色摩力夫「フランコ スペイン現代史の迷路」中公叢書

[ Amazon ] ISBN 4-12-003013-X, \2000
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 そーいや,スペインにフランコという独裁者がいたな,と気が付いたのは,昨年(2007年)のいつだったのか。八重洲ブックセンターでウロウロしている時にはたとひらめき,「フランコ,フランコの評伝はないか」と店内のデータベースを漁ってみたら,ヒットしたのがこの一冊。もはや在庫処分待ちという古ぼけた本の谷間にこれが残っていたのを見つけ,早速購入した。が,その後しばらくをパラパラとはめくるものの読了には至らず,ネチネチとベッドサイドの机に置きっぱなしになっていたのだが,今年(2008年)に入って軽度の鬱状態になり,逃避行動を取る中で本書にチャレンジ,時系列でフランコの事績を描き出した重厚かつ簡潔な記述に引き込まれ,一気果敢に読了してしまったのであった・・・が,ワシのは悩みは深くなるばかりで,ますますフランコという人物が分からなくなってしまったのである。
 ↑を読んでもワシ以外の人間には何が何だかさっぱり経緯がワカランだろうから,以下ではも少しかみ砕いて説明することにする。
 高校で世界史を取ると,今はどうだか知らんが,ワシが高校生の時は第二次大戦終了直後で授業は打ち切りとなっていたものである。従って,授業の終盤で習う第二次世界大戦における枢軸国(ドイツ・イタリア・日本など)と連合国(イギリス・アメリカ・ソ連・中国など)の勢力図は大概頭に残っている。その勢力図には,ユーラシア大陸の西のはじっこ,イベリア半島に,塗り分けされていない空白地帯があった。これがフランコが独裁者として君臨していたスペインである。そしてフランコと言えば,ヨーロッパファシズムの一角を担っていた極悪人ということになっている。・・・ん? ファシストの独裁者の癖に,世界大戦中はドイツ・イタリアに与せず,中立国? どーゆーことなんだろう?
 ・・・というのが,「フランコという独裁者がいたな」と気が付くまでの経緯である。
 しかしこのフランコという人物,どうにも分かりづらいのである。例えば,水木しげる「劇画ヒットラー」(ちくま文庫)には1940年にフランス・スペイン国境近くのエンダヤ(水木著ではアンダイエ(仏語読みかな?))で行われたヒットラーとの会談が描かれている(P.215)。ここでフランコは,(スペイン内線による疲弊のため)スペインは他国と戦争が出来る状態ではないことを述べ,ノラクラとヒットラーからの参戦要求をかわしている。
 が,本書によればこれは事実ではなく,会談後に外相間で取り交わされた議定書は,むしろドイツ・イタリアとの枢軸同盟への参加の意思表示に近いものだったという。また,フランコもこの会談の時期までは,破竹の勢いでフランスを屈服させたドイツに傾いていたようだ。しかし,この会談後にフランコの政治的参謀となったカレロ・ブランコの超合理的な「政策メモ」(この後も度々フランコの政治的指針となる)の指摘により,フランコは枢軸同盟への参加を徹底して引き延ばすようになり,結果として中立国としての立場を維持することに成功した。うーん,独裁者にしては日和見的な態度である。
 日和見といえば,独裁者に駆け上る契機となったスペイン内戦(1936年~39年)への関わりも,本書によればフランコの自発的なものではなかったようである。植民地モロッコで軍事的才能を発揮していた彼を,人民政府に対抗するクーデター首謀者側が引っ張り出した,というのが真相らしい。結果,内線の中で権限を一手に握ったフランコは独裁者としての地位を獲得し,内戦にも勝利してスペイン全土を掌握するに至るのである。うーん,ナポレオンがフランス革命のドサクサで担がれて皇帝になっていく過程とよく似ているよな。結局,乱世の中では洋の東西を問わず,秀でた軍事能力を持つ者に権力が集まっていくものなのであろう。
