[ Amazon, SIAM ] ISBN 978-0-89871-646-7, $59
四十年近く読書人を気取っていると,自分なりに構築した「著者名即買いリスト」なるものがガッチリ組み上がっている。ワシの頭脳のキャッシュメモリには常にこのインデックスが蓄積されており,これに引っかかった著者の新刊が出るのを知るとパブロフの犬より早く反射神経で買ってしまうのである。で,本書もご多分に漏れず,SIAM Newsに告知が出たのを見るが早いか,早速SIAM会員価格で注文をかけて入手した訳である。
SylvesterとCayleyってのは,今の数値計算屋なら知らぬモノのない古典的な名前だが,この二人は19世紀後半のイギリス線型代数派のメンバーとして,生涯を通じたコンビで活躍した数学者である(森毅「異説数学者列伝」ちくま学芸文庫, P.154-160)。線型代数をかじった人間なら,行列Aの固有値を求める時には自然と|xI-A|=0を解くであろうが,これがHamilton-Cayleyの定理って奴である(斎藤正彦「線型代数学」東大出版会, P.198)。森によればこの二人が出会ったのは数学研究会とかではなく,法律家になるための学校だったというのだから,世の中どんな出会いがあるかわからんモンだ。
で,本書のタイトルである「行列関数」ってのは,このCayleyとSylvesterに端を発する,というより,CayleyはA^(1/2),Sylversterなんてそのものズバリを最初に提唱したらしいのである。へぇ~・・・という所から本書は始まっている。
一体そんなものが何の役に立つのか・・・といぶかる人はどのぐらいいるのかしら? exp(A)なんてのは線型常微分方程式の解の表現には必要だし,それを延長していけばsin(A)とかlog(A)とかも同様に考えられて,それなりに応用がありそうな気はしてくる。で,個々に関数を増やしてぐらいなら,いっそのことスカラー関数f(t)をそのまま拡張して行列関数f(A)を定義できないか,と考えるのは,ごく常識的な思考である。マン大のミスタースポック博士ことN.J.Highamはこの方向で3つのf(A)の定義方法を延べ,f(t)が解析的であればこれらが互いに同値であることを第一章(PDF)でキッチリ証明している。ふーん,まぁJordan標準形のは分かるとして,Hermite補間とCauchyの積分表示が繋がるとは知らなかったなぁ。って無知にも程があるってか?
ワシが一番興味があるのが応用分野(第2章)と,exp(A)の話題(第10章)なんだが,この辺りを含めて本書を眺めてみると(読んだ,ではないからね為念),片っ端から情報を集めまくって書きまくった以前の著作に比べると,普通の数学書のように話題が積み上げられて展開されている印象がある。スポック博士によれば,最初の章以外は独立して読めると言っているが,最初からじっくり読んだ方が為になりそうな感じがする。話題として選んでいるのはO(n^4)を越えないアルゴリズムに落ち着くものに絞っているそうだが,この辺りは数値計算屋らしい,と同時に,具体的で構築的なイギリス数学の伝統(by 藤原正彦)にも忠実ということなんだろうなぁ。
個人的には,もうちっと現状のコンピューティング環境についても言及して欲しかったな,という不満がある。今ではコンシューマ向けCPUでもマルチコア化やSIMD命令の充実がなされているので,メインメモリに入り切る程度に大規模な行列・ベクトル計算がかなり高速に実行できるようになってきている。数値計算性能を測る時には行列積計算を行うのが普通だが,きちんとチューニングされたATLAS(のDGEMM関数)を使えば,少し型落ちしたCPU単体でも数GFLOPSの性能が安定して叩き出せる(例えばこのPDFの16枚目のスライドを参照)。逆に言えば,共有メモリ内並列環境で十分な規模の計算なら,ちょっとぐらい計算量が増えても行列単位でまとめて計算した方が効率が良くなる可能性もあるのだ。近頃ではそこに気が付いた方々がいろいろやり出しているようである。
