるにも関わらず原著作者が何も言わなければ事件にならない,といったこともあるし,あるいは「そこまで文章を細分化して似ているだの何だの言ったらキリがないだろう」という度の過ぎた(と思われる)訴えもあり,これに感情論や出版社・放送局のビジネスの問題も絡んでくると,純粋に文芸的かつ法律的な「盗作問題」の定義は,第三者的に決められるモノではない,と思えてくる。
本書で大きくページを割いて取り上げられている事件のうち,純粋な著作権上の,特に翻案権が侵されたかどうか,という点が争われたのは第六章・2「山口玲子「女優貞奴」とNHK大河ドラマ「春の波涛」」だが,これは担当した裁判官が「どう判断してよいかさっぱり分かりません」(P.358)とぶちまけるぐらい判断が難しいものだったようだ。最終的には最高裁までもつれ込む事件となるのだが,結局はNHK側の怜悧な弁護士の構造主義的法律解釈と小森陽一の論述によって,NHK側の全面勝訴となる。山口は自分の著作がそのままドラマ内で使われていると主張したが,その部分も「資料として活用されたに過ぎない」(P.370)と判断され,創作性は認められなかった訳だ。この場合,山口の著作が川上貞奴という実在の人物を追ったドキュメンタリーだったために,「事実」に創作性があるとは言えないという,ちょっと気の毒ではないかなぁという判決になってしまっている。
純粋な文芸作品として執筆された作品中に,資料として用いた文献の文章と酷似した箇所がある,という「盗作事件」は本書でも多数示されているが,上記の事件のように,「事実」である場合は「盗作」と主張しても認められないケースが多いようである。
・・・となると,こりゃぁ,難しい話だなぁ,ということがご理解頂けると思う。パクリだ泥棒だと主張するのはたやすい。ことに盗んだ・盗まれた当事者でない第三者がヤイノヤイノ騒ぐのは簡単である。本書でも読者からのクレームによって発覚した事件が幾つか紹介されているから,著作権に関する意識は戦前よりも格段に高まっているのだろう。しかしながらそれが純粋に法律的に問題か?となると,個別の事例を詳細に調べていかないと何とも言えないのだ。しかもそれが実際の事件に関する文章だとすると,「引用文献の明示がないのは失礼だ」という文句のレベルで片づけられてしまう可能性が高いように思われる。創作態度が気に入らないとか安易だとかといった主張は感情論で終始してしまうのがオチだ。著作権違反だと言うのなら法廷闘争に持ち込んで恐ろしく手間のかかる手続きを経ないと決着が付かない上に,大した事件でなければ示談でオシマイなる可能性が高い。
かくして<盗作>問題は,法律的な蓄積がナカナカ増えないまま,感情論とビジネスと世評のうねりの中でダイナミックに漂い続けるほかない丸太のようなモンなのである。普通に生活している分には,「あ,あの辺で丸太が流れているね」で終りだが,いざ自分が巻き込まれてしまうと振り回したつもりの丸太が一回転して自分の後頭部をかち割ってしまいかねないのだ。そう,NHKに喧嘩を売った山口が全面敗訴したように・・・。
栗原はそんな危険な丸太をかき寄せて何とか一体の筏に仕上げることに成功した。が,思いのほか丸太の数は多かったようで,ふん縛って492ページにまとめるまで2年を要したという。無理もない。しかし労作にありがちの晦渋な文章は皆無で至極読みやすいし,当然のことながら「引用」の方法や「参考文献」の提示は著作権的に完璧である。「そっか,こういう風に書けば問題ないんだな」というお手本としてもお役に立つ一冊,法律家の書いた著作権本より,実際の事件がどのようなものでどういう経過を辿るのかを知るには現時点で最高の本であることは間違いない。誰だって著作権者になり,同時に著作権を踏み越えてしまいかねない時代なのであるからして,一度は目を通しておいて損はしないと断言しておく。