 フランコの日和見的態度は,大戦後のスペインの地位を高めるのにも大いに役立っている。腹心カレロ・ブランコは大戦後の世界秩序が米ソ冷戦という構造になっていくことを冷徹に見抜き,フランコに提出した政策メモで,亡命した人民政府側の勢力を弾圧したところで,共産主義の招来を恐れる西側各国はスペインを非難こそすれ,実効的な圧力をかけてくることはないから気にするな,と助言する。外交官である著者も「シニカルな文書と見えるが,その洞察力は認めざるを得ない」(P.242)と舌を巻いている。こうしてフランコは独裁的政治を維持しながらも,政権内部では権力闘争のバランスの上に立つ「調停者」としてふるまいながら,スペインに高度成長をもたらすのである(1960年代)。正確に言えば,経済政策に全く疎いフランコが,カレロ・ブランコ率いるテクノクラートの政策を丸飲みしたことによるものらしいが,それを許容する独裁者ってのも度量が広いというのか,単なるボンクラなのか・・・。
 こうして全く楽しくなさそな独裁的権力を維持しながらも,フランコは自分の後釜となる政体を,スペイン内戦前の「王国」に戻すよう計画していたというから,ますますこちらは混乱させられる。千年帝国を夢見たヒトラーとは正反対の現実主義者であったフランコは,カレロ・ブランコの案に従い,徐々にファン・カルロス一世を次期国家元首とすべく体制を整えていくのである。結果,フランコが危篤になるや権力が国王に委譲され,スペイン「王国」が復活したのである。その後は議院内閣制の立憲君主国家へ移行,スペイン内戦時からは想像も出来ない程のスムーズさで独裁国家から脱却したのだから,何というか,見事としか言いようがない。
 こうなると,フランコを単なるファシスト独裁者呼ばわりするのは「何か違う」感じがする。透徹した合理性を愛したという以外,首尾一貫したイデオロギーはなさそうだし,あからさまな抵抗勢力は弾圧しながらも,部分的に選挙を行うなどして民意を確認しながら各勢力間のバランスをとり続け,次の世代へのバトンタッチをスムーズに行うための体制作りに勤しんだのだ。・・・一体全体,何が面白くて独裁者になっていたんだろうと首を傾げてしまう。ホントーに独裁を楽しんだんですか,フランコさん?
 本書の副題は「スペイン現代史の迷路」となっている。これは,フランコの歴史的歩みを学問的にカッチリ押さえて重厚な記述を行った著者をして,フランコ時代をどのように捕らえていいものやら判断が定まらなかったという意味が込められている。いや確かに,独裁的権力を維持しながら合理性を追求するという訳の分からなさは迷路なんてモンじゃない,「迷宮」と言いたくなるほどである。しかし,参謀役カレロ・ブランコと,彼を重用したフランシスコ・フランコのコンビが愛したこの「訳の分からなさ」が,政権を長期に渡って維持する原動力となったことは本書によって明らかになったのである。しかしそれでもなお,フランコという人物がもたらした筈の,この長期独裁政権の根本的原因がどこにあるのかは今持って不明であり,それ故にフランコ時代の位置づけも宙ぶらりんになっているのだ。
 本書は優れた学術書であることは疑いない。にも関わらず,対象が「フランコ」であるが故に,事実関係以外のものが見えてこない。これは一種の「芸術」である。
 そう,本書はフランコ独裁そのものが芸術的な「訳の分からなさ」に彩られたものであることを明確にしたという意味で,貴重な一冊となっているのである。

秋山祐徳太子「天然老人 こんなに楽しい独居生活」アスキー新書

[ Amazon ] ISBN 978-4-04-867241-2, \752
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 独身生活が長かった噺家・柳家喬太郎の新作落語「いし」には,主人公のひとりものがタオルで顔を拭いた途端,その臭さに気が付いて鼻を曲げる描写がある。「タオルが臭い」というのはズボラなワシにも覚えがあって,そもそもタオルはシャツやパンツのように洗うべきモノと認識していなかったことによる,男性ひとりものの典型的な失敗例なのである。