このように,今のPC環境は行列計算に向いているのであるからして,本書で提案している行列関数の計算の実験にはもってこいである。本書の計算はMatlab(の倍精度計算)で行っているが,これだってこのような環境が整っていてこそ気軽に実験できるのである。
つーことで,exp(A)どまりならともかく,f(A)まで広げて何の役に立つんだとかブーたれるより,折角の行列計算向きPC環境を使い倒して遊んだ方が,人生楽しくなるんじゃないかと,自分勝手に思う今日この頃であります。
日丸屋秀和「ヘタリア」幻冬舎コミックス
[ Amazon ] ISBN 978-4-344-81275-8, \1000
今日(2008年4月29日),マンガ雑誌の取り置きをお願いしている町の小さな書店にもこれが並んでいたぐらいだから,相当売れているらしい。既に10万部ということだから,今日日のコミックス界ではかなりのヒットだろう。ましてやソニーマガジンズから引き継いだ泣かず飛ばずの幻冬舎コミックス部門の単行本,しかも自社の雑誌媒体ではなく,著者のWebサイトで掲載されていた作品をまとめたものがこれだけ売れたんだから,目を付けた担当編集者としてはさぞかし嬉しいに違いない。ワシも浜松の谷島屋コミックス売り場でこれが盛んにプッシュされているのに惹かれて買ったのだが,なーるほど,確かにこれは面白い・・・が,BL臭を期待していた向き(ワシとか)は肩すかしを食らうことになる。その分,健全なるマンガ読者諸君には問題なくお勧めできる内容である。うちのガキいや子供はマンガばっかり読んで世界情勢に疎いのではないかとご心配の親御さんは,安心して本書をご子息・ご令嬢にお勧めされたい。次の日からはあらぬ妄想(ヤラシイもんではなく)と共に,世界史の教科書や年表を楽しく眺めることが出来るようになること間違いないのである。
国を擬人化して世界情勢を戯画化するって手法は,随分昔からあるようで,有名なところでは19世紀イギリスのパンチ誌があり,今に残る名作一コママンガが多数載っている。日本でも明治に入ってから政治戯画が新聞紙面の一角を占めるようになり,現在でもやくみつるが描いていたりする・・・が,まー正直言って,あんまり面白いものではない。それは一コマという形式がものすごく難しい表現形態である,ということもあるが,星新一に言わせると,社会からタブーが消え,風刺というものが成立しづらくなっているという事情も大きいようだ。
しかし本書を読んで,ワシはもう一つ大きな原因を見つけたのである。それは,国の擬人化がその当時の元首・政治指導者を用いて行われることにあるのだ。そうすると必然的に面白味のないオヤジやババアが描かれる訳で,全然「萌えないキャラ」になってしまうのである。あなたは福田康夫で萌えますか?(四谷シモーヌ先生でも無理だ・・・) 胡錦濤総書記で恋愛ドラマを展開する気になりますか? ブラウン首相でBLが描けますか? サルコジ大統領・・・いや,こういうキャラ立ち政治家は例外で,大抵は人物そのものには漫画キャラとしての魅力は皆無となってしまう。一コマではなくストーリー漫画にしようとしても,キャラに魅力がなければ物語が転がっていかない。
日丸屋は,この欠陥を知っていたのか本能的な回避を行ったのか,国民性と歴史を担った性格を持つ若いキャラクターを造形し,それをもって国の擬人化を行ったのである。国を動かす政治指導者は「上司」と呼ばれ,音楽好きな青白いインテリ青年として描かれるオーストリアは,マリア=テレジアと漫才コンビのような会話を繰り広げたりするのだ。これなら現代の漫画としても十分面白いストーリーが展開できる。ドイツはクソ真面目な軍人(表紙左)になり,日本(表紙右奥)は控えめな受けキャラ(BLじゃないっつーに),アメリカは脳天気すぎるメガネ青年,ロシアは底知れぬ不気味さを見せることもあるノンビリ屋さんとして描かれ,タイトルロールであるイタリア(表紙手前)はまさしくヘタレで気弱で脳天気なチビスケで,常に誰かが誰かにちょっかいを出し,ドタバタを繰り広げるのである。ちょっと世界史の知識があった方が面白く読めるのは確かだが,純粋に漫画としてもキャラが可愛いので,十分楽しめる内容だとワシは太鼓判を押したい。但し,少女漫画を読み慣れていないオッサンは止めた方がいいかもね。