 もう一つ,家事に疎いひとりものが引き起こす失敗例に,「脱水し終わった洗濯物を脱水槽に入れたまま放置プレイ」というものがある。これは一度やったら二度とやらかすまいと心に誓うほどの悲劇だ。何せ,洗い立ての洗濯物が洗う前より臭くなってしまうからである。しかも,タオルなら一枚だけだが,洗濯物全体が臭気に覆われてしまうのだ。タダでさえ加齢臭が気になるお年頃のワシら中年男が,自らの怠惰によってお気に入りの衣類をアンモニアの固まりにしてしまったのである。臭い男が臭い衣類を着て町中を闊歩する様を思い描いてみたまえ。悲しいどころではない,社会の大迷惑である。奥田民生なのである。
 秋山祐徳太子はこの大迷惑をやらかしたとのことである(P.21~「独身行進曲」)。ただ,単なるギャグネタとしての迷惑話ではない。その時には「臭いシャツ」をきちんと指摘してくれる方々が周りにいて,すぐさま替えのシャツを持ってきてもらってそれに着替えたという,ひとりものをフォローする心暖まる(そうか?)美談になっているところがいい。
 本書は美術家・秋山の短いエッセイ集をまとめたものだが,副題が「こんなに楽しい独居生活」となっている通り,かなりその「独居生活」,つまりひとりもの生活はアッパーである。本人が無理して明るくふるまっているという風ではない。かといって,少ない年金を貰いつつ,都営住宅に住むという生活を卑下して笑い飛ばすという訳でもない。多くの友人知人ご近所さんと真っ当な社会生活を営み,時にはダリコパフォーマンス(本書帯のポーズがそれ)を結婚披露宴で演じたりする,そんな日常をカラッとした筆致で描写しているのだ。だからもちろん,人様に「独居生活」を勧めたりする愚を犯したりはしない。ましてや,独居していないまっとうな家族を非難したり拗ねたりはしていないのだ。今から思えば,かの酒井順子ですら,うまくオブラートに包んで誤魔化してはいるものの,自身が独身であることの自己肯定を語りたい欲望が溢れていたように思える。それに比べると,著者が齢70を超えているせいもあろうが,本書にはそんな自分勝手な主張は皆無である。
 それ故に,巻末の赤瀬川原平との対談を含めて200ページに満たない本書を読了した後の爽快さは際立っている。私は日々こんな「独居生活」をしています,というだけの,シンプルでアッパーな語りをまとめた薄い新書は,鬱々とした日本社会に清涼な空気を運んでくれる扇風機のような存在である。

瀬戸内寂聴・横尾忠則(画)「奇縁まんだら」日本経済新聞社

[ Amazon ] ISBN 978-4-532-16658-8, \1905+税
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 静岡に移って以来,新聞は取っていない。日々のニュースを知るだけなら新聞社のWebサイトを常時チェックしていれば事足りるし,最近ではVistaの標準ガジェットとしてニュースサイト向けのRSSフィーダが提供されているので,こちらからブラウザを立ち上げなくとも自動的にニュースは入手できるようになっているから,ますます紙媒体としての新聞はワシにとっては必要がないのである。
 それでもたまーに紙の新聞が読みたくなることがある。そんな時は決まって日経を購入する。駅売りのものを買うと他紙より20円高いのは玉に瑕だが,読み物が他紙より面白いのでこれを選択してしまうのである。たまーに読むと,普段はWebで読めないコラムがあったりして新鮮だ。
 そんな折り,おっと思わせる連載が登場してきたのである。それが瀬戸内寂聴の「奇縁まんだら」であった。瀬戸内の人間観察は程よく距離があり,それでいてちょっと下世話な好奇心も満たしてくれるものであることは「孤高の人」でよく分かっていたので,見かけると必ず読み通していたのである。連載はまだ続いているようだが,本書はそのうち2007年に執筆・掲載されたものが収められている。