それにしても,本書に登場する国キャラの描き方はバランスが取れているし,いいところ悪いところを客観的に見ているなぁと感心させられる。日本は控えめすぎて活躍の場はあまりないし,アメリカは悪人ではないがストレートに自己主張しすぎるし,フランスは主張するけど体力はそれほど強くないし・・・日丸屋は国連事務総長的視点で世界を眺めているのか~?と思ってしまう。これにかわいらしい絵柄がくっついているのだから,確かに10万部突破も頷ける。と同時に,このような作品を生み,多数の読者を獲得するまでに日本の漫画リテラシーは高くなったのか,とオジサン的感慨にふけってしまったのであった。
立川談春「赤めだか」扶桑社
[ Amazon ] ISBN 978-4-594-05615-5, \1333
いや~,本屋で著者名を見て即ゲット。そのまま自宅で寝ころんでぱらぱらメクリ始めたら,これが止まらない。やめられない(古)。著者としては立川談春青春期を描いたつもりなのかもしれないが,ライトな一落語ファンとしては,立川流草創期の師弟と弟子の濃密な関係が,談春的落語同様,切れ味の良い文体を通じてビビットに伝わってくる方が興味深かった。立川流では同期(入門は一年違うそうだが)の志らくが多くの著作を出しているが,談春の方は多分これが初めての単著じゃないのかな? 香盤が近いのに,芸風が対照的で,しかも師匠・談志の芸風を綺麗に二つに分離したような,明確な個性の違いがある二人なので,とかく比べられることが多いのだが,書いたものを読む限り,両人とも落語と人生に対して生真面目,という点では一致しているように思える。それにしても,面白かった。泣き笑いがこれだけ充実している読み物はナカナカ少ない。帯に推薦文を寄せている福田和也が噺家としての談春を買っているのは知っていたが,エッセイもイケると踏んだのはさすがである。おかげで充実した半日を過ごすことができたので,福田先生に感謝感謝である。
それにしても,本書を読んで思うのは,「才能」ってのは,つくづく自分では分からないものだということである。いくら好きでものめり込んでも,ダメなものはダメ。ましてや噺家という,人気が取れてナンボという商売では,自分の努力が報われる可能性の方が少ないという厳しい世界である。才能のあるなしは若いうちになるべく早く見極めてやり,ダメならやり直しが効くうちに引導を渡すのがせめてもの親切というものであろう。そういう意味では立川流家元の芸道エリート主義(二つ目昇進には50の持ちネタ・歌舞音曲を一通りこなせて講談の修羅場を語れることが条件)は,一見厳しいようだが,愛情溢れる措置とも言える。
しかし,自分の力量がどの程度かも分からない前座修行中の身の上では,このような条件は相当ハードルの高いものに見えるらしい。しかも,客前で芸を披露する機会も少ないから,自分の藝がどのぐらいのものになっているのかも把握できない。家元から提示された条件をクリアすべく,結果はどうあれ,努力(家元を喜ばす工夫も含む)する他ないのである。談春は志らくも含む4人の前座と共に日々修行に励むのだが,本書を読む限り「自分の藝が良くなった!」というカタルシスを得たという描写は殆どない。わずかに家元から褒められる(案外褒めることが多いらしい)言葉が枯れかけた情熱を奮い越してくれる程度だ。
本書のクライマックスはこの二つ目昇進にあるのだが,そこに至る過程は「がむしゃら」そのものである。訳のワカラン魚河岸修行あり(でも魚は扱わないのだ),ハワイまでへ連れて行かれて家元の破天荒な行動に振り回されたりと,今や名人への道を着々と築きつつある著者だからカラッとした描写ができるのだろうが,当時はそれどころではなかったろうな・・・という前座修行時代だったようだ。まあ,噺家ならばみんな似たような経験をしている訳だが,何せ立川流,しかも家元もまだ元気だったから,並の人間ならとうに逃げ出しそうな,そして実際大多数は逃げ出してしまうような有様である。前座修行は,家元も言うように,不条理に対する忍耐力を付けることが一番の目的なんだろう。そしてその不条理に耐えた者だけが資格を得ることができる,それが噺家というものなのだ。