 しかし,ワシは挿画を添えている横尾忠則の作風が派手なペンキ絵のようであまり好きではないので,その画力の確かさと技量の豊かさには敬意を表しつつ,「邪魔な絵だな」と思っていた。本書にはその「邪魔な絵」が殆ど全部収められているのだが,これはこれで独立した画集にしてもらった方が,ワシとしてはありがたかったな。地味な白黒の本文に比して,目がちかちかしてくるぐらいの強烈カラー作品なのである。
 本書では,瀬戸内が女学生だった頃に学校で見かけた島崎藤村から始まって,正宗白鳥,川端康成,三島由紀夫,谷崎潤一郎,佐藤春夫,舟橋聖一,丹羽文雄(亡くなったのは最近だが),稲垣足穂,宇野千代,今東光,松本清張,河盛好蔵*,里見弴,荒畑寒村*(おお,「坊っちゃんの時代」!),岡本太郎*,壇一雄,平林たい子,平野謙*,遠藤周作,水上勉まで,実際に縁のあった著名人について,自分が見聞きし,調べた範囲のことだけを短くまとめている。*を付けた文化人・政治家・学者・評論家を除くと他は全て小説家であるが,まあこれは作家・瀬戸内の本分を考えれば当然である。しかし,孤高を保って殆ど他と交わらない作家も多い中,瀬戸内のこのような交流範囲の広さはちょっと珍しいのではないか。人間そのものに文学のネタを追求してきたという作家としての姿勢もここに影響しているように思われるのだが,どうだろうか?
 個人的には,稲垣足穂のヒモ生活ぶりが興味深かった。なーるほど,自己模倣を徹底して排除したストイックな寡作ぶりは,奥様の献身的な働きが支えていたのか,と得心したものである。本連載が終了した暁は,ぜひタルホから譲り受けたという小机を含めて,展覧会でも開いて欲しいものである。それとも,もうとっくにやってたりするのかしらん?

四方田犬彦「先生とわたし」新潮社

[ Amazon ] ISBN 978-4-10-367106-0, \1500
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 昨年(2007年)に出た単行本だが,先日風邪で寝込む前まで積ん読状態だった。人文系の素養が乏しいワシにはちょっと重いかな・・・と,最初の数ページを読んだだけでうっちゃらかしていたのである。それを熱が引いて小康状態になった時にたまたま手にとってベッドで読み始めたら,一気果敢,殆ど徹夜で読みふけってしまったのであった。文筆の才には定評のある四方田の書いたものであるから面白いのは当然だが,一応今でも師と呼ぶ人を持つ身であると同時に師と呼ばれる人間でもあるワシとしては,我が身に照らして考えさせられることが多かった,と言う事情も手伝っているのだろう。本書で言うところの「先生」つまり英文学者・由良君美と四方田の出会いと(由良側からの)決別,東大定年直後の由良の死去による永遠の別れまでの経緯が,四方田の博識と徹底した資料調査によってアカデミックな面白さを伴ったドキュメンタリーとして描かれている本書は,「師と弟子」という古来からのテーゼにまた一つ,貴重な材料を加えたものとして記憶されるべき読み物である。
 学者世界における「師と弟子」という関係は,小中高における「先生と生徒」という木訥なものとは全く異なる一面を持つ。基本的にはアカデミックな競争社会なので,スポーツにおける先輩後輩同様,時間の経過と共に,師は弟子に乗り越えられてしまう運命にある。容易に乗り越えられないような偉大な師を持つことは,弟子にとって,そしてその偉大な師にとってももあまり好ましいことではない。お友達じゃあるまいし,関係性の停滞というのは学問の停滞を意味するもので,ハッキリ言えば,目上の人間に気兼ねしてモノが言えなくなるぐらいだったら学者なんて止めた方がいいのである。
 もちろん人に出し抜かれるというのは,センシティブな人間であればあるほど不快なものだ。ましてや自分が格下に思っていた弟子から思わぬ反撃を受けたりすれば,なおのこと平静ではいるのは難しい。難しいが,そこを何とかやり過ごすのが大人の態度いうモノであろう。・・・とエラそーに言っているワシがそれを実践できているかと言えば,甚だ怪しい。最近はマシになってきたと思うが,昨年まとまった査読論文が出るまで悶々としていた数年は,ハッキリ言って八つ当たりに近い言動が多くて酷かった。酷いという自覚がありながらも当たらずにはいられない精神状態が更に自己嫌悪を催し,更に深みに嵌っていくという悪循環。ワシが酒飲みであったら,間違いなくアル中手前まで行っただろう。これであの論文がrejectされていたらと思うと,心底ぞっとする経験であった。
 東大受験に失敗し,心ならずも学習院大学へ進んだ由良は才能を認められ,慶応大学院へ進学し学者の道に進む。そして東大駒場の助教授として,かつて入学に失敗した大学へ招かれるに至った。・・・と,学者としては出世の頂点に上り詰めた感のある由良だが,同時に,深刻な悩みも抱えてしまったようなのである。この辺りの四方田の洞察は当たっていると思う反面,もうちょっとハッキリ書いてもいいように思い,もどかしさを感じた。多分,純粋東大出身者の四方田としては書きづらいところがあるんだろう。
 つまり,由良には外様モノにはありがちの劣等感がつきまとうようになっていた,ということなのである。単に東大受験に失敗したというだけのことではなく,本業の英語能力においても実際弱いところがあった・・・という証言を四方田は得ている。批評眼においては図抜けたセンスを持っていた由良が,自身持つこうした傷に鈍感でいられたはずがない。まして,そのセンスを最も受け継いたとおぼしき弟子の四方田が,軽やかに国際的な場で活躍するようになっていったのを平静に見ることが出来るか・・・となると,由良先生に同情する点がないではない。
 結果として定年間近に至るまで由良は,講義にも支障を来す程のアル中状態に陥ってしまう。最後は回復するものの,恐らくはその深酒がたたって,まとまった著作も出せないまま,定年直後に死去することになるのである。
 商売柄,東大出身の方々と接する機会は多いが,つき合いが深くなると,内に秘めた「エリート意識」というものが垣間見えてきて興味深い。これを害と見るか益と見るかは人によるだろうが,競争というものをベースとした社会に生きている以上,その頂点を極めたという高揚感は,人間であれば当然持ってしまうものだろう。エリート意識なるものに敵意を持つのは勝手だが,それは恐らく誰しもが持ち得る「エリート意識」そのものの作用によるモノだ,ということを自覚している人は恐ろしく少ない。ハッキリ言えばジェラ心であって,適度になだめて,人の持つ真の実力を見極める眼力を磨いた方が得策である。
 しかしその東大において内部抗争が発生したりすると,エリート同士のぶつかり合いに,少数ながらも外様部隊も混じってきたりして話がややこしくなる。中沢新一の登用で教授会がもめたなんてのは最近の話だが,古いところだと牧野富太郎の「事件」がある。括弧付きで書いたのは,これはあくまで牧野の自己申告によるものであって,ワシから言わせれば,万年講師だった牧野が東大植物学教室から定年を言い渡された,というだけのことに過ぎない。講師にとどめ置かれたのだって,つまるところは牧野の業績が問題だったというだけのことであろう。いくらエリート意識の高い所だとは言え,周囲にぐぅと言わせぬ程の業績があれば万年講師にしておくはずがない。周囲の目が活動を鈍らせたという意見もあろうが,その程度で萎縮して活動できなくなるようなら,それもまた実力の内,その程度の学者だったというだけのことである。
 四方田によると,由良のような貴族精神の持ち主にはドショッコツ的生き方は無理だったということである。それでも曲がりなりに東大教授として定年が迎えられたのだから,日本社会の人生偏差値としては相当高い部類に入るのは間違いないだろう。ましてや,嫉妬と劣等感の狭間でアルコールに浸った時期もあったにせよ,四方田のような文筆家の愛情溢れる文章で評伝が紡がれたのだから,ちょっと,いや相当羨ましいなぁと,思ってしまったのであった。

李纓・監督「靖国 YASUKUNI」

[ 公式サイト ]