二つ目までは同時昇進だった談春と志らくだが,真打昇進では後輩の志らくに先を越されてしまう。このエピソードは本書の最後「誰も知らない小さんと談志」に描かれているが,これを読むと,その昔,談志が円楽に真打昇進を追い越された,という事件をどうしても思い出してしまう。この時は相当談志も騒いだようだが,円楽も大した玉で,どっしり構えていたらしく,談志も直接円楽に苦情を述べ立てたことはなかったようだ(円楽の本に記述がある)。しかし・・・何というか,因果は巡る,世代が変わっても・・・と,思わせる話である。
当然,昇進を追い越された談春の気持ちを一番理解していたのは家元・談志であり,小朝に「談春さんはどうなさるおつもりですか」(P.266)と聞かれてシドロモドロになったのも無理はない。その後については本書を読んでのお楽しみということにしておくが,この先に小さんと談志の強い絆を知らしめる展開が待っているのである。ミステリーか?というぐらい,年甲斐もなく,読んでいてドキドキしてしまった。
落語ファンならより一層楽しめる本書だが,知らなくても,「へぇ~,噺家ってこういう修行をするのか」ということが,楽しみながらよく分かる本である。談春処女エッセイにしては見事な出来。久々に談春落語を生で聞きたくなってきたが,今や談志以上にプラチナチケットになってしまったからなぁ。談志家元の前に除名前のブラック,談春が出演した立川流一門会を思い出して,飢えを凌ぐことにするかぁ。
久世番子「番線 ~本にまつわるエトセトラ~」新書館
[ Amazon ] ISBN 978-4-403-67051-0, \640
三浦しをんのエッセイのようなマンガはないか,と思っていたら遂に出てきた。それが本書である。「ご趣味は?」と問われると,「読書です」などという無難な受け答えが出来ず,つい,「ビブロス(旧・青磁ビブロス)の騒動は本当に心が痛みました何せやおい転じてBLがこれだけ隆盛といわれているのに月刊誌で長く頑張ってきたのはBE×BOYだけですしここがなくなると新書館のディアプラスなんてエッチのエの時もないようなヘタレほのぼの雑誌しかなくなっちゃうし本当にほんっっとうに心配だったんですけどアニメイトさんに引き継がれると聞いて心底安心したんです~」と聞かれもしないのに暴走してしまう輩,それが三浦しをん的読書人という奴である。本に対する愛と情熱あふれる,溢れすぎる愛すべきバカ,そんな人間が描いた,暴走するエッセイマンガが遂に登場したのである。イヤサカ,イヤサカ・・・あ,誤解がないように言っておくが,三浦と違って久世は腐女子ではなく,清く(でもないか)正しい文学少女である。
マンガが爛熟機を過ぎ,教育カリキュラムとしても定着しつつある昨今,ようやっと読書を楽しむ漫画家自身がその知識と体験をマンガ作品として世に送り出すようになってきた。もちろん今までだってポーズとしての読書を公言する漫画家は沢山いたが,偽りない自分自身の純粋なシュミとして読書を楽しんでいたかどうか,ちょっと怪しいところがある。本好きの人間には,その作品を描いた人間が真の読書家かどうかを探知するアンテナが備わっているので(SFモノにもあるそーな),「こいつはそんなに本好きではないな」とゆーことは直感的に分かってしまうのである。そのような読書家の厳しいチェックを楽々とクリアするマンガ作品,具体的に言うと,いしいひさいちの「ホン!」や,吉野朔実のシリーズ(1,2,3,4,5)のようなものは,ごく最近まで現れなかったのだ。