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[警告]以下の文は,相当なネタばれが含まれますので,これから見ようという方は読まない方が得策です。
 自民党の一国会議員・稲田朋美が騒いだせいでかえって前評判が高まった,という皮肉な効果を生んだ映画である。ただそれだけならワシもDVDが出るまでは待っていようかと思っていたのだが,どうも見た人の反応を聞くと,左寄りの方々の評価が高いのは当然として,右寄りの方々の評価も悪くない。ほほう,それならウヨクなワシも楽しめそうだな,と,出張(旅費は自腹だよ言っとくがな)の帰りに渋谷の小さな映画館,シネ・アミューズで本作を見てきたのであった。
 で,率直な感想だが・・・なるほど・・・血沸き肉踊るという類の面白さとは真反対の,静かにジワリとくる荘厳さが感じられる作品になっていた。荘厳さの一因はバックグラウンドミュージックに重苦しいクラシック音楽が使われていたためだろうが,それ以上に,この映画が説明を極力排し,ノンフィクション映像を積み上げることだけで成立している,という事情が大きいと思われる。
 あ,いや,左右の方々,ちょいと「靖国論争」をする前に,映画の説明をさせてくれ・・・だめ? おっ,ちょっと暴力はいけません。手を出す前に,まず口で。じゃ,先に,えらく本作に対してご不満な様子の右の方から。・・・え,何? 映画の最後に長々と挿入される戦前・戦中・戦後のスチール写真の羅列は日本(軍)人の残酷さばかり強調していて偏向している? これも含めて後半は靖国反対論者の意見ばっかり集めて後味が悪いと。なるほど。
 左の方,何か言いたいことはありませんか? ・・・え,全体的にはいいと思うが,不満もある,と。もっと靖国神社の恐ろしさを延々と語れ,日本の将来の禍根はここにあるのだ,もっとマイケル・ムーアのように監督自身が出張って主張して突撃取材を敢行したっていいぐらいだ・・・あ~あ~分かった分かった,そのぐらいにして下さい。
 ・・・・何が言いたいかというと,本作前半に靖国神社を支持する人々の主張が,本作後半にはそれに反対する人々の主張が,バランス良く配置されている,ということなのである。もちろんこれはワシが映像をワシなりに「解釈」した結果,そう思ったというだけのことで,映画では何のナレーションも入らない。淡々と事実を伝えているだけなのである。
 そうなると,これらの映像からはまた別の解釈も可能となる。本作を貫くのは,靖国神社のかつての刀匠のカットであるが,所々に監督自身による刀匠へのインタビューも入る。これがまた黙して語らずというものが殆どで,監督の質問に明確な回答をしていないのだ。それをあえて使った監督の作意としては,戦争には反対だが靖国神社の存在は暗黙のうちに支持する,という日本人が結構な割合で存在している,ということを示したかったかな?・・・というように,この部分だけでなく,あのパトカーに乗せられた左翼青年の行動の意義はどうなんだとか,徒党を組まず一人夜中に参拝する軍服姿の兵隊さんの真意はどこにあるんだとか,ありとあらゆるカットについて,映画を観終わった後にあれこれ想像を膨らませることができるのである。
 これはつまり,反日とか反靖国という主張とは別に,映像そのものに芸術的価値があるということを示している。フィクションの映像が皆無な本作にして,多様な解釈を可能ならしめるものを作り上げた,ということは,何はともあれ右も左も国籍も関係なく,監督の力量を褒め称えるべきであろう。稲田朋美は,補助金をつけた文化庁にイチャモンをつけるのではなく,何故かような映像を中国人に撮られてしまったのか,芸術的な右翼映画を撮ることのできる日本人監督を養成すべきだったと嘆くべきであったのだ。
 ウヨクなワシとしては,まあ本作に日本の税金がつぎ込まれて成立の手助けをし,紆余曲折はあれ,本作が日本全国で公開され,こうして見ることができた,というところにちょっと愛国的に誇らしげなものを感じて満足しちゃっているのである。こんなワシ,非国民ですかね,稲田先生?