こういうものは読書を生活習慣として組み込んでいる人間でないと書けない代物なのである。どこでそれを見分けるのか?というのは具体的に説明しづらいのだが,昔,塩野七生がアラン・ドロンのCMを見て,貴族的なマナーを完璧に演じているのに不自然さを覚えた,というのに近い。彼の演技はきっちりしすぎていて,生まれながらの貴族が持っている「マナーに対する自由奔放さ」というものが皆無だった,というのだ。習慣としての読書を行っていない人間が書いたものには,本を読むことによって知識を蓄えた,という意識が強すぎて,少し堅苦しいモノを感じてしまうのである。読書なんて,読んでいる最中が一番楽しいのであって,読了してしまえば結果として知識を得ようが,忘れてしまおうが,本来ドーデモいいことなのである。「勉強としての読書」は「習慣としての読書」とは別物なのだ。
そんな「習慣としての読書」をして自身の商売ネタとすることに成功した数少ない漫画家,久世番子が,本に関係する社会システムの一部を取材し,時には体験する(した)ことをテンションの高いエッセイマンガにしたもの,それが本書である。
新書館というところは不思議な出版社で,ことにマンガに関しては派手なメディアミックス戦略というものとは全く縁がないにもかかわらず,ウィングス創刊以来,主として少女漫画系統の漫画家を細く長く育ててきたという実績を持つ。それでいてBL系のディアプラス,そしてエッセイ主体のウンポコと,雑誌不況と言われて久しい近年になって創刊し,発行し続けている。何というか,不思議としか言いようのない堅実な商売をしているのである。ことにウンポコは,訳の分からないタイトルではあるが,傑作エッセイを連載させていたりする,あなどれない雑誌なのである。似たようなテイストのBethは講談社という大出版社が創刊したにも関わらずあっという間に休刊してしまったのに比べると,そのあなどれなさが分かろうというものである。
久世がそのあなどれない雑誌に連載を持っていることは,一箱古本市を主催する編集者・評論家の南陀楼綾繁さんのblogの記事を読んで知っていた。だもんで,本書を見た時には直感的に「あ,さては」と気が付き,掛川の本屋には一冊しか置いてなかったそれを持ってレジに直行したのである。
で,本書だが,さすがエッセイマンガの名手だけあって,面白く読ませてくれる。ワシが一番笑ったのは写植屋さん訪問記で,何というかメタフィクション的なギャグをかましているのである。詳しくは本書を買って確認してくれたまえ。
当然,「習慣としての読書」をネタにした作品もあり,蔵書の管理に悩む読書人なら本棚戦線参謀本部のドタバタは「うんうん分かる分かる」となるはずである。ちなみに「壁全面の本棚ぁぁぁ~~~♪」(P.39)をワシは46万円で実現しましたがね。ほほほほほほほほ,うやらまし~~だろぅっ!>久世
ところで一箱古本市で「死体の本」を買ったのはやっぱり内澤旬子さんだよなぁ・・・と思っていたらやっぱりそうだった。うーむ,内澤のシュミにマッチする本を読んでいたとは,さすが久世である。
エッセイマンガを面白くする演出と,ウソ偽りのない読書習慣が良い具合に解け合って良質のハーモニーを醸し出している, 小林よしりん言うところの「技術の上に念を載せ」た作品が本書である。本好きのあなたには,是非とも身につまされて読んで頂きたいものである。「安くて軽いマンガ家」(P.31)を体現するような価格と軽さ(最近の本はホント軽いよね)なので,損はしない筈である。
糸井重里「思い出したら、思い出になった。」ほぼ日ブックス
[ 1101.com ] ¥1470(本体) + ¥630(送料)
一冊目に続く,第二弾。
休日,届いたばかりのベッドに寝っ転がって読みました。
アフォリズムだとか
詩だとか
思い出アルバムだとか
「つながり」を重んじるものが多いな,とか
いろいろ感想は持ったんだけど,ぜーんぶ,吹き飛んでしまった。
それもこれも
「若いときにとてもお世話になっていた方が亡くなって、
お通夜に行ってきました。」(P.252)
辺りから涙があふれてきて,年甲斐もなくグズグズ泣きながら読み進んでいたら,最後の写真(P.281)で完全にやられてしまったからである。
永田ァア,
あんまし泣かせる編集しやがるんじゃねーっ。
三冊目はもうちっとほっこりさせてくれると嬉しい,けど,いい具合に裏切ってくれるんだろうなぁ。で,また買っちゃうんだろうなぁ。いいけど。
良き休日になりました。
ありがとうございました。>糸井&ほぼ日メンバーズ